新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

年末関西旅行記(その12)興福寺の巻

2010-01-06 23:16:11 | 旅行記

年末関西旅行の旅行記が完結しないうちに、今年初の遠征、「福岡・北九州 新春の旅」が近づいてきてしまいました。
かぶらないように、ペースを上げなければ
というわけで、「年末関西旅行記(その11)平城宮跡の巻」のつづきです。

   

予定外の平城宮跡散歩をこなした私は、チェックインしたホテルの自室でしばし休憩を取りました。こんなとき、靴を脱いでカーペットの上を歩くのって、なんと気持ち良いのでしょうかねぇ。

が、私はそれだけでは満足しません まだ時刻は15:30、暗くなるまで間があります。
今朝、ビックカメラで買ってきたLANケーブルを使って、PCをインターネットに接続し、さっそく調べ物。
調べたのは、興福寺国宝館の開館時間です。
今回の奈良の旅、その目的の一つに、興福寺国宝館に行って、阿修羅像ほか興福寺が誇る仏像の名品の数々を見ることがあったのですよ。
もし2日目に見る時間がなければ、3日目の朝に散歩がてら興福寺まで出かけて拝見してこようとまでおもっていたくらいです。

で、興福寺国宝館の拝観時間は、

9:00~17:00(入館・入場は16:30まで)

です。
ホテルから興福寺までは徒歩で10分くらいの距離。こりゃ行くしかありません

さっそく、脱いだばかりのスニーカーを履き直し、意気揚々と出発しました。

   

時間に余裕がありましたので、まず、猿沢の池を見物しました。
2年前に興福寺に来たときは南円堂の辺りから見下ろしただけだったんですよねぇ。

100106_2_1

この辺り、いかにも団体旅行をあてにした旅館が何軒もあるのですが、そのほとんど全部が、高校ラグビーの全国大会にやって来たチームを迎え入れていました。

猿沢の池から南円堂に向かう石段を上って、興福寺の境内に入り、前回、完全に見落とした北円堂を見学。

100106_2_2

北円堂は、承元4(1210)年頃に再建されたといいますから、五重塔(1426年頃に再建)や東金堂(1415年に再建)よりも遙かに古く、もしかすると現存する興福寺の伽藍の中では最も古いかもしれません。それにしては保存状態が素晴らしい

   

再三再四にわたって兵火にさらされながら、それでも白鳳時代・天平時代の文化を伝えてきた興福寺にとって、最大の危機は明治始めの廃仏毀釈だったと聞いていました。
五重塔が現在の価値で数万円の値段で売りに出されたものの、解体費用がかさむという情けない理由で買い手がつかなかったというのは、有名な話です。

私は、そんな危機をもたらした主犯は廃仏毀釈を進めた明治政府や輿論だと思っていました。ところが、今回のガイドブックにした「街道をゆく(24) 近江散歩、奈良散歩」の中で、司馬遼太郎さんは異説を展開しています。

この寺は、明治初年、興福寺をみずから捨てたのである。

と。

詳しくは本書を読んでいただきたいところですが、私なりに要約すればこんな感じです。

元来、藤原氏の氏寺として創建された興福寺は、代々、藤原氏の子弟を塔頭・子院のトップとして受け入れてきた。興福寺に「天下った」藤原氏の子弟たちは、身分こそ「僧」ながら、裕福な興福寺の財政の下で、公家そのままの生活を送ってきた。
それが、明治維新を経て、廃仏毀釈運動が起こると、「天下り藤原氏」たちは、「もしいま僧をやめて神職(徒然煙草注:春日大社の神職)にならなければ禄をうしなう、位をうしなう、すべてをうしなう、というあせり(前掲書)」から、興福寺を捨てた、という次第。

司馬さんは、かなり皮肉めいて、こう書いています。

のちに成立する奈良公園のうつくしさは、興福寺を毀つ(こぼつ)ことによって成立したのである。いまここに散策する私どもが、なにものかに感謝せねばならぬとすれば、旧興福寺の末期の僧たちの無信仰に対してその意を捧げるべきだろうか。

ここで敢えて「旧興福寺」と書かれているのは、現在の興福寺と明治初年に「捨てられた」興福寺とは別の寺院だといってもよいこと、現在の興福寺のお坊さんたちの名誉を守るためだとのこと。

   

話を2009年12月26日の興福寺に戻します。

夕暮れの、ほんのり染まった五重塔東金堂がきれいでした。

100106_2_3

今回は東金堂の仏様たちを拝観することなく(2年前にじっくり拝ませていただきました)、お目当ての国宝館に向かいました、

100106_2_4

鉄筋コンクリート造りの、さほど大きくもない国宝館ですが、これほどまでにレベルの高い美術品が、これほどまでに高い密度で陳列されている空間を、私は他に知りません。

阿修羅像を始めとする八部衆像十大弟子像は言うに及ばず(うち拝観できたのは5~6体くらいかな?)、ほのぼのとした旧山田寺講堂本尊仏頭とか、なんともかわいらしい天燈鬼・龍燈鬼立像とか、かなり小さいけれど細部にわたって日本版ルネッサンス=鎌倉時代の空気を伝える金剛力士立像とか、冗談じゃありません
できることなら、今の国宝館の3~4倍の規模の施設で、常時展示してもらいたいです

