なぜ、≪私≫も≪私たち≫も死んで、「人間を上下二つに分けるウソ」が蔓延する群れる組織となるのか?ヴィジョンを「共に見る」ことと「群れる組織」 子どもの頃の遊びは、永遠の遺産と言えるくらいの値打...
日本が第二次世界大戦を戦った責任者は誰か? ドイツであれば、第二次世界大戦を戦った責任者は、ヒットラーであり、その取り巻きであるベッケルスらであることは明確です。彼らにもその自覚が明白にありました。しかし、日本はその自覚がある人は結局いませんでした。これは丸山眞男教授が「超国家主義の論理と心理」で述べていることです。
「何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。我が国の不幸は寡頭勢力(訳注:少数の権力者たち)によって国政が左右されていただけでなく、寡頭勢力がまさにその事の意識なり自覚なりを持たなかったということに倍加されるのである」(岩波書店『丸山眞男集』第3巻,p31。もともとは、未来社『現代政治の思想と行動』所収、私も最初はこちらで読みました。)
私はこれは大学時代に初めて読んだ時の驚きを忘れることなどできません。
そして、これは今も変わらない感じがしませんか?
福島の放射能汚染が現在進行形ですすんでいるのにもかかわらず、次々と原発を再稼働し、また、輸出しようとしていること、新国立競技場にバカ高い予算をつぎ込むことになっていること、これらもまた、政府と原子力規制委員会、政府とJSC(日本スポーツ振興センター)で、それぞれ責任を押し付け合っていることを見て、丸山眞男教授が教えて下すった、無責任体制が、日本の軍部や、戦前の政治家や官僚連中だけではなくて、今の安倍政権と現在の官僚にも瀰漫していることがハッキリ分かります。
何故なんでしょうか?
丸山眞男教授の論理の展開を私なりに翻訳しますとね、概ね次のようになります。
権力にある政治家も官僚も、自由な個人ではなく、行動の基準を、倫理を内面化することによって確立している訳ではありません。敗戦後に制定された「教育基本法」が前文で示している「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間」などでは、ハナから、ないんですね。じゃぁ、どんな人物なのか? それはね、丸山眞男教授によると、天皇からの近さが、その人物の優越と優越感を満たすと同時に、その天皇の権威を重たく感じる小心な人物なんです。ですから、その権威をかさに着れば、行動の制限を受けることは基本的にはないし、また、そこでひどいことをしても、そのことに対する責任を全く感じない、ということが生じる訳ですね。その人間関係は「自分が上か、下か」を天皇との距離で測り、「上」の者には、従っているフリをし、「下」の者に対しては、イジメをする事が、基本的態度になるのです。いまは、天皇との距離よりも、それぞれの組織との距離、組織に対する名目的な忠誠度が物を言うでしょう。たとえば、仕事はしていなくても、職場にどれだけ残っているかというのが、その「組織に対する名目的な忠誠度」になるでしょうね。日本の組織にイジメがなくならないのは、倫理の基本が、現世を超越した、あるいは普遍的な、価値の内面化、にあるのではなくて、形ばかりの組織への、この世的で、文字通り現金な忠誠度にあるからなんですね。
ここに、いまも、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちのような、自覚なき独裁が生まれ、「言っていること」と「やってること」がちがう、ウソとゴマカシだらけの、戦争法案、辺野古への基地移設、新国立競技場のおバカで法外な予算、フクシマの現実を踏みにじる原発再稼働と原発輸出という、無責任な私たちが生まれるのです。
私どもがすべきこと、それは、私どもひとりびとりが、超越した価値(ブッダ、キリストの父なる神様ヤハウェ、無、道、など)、あるいは、普遍的な価値(たとえば、民主主義や個人の尊厳、自由など)を内面化し、それを行動の指針として毎日生きる、ということに立ち返ることなんですね。