エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

恵みの源

2015-07-19 12:45:01 | アイデンティティの根源

 

 ルターは、デッカイ建物やら厳かな行事やら、ありがたい教えやらエライ学者やらに頼って、自分を確かにする道を捨てて、自分の中のまします savior セイヴィアー≪ひとりびとりを確かにしてくれる人≫のおかげで自分を確かにする道を、選びました。

 Young Man Luther 『青年ルター』p213の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 これは、良心の次元で言ったら、ルネッサンスの人間中心主義の相棒なんじゃぁないのかなぁ? ルターはいろんな天空のことは、科学に任せて、自分自身は、自分自身の苦しみと信頼について知り得たこと、すなわち、ルターが本気になっていることに、専念しました。ルターは、父親の顔と、天にまします父なる神の顔とを、曇らせていた怒りの陰りを、晴らしたいと願っていましたが、今や、「キリストの命は神の顔です」と、すまわち、「qui est facies patris『(ラテン語で)それ(キリスト)は、父の顔です』」と語りました。Passion「十字架の苦しみ」は、人が神について知り得るすべてです。つまり、人の葛藤は、誠実に向き合えば、自分自身について知り得るすべてになります。ですから、最後の審判は、いつでも、いまここで、自分の良し悪しを判断することになんですね。

 

 

 

 

 素晴らしいですね。ルネッサンスは、建築、文学、思想、芸術などの分野で、人間中心の運動となりました。エリクソンは、ルターが心の中で、自分を確かにする道を見つけたことを、このルネッサンスに擬えて、人間中心主義だと言いましたね。人間の良心を、悪い良心から解放したからですね。

 最後の審判も、ビクビクとして毎日暮らすためにあるものではなくなって、日々の生活の中にある葛藤、苦しみの中に、どんな幸いがあるのかなぁ、と見つけ出す、恵みの源となりました。

 

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人生は、ころんだら、最初に戻るもの

2015-07-19 10:55:18 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エリクソンのライフサイクル理論は、単なる理論であることを超えて、日常生活を最深欲求に結びつける叡智の塊なんだろうと考えます。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p60の第1パラグラフの 下から9行目途中から。

 

 

 

 

 

 confirmed fidelity「困難があっても、信念に堅く忠実であり続けること」がないと、オドオドしたり、公然と反対したりする態度が、自信のない連中や運動のシンパやら、公然と反抗する徒党や運動のシンパとともに、燎原の火の如く広がることになります。このようにして、trust 「困難があっても信頼し続けること」とfidelity 「困難があっても、信念に忠実であり続けること」とは、文字の上でも、ライフサイクルの発達の上でも、互いに関係しています。私ども心理臨床の仕事をしている者が出会う一番病んだ若者たちは、青年期になっても、最初の発達段階に、半分意識的に、半分無意識的に退行します。それは、その一番病んだ若者が、もし希望を完全に失くしていないのであれば、赤ちゃんの頃に身に着けるはずの、根源的な希望を取り戻して、そこから再び前に向かって、飛躍するためなんですね。

 

 

 

 

 

 青年期まできてても、最も重たい心理的課題を抱えている人は、最初に戻って、希望を取り戻そうとすると言いますね。根源的信頼感が、いかに根源的かが、分かりますでしょ。

 青年期でもそうなんですから、私が日ごろ付き合いのある小学生はなおさらですね。小学生の場合は、さらに申し上げれば、軽い心理的課題の子どもでも、最初に戻ったほうが、むしろ、良い場合がほとんどですね。ですから、それが可能な場合は、私は、いつでも、最初からのやり直しを狙います。どれだけ、根源的信頼感が、根源的か、分かるだろうと思います。

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アベシンちゃんは、?の∞乗

2015-07-19 01:41:24 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 
立憲主義は、人権を政府に守らせる根源的仕組み
   個人の自由 = 「違い」を認めること                              ...
 

