25年前の今日、8月12日
羽田空港をたった
日航機が
コントロールを失い、群馬県御巣鷹の尾根に墜落し、520人の命が奪われた事をご存知ですか?
(日航機墜落事故)
(時事通信写真特集)
(事故機の飛行経路)
(御巣鷹の真実 1~9)
(上毛新聞ニュース)
25年前の事故被害者たちの墜落までの恐怖、
機長やスタッフたちの墜落までの懸命な努力、
突然大切な人たちを奪われた遺族たちの悲しみやショックを
あなたは想像できますか?
事故や、戦争のあった、
その日、その日に、一度でもいいから、
一瞬でもいいですから、
過去のその人たちの苦しみ、悲しみを想像してほしいのです。
他人の苦しみを想像し、
それを「受容や共感」「思いやり」という
理解に変えて、これからの現実に生かしていける人たちが
少しでも社会に増えてほしいと思います。
他人の苦しみを想像できるような
思いやりある子供たちが
育ってほしいと思います。
そうすれば、
将来は自分の利益しか考えないような大人たちが減り、
目には見えない他人の苦しみも、少しは想像できる
大人たちが増えてくれるかもしれませんから。
事故や戦争で命を奪われ、
生きたくても、生きられなかった人たちが過去にたくさんいるのです。
脳脊髄液減少症という病名さえ存在しなかった時代に、
交通事故に遭遇し、脳脊髄液減少症を発症していたのに、
誰にも苦しみを理解されないまま人生を翻弄された
私のような被害者の他に、
誰にも、本人も、脳脊髄液減少症のせいだと気づけないまま、
失意のうちに亡くなっていった人たちも、
きっと大勢いたはずです。
もしかしたら、
日航機事故の被害者はあれだけの衝撃を身体に受けているのですから、生存者の中にも、
脳脊髄液漏れを起こしていた人がいたかもしれないし、
戦争での銃の連射の際の身体への繰り返される前後に揺れる激しい衝撃などでも、
脳脊髄液減少症を発症していた人たちがいたかもしれないと
ひとり考えたりしています。
平和な時代の交通事故というありふれた事故で、
脳脊髄液減少症を発症していながら生き抜いて、
治療にたどりついた私などはまだ幸運なほうで、
脳脊髄液減少症という病気の概念がなかった時代、
見た目ではわからない
脳脊髄液減少症での
私の最悪の状態がいきなりきたような人たちの苦しみは、
想像を絶するものだったと思うのです。
あのような、自分で病院にも行けないような状態であっても、
医師にも病人だと認められず、家族にも怠け者、気のせいだと
突き放された当時の脳脊髄液減少症患者は、
とうてい生きていくことなどできなかったかもしれません。
もし、私も、徐々に悪化するのではなく、
いきなり最悪の事態になり、異常なしと放り出され、
医師にも相手にされなかったなら、
今、こうして生きてはいられなかったと思います。
私が今生きているのは、幸いにも
いきなり寝たきりになるのではなく、
時間差のある発症や、
除々に年月とともに症状が増えていったような
ゆっくりした悪化だったからだと思っています。
戦争体験者や、日航機墜落事故の遺族が
当時の苦しみや悲惨さを
苦しみを乗り越えて伝え続けるように、
私も、
脳脊髄液減少症の体験を伝え続けなければと思っています。
今、脳脊髄液減少症の苦しみのさなかにいる人たちも
苦しくても、
どうか生き抜いてほしいのです。
この苦しみがまるで終わりのない苦しみのように感じてしまっていても、
それでも、生き抜いてほしいのです。
時には
異国の、暑さと湿度とマラリアと飢えと、敵の恐怖の中でも
生き抜こうとした兵士を思い、
時には墜落前の恐怖と戦い、
最後まで助かりたい、生きたいと願った日航機墜落事故の被害者を思い、
生きたくても生きられなかった人を思い、
どうか、
自分で命を絶つようなことはしないでほしいのです。
たしかに、脳脊髄液減少症は
肉体的、経済的に、これでもか、これでもか、と苦しめられ、
