雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

古代史を考える 『朝日新聞9月24日(木)』夕刊(3)面「美術 金銅製心葉型杏葉」

2014年09月24日 19時51分29秒 | 古代史を考える

古代史を考える 『朝日新聞9月24日(木)』夕刊(3)面「美術 金銅製心葉型杏葉」

 古墳時代のハート型(心葉型)の馬具です。福岡県沖ノ島から出土した逸品です。

 記事では「どこでrつくられたのか」と題して、本文で「沖ノ島出土の古墳時代馬具は100点以上。製作地も、朝鮮の新羅、大伽耶(だいかや)、さらには倭(日本)までが想定されるなど国際色豊かだ」とあります。

 つまり、この沖ノ島に奉祭したのは倭国だけではなく、朝鮮の新羅・加羅なども想定されるのではないでしょうか?この海峡をはさんだ倭国と朝鮮はイギリスがフランス本土に領土を持っていたように、、倭国=朝鮮二重帝国だったのではないでしょうか。

 それにしてもここに、百済の影もないのは、なぜでしょうか。

 百済=日本連合が記紀からは推定されますが、新羅・伽耶=倭国連合とは対立しますね。朝鮮半島と日本列島を舞台にして、2つの連合が敵同士で交錯していたのではないでしょうか。

 その決戦が「磐井=継体戦争」だったのでは?

 そして再び再興した九州勢力が隋唐時代の「倭国」「タリシホコ」だったと思います。

 そしてこの倭国を鎮圧した飛鳥日本国は、親百済路線で、白村江の戦いで百済=日本連合として新羅=唐連合に決戦を挑みますが、惨敗。倭国は唐に占領されますが、日本まで唐が侵攻する力はなく、なんとか独立を保ったのが701年に始まる日本国です。

 つまり、それまで九州倭国を日本列島の代表者として認めていた唐が、奈良の日本国を日本列島の代表者として公認したことから、日本の遣唐使が始まります。

 あ、かなり暴走しましたね。この正否は、みなさん、自分で検証してください。参考はむかしの古田武彦さんの著書。最近のではありません。最近の古田さんの説は、汚染されてますからね。もしくは精神コントロールともいいます。

 


古代史を考える いいかげんにしてください「卑弥呼の鏡」とか「卑弥呼の墓」とか大嘘

2014年07月06日 12時07分59秒 | 古代史を考える

古代史を考える いいかげんにしてください「卑弥呼の鏡」とか「卑弥呼の墓」とか単なる仮説を事実とする大嘘

 いま、ぼくのブログに広告としてくっついているのが「卑弥呼の鏡を測定する」

http://www.marubeni-sys.com/infinite-ideas/chousen/kashihara/index.html

 三角縁神獣鏡が「卑弥呼の鏡」だという証明は何もありません。箸墓古墳が「卑弥呼の墓」だという証明も何もありません。

 三角縁神獣鏡は3世紀ではなく4世紀の鏡だし、箸墓古墳は4世紀の古墳です。

 卑弥呼は3世紀の弥生時代の倭国の女王です。時代が違います。

 STAP細胞のようなものだと思います。

 


古代史を考える 日本の神社はなぜ赤いのか、赤はどこから来たのか

2014年01月16日 21時38分25秒 | 古代史を考える

古代史を考える 日本の神社はなぜ赤いのか、赤はどこから来たのか

 日本の神社では、赤く塗っている神社や鳥居があります。なぜ「赤い」のか?なぜ「燃えているのか?」。

 わが浜松市の北区三ヶ日町に住む、小説家の宮城谷昌光さんの随筆集『春秋の色』講談社、1992年を、図書館で借りて読んでいたら、みつけました。

 古代中国の、殷王朝(商)や周王朝は、神聖な色は赤なのだそうです。

 日本の神社の赤は、たぶん、中国伝統であろうということ。

 さらに、殷王朝と倭人の共通点を、著者は数えています。

 ① 赤が好きであること 

 ② お酒がすきであること 

 ③ 動物の骨を焼いて吉凶を占うことが同じなこと 

 ④ 人体にイレズミを入れていたのが共通すること

 殷王朝のなかにいて朝鮮へ逃れた「箕子(きし)朝鮮」の伝説は、かなり事実と歴史のうえに作られた気がします。

 いま日本古代史学界では、「朝鮮渡来人」については、かなり論争がおこなわれるようになりましたが、「中国渡来人」については、あまり論争もないように思います。

 「徐福」の評価も含めて全面的に検討し直すべきと思います。

 


