エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「何のために生きるのか?」がハッキリ

2015-07-09 08:22:11 | アイデンティティの根源

 

 本気は、実は静かに打ち込んだ手仕事のような仕事に現れます。目立たないのに、キラリッと光ってる。忌野清志郎さんの歌にもありましたっけ。

 Young Man Luther 『青年ルター』p210の第4パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターが聖書の御言葉に耳を傾ける時、素直な耳で耳を傾けてたんですね。素直な耳で御言葉を聴くルターのやり方は、2つ。1つは聖書からの御言葉を聴くこと、もう1つは自分自身の心に響いてる言葉を聴くこと。「あなたがたの気持ちがどうであれ、神様の言葉はあなた方にやって来るでしょう」とルターは言いました。ここで気持ちと言うのは、あなたが「何のために生きるのか?」ということに関して、心の中で一番本気になっていることの塊です。ルターが本気になるのは、「話し言葉になった御言葉が能動的になるのは、自分が受け身になった時です」とルターが言う時だと、ルター本人も知っていました。受け身になる時、ここで、「信頼と言葉が一つになります。信頼と言葉が揺ぎ無く結びつく Der Glawb und das Worth wirth gantz ein Ding und ein unuberwintlich ding.」のです。

 

 

 

 

 

 ルターが宗教改革をすることになったことの神髄がここにあるんだと思います。聖書の御言葉をいくらありがたがってても、本気にはなれませんよ。教養にはなっても、生きるいのち言葉、生活に、人生に活かせる言葉には決してできませんね。聖書の御言葉が真に迫ってくるのは、受け身の体験に、能動的な意味があることに気付いた時ですね。それをルターが繰り返し体験し、それを聖書報告(説教 と呼ばれることもあります)の中で話していたんだと思われます。そして、その言葉は、集会(教会と呼ばれることもあります)の枠を超えて、現実に政治にまで及んだのが宗教改革でした。

 ですから、聖書は全人格、生活すべてに渡るものですから、いわゆる「福音派」は勘違いも甚だしいわけですね。でも、いわゆる「社会派」でも困ります。基本は静かな手仕事だからです。

 

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いのち言葉が一番大事

2015-07-09 07:20:00 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エリクソンがライフサイクルの中で使う言葉はあいまいです。しかし、それは日常生活に馴染み易いので、むしろ、応用が効くわけです。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、第3章p58の7行目途中から。

 

 

 

 

 

でもね、礼拝とは、発達しているさまざまな自我とその自我が共通して持つ倫理性を結びつけるものだという提案を私どもが受け容れるのであれば、様々な生きたいのち言葉が、最も傑出した形の礼拝だと見なされなくてはなりませんね。それは、いのち言葉が、礼拝のやり取りによって伝わるいろんな価値において、人間とは普遍的に何なのか? ということと、その文化に特有なものは何か? ということを表わしているからです。 このようにして、人間の強さという現象を研究する時には、いのち言葉である普段の言葉は、何世代にもわたって使う中で成熟しているので、議論の土台として一番役立つものなんですね。

 

 

 

 

 

 いのち言葉は、≪見通し≫と≪出来事≫と結びついた≪話し言葉≫です。ですから、人間とは何なのか? という命題と、文化に特有の価値とは何なのか?という命題を、抽象的にではなくて、生きた実感と結び付けて考える上では、一番いい道具なんですね。

 宗教の言葉がいのち言葉でなくてはならないのに、似ていますね。

 

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信頼

2015-07-09 03:00:33 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
子どもに自由をプレゼントするのは、陽気で楽しい大人と≪超越≫
   余暇にしか遊ばぬ大人、遊んでる子どもの一人に、及ばない :子どもの遊びの永遠の遺産&...
 

