エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

天候や社会情勢によって、人は鬱になりやすい

2015-07-31 07:42:07 | アイデンティティの根源

 

 憂鬱に対して、ラテン人とゲルマン人では、その見方が正反対になるのは、生まれ育った場の気候も影響するんですかね?

 Young Man Luther 『青年ルター』p215の第2パラグラフの9行目途中から。

 

 

 

 

 

これ(憂鬱に対する態度が、ラテン人とゲルマン人とで正反対なこと)が事実ならば、気候がこれと関係するのかもしれませんね。太陽が、北欧の冬に、2度と姿を現さないのじゃぁないのかな?と思うくらい、ハッキリと沈んでしまう程、いつまでも続く闇と、運命を左右する程の寒さが、それだけ長く続きますから、元に戻らないんじゃぁないのかな? という感じになっちゃったり、そんなダメかもしれないことに対して、とにもかくにも、全面的に合わせなきゃ、ということにもなっちゃう。ルターが、定期的に繰り返し鬱になったことから、ルターは絶望も病も「しょうがない」と思ったり、死を差し迫った危機だと思ったりしたのと、同じように、ルターが哀愁に満ちて、哲学的に一番賛成できない考え(個人の運命は、あらかじめ決まっちゃってて、個人の努力では変えられない、という考え)によって、あの、どん底の冷たい岩のような気分やら、あの背景をなした全くの闇やらを、表現したのかもしれませんね。それはそれは、北国育ちの人々にとっては、春が来る条件ともなります。

 

 

 

 

 

 でも、ここにあるのは、本当のことなんですね。鬱でも、北国特有のものがありますからね。冬が雪雲のドンヨリした日が続きますとね、確かに鬱になりやすい。お天気からでも人間は、こんなに影響されんですから、日々の生活状況からは、もっと影響される方が普通ですね。日本でこんなに鬱や自殺が多いのは、日本の社会が心貧しい社会で、しかも、「個人の力では変えられない」と思い込む人が多いことと、直結した問題です。

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≪究極的な見通し≫が、人生を左右するのにね

2015-07-31 07:20:45 | エリクソンの発達臨床心理

 

 高齢者が、「ひどい目にもあったけど、人生は上手く出来てるね」と感じるのか? それとも、「良いこともあったけど、人生に何の望みもありゃしない」と感じるのか? という危機にある時、今まで身に着けてきた人間力は、新たな価値を帯びると言いますね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p64の 10行目から。

 

 

 

 

 

要するに、自我が、よりスムースに働いても、自覚的な≪私≫をまとめ切ることなど、できないんですね。社会的な絆があってもね、究極的な見通しなしで済ませられるものではありませんよ。究極を見通すことは、歴史的には、宗教的な価値、あるいは、政治的な価値によって、イメージされてきたものですね。

 

 

 

 

 

 ≪究極≫は、日本人には、ほとんどなじみのないものなんですね。非常に大事なことなんですが、それを意識することは、日本人はあまりないのが残念です。

 究極と言うのは ultimate は、ラテン語の「ultimatus アルティマトゥス」 に由来し、その意味は「一番遠い」、「最後の」という意味です。ですから、ultimateも、「最後の」、「根本的な」、「最高の」などという意味があります。これは、時間、歴史をどうとらえるのか、ということと結びついた ものの考え方なんですね。

 ユダヤキリスト教では、歴史は神が作った「天地創造」のはじめと、「終末」がありますから、その「終末」をどう見るのか?ということが、≪究極の見通し≫になります。ところが、日本は、歴史は、「天地創造」の始めもなければ、「終末」の終わりもなく、歴史はあくまで、一本の無限の線みたいなものです。ですから、≪究極の見通し≫がありません。

 ですから、過去の教訓、規範から、≪いまここ≫を点検したり、≪究極的な見通し≫やヴィジョンから、≪いまここ≫を意味づける力が、一般に日本人は、非常に弱いんですね。

 詳しくは、加藤周一さんの『日本文化における時間と空間』(岩波書店)をご参照下さいね。

 

 

 

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裸の王様には、本当という一撃を!

2015-07-31 02:54:10 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
≪いまここ≫を生きる現代の礼拝
 治療的儀式化=新しい儀式化→新たな物の見方・価値の創造2013-07-30 03:06:57 |&n...
 

 「裸の王様」として有名なアンデルセン童話は、本当のタイトルは「皇帝の新しい着物」と言います。意外に知られていないかもしれませんね。岩波文庫の赤740-1『完訳 アンデルセン童話集(一)』p.157-165にあります。

 ストーリーは有名ですし、その結末も有名ですから、ここで再話しなくてもいいかもしれませんね。そこで、この寓話の意味を要点だけ、メモリアル的に記しておこうと思います。心理学的メモリアルです。

 この王様は、「大変着物がお好きな皇帝」と言われます。私は、ファッションにはあまり時間とお金を掛けない主義(貧乏だからだけかもしれません)。でも、ファッションには、ある哲学を感じる場合が少なくないです。むしろ、ある哲学を衣装にしていると言えるのかもしれませんね。でも、この「大変着物がお好きな皇帝」は、いかさま師にやられます。いかさま師は、「言ってること」と「やってること」が違う人ですね。言葉を換えますと、「表側」と「内側」が違う。「表側」の着物は本来、その「内側」と一致する時に、一番輝くと思うのですが、いかさま師にやられる皇帝は、この二つが一致していなかったのじゃぁないかしらね。いかさま師と同じように、「言ってること」と「やってること」が別だった、「表側」と「内側」が別だった。しかも、この皇帝はそのことも分からなかったんだと思います。だからこそ、いかさま師にやられた。いかさま師が言ったウソは、ここで改めて申しません。そのウソを真に受けるほど「表側」と「内側」の一致、ということに、この皇帝は意識が向いておいで出なかった! ですから、見えるはずのない着物が「見えない」、と思っても、「私には着物が見えません」とは言わずに、黙ってた。逆に、心の中とは裏腹の「(その着物は)なかなか見事じゃのう!」と言っちゃった!

 いかさま師にマンマとやられて、大枚を巻き上げられた皇帝は、そうとも知らずに裸のマンマで、悦に入っていた。その着物は行幸用、つまり、行列に着る着物でしたから、大勢の人の前に、この皇帝は、裸をさらすことになった。だけど、皇帝は、本当の自分を、ハッキリと認めて、言葉にすることができなかった。

 そして、子どもの登場です。先の本には「小さな子ども」と出てきます。その子が、何のてらいもなく「だけど、なんにも着てやしないじゃないの!」とハッキリと言った。本当を子どもが言うんですね。子どもは、「表側」と「内側」が一致している人のことでして、年齢は関係ありません。ですから、単純に見て感じたままを、言葉にした訳ですね。それでも、この皇帝は、裸の行進は止めなかった!

 ここから、どんなことを学ぶべきか? 

 それは、皆さんが考えてくださいね。

 


 

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