古代のことを書いた学術本の中にも、紹介するのをためらうものがある。だが、差別はよくないので、タイトルを記す。「古代朝鮮と倭族」(鳥越憲三郎著、1992年刊中公新書)。
この本に、誰もが知っている「後漢書」の記述が紹介されている。馬韓(半島西部地域)の位置は「北は楽浪と、南は倭と接し、辰韓は東にあり」、弁韓(半島南部地域)の位置は「辰韓(半島東部地域)の南にありその南また倭と接す」。
この記述は、半島南部に位置する弁韓のさらに南方に、倭人が起居していたことを示すもの。ただし、陸上で隣合っていたか、海をはさんで接していたかは明らかでない。
鳥越氏は、独自の視点でこう論述する。「史記」などの中国の文献に、長江下流域以南に百越がいたという記述がある。その越の読みは上古音で倭ときわめて類似する。なので、古代の百越の居住地域に倭族がいたとする。さらに、中国から見て東方の蛮族(東夷)とはすべて倭種の人々と言い切るのだ。彼ら東夷は紀元前5世紀の呉の滅亡を契機に、朝鮮半島の中南部に亡命?し、さらに一部は列島に渡来して弥生人となったという。
この説は、大陸の水田稲作伝来の年代、ルートに関する、これまでの通説を踏襲しているのだが、倭人の先祖が長江付近にいたことを証明するにはまったく心もとない論理構成だ。
「弥生時代の歴史」(藤尾慎一郎著、2015.8刊講談社現代新書)では、最新の考古学調査の成果に基づき、列島へ稲作の伝播した時期が、これまで唱えられていた紀元前4~5世紀ころから大幅に引き上げられたことを詳細に記述している。
朝鮮半島南部において、紀元前11世紀にかんがい施設を備え畦畔を持つ、世界でもっとも進化した水田址が発見された。稲作技術を持った半島の人々は、紀元前10世紀には、長崎県、福岡県の日本海に面した平野部に到達したことは間違いないという。半島南部の支石墓や墓に副葬されたものと同じ丹塗りの壺などが、これらの地域の河川下流域から次々と発見されている。その平野部とは、列島に数千年も前から住む縄文人が一度も居住したことがない低湿の土地なのだ。
水田稲作を伴う弥生時代の開始時期が500年あまりも早まったのはわかるが、倭とか日本とかがいつころ成立したかを、考古学調査や文献から推測することはかなり難しいらしい。
中国の書「論衡(ろんこう)」に、紀元前千年、周代の初めに、倭人が周の皇帝に貢物を献じたという記述がある。まさに列島で稲作が開始されたころだ。
そのころ、倭という国があったかなかったかというより、倭という人々の集団が存在したかどうかだ。私としては、自称か他称かはともかく、同族意識を持つ人々の名前のついた集団があったことは否定できないと思う。
では、すでに九州北部の渡来人たちは、倭という共同体に帰属する意識を醸成していた?
朝鮮半島、もしくはもっと大陸寄りのどこかに倭人の集団があって、列島に渡ってきたのは彼らが中核メンバーだった?(鳥越説に似ているが)
いくら考えても、確たる資料が発見されない限り誰にもわからない。(2020.7.21)
~③に続く
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます