権力が「間違い」を認めない、ウソとゴマカシの恐ろしさ
1つの楕円→2つの自己中心の円(円満?):儀式化のまとめ その22013-07-29 02:06:44...
当ブログ「エリクソンの小部屋」はいくつの「カテゴリー」に分けて、記しています。「エリクソンの発達臨床心理」、「フーコーのパレーシア」、「エッリッヒ・ロムの真まこと(の行い)」、「間奏曲」…。もともとは、エリック・H・エリクソンの著作が、その間違いだらけの翻訳のために、あるいは、その紹介者の多くが読み込み不足で、エリクソンのことを誤解しているために、エリクソンが、多くの日本人に、よく理解されていないのが、もったいないし、いまこそエリクソンを生かした臨床が、日本に必要だ、との確信のもと、このブログを始めたんですね。
その一つのカテゴリー「エリクソンの発達臨床心理」が1000タイトルになりましたので、その記念に、1001回目のこのブログは、何にしようかな? と考えました。「裸の大様」にしようかな? 「東芝のウソとゴマカシ 日本の組織の病理」にしようかな? とも思いましたが、やっぱり、「根源的信頼感」がいい、と考えなおしました。何度も取り上げましたが、何度でも取り上げたいテーマ、それが根源的信頼感ですね。
エリクソンは、a sense of basic trust と言います。みすず書房版の仁科弥生さんは、最初にこれを「基本的信頼」とやっちゃいました。でも、これだと、軽すぎるんですね。エリクソンは、デンマーク人で、子どもの頃かドイツで暮らしてましたから、基本はドイツ語でものを考えているはずですね。ですから、元の言葉は、Urvertrauenです。仁科さん、英語はできても、ドイツ語はあまり知らなかったんだろうと思います。私も第二外国語はロシア語なので、ドイツ語はよく分かりません。「根源的信頼」の訳語を教えて下さったのは、東北大学で政治学を講じておられた、宮田光雄先生です。宮田光雄先生はドイツ(当時は、西ドイツ)に留学されていますので、ドイツ語も堪能です。
宮田光雄先生は、根源的信頼について折に触れて、述べておられます。その一つが、『宮田光雄集』第一巻の第6章、「いま神を信じるということ」に出てきます(p.238-291)。宮田光雄先生は
「こうした信頼の最も根源的な形として、心理学者エーリク・H・エリクソンのいう≪根源的信頼≫を挙げることができるでしょう」
と述べておられます(p.257)。
宮田光雄先生は、この≪根源的信頼≫を育む母親と赤ちゃんとの関わり、ごく日常的な関わりが、≪超越的≫だと言うんですね。お母さんは、赤ちゃんが泣いていれば、「だいじょうぶ だいじょうぶ」と、いとうひろしさんの絵本のような言葉を言いますでしょ。でも、この世の中は、全てが大丈夫なわけがない、それが現実でしょ。ですから、おかあさんの「だいじょうぶ だいじょうぶ」には、ウソがありますね。この世には、死と混乱があるからです。
でもそうじゃあ、ないらしい。この「だいじょうぶ」は、現実世界を≪超越≫した秩序を言っているからです。つまり、一見混沌に見える、あるいは、ちょっと見には、闇に思える現実の背後にある秩序、あるいは、その現実を≪超越≫する秩序を見出すヴィジョンを言っているからです。そのヴィジョンの多くが、宗教的なものですけれども、しかし、宗教に限られたものでもないことも確かですね。いずれにしても、お母さんの「だいじょうぶ」は、こちらのヴィジョンを指示して、赤ちゃんに秩序ある世界を紹介しているんですね。
まことに、日常的なささやかな場面が、お互いに価値を認め合うやり取りとなるばかりではなくて、この世界を≪超越≫する秩序を共有する、まさしく、≪毎日の礼拝≫になる、という訳ですね。
上手く出来てますね。