昨日ご紹介させて頂いたまつこさんから、こんな問いを頂いた。
「文字の意味自体を自分の心で自分の形で捉えて、それを紙の面積の中に
線として映し出すという感じなのでしょうか?」
どうも感覚で生きている私には・・問われてみて改めて考えてみた。
たぶんだいたいそんな感じ・・かな・・と。
たとえばことば(文字)の意味を伝えたいときは、文字の意味を考える。
感じて(=時間)、それを筆や紙や墨の力を借りて、紙=空間の中に「生かす」
といった作業でせうか。
でも意味とは全く関係のないところで、あくまでも文字はヒントやきっかけで、
線と空間との響き合いを探す作業になることもある。
同じことば(文字)でも感じ方はひとそれぞれ。
同じ空をみていても、感じ方はそれぞれ違う。
ある人は「乾いた空」、別な人は「雲一つない空」「笑っているような空」と
感じ方~「感じる」に答えは一つじゃない。
だから同じ文字を書いても、その文字の持つ意味プラス、十人いれば十通りの
表現があって、どれが正しくてどれが正しくないなんてものはない。
大事なことは、それぞれの日常の経験や感受性が必要とされるということ。
技術や表現方法(テクニック)はもちろん不可欠なもの。
けれどそれは書で言うところの、きれいな字は勉強すれば必ずいつかは
書けるようになるけれど、その人らしさは技術だけでは表現できないということ。
写真は、先日教室でふと「楽天」ということばからくるイメージを書いたもの。
私が思った楽天と、見る人が感じる楽天はまた違うもの。
それでいいんだと思う。
誰もが'だいたい同じようなところで感じる'「楽天」を書こうとしてはだめ。
自分が感じたものをそのまま表現できるように、もちろん技術も鍛えながら、
「感じる引き出し」を日々のあたりまえの生活の中で、育てること、
そして躊躇せず裸のまんまを見せられる勇気を持つこと・・・
それが本来、孤独な表現者の姿なのかな。。
なんて偉そうに~
まつこさ~ん。こんなんでお答えになってますでせうか