その上、家族や、周囲や、無理解な医師たちや、非情な損保の人たちによって
さらに精神的にまでギリギリのところまで追い詰められていきます。
さまざまな精神症状、身体症状にまどわされ、
脳脊髄液減少症という病名に、まず、なかなかたどりつけないし、
やっとたどりついても、
ブラッドパッチ治療に健康保険さえ、ききません。
症状を理解し、支えてくれるような
家族や周囲の理解に恵まれている幸運な患者さんばかりではなく、
闘病生活を支えてくれる家族もなく、
明日を生きる糧さえないような状況にまで追い込まれている
脳脊髄液減少症の患者さんもいると思うのです。
私と同じように、
自分には何の落ち度もない交通事故で、
理不尽な目にあってきた被害者もいると思うのです。
大人であるために、自分のことは自分でせよと、
年老いた親にも、独立した兄弟にも相手にされず、
突き放されて孤立している患者さんもいると思うのです。
いくら大人であっても、いくら見た目どこも悪そうに見えなくても、
脳脊髄液減少症になれば、その症状から、子供同様
「保護者」が必要なことは
なかなかわかってもらえないつらさ、悲しさ、孤独感、絶望感。
大人であるがゆえに、誰にも頼れない苦しみは、
保護者にまったく理解されず、脳脊髄液減少症の病名にもたどりついていない子供たち同様、悲惨だと思うのです。
でも、
きっと脳脊髄液減少症患者に救済の手をさしのべてくれる日がくるはず。
いつか、きっと、
事故被害者の脳脊髄液減少症患者を、正当に救済してくれる保険会社も出てきてくれるはず。
国も救済してくれるはず。
人は悪い人たちばかりじゃない。
優しい人たちだって、助けてくれる人たちだって
わかって、手をさしのべてくれる人たちだってたくさんいるはず。
そのためにも、私たちは生き抜いて声を上げなければならないと思うのです。
いつか私たちにも救助隊がくるから
それを信じて
一緒に生き抜いて訴え続けてほしいのです。
過去の歴史を見ても、
過ちがあっても、
時代が必ず正しい方向へ、
人が助かる方向へ、人の命を大切にする方向へ導かれていきました。
過去の戦争や、過去の事故で、理不尽に人生を断ち切られ、
生きたくても生きられなかった人たちのことを思い、
とにかく、生き抜いてほしいと思うのです。
苦しくても、
決して、あきらめないで、生き抜いてほしいのです。
過去の事故や過ちから、
教訓を学び、
これからに生かすために、
私たち、脳脊髄液減少症患者は、
生き抜いて、証言者にならなければなりません。
私のように、
長い年月放置されても
ブラッドパッチ後ゆっくりゆっくり、
症状の改善と悪化を繰り返しながらも、改善する患者もいるのです。
事故から数年なんかで
あきらめないでください。
何年も何十年も苦しみぬき、いろいろと苦しみが重なり、
絶望に追い込まれることがあっても、
どうか、自ら命を絶たないでください。
とりあえず、今日一日、今日一日だけと自分に言い聞かせてでも、
自分をなだめながらでも、
どうか生き抜いてください。
きっと、きっと、生きていれば、
いいこともあると思うのです。
私も、あの交通事故以来、
不可解な症状と、無理解にさらされ、
症状に振り回され、人生を翻弄され、
今までつらすぎ、死にたいと思ったこともありましたが、
それでも、生きぬいてきてよかったと
思っています。
脳脊髄液減少症患者たちが
近い将来きちんと病人、けが人として社会にも国にも、
医学界にも認められ、
正当に救われる日が来ると思います。
だから、
死なないで
生きてください。
生きたくても、生きられなかった人たちの分まで、
精一杯、最後まで、生き抜いてください。
人生なんて最後まで、生き抜いてみなければ
わかりませんから・・・。
羽田空港をたった
日航機が
コントロールを失い、群馬県御巣鷹の尾根に墜落し、520人の命が奪われた事をご存知ですか?
