エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ルターが見っけた、≪ひとりびとりを確かにしてくれる人≫

2015-07-18 12:00:35 | アイデンティティの根源

 

 ルターは自分自身に忠実になることによって、クリスチャンの信頼を新しい次元に引き上げてくれました。

 Young Man Luther 『青年ルター』p213の3行目から。

 

 

 

 

 

 savior セイヴィアー≪ひとりびとりを確かにしてくれる人≫として人類から崇められる人たちは、普通の人だったら、自分をゴマカシたり、人をダマクラカしたりして、逃げ出すに違いない、いろんな洞察に、いつも、向き合い、言葉にしてんですね。こういう人たちは、世界の果てまでも、何千年後の世界までも、遥かに及ぶような、その人ならではの不思議な声によって、自分の持ち味を明らかにします。こういう人たちの苦しみには、自ら選択し、自分が自分をコントロールし、自分が勝利し、遅かれ早かれ、キリストの名を勝ち得るという要素があります。いばらの冠も、後になれば、後に続く者たちの王冠にもなります。すぐに、ルターは、最初の革命的な個人になる訳ですが、savior セイヴィアー≪ひとりびとりを確かにしてくれる人≫を、王冠やら、行事やら、上下関係やら、特高やら、から救いだし、ルターが生きて居る場、すなわち、ひとりびとりの魂の中に、savior セイヴィアー≪ひとりびとりを確かにしてくれる人≫を取り戻したのでした。

 

 

 

 

 ルターは、このようにして、日曜礼拝に頼らず、立派な建物や祭壇に頼らず、司祭さんや牧師さんに頼らず、自分の魂におられます savior セイヴィアー≪ひとりびとりを確かにしてくれる人≫と対話する中で、自分を確かにする道を、見つけ出したのでした。そして、それは、今の私たちにもできることではないか、と思うのですね。

 

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最深欲求から生まれたライフサイクル論

2015-07-18 10:24:13 | エリクソンの発達臨床心理

 

 人が困難にもかかわらが希望を抱けるのは、子どもの頃に繰り返し、お母さんから大事にされたからであり、あるいはまた、「ありのままの自分」を大事な人から繰り返し価値あるものと認められたからなんですね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p60の13行目途中から。

 

 

 

 

 

したがって、care「低みに立たされた者を大事にすること」は、cherish「人を大事にし」たいし、caress「人に親切にし」たいという最深欲求となります。この「人を大事に、親切にしたい」という最深欲求が満たされなければ、絶望の印になります。それに、もし、青年期に、子どもと大人の間の時期に、私どもがfidelity(fidelite フランス語で「フィデリテ」「忠実な」, fedelata イタリア語で「フェデラタ」「信頼感が豊かな」)「困難があっても、信念に忠実であり続けること」という人間力が出てくることを提案するとなれば、このfidelity「困難があっても、信念に忠実であり続けること」という人間力は、人を信頼する力と、自分自身を信頼する力とを高いレベルで刷新するばかりではなくて、自分が信頼に値することや、価値の名前が何であれ、その主張に忠実に献身することも主張するものでもあるんですね。

 

 

 

 

 

 care「低みに立たされた者を大事にすること」は、人間に元々ある最深欲求に発するものだとエリクソンは言います。それは、「人を大事にしたい」「人に親切にしたい」という最深欲求だとエリクソンは言います。エリクソン自身が根源的信頼感の厚い人なんだと分かりますね。

 根源的信頼感が厚いエリクソンがいて、根源的信頼感の厚さを薦めるライフサイクルの理論が生まれたわけです。その逆じゃないんですね。

 

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永久革命としての民主主義

2015-07-18 04:17:02 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
最も人間らしく 私どもの選択
  最も人間らしいこととは? 負けさえ気持ちよく楽しめる技術 : 非暴力  動物たちが、争いを回避する...
 

