エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

子どもは本音を見抜きまっせ

2015-07-06 08:33:56 | アイデンティティの根源

 

 私どもは、自分のことを知っているようで知らない。ましてや、本当に自分が願っていることは何なのか? は、知ってるようで、知らない場合が圧倒的に多い。不思議な生き物ですね。

 ですから、哲学の始まりは、「自分のことを知りなさい」と言うソクラテスの命題から出発しているのも、うなづけますよね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p210の第2パラグラフの4行目途中から。

 

 

 

 

 

 これは心理学的な話です、精神分析の方法は、完全に誠実であろう、などとは思わなければ、誰かが本気のなっていることを、一時の間に明らかにすることができます。しかし、ことの核心は単純なことなんですね。本当に大事なことにおいては、人って、特に、子どもって、他の人が本音で思っていることを、ほとんど無意識的に恐ろしいほどハッキリと捉えることができますし、遅かれ早かれ、本当に大事にされたことに対しては、心からのありがとうを返してくれますし、無意識裡に憎しみをぶつけ続けられれば、仕返しの狙い撃ちに遭いますね。

 

 

 

 

 子どもは本音を見抜きまっせ。フロムが言う通りに、自分を肯定してくれるのか、利用するだけなのかに非常に敏感でっせ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立場の弱い人の味方になれるかどうかは、自分のことで精いっぱいを卒業したかどうかで決まります

2015-07-06 07:14:56 | エリクソンの発達臨床心理

 

 いまは、次世代を育てる力が、幅広く増えている、と言うのはうれしいニュースでしたね。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、第3章p55から。

 

 

 

 

 

               

       心理社会的発達の主な舞台

 

         用いる言葉について 表についても

 

 生涯にわたる心理社会的な舞台の流れをもう一度お話することは、ジョアン・エリクソン(訳注:エリクソンの奥様)と私が、たとえば、hope 希望だとか、fidelity 忠誠心だとか、care 低みに立たされている者の味方になる、だとかと言った胡散臭い言葉を含む言葉を、発達の舞台にくっつけたことに、責任を取りたい、ということです。こういった言葉は、対人関係の中での心理的な強さの1つなんですね。その対人関係の中での心理的な強さは、人生の3つの危機場面で、人と響き合う傾向に傾くのか、それとも、人とガチャガチャぶつかり合う傾向に傾くのか、の戦いの中から生まれるものなんですね。hope 希望は、赤ちゃんの頃に、根源的に信頼できるのか、それとも、根源的に信頼しきれないのか、のぶつかり合いの中から生まれるものですし、忠誠心は、青年期に、identity 自分を確かにさせることができるのか、それとも、自分を確かにできずに右往左往することになるのか の戦いの中から生まれますし、care 低みに立たされている者の味方になれることは、大人になってから、次の世代を育てることができるのか、それとも、自分のことで精いっぱいになっちゃうのか の戦いの中から生まれます。

 

 

 

 

 

 エリクソンは、実に人間のことをよく知っていますよね。自分をよく観察し、子どもをよく観察していた何よりの証拠ですね。特に、立場の弱い人の味方になれるかどうかは、自分のことで精いっぱいを卒業しているのかどうか、で決まる、というのは、いまここの日本の人たちにも、良く当てはまることですよね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子どもとメタノイア 温もりと明るさの道

2015-07-06 03:00:24 | エリクソンの発達臨床心理

 
臘八接心(ろうはつせっしん)
  群れる心理 : ウソと村八分が生まれる時  世界に対する見方が、1)リアルな感じ2)証明可能な事実...
 

 本田哲郎神父の番組は良かったですね。カトリックと言えば、いろんな方に学んでいます。マザーテレサ、ヨハネ23世、雨宮慧先生、山浦玄嗣さん、そして、本田哲郎神父です。前のお2人は、すでに神の御許の帰られて、後の3人は、この世に健在です。

 「マルコによる福音書」の第10章13節~16節に子どもの話が出てきます。子どもが母親に連れられて来て、イエスに触ろうとしたんですね。何か「病気」だったかのかもしれません。ですから、触ってもらって、文字通り「手当」をしてもらいたかったのかもわかりません。騒いでいると、イエスの弟子たちが、叱ったと言うんですね。何と叱ったかは、「マルコ」にも「マタイ」にも「ルカ」にも記録がありません。「騒いでちゃあ、ダメでしょ」などと言ったのかもわかりません。いまでも、学校の先生が言いそうなことです。そしたら、イエスがその叱った弟子を叱ったって言うんですね。その部分を本田哲郎神父の『小さくされた人々のための福音 ―四福音書および使徒言行録』p.215 から引用しておきましょうね。

「幼子たちを、わたしのところに来させなさい。妨げるな。神の国は、このような人たちのものだからだ。はっきり言っておく。幼子のように神の国を迎え入れる人でなければ、神の国には入れない」

 神の国は、スイスや韓国のような領土ではなくて、「あなた方の只中にある」(「ルカによる福音書」第17章第21節)関係でしたね。子どもって、やり取りの塊ですからね。こちらがそのつもりでいれば、必ず子どもとはやり取りができますもんね。子どもって、人に教えようとしないでしょ。何かを見つけても、「〇〇があったよ」と言う時も、”教える” という感じじゃぁなくて、”分かち合おう” という感じでしょ。それは本田哲郎神父の言葉を借りれば、子どもが「立場が弱い者」「低みに立たされている者」だからですね。

 やり取りをしてますと、不思議に向きが生まれてきますしね。それがオリエンテーション。光の道です。ですから、やり取りをしてますとね、必ず、温もりと明るさを感じますもんね。

 

昨日の「光の道」

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする