エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

人頼みで、組織頼みで、自分を確かにしようなどというやり方を超えて

2015-07-16 07:48:35 | アイデンティティの根源

 

 ルターは、大人になっても、父親の言いなりになってたんですね。いつまでも「子ども」でした。それはもちろん、ルターにとって、苦しいことでした。ところが、その苦しいところに、キラキラした新しい意味があることが分かったんですね。涙が出るほど嬉しかったでしょうね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p212の第2パラグラフの8行目途中から。

 

 

 

 

 

ルターは最初のミサの時に、祭壇に向かって、すなわち、天にまします父に向かって、それと同時に、怒っている地上の父に面するのを待って、マルティンは、キリストが仲立ちになることに関する聖句を「見落とし」たのでした。しかし、いまや、自分の中にキリストがましますことに気付いたおかげで、不安神経症になるような、妥協で、とりあえず人頼みで自分を確かにすることを遥かに超えて、自分の心の位置を確かにしたのでした。ルターが見つけたのは、祈りの人が自分を確かにする核心ですし、(そのように祈りの人としての核心を見つけることで)大事な一歩を踏み出すことによって、クリスチャンの価値を高めたんでした。

 

 

 

 

 

 素晴らしいですね。今までの伝統や、ありがたい教えや、立派な行事と舞台よりも、自分の内的な経験を大事にしたんですね。ルターは内省すること、自分をジックリと、味わい深く、明視することを諦めなかったんですね。それは、ルターばかりではなく、私どもにも開けている、普遍的な、しかも、個人的な経験です。

 そして、それは、借り物でも、偽物でも、人任せ、組織依存でもない、確かな自分をキッパリ持つことになんですね。

 ありがたいでしょ。素晴らしいでしょ。

 

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倫理的な私は、葛藤から生まれる

2015-07-16 06:51:50 | エリクソンの発達臨床心理

 

 発達は、親や会社や世間に都合のいい「偽りの自分」が育つことではありません。「本当の私」、「ありのままの私」が育つことです。ですから、いつでも何度でも、その「本当の私」との対話、内省が大事になりますよね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p59の第4パラグラフから。

 

 

 

 

 

 このハシゴのライフサイクルの性質が反映することを期待されるのは、今まで示した言葉すべてが、言葉として一貫している、ってことです。そして、実際に、hope「困難があっても、希望を失わないこと」と fidelity「困難があっても、信念に忠実であり続けること」, それから、care「低みに立たされている者を大事にすること」と言った言葉は、言葉そのものに内的な論理がありますが、その内的論理は、発達上の意味を確かに肯定してくれているように思います。hope「困難があっても、希望を失わないこと」は、「期待している願い」ですから、ある種の期待を呼び覚ます経験をする、ハッキリとはしないけれども本能に備わった、人を駆り立てるものと一致する言葉です。しかも、最初の根源的な人間力と自我が発達する根っこが、最初の発達上のアンチテーゼ、すなわち、根源的信頼 と 根源的不信 がぶつかり合う葛藤の結果から生じることとも一致します。

 

 

 

 

 

 このように、エリクソンが発達に当てはめた言葉は、生涯に渡って一貫しているだけではなくて、発達上の危機、アンチテーゼがぶつかり合う葛藤から生じる結果としても意味があり、それが1つの倫理的な人間力ともなる、という、まあ、実に多義的で贅沢な意味を持つと同時に、具体的に人間像も示しうるものなんですね。実にうまくできていますよね。

 それはね、エリクソンが、人間の発達、自分自身の発達を、よくよく見て、繰り返し考え続けた成果だと言えるでしょうね。

 倫理的な私は、そのアンチテーゼのぶつかり合い、葛藤から生じる、としたのも、人間をよく知ってますでしょう。べつに、道徳を身につけるために、道徳の時間で勉強したんじゃぁ、ないんですね。葛藤から逃げないで、葛藤を自分では引き受ける中から、倫理的な私は、自ずから生まれるものなんですね。

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日本人の政治意識と、権威信仰   丸山眞男教授の処方箋

2015-07-16 03:05:01 | エリクソンの発達臨床心理

 丸山眞男教授の文書に「日本人の政治意識」があります(『丸山眞男集』第三巻、p.323 -329)。もともとは、1948年、昭和23年に、岩波書店の従業員組合のための講和だったそうですが、この話は、多分、1時間ほどの話ではなかったかと想像します。短いものです。でもね、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちの狂気を考える時に、非常に参考になると考えまして、今日のブログで一緒に考えたいと思った訳ですね。

 まず、丸山眞男教授は、「政治意識」という言葉を定義するところから始めます。さすがは切れ者の学者ですね。でも、この「政治意識」とは、体系的なものではないとも言うんですね。迫真の政治学を作り上げるだけの、本物の学者だからでしょう(ついでながら、最近は「偽物の学者」が多すぎます。論文をねつ造する輩だけが「偽物」なんじゃない点に注意してね。心理学でも、弱い立場の人の心理よりも、自分の保身のために動く…、ジャーナリズムをやってるはずなのに、権力批判を怖れる…、精神医学なのに、誠実に対話するよりも、煙に巻くようなことを言う… これやってると、きりがないので後は割愛です)。話を戻しますと、丸山眞男教授は、「政治意識」を「無意識の世界で我々を規定している政治的なものの考え方」だと言うんですね。まるで心理学者でしょ。

 日本人の政治意識の特色として、丸山眞男教授が最初に挙げるは、権力が客観的な価値(真善美)と規範(正義、自由、平等など)を独占することです。これは、偶像崇拝の始まりです。つまり、権力が「神」になるんですね。丸山眞男教授は、これを「権威信仰」と呼びます。権力のことを「おかみ(お上)」=「神」と呼ぶのも、この「権威信仰」があるからだと考えて、間違いないでしょう。しかし、本来、権力は、人が人を支配することであり、それは、真善美や正義、自由、平等といった、客観的な価値や規範を実現するための手段に過ぎないものなんですね。ところが、権力がそう言った価値と規範を独占すると、その権力に対して、市民が、ジャーナリズムが「NO」を言いにくくなるんですね。神様には、従うしかないでしょ。アベシンちゃんが「私は総理大臣だから、正しい」などと、寝ぼけたことをホザケルのも、この「権威信仰」があるからですね。私どもは、いつでも、権力と、真善美や規範を分けて考えて、権力が真善美と規範を実現する手段とならずに、自己目的的に、勝手な振る舞いをするときには、私ども自身が客観的価値と規範を実現するために、権力を批判し、権力の交代を実現しなくてはなりません。

 2番目に、丸山眞男教授が挙げるのは、その「権威主義」は、ソフトタッチな支配だ、ということです。むき出しで露骨な、暴力的な支配をすることが少ないという訳です。権力は、「景気回復」、「アベノミクス」などと言って、恩恵をもたらすかのようなことを言って、人心を何となく懐柔します。これを丸山眞男教授は「雰囲気的な統一」と呼びます。しかし、その恩恵は、法や規範に基づくものではなく、権力者のお気に召すまま、恣意に委ねられたものにすぎません。つまり、当てになんないんですね。「アベノミクス」が実は「アホノミクス」でしかない、という訳です。かたや、権力が露骨に残虐性を発揮するのは、その「雰囲気的な統一」に異を唱える人や集団に対してです。辺野古移設に反対する市民に対して、海保が暴力をふるって平気なのは、こんなところがあるからのようですね。

 丸山眞男教授は、民主主義になっても、この「権威信仰」がある、って言うんですね。と同時に、「権威信仰」の「民主主義」は極めて「危なっかしいデモクラシー」だとも言います。今回のアベシンちゃんと悪魔の仲間たちの狂気を見てたら、丸山眞男教授の、67年前のご指摘が、そのまんまでしょ。

 丸山眞男教授が処方箋を一つ、下すっているので、それを最後にご紹介しましょうね。

「権力に対して、“Why”という問いをつづけることによって、はじめてデモクラシーはしっかりと根を下ろすようになるのである。」

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