「人類を上下2つに分けるウソ」に傾く心の構え
自由と束縛の別れ道 :「人類を2つに分けるウソ」の取り扱い次第 第二章第1節「やり取りのいろんな...
丸山眞男教授の第5夜。
丸山眞男教授の恩師と言えば、南原繁教授です。南原先生は、敗戦後最初の東大総長にして、内村鑑三、新渡戸稲造の弟子でしたから、丸山眞男教授は、内村、新渡戸の孫弟子だ、と言えるのかもしれませんね。
丸山眞男教授の1975年の文書に、その南原繁教授に関するものがあります。「南原先生を師として」(『丸山眞男集』第十巻,p.171-196)がそれです。その中に、丸山眞男教授が、思いがけず、南原繁教授の研究室に残ることになった経緯が出てきます。
丸山眞男教授が第一高等学校3年(1933年)の時に、警察に検挙されるという事件がありまして、その後、特高(秘密思想警察)に執拗に付け回されていたらしい。その4年後、1937年に、丸山眞男教授は、研究室に助手として残る時に、そのことを正直に南原先生に申告し、「助手になっても万一にも法学部に迷惑をかけることがあったらすぐに辞表を書く」と言う趣旨のことを、言ったらしい。すると、南原先生は「そんな程度のことは問題ではない」と気にした様子もあまりない感じだったらしい。当時は、東大法学部・経済学部が権力から弾圧を受けていた頃なんですね。矢内原忠雄先生が、事実上経済学部教授を更迭されたのが、1937年ですし、その翌年1938年には、大内兵衛教授や有沢広巳教授等が一斉検挙される、という事件が続いたいた時代です。南原先生がいかに寛容だったかを丸山眞男教授は伝えてくれています。
丸山眞男教授が高校3年の時、東大仏教青年会で、長谷川如是閑の講演会がありました。長谷川如是閑は、ジャーナリストでしたし、新聞記者でした、丸山眞男教授の父親の幹夫さんの友人でもありました。丸山眞男教授は、顔見知りでしたであろう、長谷川如是閑の話を聴くつもりで行った講演会が、始まるや否や、特高が「公演中止」と言って中止となったらしい。丸山眞男教授は、「おい、一高」と呼び留められて、本富士警察署に連れて行かれたらしい。その体験を、丸山眞男教授は、先の文書で「内面の思想と外的な行動とを区別しないで、精神の内側に無限に踏み込んで行く日本国家権力の性格、というものを体験として知ったことは、結果論かもしれませんが、後の私の学問的な関心を暗々裡に規定したように思います」(p.179)と書いておいでです。
この「精神の内側に無限に踏み込んで行く」ということは、別の言葉で言えば、「抑圧移譲」です。簡単に言ったら、「イジメ」と「押し付け」です。アベシンちゃんと悪魔の仲間たちが、市民の声に聴く耳も、市民の声を理解する意思も持っていないくせに、やれ「理解を得られるように努力してまいりたい」だの、「丁寧に説明してまいりたい」だのとホザクノのは、丸山眞男教授の教えに従えば、この「イジメ」と「押し付け」である、と見なして良いことですね。だって、辺野古もそうでしょ。戦争法案もそうでしょ。秘密保護法もそうだったでしょ。新国立競技場だって、北京やロンドン並みの500億円以内に果たしてするかどうか、甚だ怪しい(当初予算からして、その倍以上の130000000000でしたからね)。これだけ、40000人以上の子どもと母親が保育所に入れずに困っているのに、平気の平左、520000人以上の高齢者とその家族が、高齢者施設に入れず困っているのに、平気の平左、毎日100人くらいの人が自殺を試みているのに、平気の平左、一票の格差が違憲だと裁判所から言われていても、国会が基本的人権を踏みにじっている現状にも、平気の平左…(キリがないくらいなので、後は割愛)。
私どもは、このような「いじめ」と「押し付け」を繰り返す、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちを、即座に権力の座から引きずり下ろさなくてはならないでしよう。でもそれだけじゃぁ、全然足りませんね。私どもが、「人を大事にすること」(人間らしい暮らしを大事にすること)と「弱い立場の人の声、弱い立場の人の話を、謙虚に聴くこと」を大事にする政治を、私どもの手で作り出すことが、いまここからの課題です。