 

 信頼。ギリシア語ではビスティス πιστις、英語ではトラスト trustです。
今日はこの信頼について、考えたいと思います。

 信頼と言ったら、みなさん、どんな意味だと思いますか? 講談社の『日本語大辞典』で「信頼」を探したら、ありませんでした。小学館の『大辞林』には、「信じて頼ること」としかありません。日本には、あまり「信頼」が豊かでないことが、辞書からも分かります。残念ですね。

 trustを研究社の『リーダーズ英和辞典 第2版』で引きますと、動詞としては、1 当てにする 2 安心して~させられる 3固く信じる 4(大事なものを)預ける、などの意味があります。ギリシャ語のピスティス πιστιςは、教文館の『新約聖書ギリシア語小辞典』によれば、1 (能動的に)信頼すること 2 (受動的に)あてになること とあります。英語にも、ギリシア語にも、信頼には、能動、受動の二通りの意味があることがハッキリ分かります。

 今日も前段が長いですね。私の文体ですので悪しからず。エリクソンが、人間の発達の最初に持ってきたのが、この信頼です。正確には、a sense of basic trust 根源的信頼感 信頼している感じ、あてになる感じです。この反対が、a sense of basic mistrust 根源的不信感、信頼しそこなった感じ、あてにならない感じ、です。これが、赤ちゃんの時の発達危機です。赤ちゃんは生まれてすぐに、信頼できるのか、信頼できないのか、と言う発達危機にある、と言うのが、エリクソンの洞察に満ちた見解です。根源的信頼感に傾くのか、信頼している感じが強くなるのか? それとも、根源的不信感に傾くのか、信頼しそこなった感じが強くなるのか?

 赤ちゃんが、主に母親との関係で、やり取りのある関係が繰り返し満たされれば、根源的信頼感の方に傾きますし、母親との関係が、やり取りのない関係が繰り返されたり、日本にはこれが多いのですが、そもそも、赤ちゃんの眼のまえから母親が奪われる、実際には母親が仕事に奪われているので、やり取りがさほど繰り返されない場合には、根源的不信感に傾いてしまいます。そして、今の日本では、根源的不信感に相当程度傾いた子ども=愛着障害の子どもが、呆れるほど多いのですね。

 エリクソンは言います、信頼には、2つの側面があることです。それは英語やギリシア語にもともとあったことでしたね。すなわち、自分を信頼すること、母親(そして、世の中も)を当てにすること です。逆に、信頼しそこなった感じになりますと、自分は信頼できないから、ガラクタ、ゴミだと感じますし、母親(そして、世の中も)は「どーせ、あてになんないなぁ」と感じる訳ですね。赤ちゃんの記憶がある人は例外ですから、赤ちゃんの時の発達危機上の、信頼も不信も、無意識の領域の方が、意識できるレベルよりもはるかに深いし、広いのが一般的です。

 ここまでも十分に大事な点なんですが、大事な点が、少なくとも、もう1点あんですね。それは、根源的信頼感の方に傾けば良し、根源的不信感に傾いた場合なんですね。発達は積み木と同じです。根源的信頼感があれば、次の発達段階に進めます。しかし、根源的不信感に傾いた場合は、次の発達段階に進めないことがポイントですね。ここが非常に危機的ポイントです。ですから、エリクソンは、「発達課題」とは言わずに、「発達危機」と呼んだ訳ですね。でも、根源的不信感に傾いた場合、愛着障害の場合でも、ある程度、時には、相当程度、「発達」しているように見えます。これをエリクソンは、「偽りの前進」、あるいは、「見せかけの前進」、すなわち、 false progressionと呼びました( たとえば、Childhood and Society, p82)。ですから、根源的不信感に傾いた場合、その子が「発達」しているように見えるのは、あくまで、ウソを「見せかけ」で、無意識に演じている訳ですね。フリをしているだけですから、身に付いた力になりません。ですから、ウソの「見せかけ」を見せられて、「育ってきたなぁ」と考えるのは、大間違いなんですね。

 じゃぁ、本物の前進と、「見せかけの前進」をどう区別したらいいんでしょうか? それはね、やはりエリクソンが教えてくれています。それは「子どもの笑顔」ですね。笑顔が豊かであれば、それは本物の前進であることが多いでしょう。笑顔が乏しかったり、表情が暗かったり、あるいは、怒りっぽかったりする場合は、発達しているように見えるても、「見せかけの前進」と考えたほうが妥当です。

 ですから、何歳になっても、最初の発達危機がクリアーできていない場合は、最初に立ち返って、根源的信頼感を育てていくことが、何度でも必要です。そのためには、≪見通し≫と≪話し言葉≫と≪出来事≫を繰り返し一致させていくこと、すなわち、≪約束≫が何よりも大事になります。

 どうぞよろしくお願い申し上げます。

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