心の免疫力~書とことばから

もっと暮らしに書やARTを~
雲のように水のように あっけらかんと自在に生きるヒントを
求めて~ by 沙於里

坊主の花簪(はなかんざし)

2007-11-10 | つれづれ


仏教からでたことわざで、まったく使い道のないこと、持っていても何の役にも
たたないことの意。(髪のないお坊さんは簪をつけることができないことから)
花簪とは、造花で飾ったかんざしのこと。

生きているということは、無駄なものを何かと纏っているもの。
劣等感、いわれなき罪悪感、人を羨んだり比べたり、見栄を張ってみたり、
嫌われないようにと自分の気持ちとは違うことを選んだり。
相手を束縛することで逆に自分の心の自由を無くし、相手に依存することで、
時に慌てたり失望したり。

けれど、そう簡単には「無駄」を捨てられない。
煩悩を捨てよと言われても、日々時間に追われ流され生活していると、
捨てるどころか溜まる一方なんて時もある。

「無駄」を捨てるのにも、今どきは手引書の類の情報が多すぎる。
本屋に行くと、この情報の多さが悩める時代の原因の一つなのではと感じる。
それぞれに自分にあった方法やことばを頼りに、心の解放を探しているわけ
だけど、私はこんなことばで、ふっと楽になることがある。

坊主の花簪。私なりに解釈すると・・。
無駄なことを無駄と知って、ご機嫌に花簪で遊ぶのと、無駄と認めずに、
何とかして花簪を使おうとするのとでは、生き方も違ってくるような気がする。

なかなか「無駄」は捨てられないのだから、無駄を「絶対」と思わず楽しめたら、
きっと何かが変わってくるってことかな。

苦しい時は、お坊さんがきれいな造花の花簪と遊ぶ姿を思い出してみて下さいね。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臨書の楽しみ方

2007-11-09 | 書の話


さてと。しばし書のお話におつきあいを~ということで、おとといの続き。

甲骨文、金文ときて、周の時代には現存最古の刻石文字の石鼓文(せっこぶん)。
これを「大篆」ともいう。

秦に入って、始皇帝は篆書(篆刻に使われる文字で小篆ともいわれる)により
天下統一の手段として文字を統一させたとされる。
その後、泰山、瓦當文への刻石、前漢になって書写の実用性から隷書が生まれた。

篆書の名残がある古隷といわれる石門頌の後に、*波磔のある一般的な隷書として
登場したのが、写真の曹全碑(そうぜんひ)。
*波磔(はたく):八の字のように左右の波磔でバランスを取るので八分隷ともいう。

私が臨書すると、どうも男っぽくなってしまうけれど、曹全碑は本来、女性的で
整った優雅な隷書と言われる。

けれどこの四文字を臨書する時に、私が感じたことは・・。

まず「歡」は、口二つが素っ頓狂な目でこちらを見ているなぁ。そして「欠」の
一画~三画目までが小さくて、それに対して(○印の)右払いが力強くて、
なんだか胸を張っているようだなぁ。
二文字目の「曹」は、直立不動のようでいて「日」の表情はどこかとぼけているなぁ。
「景」は品よくお行儀よく、「完」の最終筆の(○印の空間の)懐の広さは
凛としていて全体を引き締めている緊張感が、美しいなぁ。。

そんな風に一字一字と会話しながら、私なりに感じたままを、その文字の一番
いいところを褒めてあげながら臨書できたらなぁと思う。
いわゆる美しい形ではなくても、どこかに必ず魅力はある。

臨書は、自分のいい所、自分以外の人のいい所を見つけるヒントを教えてくれる。
子供の書道教室では、あまり臨書をしない所が多いようだけれど、
子供にも古典臨書の学習は、いろんな意味で勉強になると思うんだけど。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

怒ると損するのは自分なり

2007-11-08 | つれづれ


怒るのもエネルギーがいるなぁ・・とつくづく。

家ではポットは使わず、南部鉄の鉄瓶でその都度お湯を沸かしているのだけど、
その鉄瓶を見ていて、ふと思った。

しゅわっちしわっちと沸騰しているやかんのお湯を、いきなり急須に注ごうと
してはいけないのです。
やかんもお湯も、ものすごく怒っているのだから・・。

人もそんな時がありますよね。
私も疲れていたり、やるべきことが飽和状態の時に・・時々

その犠牲者は大抵は、家族。たぶん甘えているからでせう  

でも、怒っても笑っても同じ時間。
つまらないと思って過ごしても、苦しみを抱えたまま過ごしても同じ一生。

日常は容赦なく過ぎていく。
何かに怒りを感じたまま、何も変えようとしないで文句ばかり言っていても
何も変わらないし、何よりも苦しいのは自分。
怒りは幸せを運んでは来てくれない。

