エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「毎日憂鬱」と言うあなたへ

2015-07-30 07:51:56 | アイデンティティの根源

 

 いろんな価値は、コッソリ神のような顔をします。危ない、危ない!

  Young Man Luther 『青年ルター』p215の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 人によっても、こういった憂鬱な状態が、その人自身の理由から、毎日だ、という人もいますよね。拝み屋はこういう人から人を集めをすんですね。全ての人は、この憂鬱と言う発展する可能性のある状態から、「世界はこんなもの」というイメージを、何とかして作るんですね。ウィリアム・ジェームズは言っています、「ラテン人は、簡単に悪の圧迫を打ち砕いて、『いろんな病や複数形の罪業を、粉々にして取り除くことができる者にしてしまいます』。だけど、ゲルマン人は、『単数形の≪的外れ≫と大文字のS』を一つ立てて、生まれながらの主体性を根っから無視して、少しづつ手当して取り除けくことができない」と。

 

 

 

 

 民族によって、憂鬱に対する態度が違ってきます。南国育ちのラテン人と、北国育ちのゲルマン人とでは、憂鬱に対する態度が正反対ですよね。

 ここで、拝み屋というのは、その憂鬱に付け込む輩です。病院や福祉施設に、信者を集めに来る人が、「拝み屋」と呼ばれている、と昔、西村秀夫先生から聞いたことがあります。患者や利用者から、軽蔑的に「拝み屋」と呼ばれてたんですね。それはどんなヴィジョンを持ちたいのか? 分かち合いたいのか? で決まってきます。拝み屋は決して、信頼を強めたりはしませんよ。むしろ、弱弱しくしか信頼できないところを利用とします。

 私どもは、弱弱しい信頼も、頼もしい信頼に変えていただくために、子どもと関わりたいですね。

 

 

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心理臨床の面白さ

2015-07-30 06:58:53 | エリクソンの発達臨床心理

 

 高齢者の課題も、人生の各舞台の課題と関わりが深いものです。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p63の 最後の行から。

 

 

 

 

 

 私どもは、こういったいろんな疑問に最終章で戻ることにしましょう。ここで、ついでに私が強調しておきたいことは、老年期にあっては、過去に身に着けたあらゆる人間性は、新しい価値を帯びる、ということです。その人間性は、それ自体において、研究した方が良いってこと、それ以前に身に着ける人間性においてばかり 研究するんじゃぁないってことです、それは、その人間性が、健康か、あるいは、病んでいるかに関係ありません。いっそう実存的な言葉においては、人生千秋楽の舞台で、不安神経症のanxiety 「『この先どうなるか、わかんない』という心配事」から比較的に自由になることは、生死の怖れから免れている、という訳じゃないってこと。子どもの頃のguilt 「『自分はダメな子』という罪責感」は、それぞれの人がそれぞれの仕方で体験しているevil 「『自分が悪い』という感じ」を失くしてくれはしないってこと。それは、identity 「対人関係の中で心理的に自分を確かにさせること」は、実存的な≪私≫を先取りするわけじゃないのと、同じです。

 

 

 

 

 キッパリしてますね。その年齢の舞台にふさわしい危機的課題があって、その課題はその年齢において研究した方が良い、ってことです。しかし、臨床ですから、常に二律背反的で、それと同時に、他の年齢の舞台との繋がりの中でも考えることも大事なわけなんですね。ここが心理臨床のダイナミズムですし、また、とっても面白いところでしょ。

 

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≪根源的信頼感≫ 再び ≪毎日の礼拝≫ 再び

2015-07-30 03:19:35 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
権力が「間違い」を認めない、ウソとゴマカシの恐ろしさ
  1つの楕円→2つの自己中心の円(円満?):儀式化のまとめ その22013-07-29 02:06:44...
 

 当ブログ「エリクソンの小部屋」はいくつの「カテゴリー」に分けて、記しています。「エリクソンの発達臨床心理」、「フーコーのパレーシア」、「エッリッヒ・ロムの真まこと(の行い)」、「間奏曲」…。もともとは、エリック・H・エリクソンの著作が、その間違いだらけの翻訳のために、あるいは、その紹介者の多くが読み込み不足で、エリクソンのことを誤解しているために、エリクソンが、多くの日本人に、よく理解されていないのが、もったいないし、いまこそエリクソンを生かした臨床が、日本に必要だ、との確信のもと、このブログを始めたんですね。

 その一つのカテゴリー「エリクソンの発達臨床心理」が1000タイトルになりましたので、その記念に、1001回目のこのブログは、何にしようかな? と考えました。「裸の大様」にしようかな? 「東芝のウソとゴマカシ 日本の組織の病理」にしようかな? とも思いましたが、やっぱり、「根源的信頼感」がいい、と考えなおしました。何度も取り上げましたが、何度でも取り上げたいテーマ、それが根源的信頼感ですね。

 エリクソンは、a sense of basic trust と言います。みすず書房版の仁科弥生さんは、最初にこれを「基本的信頼」とやっちゃいました。でも、これだと、軽すぎるんですね。エリクソンは、デンマーク人で、子どもの頃かドイツで暮らしてましたから、基本はドイツ語でものを考えているはずですね。ですから、元の言葉は、Urvertrauenです。仁科さん、英語はできても、ドイツ語はあまり知らなかったんだろうと思います。私も第二外国語はロシア語なので、ドイツ語はよく分かりません。「根源的信頼」の訳語を教えて下さったのは、東北大学で政治学を講じておられた、宮田光雄先生です。宮田光雄先生はドイツ(当時は、西ドイツ)に留学されていますので、ドイツ語も堪能です。

 宮田光雄先生は、根源的信頼について折に触れて、述べておられます。その一つが、『宮田光雄集』第一巻の第6章、「いま神を信じるということ」に出てきます(p.238-291)。宮田光雄先生は

「こうした信頼の最も根源的な形として、心理学者エーリク・H・エリクソンのいう≪根源的信頼≫を挙げることができるでしょう」

と述べておられます(p.257)。

 宮田光雄先生は、この≪根源的信頼≫を育む母親と赤ちゃんとの関わり、ごく日常的な関わりが、≪超越的≫だと言うんですね。お母さんは、赤ちゃんが泣いていれば、「だいじょうぶ だいじょうぶ」と、いとうひろしさんの絵本のような言葉を言いますでしょ。でも、この世の中は、全てが大丈夫なわけがない、それが現実でしょ。ですから、おかあさんの「だいじょうぶ だいじょうぶ」には、ウソがありますね。この世には、死と混乱があるからです。 

 でもそうじゃあ、ないらしい。この「だいじょうぶ」は、現実世界を≪超越≫した秩序を言っているからです。つまり、一見混沌に見える、あるいは、ちょっと見には、闇に思える現実の背後にある秩序、あるいは、その現実を≪超越≫する秩序を見出すヴィジョンを言っているからです。そのヴィジョンの多くが、宗教的なものですけれども、しかし、宗教に限られたものでもないことも確かですね。いずれにしても、お母さんの「だいじょうぶ」は、こちらのヴィジョンを指示して、赤ちゃんに秩序ある世界を紹介しているんですね。

 まことに、日常的なささやかな場面が、お互いに価値を認め合うやり取りとなるばかりではなくて、この世界を≪超越≫する秩序を共有する、まさしく、≪毎日の礼拝≫になる、という訳ですね。

 上手く出来てますね。

 
 
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