 

 今日は丸山眞男教授の第4夜です。

 昨日は「日本の思想」(『丸山眞男集』第7巻,p191-244)を取り上げましたね。昨日は取り上げられなかった論点を、今日は取り上げようと考えました。それは、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちの考えと振る舞いに対して、丸山眞男教授が教えて下さる視点が、役に立つと考えるからです。

 アベシンちゃんと悪魔の仲間たちの、あまりにも身勝手な考え方と振る舞いに対して、腹立たしい思いを募らせているのは、私だけではないだろうと思います。

1)国民の大半が反対しているのにもかかわらず、戦争法案を衆院で強行採決したこと。

2)国民の大半が反対しているのにもかかわらず、秘密保護法を強行採決したこと。

3)前回の衆議院選挙で、「原子力に依存しない社会を作ります」と言っておきながら、原発を再稼働させていること。

4)「オリンピックというお祭りだから、堂々のゼネコンを儲けさせる工事をやったって、予算の2倍を掛ける新国立競技場を作っても、許されるだろう」と高をくくっていたこと、そして、批判されれば、戦争法案は通しておいて、新国立競技場の計画は、「白紙に戻す」と言って、「僕ちゃんは、結構『話が分かるでしょ』」と言いたげな様子でいること(これも、権力者のお気に召すまま、恣意的な「温情」ということでしょうね)。

5)しかも、この国策事業の決定を変更するからには、最初の間違った決定をした責任者を明確にし、その責任を取らせるのが、結果責任を問われる政治の役目なのに、厚顔無恥にも、その責任をそれぞれの部署で、相手にせいにして、誰も責任を取らないこと。

6)戦争法案を通せば、莫大な戦費、お金がかかるけれども、東日本大震災関連の予算を縮小されるは、社会福祉・医療など、市民生活の福祉に直結する予算は、削られるは、の現状。人間を生かす予算は削って、人殺しの予算を増やそうとしてること。

7)日本市民に生活を見るとどうですか? 介護する者が介護される者を殺す、親が子どもを、子どもが親を殺す、保育園に行きたいのにいけない子どもと母親が、それぞれ40000人もいる、施設での支援が必要な高齢者とその家族が、それぞれ520000人もいる、…。

 なぜ、こんなに国民を蔑ろにすることを、次から次に、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちはできるのかな?

 昨日は、民主主義は、永久革命だから、常に民主化を日本市民が進めていく必要があることを、皆様と分かち合いましたね。制度やルールは、既製品ではなくて、市民ひとりびとりが、その制度やルールを作った時の、「制度を作る精神」、南原繁先生が好きな言葉で言えば、ガイスト、日常の言葉で言い直せば、初心、最初の思いが、制度やルールを使う時に活かすこと、そして、その初心をもっと生かす制度やルールに作り替えていくことが大事になるんでしたね。

 制度やルールは、既製品(レディー・メイド)ではなくて、日本市民である、私どもが注文するオーダーメイドだってこと。

 今日は、もう1つの視点を考えます。あんな、おバカで、日本の市民を蔑ろにするアベシンちゃんと悪魔の仲間たち。それには、何重にも?が付く。だけど、戦争法案と秘密保護法と新国立競技場の話が出るまで、それほどの?が、日本市民の中にあったかは、はなはだ?がつくだろうと思います。

 狂気(凶器)のアベシンちゃんと悪魔の仲間たちじゃぁなくて、善良で謙虚な為政者でさえも、実は、大きな?があってしかるべきだ、と言う視点です。丸山眞男教授は、それを、次のように述べておられます。

「『比較的少数の人間におそろしく巨大な人間が服従している』という、昔からの政治的社会の現実を『1個の驚くべき現象』と見る感覚(H.J. Laski, The Grammar of Politics, p.21)は、右のような緊張の意識に支えられて市民社会の伝統となり、権力の正統性の根源が不断に問われる源泉をなしたのである」(p.226)

 ここで、「右のような緊張の意識」と呼ばれていることは、国家権力が作り出す制度はフィクションであり、市民生活の現実・内実とは区別されること、そのフィクションである制度と市民生活の内実とはギャップがあり、緊張感がある、ということです。ちょっと難しい。要するに、権力は、市民が作り出した作り物、それは、市民自らが、自分の人間らしい暮らしを実現させるために作ったもの、その権力がその目的を果たしている間は、従うけれども、そうでない場合、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちのようなことをすれば、従いませんよ、という緊張感がある、という訳ですね。

 確かに、10人くらいの人たち(内閣のメンバー)に120000000人もの日本に住む人々が従っていることは、妙ですね。今の政府が、市民の人間らしい暮らしを守ってくれるのかどうかを、いつも問うことが大事になる訳ですね。ですから、政府があることを、当たり前だ、などと思っていたんじゃいけない訳ですね。ましてや、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちの悪行の数々を目の当りにしたら、彼らが権力を握っている正当性はもうすでにないのですから、一刻も早く、権力の座から追い出すことが必要になりますよね。

 

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