エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ルターの戦いは私どもの戦いでもある : 勇気と真実

2015-07-04 10:29:01 | アイデンティティの根源

 

 形ばかりをやりやすいところで、どうしたら本気を取り戻したらいいのか? それかいつでも課題です。

 Young Man Luther 『青年ルター』p210の最初の行の途中から。

 

 

 

 

 

ドイツ語のBrustton der Unberzeugung(確固たる確信)、すなわち、男のように勇気がある確信から始めることは、いろんな形の確信に満ちた訴えとなりました。一番最近の例ですと、私どもが良く見るテレビアナウンサーの裏表のない姿ですね。このすべてが示しているのは、ルターは永遠の心のフロンティアのパイオニアだということと、ルターが戦った戦いを続けなくてはならないのは(偉人の戦いがそうあらねばならないのと同じで)、まさに、ルターの言葉がルター自身の名において歪められてしまっているところにおいてでした。

 

 

 

 

 

 勇気って何でしょうね? 勇気は確信から生まれるものでしょ。いろんな場面で勇気はあるのかもしれませんね。エリクソンが挙げているように、言葉が歪められている場合もそうでしょうね。今のようにアベシンちゃんと悪魔の仲間たちが、「戦争」のことを「平和」と呼び、「日本市民の命を見殺しにすること」を、「国民の命を守る」と呼んでいる時代ですからね。まるで、ジョージ・オーウェルの『1984』が、現実になっている時代でしょ。そういうときには、そのウソとゴマカシをパレーシアにハッキリと、言葉にすることが、何よりも勇気が必要なことであると同時に、しかも、真実なことになります。

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心と性の変化の影響は大なり

2015-07-04 08:00:44 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エディプス・コンプレックスの場合でも、実は単に性的関係ばかりではなくて、親子関係でしたものね。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p53はじめから。

 

 

 

 

 

 しかし、心理・性的理論で、子どもを産む側面を強調することは、かなりつじつまが合わない感じがしますでしょ(倫理に反してはいないでしょ)。いまは、出産制限の時代ですからね。それでもね、心理・性的な生態学のおいて根っこから変わることには危険があることを指摘することが、精神分析のお仕事になりますし、これから先もなるでしょう。実際に、ビクトリア朝時代にはもともとの使命がそれでしたしね。ですから、心理・性的生態が根っこから変わってしまったいろんな影響が心理臨床では認められますし、臨床以外でもそうですよね。

 

 

 

 

 ここも、エリクソンの預言者性がよく出たところですね。心理・性的な人のあり方が根っこから変わることの影響を、今の時代ほど経験している時代ないですね。先日もアメリカで同性婚を認める連邦最高裁の判断がありましたね。それに対して保守的なアメリカ人のクリスチャンの友人が嘆いていましたしね。

 離婚や夫婦間・親子間での暴力という心理・性的な人のあり方が、子どもに深刻な影響をもたらしていることは、臨床をしていれば、明らかですよ。でもね、日本の場合は、特に労働政策と福祉政策の失敗に起因する、貧困、ネグレクトの影響も非常に大きいですね。その差が、アメリカの愛着障害の子どもの背景と、日本の愛着障害の子どもの背景との差になっています。

 

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本田哲郎神父と福音

2015-07-04 06:30:23 | エリクソンの発達臨床心理

本田哲郎神父

 

 
≪真の関係≫は心向き
  佐々木正美先生のコラム「響きあう心94」を拝見していたら、フロムが言っていることと、同じことを、佐々木正美先生ならではの、お優しい視点から、ハッキリと...
 

 ニルス・クリスティ教授と良心の話は人気があまりありませんでしたね。それでもいいんですね。

 今日は、本田哲郎神父のお話。上の写真が本田哲郎神父です。神父と呼ばなければ、むしろ、どっかのお寺の坊さんかなぁ、と思うかもわかりません。1942年の生まれですから、今年73才です。もともとはフランシスコ会日本管区長までされた方ですから、その後は修道院にはいっても良し、大学で講義しても良しだったはずですが、大阪の釜ヶ崎で伝道することにしたそうですね。それから26年。小さな一間のアパート暮らしと聞きます。

 何故なんでしょうか?

