「本物」とは?
「本物」と言って思い出すのは、信仰の恩師、西村秀夫です。西村先生の口癖の一つは、間違いなく「本物」でした。 その中でも、忘れならないのは、西村先生...
今日はいくつかの文章を引用するところから始めたいと思います。 テーマは教育です。
1つ目は、アンソニー・ストーの『人格の成熟』(岩波書店)p.105から。
「幼児は、自分が無力で依存的であるために、自分の人格が、みずからに要求されていると信ずるにいたったものにたまたま一致するのでないかぎり、自分に徹する勇気を持つことができない」
2つ目は、宇沢弘文教授の『社会的共通資本』(岩波新書696)p.130から。
「教育の目的の一つは、子どもたちのもっているインネイトな理解力という蕾に適当な刺激を与えて、大きく育てて、立派な花を咲かせることである。しかし、子どもたちがもっているインネイトな理解力は、花の蕾、木の芽のように繊細なものであって、決して乱暴に取り扱ってはいけない。自然に大きくなるのを待たなければならない」(註:インネイトとはinnateの音写で、「生まれながらに持つ」だとか「生得的」だとか訳されることが多いが、宇沢弘文教授は日本語に簡単に訳しきれない、と判断して音写した、と考えられます。)
最後は、船本弘毅さんの『聖書によむ「人生の歩み」』(NHK出版)p.61から。
「日本の教育が、戦後、民主主義を目指しながらそれが真実に根付かなかった原因の一つは、民主主義を、それぞれが自由に意見を述べる機会は作ったけれども、最後は決をとって多数決で決まったから正当であるという数の論理にすり変えてしまい、真実に一人ひとりを大切にせず、1人の人間が持つ内面の問題や魂の葛藤に深く心を向けなかったことにあるのではないでしょうか。」
長々と引用しました。共通していることは何だと思われましたか?
私が申し上げたいのは、子どもの気持ちと「私」は、非常に健気て、繊細なものです、ということです。心理的支援は、おしなべて、「その人ならでは」が育っていくことをお手伝いすることです。子どもの心理面接でも同じです。子どもの自分、「私」= I を育てることのお手伝いが心理の、そして、教育の本来の使命でしょ。アンソニー・ストーと、宇沢弘文教授が指摘しておられるように、子どもの「私」は非常に繊細ですから、繰り返し認めて、繰り返し肯定しなければ、子どもは「自分に徹する勇気を持つことができない」のですから、「私」を生きられません。
子どもが「私」を生きられなければ、ウソとフリを演じることになります。その典型が「良い子」と「大人しい子」です。「大人しい子」ということ自体、形容矛盾でしょ。特に、家庭で、「良い子」と「大人しい子」をやってる場合は、重症です。ですから、そういう子どもには、穏やかな、根気強い関わりが必要です。
子どもの「私」は繊細です。繰り返し認めて、繰り返し肯定したいものですね。なんせ「割れ物注意!」なんですからね。でもね、その「割れ物」がピョンピョン跳ねるのが基本形ですからね。「割れ物注意!」と丁寧に関わると同時に、ビョンビョン跳ねるのに合わせて、陽気で楽しく関わることが大事になりますね。決して怒鳴り声をあげたり、難しい顔や難しい言葉を使うようじゃぁ…?