日本人の組織の「いじめ」と「無責任の体系」から脱却するには… パートⅡ
「日常生活の儀式化」=日常生活に対する一つの見方2013-07-25 02:39:14 | エリクソンの発達臨床心理&n...
「普通」の「教会生活」を送っている人には、ビックリするようなお話が続きまたしたね。ゴメンナサイね。別に驚かそうとしたんじゃぁ、ないんですからね。でも、最初の、あるいは、本当のピスティス「信頼」やラトレイヤ「礼拝」は、いずれも「神様と向き合うこと」であり、その結果として、「弱い立場の人の側に立ち、行動すること」ですから、儀式とか典礼とか、教会やお御堂とは、無関係なんですね。
今晩は、先日お話した「笑い」について、もう一度考えたいと思います。『笑いの神学』を参考にして、「笑い」の効用を考えてみたいと思います。
コートさんは、まず第一に、「#肯定的な見方」が出来るようになると言います。そうですね。真面目な人であるほど、状況を深刻に受け止めやすいでしょ。しかし、そこに「笑い」があったらどうでしょう。真面目な人は、「なんか小ばかにされた」とその「笑い」についてさえ、否定的に深刻に受け止めがちですね。事態が深刻な時の「笑い」は、別に悪ふざけじゃないんですね。 深刻な事態に飲み込まれるんじゃなくて、深刻な事態から自分を一歩離してみて、客観的に見る視点を、この「笑い」がプレゼントしてくれることが多いのじゃぁないかしらね。そうだとすれば、笑いの効用は、深刻な事態に対して、距離を採ることによって、客観的に見る視点、肯定的に見る視点をプレゼントしてくれる、と言えそうですね。
第二は、コートさんは神父ですから、その仕事がオープンなスタイルになるっていうんですね。でも、私どもは神父や牧師ではないケースが多いでしょうから、これをもっと一般的に言ったらどうなるのかな? と考えました。これは「自分の弱さを笑うこと」だと分かりました。人は自分がしている仕事を重大視しすぎる傾向にあるんじゃぁないですか? それは、その仕事を評価してもらうことを通して、自分をも評価してもらいたいからでしょ。これは必ずしもいけないことじゃぁないですよ。でもね、その思いが強すぎると、人の仕事を評価しづらくなったり、その結果,人とコミュニケーションの中で自分の仕事を進める、という基本がなおざりのなったりしがちでしょ。それは結局自分の仕事に囚われすぎて、逆に自分の仕事を台無しにしかねませんよね。だって、そう言う自分の仕事ぶりじゃぁ、人も自分の仕事を評価しづらくなりますしね、中には、足を引っ張りに来る場合だってあるかもしれませんでしょ。その点、「自分の弱さを笑う」自由があれば、自分の仕事も相対化できますから、人の仕事との客観的な関わりや、全体の中での位置づけや方向性を見ながら、自分の仕事を位置付けやすくなりますもんね。結果として、この「笑い」があった方が、自分の仕事も評価されやすいのじゃぁないかしらね。
第三は、「日常生活が#退屈ではなくなること」。これはそうかもしれないですね。笑いは、日常生活そのままでは笑えませんよね。ルーティーンワークは、見通し通りであって、期待通りでは必ずしもないからですね。ルーティーンワークって、あまり大きな期待をそもそも持ちませんからね。結果もはじめから分かってる場合がほとんどでしょうからね。でもそこに「笑い」があれば、それは、いつもとは違った視点で、その「ルーティーンワーク」、日常生活を見ている証拠でしょう。それも一つの視点では、そうそう笑えませんからね。「笑い」に繋がりそうないろんな視点を見つけながら、日常生活を送ることになりますね。そうするとね、「笑い」がいつでも「#新しい視点の発見」に結びつきますよね。すなわち、毎日が「#小さな発見」の連続になる訳ですね。そしたら、日々が退屈どころか、新鮮になりますよね。
コートさんが四つ目に挙げることは、もしかしたら、一番大事かもしれませんよね。それはね、「#騙されることが少なくなる」ということ。笑いは、日常生活に、いろんな視点をもたらすと言いましたでしょ。するとね、世間の常識、政府見解、メーカーのコマーシャル、NHKニースなどが、表面的な判断、当たり障りのない見方、強い者が得する情報であることが見えやすくなりますからね。『星の王子様』じゃないけれども、「大事なことは眼には見えない」ってことも、生活実感になりやすいでしょ。
いろいろと「笑い」の効用があんですね。
あなたも、#今日も笑顔 でいてくださいね。