ことばやフリよりも、イメージ、その感じと気持ちが何にも増して大事なんですね。
Young Man Luther 『青年ルター』p209の第2パラグラフの14行目途中から。大事なところがまだまだ続きます。
(悪い)良心が専制君主のような声で非難するのを心の耳にした後で、自我が落ち着きを取り戻した時に、はじめて私どもが信じるようになったことに本気になれますし、私どものいろんな気持ちも良い良心の気持ち、すなわち、信頼、確信、自信、義憤と言ったものになれるというのはね、私どもの自我や良心の相対的な性質なんですね。こんな感じの主体的な状態すべては、自分を確かにさせるという強い感じを抱くために役立つものですが、人様が自分を確かにさせることを励ますことにも、役立つものなんですね。
ここは、セラピストやカウンセラーの必須条件をハッキリと示したところですね。教員や医師や看護師や保育士、施設職員など、あらゆるヒューマンサービスで、ユーザーのためになる、真実に良い支援が出来るための必須条件でもある所なんですね。良いヒューマン・サービスの必須条件とは、技術や資格とは関係ありません。心の姿勢、心構えが肝腎です。でもね、単なる心構えでもありません。チョットややこしい!
端的に言って、「良い良心」を、訓練と内省によって、意識的に身に着けていくことが何よりも大事なんですね。例外的、温もりと慈愛に満ちた母親に育てられたり、洞察力に富み、感性が豊かな保育士や教員やセラピストに恵まれた場合は、育ちの中で「良い良心」を育めます。
しかしながら、その他大多数の人は、もともとが、自分では気付いてないのですが、「悪い良心」なんですね。特に、ヒューマン・サービスに就こうとする人は、無意識裡に「悪い良心」の持ち主である人が、一般人よりも、格段に高くなります。それは別にお話しますね。。
「良い良心」とは、寛容で、心に遊びとゆとりのある人のことです。他の人が「ダメッ」って言いそうな場合にも、「いいよ」のサインを送り続けることができる人ですね。それは、根源的信頼感がそれだけ豊かにされているものだからです
面白いでしょ。