エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

悪い良心があると、毎日憂鬱、毎日委縮

2015-07-27 08:22:51 | エリクソンの発達臨床心理

 

 悪い良心は、偶像崇拝と結びつく時、この世の中で、最も恐ろしいものです。人間の世界を、悪い良心はいつでも、ケダモノの世界にしてしまいますからね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p214の、下から6行目途中から。

 

 

 

 

 

(悪い良心が働いていると)私どもは、強烈に委縮して、動けなくなり、心の囁きの餌食になります。その囁きは、「お前たちはまともからはほど遠いぞ。まともでなけりゃぁ、差し迫ってるのに、ハッキリとせず、いつ来るかもわからない、最後の審判が来た時に、ダメだぞ。もうすぐその最後の審判がやって来るのに、お前たちはまだ、的外れなことをしてるし、救いに与れるほど善良じゃないから、救いには程遠いぞ」と囁くのです。こういった憂鬱な状態から、束の間でもいいので逃れることは(ルターは、世俗的には成功した頂点で、かつてないほど憂鬱な状態になったのでした)、この囁きと痛みの伴う取引をするとによって、初めて可能になりました。

 

 

 

 

 悪い良心をキリスト教との関係で見事に示したところです。悪い良心があると、いつでも脅迫されているようなものですから、ビクビクして、委縮しやすいのも分かるでしょ。ビクビクしてたら、《いまここ》を十分に味わえませんでしょ。残念なことですね。「そんなことしてたらダメじゃん」といつも言われているからですね、一人でいる時にさえそうなんですから、心から落ち着くことがとっても難しい。

 そんな時には、私どもはどうすればいいんでしょうか?

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤ちゃんとやり取りがあり、「死ぬのが愉しみ」と言える老賢者

2015-07-27 07:13:03 | エリクソンの発達臨床心理

 

 老賢者が当たり前になる時代が来てもらいたいものです。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p63の6行目途中から。

 

 

 

 

 

このように、平均寿命が延びるといったような歴史的変化があると、実際にできる礼拝が必要になります。その礼拝には、人生の始と終わりの意義深いやり取りがなくてはなりません。また、死ぬことに対して、まとまりがあって、できることなら、能動的に「死ぬのが愉しみ」と言った感じもあります。こういう礼拝をするためには、wisdom「闇の中に光を見つけ出す叡智」という言葉が、イキイキ、ピチピチしたいのち言葉であり続けることでしょう。またその時には、despair 「良いこともあったけど、何の望みもありゃしない」という言葉も、実感のある言葉であり続けることでしょうね。

 

 

 

 

 

 素晴らしいですね。老賢者は新しい礼拝の中で、赤ちゃんとやり取りするようになんですね。そういう老賢者は、死はもはや恐怖ではなく、新しい素敵な世界に、「ほんのちょっと行ってきます」という感じで、愉しみにできるみたい。泰然自若としたものですね。

 私どもも、こうありたいものですね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「つぎつぎになりゆくいきほひ」と 私どもの無責任

2015-07-27 02:53:42 | エリクソンの発達臨床心理

 
定時で帰るのが、ウシロメタイあなたへ
日常生活の儀式化と「不思議!」2013-07-26 03:54:19 | エリクソンの発達臨床心理  エリクソンは、日常生活の儀式...
 

 都知事の舛添要一さんが、7月23日(金)のTwitterで

「新国立競技場:政府は、至急、今回の大失策に至る経過を検証し、責任者の処分をすべきである。最大責任者は文科省であり、担当役人の処分は免れない。組織の長にその処分ができないのなら、自らが辞任するしかない。それが大人の世界の常識であり、役人一人の更迭もないのなら、国民は許さない。」

とつぶやいています。


 7月22日(木)「報道ステーション」に舛添さんが出演したときも、文科省のお役人の無能ぶり、無責任ぶりを指摘していました。その席で、北大の中島岳志さんが、丸山眞男教授の名を挙げながら、戦争遂行した、政治家・軍人・官僚の無責任が、いまの時代にも治らない、と指摘していましたね。

 フクシマ原発事故が今も計り知れない放射能汚染をもたらしているのに、東電から1人の逮捕者もなく、責任者の処分さえないばかりか、勝俣恒久元会長はじめ、当時の責任者たちはおしなべて、ドバイの高級マンションで、高額な報奨金を貰って暮らしている…。

 そこで「歴史意識の『古層』」です(『丸山眞男集』第十巻,p.3-66)。ここで、丸山眞男教授は、記紀神話の始めの記述から抽出した発想様式が、歴史の中で繰り返し執拗に持続する低音(執拗低音、basso ostinato パッソ・オスティナート)として 歴史の主旋律にならないけれども、副旋律として常に繰り返されてきたことを指摘しています。それは、歴史を記述する言葉にその特色を表わす、と丸山眞男教授は言います。

 それが少なくとも3つあると言います。1)「なる」、2)「つぎ」、3)「いきほひ」がそれです。たとえば、「なる」ですが、これは「うむ」と「つくる」と対比的に論じられます。「なる」は自動詞ですが、「うむ」と「つくる」は他動詞ですから、「なる」は主体の生成、変化を言うのに対して、「うむ」と「つくる」は、主体が客体に働きかけるものです。また、「なる」と「うむ」は、その前後で連続性があるのに対して、「つくる」は、主体が特定の目的意識をもち、主体と客体は非連続性である、といいます。「なる」が日本神話の特色ならば、「つくる」はユダヤ・キリスト教神話の特色となります。

 丸山眞男教授は、この3つの特色をまとめると、「つぎつぎになりゆくいきほひ」になると言います。これが日本の社会文化の執拗低音だという訳ですね。それは、日本文化の特色が、「いま」を中核とすることに現れる、とします。加藤周一さんが「現世主義」と指摘したことと重なりますね。

 この「いま」の強調が曲者ですね。「未来のユートピアが歴史に目標と意味を与えるのでもなければ、遥かなる過去が歴史の規範となるわけでもない」からです(p.55)。また、「『いま』の肯定が、生の積極的価値の肯定ではなく、不断に移ろいゆくものとしての現在の肯定である限り、肯定される現在はまさに、『無常』であり、逆に無常としての『現在世』は無数の『いま』に細分化されながら享受され…『いま』の肯定なり享受は、たとえ次の瞬間を迎え入れようとする一種の不安定な心構えとして現れざるを得ない」からです(p.59-60)。

 見事な歴史分析ですね。「いま」、を批判する視点=「未来からの目標と意味」、「過去からの規範」がないのですから、「いま」は、「つぎつぎ」に移ろいがちとなり、その場の「いきおい」に流されがちです。でも、それは、「目標・意味・規範」を意識したものではないので、だ~れもその「いま」に責任を取る人がいません。常に「いま」が絶対化して、批判が許さなくなりがちです。新国立競技場の計画変更に対して、下村文科大臣も、文科省のお役人も、JOC(日本オリンピック委員会)の森喜朗会長も、「迷惑している」などとホザイテ、被害者のような顔ができるのは、丸山眞男教が批判した歴史に対する日本人の心構えと行動が、残念ながら、治っていないことを、端的に示しています。

 

 逆にこうして整理すると、私どもは、絶対化しがちで、批判を許さない「いま」を変えていくためには、ヴィジョンを明確にして、目標と意味を見つけ出すだけではなくて、歴史から規範を作り出す、という意識と自覚を持つことでしょう。それは「いま」に対して流されるのではなくて、いつも何度でも「Why?」と権力の正統性を絶えず問い続けて、自ら未来を作り出す積極的態度を身に着けていく、ということになります。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする