丸山眞男教授の文書に「日本人の政治意識」があります(『丸山眞男集』第三巻、p.323 -329)。もともとは、1948年、昭和23年に、岩波書店の従業員組合のための講和だったそうですが、この話は、多分、1時間ほどの話ではなかったかと想像します。短いものです。でもね、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちの狂気を考える時に、非常に参考になると考えまして、今日のブログで一緒に考えたいと思った訳ですね。
まず、丸山眞男教授は、「政治意識」という言葉を定義するところから始めます。さすがは切れ者の学者ですね。でも、この「政治意識」とは、体系的なものではないとも言うんですね。迫真の政治学を作り上げるだけの、本物の学者だからでしょう(ついでながら、最近は「偽物の学者」が多すぎます。論文をねつ造する輩だけが「偽物」なんじゃない点に注意してね。心理学でも、弱い立場の人の心理よりも、自分の保身のために動く…、ジャーナリズムをやってるはずなのに、権力批判を怖れる…、精神医学なのに、誠実に対話するよりも、煙に巻くようなことを言う… これやってると、きりがないので後は割愛です)。話を戻しますと、丸山眞男教授は、「政治意識」を「無意識の世界で我々を規定している政治的なものの考え方」だと言うんですね。まるで心理学者でしょ。
日本人の政治意識の特色として、丸山眞男教授が最初に挙げるは、権力が客観的な価値(真善美)と規範(正義、自由、平等など)を独占することです。これは、偶像崇拝の始まりです。つまり、権力が「神」になるんですね。丸山眞男教授は、これを「権威信仰」と呼びます。権力のことを「おかみ(お上)」=「神」と呼ぶのも、この「権威信仰」があるからだと考えて、間違いないでしょう。しかし、本来、権力は、人が人を支配することであり、それは、真善美や正義、自由、平等といった、客観的な価値や規範を実現するための手段に過ぎないものなんですね。ところが、権力がそう言った価値と規範を独占すると、その権力に対して、市民が、ジャーナリズムが「NO」を言いにくくなるんですね。神様には、従うしかないでしょ。アベシンちゃんが「私は総理大臣だから、正しい」などと、寝ぼけたことをホザケルのも、この「権威信仰」があるからですね。私どもは、いつでも、権力と、真善美や規範を分けて考えて、権力が真善美と規範を実現する手段とならずに、自己目的的に、勝手な振る舞いをするときには、私ども自身が客観的価値と規範を実現するために、権力を批判し、権力の交代を実現しなくてはなりません。
2番目に、丸山眞男教授が挙げるのは、その「権威主義」は、ソフトタッチな支配だ、ということです。むき出しで露骨な、暴力的な支配をすることが少ないという訳です。権力は、「景気回復」、「アベノミクス」などと言って、恩恵をもたらすかのようなことを言って、人心を何となく懐柔します。これを丸山眞男教授は「雰囲気的な統一」と呼びます。しかし、その恩恵は、法や規範に基づくものではなく、権力者のお気に召すまま、恣意に委ねられたものにすぎません。つまり、当てになんないんですね。「アベノミクス」が実は「アホノミクス」でしかない、という訳です。かたや、権力が露骨に残虐性を発揮するのは、その「雰囲気的な統一」に異を唱える人や集団に対してです。辺野古移設に反対する市民に対して、海保が暴力をふるって平気なのは、こんなところがあるからのようですね。
丸山眞男教授は、民主主義になっても、この「権威信仰」がある、って言うんですね。と同時に、「権威信仰」の「民主主義」は極めて「危なっかしいデモクラシー」だとも言います。今回のアベシンちゃんと悪魔の仲間たちの狂気を見てたら、丸山眞男教授の、67年前のご指摘が、そのまんまでしょ。
丸山眞男教授が処方箋を一つ、下すっているので、それを最後にご紹介しましょうね。
「権力に対して、“Why”という問いをつづけることによって、はじめてデモクラシーはしっかりと根を下ろすようになるのである。」