エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

本物の礼拝とは?

2015-07-14 06:49:42 | アイデンティティの根源

 

 ルターは、悪徳呼ばわりされることから、人間らしい力を得たのでした。

 Young Man Luther 『青年ルター』p212の7行目途中から。

 

 

 

 

 

ルターは、罪深い自分のどん底を、決心してよく見たんですね。このように自分を見つめることを通してのみ、人は自分自身が神様の御心に適うかを判断できるわけです。conformis deo est et verax et justus. 「神に従うものは、真実であると同時に、正義である」。このように神に従うことは、神の判断を前したら、全くの受け身の態度だと考えられますね。でもね、このように神の前で完全に受け身の態度になることこそが、能動的に自分を内省することになることを忘れてはなりませんよ。能動的に自分を内省すれば、良心の上澄みでは、自分が罪深いと感じます。でもね、そんな感じで、客観的で、機械のような絶対性(訳注:自分が罪深いということ)を受け入れるんじゃなくて、本気になって、真実に下した自分自身の判断を「神の判断」として、受け止めたわけですね。

 

 

 

 

 この辺りはずっと、西平直さんの訳は見ない方が、理解に繋がりますね。ピスティスπιστις のことをエリクソンは言っているんだけれども、そういうことと全く関係ない生活をしている西平さんには、全く分からないんですね。ですから、横にあるものを縦にしただけの、チンプンカンプンの翻訳? になっちゃってんですね。

 ここは、信頼 ピスティス πιστις の態度では、毎日のことですから、その態度で生きていれば、それとすぐに分かります。神様の判断は、聴くこと、心の声に耳を澄ますこと、です。それは、実際的には、理性的に、誠実に、真実に、自分で判断することなんですね。

 さらに申し上げれば、これは「ローマの信徒への手紙」第12章1節bのことです。

「あなた方の体を、生き生きとした、聖らかな、そして神のお気に召すいけにえとしておささげなさい。それがあなた方の霊的な礼拝です。」(前田護郎訳)

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人生の味わいが違ってくる時

2015-07-14 06:38:00 | エリクソンの発達臨床心理

 

 発達を考える時には、我慢していたんでは、発達しないんですね。むしろ、自分自身を生かすことが発達することにもなりますし、倫理的になることにもつながる訳なんですね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p59の第2パラグラフ、下から6行目途中から。

 

 

 

しかし、この表が、垂直方向で明らかにしていることは、それぞれの段階が(闇の中に光を見つけ出す叡智も)、それ以前の段階すべてに根差しているっていうことです。他方、水平方向では、人間らしい力が1つでも発達的に成熟する(心理社会的な危機も)と、「より低い位置の」舞台でも、より高い位置の、今まさに発達しつつある舞台でも、新たな意味をもたらしてくれます。これはいくら繰り返しても言い過ぎになりませんね。

 

 

 

 

 

 ですから、人間らしい力が、1つでも発達すると、それはそれは、生きてる意味が変わって来るってことですね。それが、赤ちゃんの頃に身に着けるはずの、hope「困難があっても、希望を失わないこと」でも、幼稚園に入る以前の頃に身に着けるはずの、will「困難があっても、自分の意志を保つこと」であっても、幼稚園にはいることに身に着けるはずの、purpose「困難があっても、『何のためにするのか』を忘れないこと」であってもいいんですね。その一つでも身に付けば、人生そのものが違って見えてくる、人生の味わいが違ってくる、と言うのがエリクソンの主張です。

 私は自分自身を考えてみても、心理的支援をして関わった子どもとそのお母さんを見ても、このエリクソンの言葉は真実である、と感じますけどね。あなたはどうですか?

 

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本田哲郎司祭は、なぜ 「日曜ごとに教会に来なくていいんだよ」 と言うのか?

2015-07-14 01:45:45 | エリクソンの発達臨床心理

 

 先日の「こころの時代 宗教・人生」、「釜ヶ崎で福音を生きる ~神は小さくされた者の側に~」(2015,7,5放送、2015,7,11再放送)での、本田哲郎司祭の言葉は、聖書の理解を深めるために、すなわち、キリスト者として生きる上で、またとないチャンスとなりました。それは、さっき翻訳したばかりの、Young Man Luther 『青年ルター』p211 と関係します。ルターはここで、熱心な信者たちが、教会生活を真面目に、熱心にやることに、否定的でしたね。司祭や牧師ならば、「教会生活を真面目に、熱心にやってください」と言う方が普通でしょ? それを否定するとは、ルターは異端だ、日本的に言えば、村八分だ、というように、宗教改革の時も現実に言われたわけどすね。でも、歴史は、ルターに軍配を上げて、村八分にすべきだと皆が思った、ルターの教えの方が「正解」だったわけですね。

 それでも、フランシスコ会の日本管区長まで務められた司祭である、本田哲郎司祭も、礼拝を否定するのは、いかがなものか、と感じる人もいるはずですね。本田哲郎司祭は、先の番組で、ルターと同じようにことを、言ってましたからね。今日のタイトルの言葉は、本田哲郎司祭がおっしゃることを正確に記せば、「『お互いに大切にしあいなさい』という新しい律法1つ守れば、別に、日曜ごとに教会に来なくていいんだよ」ということです。さらに「無宗教でも大丈夫、場合によっては、反宗教でもいい、…ただ、『人を人として大切にする』(ということがあればいい。)そこに尽きるわけですよね」と言います。

 素晴らしいですね。礼拝には形がないことを教えてくれますね。エリクソンが教えてくれていることと同じです。さっきのルターの言葉に擬えて申し上げれば、「自分ができることをするように」などと人に薦めなくてもいい、計画を立てて、罪を犯さないようにしなくてもいい、日曜ごとに礼拝を守らなくってもいい、収入の限度まで献金せずともいい、ありのままでは謙遜とも平安とも感じなくたっていい、という訳でしょ。

 そんなものはどうだっていい。どこまでも大事なのは、最も大事なのは、「お互いに大事にしあう」ことだけ。しかし、また、その行動を選択する際の目印、行動原理が大事ですね。それは、本田哲郎司祭によれば、ギリシア語の σπλαγχνιζομαι スプランクニツォマイ、「はらわたを突き動かされる」ということです。これは英語にすると、com-passion 普通は「同情」とか「憐れみ」とかと、訳されてしまいます。でも、これはもともとは、「passion(十字架の)苦しみを com共にする」、という意味であることを忘れてはいけませんね。これは、本田哲郎司祭の言葉を借りれば、「人の苦しみを『ほっとけない』と思う気持ちだ」と言います。

 私どもは、「人の苦しみを『ほっとけない』と思う気持ち」を目印にして、行動し、生活していきたいものですね。

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