エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「悪い良心」→「良い良心」への曲がり角

2015-07-02 07:13:27 | アイデンティティの根源

 

 人と関わるヒューマン・サービスで最も大事なのは、「良い良心」です。

 Young Man Luther 『青年ルター』p209の第2パラグラフの下から7行目途中から。大事なところがまだまだ続きます。

 

 

 

 

 

ルターが信頼について語るのは、自分の経験としてでした。その経験が強烈で、意義深いほど、その経験から人は利益を得ることになることでしょう(quanto expressius et intensius)。でもね、その経験がfrigidus 冷たく不快なものであれば、その経験は利益を損なうばかりではなくて、怖ろしいほどの不足を固定化してしまいます。というのも、人って、強い確信がなければ、破壊的武器を手にしたロボットにしかすぎないからですよね。

 

 

 

 非常に示唆的ですよね。経験が強烈で意義深ければ、「悪い良心」の人でも「良い良心」に変わります。心の親である「良心」の転換が図られるので、「親替え」などと言う場合もあります。しかし、経験したことが冷たく不快なものならば、「悪い良心」は変わりません。それだけ「悪い良心」は、無意識に深く根を下ろしているからですね。

 ここで問題になるのは、どうすれば、強烈で意義深い経験が出来るのか? ということではないですか? それはね、≪陽気で楽しい≫playful プレイフル が関わる大人にあれば、その≪陽気で楽しい≫大人の、≪陽気で楽しい≫関わりが、無意識に深く食い込むことができるんですね。そこから、次第に「悪い良心」→「良い良心」への曲がり角が出来てきます。

 

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次世代を育てることが人間的な業

2015-07-02 06:29:23 | エリクソンの発達臨床心理

 

 世代を繋ぐ親子の関係なども、本能的な力であるのに、今の日本では、それさえ危うい時代です。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p52の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 心理・性的な理論は、ライフサイクルの発達の目標は男女が性的なポテンシャルを持ちつつやり取りすることである、と描きます。心理・性的な理論は、大人が成熟することを重要視しますし、ほとんどの大人が不安神経症にならずに済むのは、この男女のやり取りがうまくいくかどうか次第だ、とします。しかしながら、どんなものでもこのリビドー(生きるエネルギー)が、心理社会的な発達に変わった場合に、効果がないのは、私どもが見てきたとおり、世代交代のために役立つような関わりもなければ、同時に、情熱的な、あるいは、夢中になる関わりもない場合です。したがって、真実に完成した心理・性的理論の論理が求めていると言い得るのは、子孫を産み、養うことへと向かうある種の本能のような力は、人間の本性においては、動物の大人が子孫を産み育てる時の本能的な関わりと対である、ということです(ベネディック 1005)。このように、表1のA欄を埋めるように、私どもは(親のテーマ)出産する舞台を一つ、付けたします。この出産する舞台が示すのは、ジェネラティヴィティ、generativity 次世代を育む本能的な側面です。

 

 

 

 

 

 子どもを産み育むことは本能的な要素です。それがここでのエリクソンの主張でもあります。しかし、それだけではありません。産み育てるのは子どもだけではないからです。産み、あるいは、育てるのは、仕事や教育、技術や芸術、あるいは、同僚や部下の場合もあるかもしれませんね。 

 

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光を求める心

2015-07-02 02:39:07 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
≪真の関係≫は、心の向き(オリエンテーション)、心の態度
  今日から、第三節「≪真の関係≫で大事にする、いろんなこと」に入ります。p43最初から。  &n...
 

 1年前のThe Art of Loving 『人を大事にする術』では、「自分にとって大事な人だけを大事にするのでは、自己中心と変わらない、増長した自己中心だ」とされます。フロムが推奨していたのは、宮沢賢治と同様、「人間すべてを大事にする態度」です。弘法大師さんの言う大悲も、同じなのかもしれませんね。

 『日本語大辞典』(講談社)で「心構え」を引きますと、「覚悟すること。用意。心組み」とあります。また、「心組み」を引きますと、「前もって心掛けること。心構え」とあります。私の語感ですとね、「覚悟すること」と「前もって心掛けること」では、随分と感じが違いますね。「覚悟すること」は、「前もって心掛けること」と比べたら、随分と心の深いところからの備えと、それに基づく、例外が許されない態度が必要になる感じですけれども、「前もって心掛けること」は、もっと浅いレベルのもので、「心掛け通りにできたらいいけれども、出来ない場合があっても仕方がないなぁ」という感じです。ただ、あくまで私の語感ですから、さだまさしさんの例の番組ではありませんが、「意見には個人差があります」とでも言っておきましょうか。

 エリクソンが心の向きと言うときには、orientation オリエンテーションという言葉を好みます。エリクソンは、心には「時空を伴う心の地図」、4時限の地図があると言うのですね。しかも、その地図には、向きがあり、その向きのことをオリエンテーションと呼びました。「オリエンテーション」と言ったら、大学や会社に入った時など、最初に受ける説明、道案内的な、新人向けの講座でしょ。心理学では、「定位」、「見当識」と呼ばれます。難しそうでしょ。「時間と空間と人間関係の中に自分自身を位置付けること」、すなわち、「自分は2015年7月2日午前11時45分に、国立駅近くの増田書店の地下1階の人文学の書の前で、大学の友人の岸田と、加藤周一さんの『日本文化における時間と空間』を探している」と言うように、時間と空間と対人関係の中に自分自身を位置付けることを言います。それが分からなくなると、それは重篤な心の病気「見当識障害」、「認知症」だと言われてしまいます。これでも難しいかもしれません。

 エリクソンは、実にクリアーですよ。オリエンテーションは、オリエント(東)から派生した言葉です。人間の心の向きは、オリエンテーション、東向だ、という訳ですね。それは、日本人が「御来光」を大事にする心と似ているものですね。太陽は必ず東から上がるものでしょ。まさに日乃本、「日本」そのものですね。

 オリエンテーションは、東向ですから、常に「光」を見ている感じ、より正確には、「光」を待ち続けている感じ、です。人が「御来光」を見る時のことを考えてください。先日、富士山が山開きだったそうですね。夏の間、実にたくさんの人が富士山山頂を目指して、そこからの「御来光」目当てに登ることでしょう。なんか神々しい感じ、得も言われぬ感動を味わいたくて、あの登りにくくて下りづらい、がれ場の多いところを人は登る訳ですね。

 エリクソンはその「光」には2つの属性がある、と言うんですね。それは「明るさ」と「温もり」です。「なるほどなぁ」、って思いませんか? 人が心底求めているのは、「明るさ」と「温もり」ではないかしらね。お金や名声も悪くない、でもね、それは一時の事じゃぁないかしらねぇ。もっと深いレベルで求めているもの、最深欲求では、「明るさ」と「温もり」でしょ。「明るさ」とは≪陽気で楽しい≫感じであり、物事をハッキリと捉えること。「温もり」とは、たとえ貧しく惨めで、ふがいなくても、許され、価値あるものと認められた時に感じる、感謝と結びついた晴れやかな悦びでしょ。

 

 心はいつも東向

 いつも何度も、光を探す

 

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