苦しみがあっても、それを乗り越えようと前向きに生きていたいなぁ。
生き生きと、華美でなくシンプル過ぎずその頃合がちょうどいい具合に。

人間というものは、生きているということに多少の意義がないと、
生きていけないものらしいです。

だから、怒ると損するのは自分と思って、まずは深呼吸で一呼吸。
少し冷ましてから、ぼちぼちいきますかね。。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原始文字の魅力

2007-11-07 | 書の話



甲骨文の次に登場したのが、金文(きんぶん)又は鐘鼎文(しょうていぶん)。
殷から周の時代にかけては、青銅器文明が栄え、これに銘文が刻された。

鐘や鼎(かなえ)(2つのとってと3.4本の足がある青銅器)、酒器、楽器、
兵器などさまざまな青銅器に鋳刻したので、鐘鼎文という。
あるいは金属に鋳たことから金文ともいいい、甲骨文とこの金文をあわせて
「古文」ともいう。


それらからは、文字を持ち始めた遥か昔の人々の、何かを表現したくて
次から次へとイメージが広がって行ったような、原始的な歓喜を感じる。

固い甲骨に刻した時と比べると、鋳型は土ということもあり、文字の造形は
自由で、毛筆のようなやわらかく太い線となり、表情も豊か。

その線に、生き生きとした力強さ、明るさ、溌剌としたものを感じ、
抽象的でどこか愛嬌のある造形に、書いてみたいという魅力を感じる。

そんな思いを持ちながら、一節を私なりに臨書してみた。
太いおおらかな線を求め、屈託のない表情を表現したかったけど。。。




なんて書いてあるのか・・に、気持ちを集中しないで、全体を見て
何かを感じて頂けたら幸いです




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年賀状は贈り物

2007-11-06 | 年賀状・お正月
                写真上:「和」の字 
                下・左:甲骨文「子」の字四種
                下・右:甲骨文「福」「壽」 



書を始めてからは、毎年手書きの年賀状を書いている。
以前は300枚位だったけど、今年は200枚位かな。もちろん宛名も手書き。

失敗なんか気にしない。
たとえば下手は下手のままでも、生き生きと書けていればいいと思う。

よく私は字が下手だから・・と控えめな方がいらっしゃる。
私は基本的に、「下手な字」というのはないと思っている。
ただ「雑な字」、「心無い字」は確かにある。

自分は下手だから・・と思う人は、ゆっくり丁寧に書けばいいの
心を込めて書いた字は、ちゃんと相手に伝わるから。

本来は新年の慶びを元旦に書いて投函するものだったのに、今は元旦に
着くようにとした処から、何だか師走の忙しい時期にせわしなく書いていたりする。
けれど本当は年に一度の年賀状くらい、ゆっくりと落ち着いて一人一人相手の
顔を思い浮かべながら、書きたいもの

だんだん人との関わりが希薄になりつつある時代だからこそ、活字や印刷物ではない、
体温のある贈り物として、年賀状を書きたいなぁって思う。

だって、決まりきったことばが印刷された年賀状って「あ、はい」で終わりでない?
下手でも、もらった人は書いた人のことをちゃんと思い、感じ、ちょっとだけ
クスッと笑い、それでもうれしいって思うはず。
大事なのは、書く人ももらった人も相手を想う気持ち。

ね?だんだんその気になってきました?
よっし!今年は手書きで年賀状!って。 ぜひ~。親しい方にだけでも。
きっと、喜ばれますよん

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年賀状に甲骨文字を~

2007-11-05 | 年賀状・お正月
         甲骨文の吉語あれこれ。右は来年の干支「子」の甲骨文。
         その下は戊(つちのえ~来年は戊子)  



閑話休題。
今日はまた甲骨文のお話。

興味深い解説が、二玄社刊の「書の宇宙」にあった。 以下概略はこうだ。

古代宗教国家のエジプトの象形文字も、メソポタミアの楔形文字も、
そしてこの甲骨文字も、天=神との関わりは深い。
<天>と<地>の概念から、これらの文字は生まれたとも言える。

