他者感覚=自己中心+他者中心
儀式化=楕円形 : 儀式化のまとめ その12013-07-28 01:18:15 | エリクソンの発達臨床...
山崎豊子さんのことを昨晩このブログに書きました。その時、クローズアップ現代で流れた山崎豊子さんの言葉を2つ記しました。その声は、いずれも震えるような泣き声でした。何故なんでしょうか?
それはもちろん、シャオリーベングイズ(小日本鬼子)と呼ばれた戦争孤児の人たちの暮らしが、悲惨で、気の毒だった、ということがあったでしょう。でも、それだけじゃぁない、というのが私の受けた印象です。
山崎豊子さんは、戦争中は学生だったそうですね。男子学生は学徒動員で戦場へ、女子学生は、軍需工場で弾磨きや軍衣の縫製。軍需工場は、恰好の爆撃目標でしたから、死んだのは戦場に行った男子学生だけじゃあない。山崎豊子さんが働かされていた軍需工場も爆撃されて、友達の女学生も殺された。それを山崎豊子さんは次のように書いています。
「『大地の子』で文芸春秋読者賞を受け、その授賞式で話したんですが、『学徒動員令で男子学生は全部特攻隊として片道切符で死んでいきました。私たち女子学生は軍需工場へ行って弾磨きや軍衣の縫製をさせられました。粗食と過労、また米軍の空襲で死んでいった友がいる中で、私は生き残りました。生き残ったものとして何をなすべきか、その思い…』。そこまで言ったら言葉が途切れて、何も言えなくなってしまって、壇上で涙してしまいました」(『作家の使命 私の戦後』p.313-314)
と記しています。サバイバー・コンプレックス。加藤周一さんと一緒です。加藤周一さんは医者として東京に残ったけれども、親しい友人が何人も戦争で殺された。加藤周一さんは、
「戦争に私の友達を殺すほどの理由が、そう気軽に、そう簡単に見つからない。死んだ友達がもし生きてたら、いま言わないことを言ったり、言うに違いないことを黙ってたり、…は、まずい。」
とインタヴューの中で応えていますが、山崎豊子さんも同じだったのかもしれません。山崎豊子さんも、戦争の不条理の中で死んでいった友人になり替わって、その不条理を伝えていきたいと、願ったに違いありません。
ですから、中国で牛馬のごとく働かされている「戦争孤児」を見た時に、山崎豊子さんは、空襲で死んでいった友達も一緒に見ていたはずでしょ。「戦争孤児」の苦しみは、死んでいった友人の苦しみであり、山崎豊子さん自身の苦しみであったと思われます。
こう考えてきますとね、クローズアップ現代で流れた山崎豊子さんの声が泣き声だったことも、いっそうクリアーに理解できると思います。沖縄の言葉て言えば、「ちむぐるさー」、本田哲郎神父の言葉なら、ギリシア語の σπλαγχνιζομαι スプランクニツォマイ、「はらわたを突き動かされる」が、山崎さんを書くことに突き動かしていたんだと考えて、間違いないと私は考えます。
ですから、山崎豊子さんにとって、日々小説を「書く」ことが「礼拝」だったわけですね。
皆さんひとりびとりも、あなたの礼拝を大事にしてくださいね。