(日航機墜落事故)
(時事通信写真特集)
(事故機の飛行経路)
(御巣鷹の真実 1~9)
(上毛新聞ニュース)
25年前の事故被害者たちの墜落までの恐怖、
機長やスタッフたちの墜落までの懸命な努力、
突然大切な人たちを奪われた遺族たちの悲しみやショックを
あなたは想像できますか?
事故や、戦争のあった、
その日、その日に、一度でもいいから、
一瞬でもいいですから、
過去のその人たちの苦しみ、悲しみを想像してほしいのです。
他人の苦しみを想像し、
それを「受容や共感」「思いやり」という
理解に変えて、これからの現実に生かしていける人たちが
少しでも社会に増えてほしいと思います。
他人の苦しみを想像できるような
思いやりある子供たちが
育ってほしいと思います。
そうすれば、
将来は自分の利益しか考えないような大人たちが減り、
目には見えない他人の苦しみも、少しは想像できる
大人たちが増えてくれるかもしれませんから。
事故や戦争で命を奪われ、
生きたくても、生きられなかった人たちが過去にたくさんいるのです。
脳脊髄液減少症という病名さえ存在しなかった時代に、
交通事故に遭遇し、脳脊髄液減少症を発症していたのに、
誰にも苦しみを理解されないまま人生を翻弄された
私のような被害者の他に、
誰にも、本人も、脳脊髄液減少症のせいだと気づけないまま、
失意のうちに亡くなっていった人たちも、
きっと大勢いたはずです。
もしかしたら、
日航機事故の被害者はあれだけの衝撃を身体に受けているのですから、生存者の中にも、
脳脊髄液漏れを起こしていた人がいたかもしれないし、
戦争での銃の連射の際の身体への繰り返される前後に揺れる激しい衝撃などでも、
脳脊髄液減少症を発症していた人たちがいたかもしれないと
ひとり考えたりしています。
平和な時代の交通事故というありふれた事故で、
脳脊髄液減少症を発症していながら生き抜いて、
治療にたどりついた私などはまだ幸運なほうで、
脳脊髄液減少症という病気の概念がなかった時代、
見た目ではわからない
脳脊髄液減少症での
私の最悪の状態がいきなりきたような人たちの苦しみは、
想像を絶するものだったと思うのです。
あのような、自分で病院にも行けないような状態であっても、
医師にも病人だと認められず、家族にも怠け者、気のせいだと
突き放された当時の脳脊髄液減少症患者は、
とうてい生きていくことなどできなかったかもしれません。
もし、私も、徐々に悪化するのではなく、
いきなり最悪の事態になり、異常なしと放り出され、
医師にも相手にされなかったなら、
今、こうして生きてはいられなかったと思います。
私が今生きているのは、幸いにも
いきなり寝たきりになるのではなく、
時間差のある発症や、
除々に年月とともに症状が増えていったような
ゆっくりした悪化だったからだと思っています。
戦争体験者や、日航機墜落事故の遺族が
当時の苦しみや悲惨さを
苦しみを乗り越えて伝え続けるように、
私も、
脳脊髄液減少症の体験を伝え続けなければと思っています。
今、脳脊髄液減少症の苦しみのさなかにいる人たちも
苦しくても、
どうか生き抜いてほしいのです。
この苦しみがまるで終わりのない苦しみのように感じてしまっていても、
それでも、生き抜いてほしいのです。
時には
異国の、暑さと湿度とマラリアと飢えと、敵の恐怖の中でも
生き抜こうとした兵士を思い、
時には墜落前の恐怖と戦い、
最後まで助かりたい、生きたいと願った日航機墜落事故の被害者を思い、
生きたくても生きられなかった人を思い、
どうか、
自分で命を絶つようなことはしないでほしいのです。
たしかに、脳脊髄液減少症は
肉体的、経済的に、これでもか、これでもか、と苦しめられ、