 今日は丸山眞男教授の第3夜。

 何を持ってこようかと考えましたが、やはり「日本の思想」(岩波新書版は、本棚の何処のあるのか見つからないので、『丸山眞男集』第7巻,p191~244に依りました)だろうと考えました。しかし、55ページの、論理が精緻な論文を、そうそう簡単に、納得的にリリードすることなどできない、ということは分かる。そこで、今晩は、この論文全体を俯瞰したうえで、論じることを最初からあきらめることにしました。特に、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちのことを、より明確に知るために大事な点だけに着目して、「日本の思想」で大事なところを手掛かりにして、考えようと考えなおしたわけですね。

 まず最初のポイントです。それは次の文書ですね。

「憲法その他の法的=政治的制度を、制度をつくる主体の問題からきり離して、完結したものとして論ずる思考様式は、思想と理論を既製品として取扱う考え方と深く連なっている。」(p255)

 難しそうですね。でも、これは私どもの日常生活と深く関わってんですね。特に、私は今は、お役人たちに囲まれて、心理臨床の仕事をしてますでしょ。そうすると、「お役所仕事のお役人たち」にも心理臨床の仕事にも、「教育基本法」はじめ、「〇〇要綱」などのルールがたくさんあんですね。そうすると、「お役所仕事のお役人」はどう行動するのか? それが問題になりますよね。 「お役所仕事のお役人」は、そのルールを文字通りに現実に当てはめようとすんですね。これはエリクソン(心の病と社会病理 お役所仕事に「秋葉原事件」)が「文字そのものが言葉や法の精神よりもまさっているということ」と呼んだ「お役所仕事」に陥ることが日常化してしまう訳ですね。そうすると、「教育基本法」はじめ、「〇〇要綱」も子どもの福祉を第1にしているはずなのに、その子どもの幸せよりも、ルールの厳格な適応の方が大事になってしまう本末転倒が、「お役所仕事」の常識になってしまいます。これは、丸山眞男教授が指摘している、「法的=政治的制度を、制度をつくる主体の問題からきり離して、完結したものとして論ずる思考様式」そのものであり、結果として、一番大事な「制度をつくる精神」や「法の精神」=立法趣旨である「子どもの福祉」を蔑ろのされちゃう訳ですね。

 もう1つは、次です。

「近代日本のメカニズムが権力と温情との即自的な統一によって運転されるから、それは無制限に日常生活の内部に立ち入って、これを規律しようとする傾向を帯びる」(p231-232)

 ここも難しいですね。権力は、ソフトタッチで支配し、しかも、ルールに基づいてではなくて、権力者のお気に召すまま、身勝手に温情的に支配しますから、温情を示されるものと示されないものが生じます。アベシンちゃんの「アベノミクス」が、トヨタやと日立のような輸出型の「大企業」とそこの「エリート社員」、および、株を持つ者には恩恵をもたらすものの、9割を超える中小企業の従業員や非正規の人たちには、恩恵がもたらされないことを、この丸山眞男教授の文書は指摘してんですね。でも、それだけではありません。今回のアベシンちゃんと悪魔の仲間たちがでっち上げた戦争法案も、新国立競技場のバカ高い建設コストと維持費を、市民から巻き上げた税金を、ゼネコンの収入源とすることも、人々は「俺にはカンケーネー」と高をくくったとしても、今後私どもの日常生活の中にある平安を徐々に奪うものになるはずなのは、消費税増税、秘密保護法の施行、フクシマ原発事故、非正規雇用関連法制などのために、今現実に私どもの生活が圧迫されていることを見れば、火を見るより明らかでしょう。

 これらを打開するために、私どもはどうすればいいのか?

 丸山眞男教授の教えの、少なくともひとつは、次のようになるのではないでしょうか?

 仲間内だけの「タコツボ」内、での馴れ合い的なやり取りは止めて、異なる分野の人との対話を大事にすること、そうして、制度を、制度を作る精神によって、議論を重んじる市民が運用すること、すなわち、民主化をいつでも何度でも、市民の議論によって深めて、現実化、政治化していくこと、それが大事になる、ということではないですか。

 

 

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