ルターは祈りの人として、心の中にかすかに聞こえる「神の声」=「自分自身の声」に聴き従う道を見つけたのでした。
Young Man Luther 『青年ルター』p212の 下から9行目途中から。
ルターは、キリストが私どもの「ために」(私ども「ではなくて」という意味です)、身代わりで死んでくれた、と評価することを止めました。ルターはまた、見習ったり、卑屈に崇め奉ったり、あるいは、過去の出来事として行事の中で思い出したりする、1人の理想像として、キリストを見る見方も捨てました。キリストはいまや、クリスチャンが自分を確かにする核心になります。すなわち、quotidianus Chtist adventus 「(ラテン語で)毎日、キリストは来られます」、キリストは今ここに、私の中におられます。苦しみを受け身で体験することを肯定することが、毎日Passion「キリストの十字架の苦しみ」を体験することになり、Passion「キリストの十字架の苦しみ」は、人が「ただの人である」ことを、一番能動的に、一番見事に、肯定することによって、他者のためになる、一番大事な犠牲という意味での身代わりになります。Passion「キリストの十字架の苦しみ」は、ルター自身が巧みに選択すことを通して、ルターがこの世の中に確かに生きる手応えになるのです。
ここも見事ですね。ルターは、今まで、中世世界で、「正しい」信者の態度やら、ものの考え方やらを捨てちゃいました。傲慢に見えますね。それは、自分の心が体験したことから、気付いたことだったのでした。自分の心にウソをついてまで、その「正しい」態度やものの考え方を是認するような、付和雷同はやらなかったんですね。
自分の心に正直にやったら、それは、クリスチャンとして、今までなかった態度と、ものの考え方に、ルターは至ったんです。宗教改革は、あくまで自分に正直であること、自分自身に忠実であったことの結果であって、自己目的じゃぁなかったわけですね。そして、その態度とものの考え方は、私どもに繋がるものでして、それは、キリストの十字架の苦しみこそ、私どもの苦しみを、自分を確かにすることの要になる、圧倒的な悦びのはじめでした。そこには、自分を確かに生きることの出応えと、悦んで、陽気に楽しく生きる手応えが、必ずありますよ。
ありがたいでしょ。素晴らしいでしょ。