つまり、天地を結ぶ垂直線と、それを直角に切断する水平な横線からなる世界が、
表現世界と化した時に文字が生まれたという。
そしてこの垂直の意識が現在もなお、あらゆるジャンルの美の中心に
位置付けられており、垂直の対称軸と左右対称の均衡の美も確立させた、というのだ。

そうしてみると、確かに甲骨文は左右均衡が多く、縦に伸びる直線の美がある。
文字の起源に宗教が関わっていたとは、なるほど~と、改めて甲骨文の美学の
起源を知り、ロマンを感じる。
 
ところで、今年も年賀状が発売になりましたね。

<天と地>を表現したとされる甲骨文。
新年のお祝いを述べる年賀状に、甲骨文を書いてみてはどうでせう。

筆でこの直線を書くのが難しかったら、割り箸の先をカッターで鉛筆のように削って
墨をよく染み込ませ、竹ペンみたいすると書きやすいですよん。

来年は十二支の最初の年、これを機会に手書きの年賀状にしてみませんか~?
そして、年賀状をきっかけに、書を始めませんか~?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

囲炉裏端展

2007-11-04 | つれづれ


昨日に続いて甲骨文のお話を~と思ったけれど、また明日にして、今日は・・。
書の先輩の桃太郎さんから、出品しているので久々に‘飲みがてら’来ない?との
お誘いを受け、神奈川県藤沢にある遊行寺 蔵まえギャラリーに出かけた。

駅から徒歩6分の所にある、蔵を一部改造してできたギャラリーだった。
思いがけず藤沢の裏通りを歩くと、文化の香り漂う街並みに足取りも軽く。

遊行寺といえば、先月20日に「宮沢賢治の世界」の語り芸の会があった場所。
そしてこのギャラリーは、確か何年か前に新聞記事で紹介されていて、
どこかに切り抜いて取ってあったギャラリーだった。
なんだかご縁があるのかな~と、もうそれだけでうれしくなった。

油絵、*インスタレーション、ガラス工芸、書の総勢11名の作家の方々の作品が
展示されていて、靴を脱いで畳の部屋を通り、蔵の内部(写真)にも
思わずぷっと吹いて笑ってしまうような、インスタレーションが並んでいた。

たとえば・・健康診断の結果の紙が置いてあり、その上に青い豚の貯金箱が。
そしてその横に、「カンパしてくれたらダイエットします」って書いてある。
はたまた「道」というタイトルの横を見ると、土間の壁の隅っこに、
細い道らしきものができていて、そこに小さな鼠のオモチャが並んでいる。
階段の下の隅っこにある箱には「青春の封印」?とかいうタイトルがついていて
何が入っているんだろう?と覗いてみると、イチジク浣腸の空き箱が2つ。
おもしろい! 楽し~い! なになに?ってワクワクした。

畳の部屋では、作家らしき独特の雰囲気を持った方々が集まって、何やら
楽しそうに語り合っていらっしゃる。 
いつもなら図々しくお仲間にいれて頂くのだけど、桃太郎さんとご友人と
‘飲み’の約束があり断念。急ぎ茅ヶ崎に向かい、ご友人行きつけのお店で合流。

そのお店のオーナーは、茅ヶ崎で有名な「えぼし」の名バイヤーであり料理人であり
あの南瓜プリンを開発された方と伺い、四人であれこれ話も尽きず満腹大満足大感動。

好きなことがあると、いろんな所で人もご縁もつながってるんだなあと実感。
たのしかった~

*インスタレーション:現代美術の表現方法のひとつ。作品を展示する空間と有機的に
関連づけることによって、その総体を芸術的空間として提案すること。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲骨文から感じること

2007-11-03 | 書の話


早くも霜月3日。
先月、大好きな木簡のことは少し書いたけど、書の歴史の順番からしたら甲骨が最初。
今日は文化の日でもあるので、しばし甲骨文の話にお付き合い下さいませ。

甲骨文字、一度位はどこかで見かけたこと、ありますか?
中国は殷代の甲骨文は、現存する最古の漢字。
亀甲や牛・鹿・羊などの主に肩甲骨に刻されていたもので、正確には「亀甲獣骨文」。