その上、家族や、周囲や、無理解な医師たちや、非情な損保の人たちによって
さらに精神的にまでギリギリのところまで追い詰められていきます。
さまざまな精神症状、身体症状にまどわされ、
脳脊髄液減少症という病名に、まず、なかなかたどりつけないし、
やっとたどりついても、
ブラッドパッチ治療に健康保険さえ、ききません。
症状を理解し、支えてくれるような
家族や周囲の理解に恵まれている幸運な患者さんばかりではなく、
闘病生活を支えてくれる家族もなく、
明日を生きる糧さえないような状況にまで追い込まれている
脳脊髄液減少症の患者さんもいると思うのです。
私と同じように、
自分には何の落ち度もない交通事故で、
理不尽な目にあってきた被害者もいると思うのです。
大人であるために、自分のことは自分でせよと、
年老いた親にも、独立した兄弟にも相手にされず、
突き放されて孤立している患者さんもいると思うのです。
いくら大人であっても、いくら見た目どこも悪そうに見えなくても、
脳脊髄液減少症になれば、その症状から、子供同様
「保護者」が必要なことは
なかなかわかってもらえないつらさ、悲しさ、孤独感、絶望感。
大人であるがゆえに、誰にも頼れない苦しみは、
保護者にまったく理解されず、脳脊髄液減少症の病名にもたどりついていない子供たち同様、悲惨だと思うのです。
でも、
きっと脳脊髄液減少症患者に救済の手をさしのべてくれる日がくるはず。
いつか、きっと、
事故被害者の脳脊髄液減少症患者を、正当に救済してくれる保険会社も出てきてくれるはず。
国も救済してくれるはず。
人は悪い人たちばかりじゃない。
優しい人たちだって、助けてくれる人たちだって
わかって、手をさしのべてくれる人たちだってたくさんいるはず。
そのためにも、私たちは生き抜いて声を上げなければならないと思うのです。
いつか私たちにも救助隊がくるから
それを信じて
一緒に生き抜いて訴え続けてほしいのです。
過去の歴史を見ても、
過ちがあっても、
時代が必ず正しい方向へ、
人が助かる方向へ、人の命を大切にする方向へ導かれていきました。
過去の戦争や、過去の事故で、理不尽に人生を断ち切られ、
生きたくても生きられなかった人たちのことを思い、
とにかく、生き抜いてほしいと思うのです。
苦しくても、
決して、あきらめないで、生き抜いてほしいのです。
過去の事故や過ちから、
教訓を学び、
これからに生かすために、
私たち、脳脊髄液減少症患者は、
生き抜いて、証言者にならなければなりません。
私のように、
長い年月放置されても
ブラッドパッチ後ゆっくりゆっくり、
症状の改善と悪化を繰り返しながらも、改善する患者もいるのです。
事故から数年なんかで
あきらめないでください。
何年も何十年も苦しみぬき、いろいろと苦しみが重なり、
絶望に追い込まれることがあっても、
どうか、自ら命を絶たないでください。
とりあえず、今日一日、今日一日だけと自分に言い聞かせてでも、
自分をなだめながらでも、
どうか生き抜いてください。
きっと、きっと、生きていれば、
いいこともあると思うのです。
私も、あの交通事故以来、
不可解な症状と、無理解にさらされ、
症状に振り回され、人生を翻弄され、
今までつらすぎ、死にたいと思ったこともありましたが、
それでも、生きぬいてきてよかったと
思っています。
脳脊髄液減少症患者たちが
近い将来きちんと病人、けが人として社会にも国にも、
医学界にも認められ、
正当に救われる日が来ると思います。
だから、
死なないで
生きてください。
生きたくても、生きられなかった人たちの分まで、
精一杯、最後まで、生き抜いてください。
人生なんて最後まで、生き抜いてみなければ
わかりませんから・・・。