ルターは、悪徳呼ばわりされることから、人間らしい力を得たのでした。
Young Man Luther 『青年ルター』p212の7行目途中から。
ルターは、罪深い自分のどん底を、決心してよく見たんですね。このように自分を見つめることを通してのみ、人は自分自身が神様の御心に適うかを判断できるわけです。conformis deo est et verax et justus. 「神に従うものは、真実であると同時に、正義である」。このように神に従うことは、神の判断を前したら、全くの受け身の態度だと考えられますね。でもね、このように神の前で完全に受け身の態度になることこそが、能動的に自分を内省することになることを忘れてはなりませんよ。能動的に自分を内省すれば、良心の上澄みでは、自分が罪深いと感じます。でもね、そんな感じで、客観的で、機械のような絶対性(訳注:自分が罪深いということ)を受け入れるんじゃなくて、本気になって、真実に下した自分自身の判断を「神の判断」として、受け止めたわけですね。
この辺りはずっと、西平直さんの訳は見ない方が、理解に繋がりますね。ピスティスπιστις のことをエリクソンは言っているんだけれども、そういうことと全く関係ない生活をしている西平さんには、全く分からないんですね。ですから、横にあるものを縦にしただけの、チンプンカンプンの翻訳? になっちゃってんですね。
ここは、信頼 ピスティス πιστις の態度では、毎日のことですから、その態度で生きていれば、それとすぐに分かります。神様の判断は、聴くこと、心の声に耳を澄ますこと、です。それは、実際的には、理性的に、誠実に、真実に、自分で判断することなんですね。
さらに申し上げれば、これは「ローマの信徒への手紙」第12章1節bのことです。
「あなた方の体を、生き生きとした、聖らかな、そして神のお気に召すいけにえとしておささげなさい。それがあなた方の霊的な礼拝です。」(前田護郎訳)