古代人にとって、天(神)は絶対であり、大事なことを決める時は全てを
占いによって天に尋ねていたらしく、その際使われていたとされている。
たとえば亀甲に穴をあけてその部分を焼いて、その亀裂の状態で吉凶を占ったり。
亀裂ということばも、ここから生まれたと辞書には書いてあった。なるほど・・。

つまり殷代の人々にとっては、小刀で字を刻すること自体が祈りであり、
だから今見ても、その単純な直線から、言霊を感じるのかもしれないと思った。

そんな歴史を知ると、甲骨文の見方も変わってくる。

書を学ぶということは、ただ文字を書き写すことじゃないし、
きれいで整った文字だけが書でもない。

それぞれに個性を持ち、それぞれが何かを発信している。
書を学ぶということは、それを感じるアンテナを広げることでもある。

私はよく師に言われた。「引き出しをたくさん持て」と。
知識としての引き出し、技術の引き出し、そして五感の引き出し。
書を学ぶことは、人としての学びでもあるんだなぁと、日々感じる。

きっと人と人も、お互いを知れば見方も変わってくるはず。
なんだ、そうだったんだ・・と、心の扉も開けてくることもある。

何事も学ぶとは、そういうことなのかもしれない・・ね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しいことは人の和の中にあり

2007-11-02 | つれづれ
                  「楽在人和」(K様所蔵)



人は一人では生きていけない生き物なんだなぁと、感じることがある。

愛知県岡崎市にある西居院に、廣中邦充さんというご住職がいらっしゃる。
さまざまな悩みや問題を抱えた若者たちを預かり、時には厳しく時には優しく
‘包み、やがて彼らは、自分を取り戻し社会へと旅立っていく。

子供たちの心の傷の原因のほとんどが、家族とのコミュニケーション不足。
大人が抱えるさまざまな事情は、いたしかたないこともある。
大人だって親だって、完璧なんてあり得ないし。

でも子供が欲しいのは、親からのたった一言だったりする。
そしてその逆に、たった一言で大人の想像以上に傷つくことだってある。

人は一度は考えることがあるんじゃないかな?
「私は何の為に生まれてきたんだろう」って。

「お母さんの子供に生まれてきてくれてありがとう」
たったその一言を、生きる力に変えられることだってある。
そんなたったその一言を待っている子供、子供に限らず人は本来、
誰かの為に生きたいと思う生き物なんじゃないかなって思う。

だから、人は一人じゃ生きていけない。
誰かの為に生きていない時は、きっと心のどこかに隙間風が吹いている。

昔読んだ、ヘンリー・ミラーの「南回帰線」の一節に、
「今僕がひたすら望んでいることは、存在すること(to be)なのだ。
どうか忘れないで欲しいが、この不定詞は中国語では<他動詞>なんだよ」
というのがある。

「私」が存在するには、誰かが必要ということなのかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どうにかなる

2007-11-01 | 


うちの猫やインコたちを見ていると、
本当はどんな風に生きたかったのかなと思うことがある。

みーにゃは、生後2ケ月位の時に散歩中に道端で鳴いているところを、
もう1匹のぷくぷくは、台風の激しい夜、一晩中どこかで鳴いている声がして、
その夜はとうとう見つけられず、翌朝気になって探していたら、
駐車場の車のタイヤの上で、猫なのに「ウキーッ」って声で鳴いていた。
3ケ月位のぷくぷくっと太った仔猫だった。たぶんお母さん猫からはぐれたのかな。

それぞれ家族と離れて私のところへ、あるいは拉致されて?来たわけで、
あの日私と出会わなかったらどんなニャン生だったのかな・・って。

そんな私の感傷を知ってか知らずか、彼女達の日々の欲求のほとんどは食べること。
そして時々遊び、虫を追いかけ、よく寝ること。

それでも日々小さなストレスはあるみたい。
猫同士、お互い目の上のたんこぶのようで、あまり仲良しとは言えないし、
たまには何となくイライラすることもあるよう。

でも、無防備にお腹を出して寝ている姿を見ていると、
「まぁ~ったく、いいねえ呑気で」とニマニマしてしまう。
「どうにかなるさ」って思えてくる。

何かに必要以上にこだわったり、求め過ぎると、自分が苦しくなるばかり。
何かを諦めるんじゃなくて、いらないものを思い切って捨てると、
何かが変わってくるんじゃないかなって思う。

どうにかなるさ~位の気持ちを持てたら、いろんなものが両手を広げて待ってるかもよん。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする