エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#新たなスピリットに生きる #忖度せずに関わりを始める #新しい私

2015-07-22 07:54:36 | アイデンティティの根源

 

 ルターの気付きによって、神様は私どもの心の中で語りかける存在になりましたね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p214の4行目途中から。

 

 

 

 

 

人生最後に出合わなければならない脅しになるんじゃなくて、神は、私どもの中で、いつだって、何かを始める存在になりました。ですから、神の子は常に生まれ変わりなんですね。すなわち、「ita et nos semper oportet nasci, novari, generari ラテン語で『ですから、私どもは生まれ変わり、元気を取り戻し、新たなスピリットに生かされるものとなる』」んですね。「出来た」ってことは、いつだって、始めることです。「Proficere est nihil aliud nisi semper incipere ラテン語で『“出来た”というは、始めること以外の何物ではありません』」ということですよ。

 

 

 

 

 

 「もう人生は終わった」と思う時に出合う人って、どれくらいいるんでしょうね。全ての人がそういう体験をする訳じゃぁ、ない。でもね、そういう体験をした人が、まさかその「もう人生は終わった」と言うところに、新たないのちの始まりがあることに気付いたとしたら…? どんな気持ちがすると想像しますでしょうか? それは文字通り「天にも昇る感動、悦び」じゃぁないかしらね。

 ルターは、それを体験したことに間違いはありません。ですから、“出来た”ってことは、いつでも,忖度せずに関わりを始めること。それも単に今までの繰り返しを始めることじゃぁ、ないんですね。別次元の命,聖書の神様同様に,心から優しい関わりを忖度せずに始めることになるんですからね。それは、新しいスピリットに活かされることですよね。

 それは、十字架上のイエスの最後の言葉、テテレスタイが“出来た”という言葉であったこと、に始まるものなんですね。

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人生千秋楽の味わい

2015-07-22 06:51:17 | エリクソンの発達臨床心理

 

 人生にライフサイクル理論の表は、織物 テクスタイル textile。どの経糸も、すべての横糸に繋がっている訳ですね。それが人生の巡り合わせの妙と言えるでしょう。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p61の後半から。

 

 

 

 

 

 

             人生千秋楽の舞台 

 高齢者なってから支配的になるアンチテーゼであると同時に、人生の千秋楽の危機の主題を、私どもは、「integrity 『試練に何度も出くわしたけれども、“人生上手く出来てるなぁ” という感じ』になれるのか、それとも、despair 『良いこともあったけれども、“人生に何の望みもありゃしない”という感じ』になっちゃうのかの危機」と名付けました。ここで耳触りの悪い方は、なるほどという感じに見えるかもしれませんね。一番上の行は、私どもに与えられた人生行路の、その終わりを告げていること(訳注:つまり、お先真っ暗)を考えれば、そうでしょ。ところが、integrity 「試練に何度も出くわしたけれども、“人生上手く出来てるなぁ” という感じ」には、固有の要求を通す感じがありますね。それは、特定の強さ、最後のアンチテーゼから熟成する強さを前提とするものだけれども、つまりそれは、wisdom 「闇の中に光を見つけ出す叡智」でしょ。

 

 

 

 

 私どもも、integrity 「試練に何度も出くわしたけれども、“人生上手く出来てるなぁ” という感じ」を持ちたいものですね。しかし、そのためには、wisdom 「闇の中に光を見つけ出す叡智」が、必要なのも、分かりますもんね。

 

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コミュニケーション 再び

2015-07-22 02:33:34 | エリクソンの発達臨床心理

 

 丸山眞男教授の第6夜は、週末まで延期することといたします。その際には、「歴史意識の古層」を取り上げる予定です。これも、私の感触では、非常に心理学的だと考えています。この「意識の古層」とは、私ども日本人の「無意識」のことであると考えられるからです。

 しばしお待ちくださいね。

 今日は、改めて、コミュニケーションのことを考えたいと思います。このブログでは、一度取り上げたことがありました。それは 「食事を共にすること」が≪私≫とコミュニケーションのはじめです。

 先日、コラージュをしていて、1人の子どもは、2人の子どもが「一緒に食事をする」物語を描いているのに、別の子どもが、「バラバラで食事をする」物語を描いて、非常に対照的だったんですね。子どもの状況としては、どちらも心配なケースなんですが、今現在、と言うところだけをくくると、「一緒に食事をする」物語を描いた子どもよりも、「バラバラで食事をする」物語を描いた子どもの方が、その心理状態は、より深刻な印象を持ちましたね。

 「食事を共にすること」が≪私≫とコミュニケーションのはじめ でも、記しましたように、コミュニケーションとは、語源的には、「愛餐を共にする」という意味ですから、もともとキリスト教的な意味合いが濃厚にあります。すなわち、「愛餐」=「聖餐」とも言えますから、カトリックも、多くのプロテスタントもしているような、パンと葡萄酒を共にすることですね。そのパンの葡萄酒を共に食べる(あるいは、飲む)ことがコミュニケーション、「気持ちを伝えあう」ということの始まりでした。日本語でも「同じ釜の飯を喰う」という言葉があるように、食事を共にすることは、人と人とが仲良くなり、分かり合うためには、なくてはならないことですよね。人と仲良くなりたいと思ったら、食事に誘いますでしょ。

 でも、コミュニケーション、「気持を伝え合う」ことは、あるいは、一歩進んで「気持ちを分かり合う」ことは、「共に食事をする」だけでは足りない感じです。それは、「共に仰ぎ見る」、あるいは、「共に忠実である」という感じがなくてはなりませんね。「愛餐」とは、クリスチャン同士が、一緒に食事をすることですが、それは、キリストの父なる神を「共に信頼する」「共に仰ぎ見る」ということがなくてはなりませんよね。それをもっと簡単に言うと、「共に見る」ということでしょう。

 ところで、この「共に見る」と言うのには、2つ意味がありまして、1つは、「同じ方向を見る」という意味です。こちらは一般的に、皆さんもそれと分かるものだと思います。もう1つは、「フェイス・トゥー・フェイス」、「顔と顔を見合わせる」、あるいは、「見つめ合う」、という意味がありますよね。赤ちゃんとそのお母さんの関係を考えたら、この「顔と顔を見合わせる」方が、時間的にも、意味の上でも、根源的だと言えるでしょう。

 この「共に見る」ことが、コミュニケーションの前提ですから、それは、昨日のE研の話と同様、「自由で対等な話し合い」ということですね。それは、もともとは、キリストの父なる神を「共の見る」者同士、「対等」で、「上下の区別はない」し、その神様から「自由」を戴いている、という考え方が根底にあります。日本の集団の中で、本来の意味でのコミュニケーションが難しいのも、この辺と関係しますでしょうね。日本の集団の中では、対等の関係が少ないのは、≪超越≫を知らないからでして、常に、とまでは言えないかもしれませんが、ほぼ常に、「どっちが上か?」を争う「上下関係」になりやすいでしょ。これは、加藤周一さんが常々指摘している点でしたね。

 でも「≪超越≫はよく分かんない」、という人でも、≪約束≫なら分かりますよね。この≪約束≫が、≪超越≫の代わりをする場合がありますね。本当の≪約束≫であれば、その≪約束≫をした者は、その≪約束≫に対して≪共に忠実である≫はずですからね。

 このように考えてきますとね。本物のコミュニケーションをするためには、それをしたいと願う人たちは、≪約束≫を誠実に守り合う関係でなくてはならない、ということになりますね。

 

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