「年末関西旅行記(その7)西ノ京の巻<上の結>」のつづきです。
さて、やってまいりました、唐招提寺。
南大門には、孝謙天皇の筆になる扁額(レプリカ)が掲げられています。
実物は、講堂内に陳列されていました。
唐招提寺の拝観料はほんのちょいと高めの600円也。それでも十分にお安いと思いますヨ。
南大門をくぐり抜けると、真っ正面に金堂が…。芭蕉「おくのほそ道」の象潟(きさかた)の段をもじると、
薬師寺は悦ぶが如く 唐招提寺は想うがごとし
って感じでしょうか?
私は薬師寺も唐招提寺もどちらも好きです。
この金堂は、10年にわたる「平成大修理」を経て、昨年秋に落慶法要が行われたばかりです(私が唐招提寺に来たかった理由がこれでした)。
金堂正面の列柱を間近に見ますと、一本の丸太から作られたものかと思いきや、寄せ木です。
もしかすると、創建当初は1本の木だったのか、始めから木を継ぎ足して組み合わせて柱を作ったのか判りませんが、長い時間の間に幾度も補修が施されてきたことは確かなようです。
今回の旅行のガイドブックにした司馬遼太郎「街道をゆく 24 近江散歩、奈良散歩」にこんなくだりが出てきます。
唐招提寺には、講堂(国宝)も存在している。この建物は、最初は寺院建造物ではなかった。信じがたいほどに古い話ながら、奈良の都(平城京)の庁舎そのものであったのである。明治三十八年開始の解体修理のとき、この建物が、平城京の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)であることがわかった。
ともかく、奈良に都があった時代は、都市設計から宮殿・官衙(かんが)にいたるまで長安の造形と技術と強い影響をうけていた。奈良はある意味では、長安の都が冷凍保存された存在ともいえる。
創建当時の色合いは、薬師寺の再建された建物群のように色鮮やかだったはず(奈良の枕詞「あおによし」は、連子格子の青緑=あお と、柱と扉の朱=に(丹) を表しているそうな)。
そんな時空を超えた体験を楽しむためには、薬師寺⇒唐招提寺の順番で拝観することをお薦めします
下の写真は経蔵です。
拝観料をお支払いした際にいただいた「しおり」によれば、この経蔵は、759(天平宝字3)年に唐招提寺が創建される以前、この地が新田部親王邸だった頃から存在していたのだそうで、東大寺正倉院(756年)よりも古い、現存する日本最古の校倉だとか。
5年前、私は東博・平成館で開催された「唐招提寺展 国宝 鑑真和上像と盧舎那仏」を観に行きました。
大変な混雑の中、「鑑眞和上坐像」に鑑眞和上を慕う弟子たちの熱い思いを感じ、東山魁夷画伯が描いた障壁画・襖絵に鑑眞和上の艱難辛苦へ思いをはせた記憶があります。
教科書でもおなじみの「鑑眞和上坐像」と、それをお守りするかのような東山魁夷画伯による障壁画・襖絵は御影堂にあります。
御影堂の建物は、興福寺一乗院門跡の宸殿(寝殿)を復原移築したものだそうで、これまた、かなり私の興味を惹きます。しかし、この御影堂は、鑑眞和上のご命日(開山忌)6月6日前後の1週間と、観月会が行われる秋の1日しか公開されません。いつか拝見する日がやってくるものでしょうか?
とりあえず、この日は門の外から、玄関に向かうアプローチを撮影しておきました。
御影堂の東側にはうっそうとした木々に囲まれた「鑑眞和上御廟」 、鑑眞和上のお墓があります。
私が訪れたこの時、お供物を供え、御廟に向かって一心にお祈りする人たちがいらっしゃいました。
小さな子どもまでもが、熱心にお経(?) 真言(?)を唱えているのは驚きました。
でも、何度も難破しながら日本にやって来られた鑑眞和上のことを想えば(そして鑑眞和上坐像のたたずまいを想えば)、信心薄い私でさえ、自然に御廟に手を合わせたくなります。
なかなか面白いデザインの石畳を下り降り、一休みしながら、この後の行動計画(なんて大層なものではありません)を練りました。
まだ13時をちょいと過ぎただけですし、まだまだ時間に余裕があります。
さて、どうしようか…
つづき:10/01/04 年末関西旅行記(その9)西ノ京の巻<下>