何度でも行きたいです、興福寺国宝館

そうそう、これを忘れずにお知らせしておかなくては…。

100106_2_5

国宝館は1月18日からリニューアル工事のため休館(再開は3月1日)だそうです。

くれぐれもご注意くださいませ

   

こうして、短い時間ながら深ぁ~い感動を味わった私は、再び猿沢の池の畔に戻って気持ちが収まるのを待ち、ホテルに帰ったのでした。

いやはや、ホント、肉体的には疲れたけれど、充実しまくりの2日目でした

つづき:10/01/08 年末関西旅行記(その13)東大阪の巻

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年末関西旅行記(その11)平城宮跡の巻

2010-01-06 06:54:48 | 旅行記

話題を戻しまして、「年末関西旅行記(その10)西大寺の巻」のつづきです。


西大寺を後にした私は、Googleの地図で見た「平城宮跡資料館」を目指して歩きました。

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大きな地図で見る


右折するポイントになる二条町交差点にさしかかりますと、交差点がなんかです。

100106_1_1


交差点の真ん中に路面電車の停留所のようなというか、安全地帯のようなものがあります。
「いったい何だろう」と注目しながら歩いて行くと、祠(ほこら)のようなものが2つあり、お地蔵さんが何かが祀られているようです。

100106_1_2

祠を守るコンクリート壁がごついし、「二条町」の案内標識はいったい何枚あるのでしょうか。
なかなか私にウケる光景でした。
なんか得した気分で二条町交差点を右折して歩を進めます。

   

ところが、地図では歩いている道の左側に平城宮跡資料館があるはずなのに、何の看板も標識もありません。そもそも、道の左側は途切れることなく壁と木が並んでいて、入口らしきものが見あたらないのです。

かなり不安になったところで、壁と木の列が途切れ、公園の入口らしき場所に到着。
ちょうど奈良文化財研究所(一見、学校のような建物)の向かい側です。

そこを入っていくと、前方には一面の野原が広がっていて、左手には「案内板」と呼ぶのもはばかれるような立派なものが…。

100106_1_3


この案内板っつうか「案内石(?)」 の右端にある地図によれば、この裏手が目的地の「平城宮跡資料館」のはずなのですが…。
「平城宮跡資料館」のはずの建物の前に翻っていたのは、工場や工事現場でしか見られない緑十字の旗…。そして入口には、道路工事現場で交通整理をするような、ヘルメット姿の警備員さん…。
こりゃどう考えても、平城宮跡資料館自体が工事中です

旅行から帰って調べてみますと、去年(09年)の6月から今年3月末まで改装工事のため休館しているのでした(リリースはこちら)。

やはり下準備しておかないとうまくいきませんなぁ、と嘆いたその時、目にとまったのは、、、

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復原工事が終わったと聞いていた大極殿(第一次大極殿)ではありませんか

先ほどの「落ち込み」はどこへやら、ズンズンと近づいていきました。

大極殿そのものは完成している様子ですが、周りでは重機が動き回っています

100106_1_5

まるで映画のオープンセットのようです。

朱雀門南門の中間地点付近の「何とか門(名前を調べたものの不明です)」の土台らしき場所の上には、こんなナイスな案内板がありました。

100106_1_6

在りし日の平城宮(第一次大極殿院)を偲べますなぁ~。

そして振り返れば、

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一足先に復原されていた朱雀門と、その前を横切る電車…。

   

平城宮跡資料館の見学は叶いませんでしたけれど、平城宮跡を歩き回れるという、思いもよらぬ体験ができたのは、負け惜しみではなくホントLuckyでした

う~む、満足、満足 と、大和西大寺駅に向かって戻り始めた私ですが、「コンクリートから人へ」を標榜する民主党政権のこのご時世、かなり珍しい、公共工事真っ盛りの光景に出くわしました。

例えばこちら。

100106_1_8

平城遷都1300年祭 平城宮跡会場整備工事」だそうな。


ほぉ~、木造だ と感心しながら(?) 現場を見ますと、木材の接合部分にはボルトとナットが…
まぁ、一時的なパビリオンを作っているのでしょうから、これも仕方ないことかもしれませんけれど…

この現場の他でも、一帯で工事が行われていました。「さすが、県知事が国交省(旧運輸省だけど…)OBだけのことはあるぞ」と思ったのでした

   

こうして、大和西大寺駅でコインロッカーからカバンを取り出して近鉄奈良駅まで行き、無事に(?) ホテルにチェックイン

ひやぁ~、歩いた、歩いた… です。

ところが、年末関西旅行2日目の「歩き回り」は、まだ終わらないんですナ、これが…。


つづき:10/01/06 年末関西旅行記(その12)興福寺の巻

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