 それは福音の理解は、全人格を掛けなくては理解不能だから、したがって、生活を掛けて福音を理解したいと願ったからだろうと考えます。釜ヶ崎と言ったら、日雇いの町、今では高齢化が進んでいますから、貧しく、しかも、もはやあまり働けなくなった高齢者の町でしょう。

 本田哲郎神父の福音理解の特色は、何と言っても「低みに立つ」ということです。こういうと、「高いところ」にいる人が、その場を離れて「みずから低くなる」感じがありませんか? でもそうではないんですね。今も貧困が連鎖する、いつまでたっても、貧困から抜け出せないのは問題だ、と言われますでしょ。イエスの時代のイスラエル、ガリラヤは、今の日本よりもっと貧しさから抜け出すのは困難だったはずです。イエスもそのような貧しさの中で生まれ、育ちます。ですから、「低みに立つ」とは、生まれながらの貧しさの中に踏みとどまる、と言う方が正確でしょう。本田哲郎神父の主張もそのような感じです。

 本田神父の福音理解の特色は、この「低みに立つ」点です。特に、「回心」と訳されてきた「メタノイア」ですね。本田神父は、この「メタノイア」を「視点の転換」とみます。Metaniiaとは nous判断力のmeta変化だからです。そして、「低みに立って見直す」ことだと言います。徹底してますね。しかも、それを机上で知的にひねくり出すのではなくて、貧しい生活をする中で、実感したことを大事にする中で、イメージしたことに忠実に言葉にしていっている訳ですね。ですから、このメタノイアは「痛みを感じる」ことでもある訳ですね。

 ここまで来ると、本田神父が言う「メタノイア」は、ほとんどセラピストの態度だなぁと感じます。カール・ロジャースが言うセラピストの3つの基本的態度の1つ「共感的理解」は、「痛みを感じる」ことが現実には多いんですね。お母さんに相手にされていない子どもの痛み、すなわち、寂しかったり、悲しかったり、不満に思ったり、さらに嵩じてムカムカとして腹が立ったり、「クソババァ」と言いたいくらいの憎しみが湧いて来たり…。そういう気持ちを共感することは、相手の「痛みを感じる」ことでもある訳ですね。

 じゃぁ、どうして、その「メタノイア」が、「救い」に繋がるのか?

 それはね、「低みに立って見なす」とね、そこから相手とのやり取りが出来るからですよ。相手の子どもはね、「低みに立って見直している」人を前にするとね、裁かれないから安心できるんですね。何故って、裁く人はたいてい「高みに自分が立つ人」だからですよね。ですから、「低みに立って見直している人」を眼の前にしたら、ホッとするから、やり取りが生まれやすくなりますでしょ。「高みに立つ人」を前にして、「裁かれるかも」、「怒られるかも」と思って、緊張や警戒をしてたら、やり取りになりませんもんね。やり取りが出来るから、そこに天にも昇る、圧倒的な悦びが生まれます。

 でも、それだけじゃぁ、ないんですね。低みに立って見直してるとね、相手の子どもと、その子どもの目線で「共に見る」ことが出来るようになるって訳ですね。そこから、意識と良心が、子どもの中に生まれるんですね。なぜならば、意識(consciousness)も良心(conscience)も、「共にcon+見て知るscience」だからですね。

 ですから、子どもの意識と良心を育みたい、と思っているあなた、「メタノイア」、「低みに立って見直す」ことが必要ですよ。教壇や高みに立ってたんじゃぁ、できませんよ。

 

 

 

※ 明日7月5日(日)午前5時~NHK教育テレビの「こころの時代 宗教・人生」で、本田哲郎神父のお話が伺えますよ。

 

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