古代史を考える 九州・福岡県・久留米市の「高良神社」と「高良山」

2014年01月13日 21時49分21秒 | 古代史を考える

古代史を考える 九州・福岡県・久留米市の「高良神社」と「高良山」

 日本古代史の総論では、「高良神社」や「高良山」は、ほとんど無視されていると思います。「無視してない」「有視している」例がもしあったら、教えてください。

 無視していない歴史学者は、古田武彦さんや古賀達也さんです(注:古田さんや古賀さんのすべての著書・ブログを信頼せよとは言っていません。古田さんや、古賀さんの言説の中には、ぼくが自分で精査して取り上げるべき事実と論理があると言っているだけです)。

 詳しい紹介は、別シリーズにしますが、今日は、自分で地図を見て発見した事実を一つだけ紹介します。

 以前に買っておいた『県別マップル道路地図40 福岡県 広域・詳細 県内全域3万分の1』昭文社、2001年、を見ました。

 「筑後一の宮」である「高良大社」は、この地図で測ると、あきらかに「高良山」から夏至の日没が沈む位置です。確度で、約28度。

 言い換えると、高良神社から高良山は、冬至の太陽が昇る位置にあるということです。

 冬至の太陽が高良山から昇る位置に、高良神社が建てられたということです。

 これは明らかに、太陽信仰です。どうして、こんな大事なことに、みんな、気づいていなんでしょうか。

 この高良大社に祭られた神さまは、3神。

 ① 高良玉垂命 ② 八幡大神 ③ 住吉大神

 一番の問題は、最初に出てくる「高良玉垂命」ですが、これは別途書きます。

 ネットで「高良大社」「高良神社」「高良山」「九州王朝」などで検索すると、かなり多い事実がひっかかってきます。

 ぜひ、自分で事実と論理を考えて、判断しましょう。


日本古代史を考える 「関東の銅鐸」の謎

2013年12月29日 20時08分00秒 | 古代史を考える

日本古代史を考える 「関東の銅鐸」の謎

 遠州地方に多産する銅鐸の謎について書いてきましたが、今日は、きわめつけの謎について書きます。

 過去の履歴は、「雨宮智彦のブログ  銅鐸」で検索するとヒットします。

 銅鐸は近畿を中心に浜松付近まで分布する弥生時代の青銅器です。銅鐸に対立する西日本の青銅器が銅剣や銅矛です。

 ところが、正真正銘の近畿の銅鐸そのものが、千葉県の房総半島の東京湾岸で見つかったのです。

 学界の常識では東海地方の浜松付近が銅鐸分布の東端のはずです。

 もちろん、もっと東でも「小銅鐸」や「鉄鐸」は出ますし、神奈川県や栃木県でも「小銅鐸」は出ていました。

 千葉県で銅鐸?!

 ぼくが知ったのは、森浩一さん著『古代史津々浦々』小学館、1993年発行、「私のみる東国の古代文化」(原著1991年)を、読んでからでした。

 森浩一さんは、「なぜ」という解答を書いていませんが、ボクは、これは明らかだと思います。

 つまり「近畿の崩壊した銅鐸文明」の住民あるいは村が、銅鐸文化を持ったまま、近畿から千葉県房総半島に船で逃亡してそこに住み着いた、そういう解釈しかあり得ないと思います。

 なぜ銅鐸文明が崩壊したかというと、これは「神武東征」伝承にあるような西日本青銅器文明が、近畿などの銅鐸文明を滅ぼした、あるいは吸収合併したから、ではないかと考察します。

 その弥生時代の西日本青銅器文明は、「銅鏡・銅剣・玉」を「3種の神器」とする文明で「古墳時代」に直接続き、近畿の銅鐸はすべて隠されるか、粉砕されたと思います。

 ですから『古事記』にも『日本書紀』にも「銅鐸」の影さえ見えません。それは大和王権にとっての暗い「特定秘密」に指定され、それをしゃべる者はたぶん、逮捕され……。

  ☆

 いま「千葉県 銅鐸」で検索してみたら、ほとんど情報がひっかかりません。

 やりなおし。「関東 銅鐸」で検索したら、かなり引っかかりました。

 

  


古代史を考える 住吉神社の神さまは誰?住吉神社はどこ?

2013年11月22日 07時20分58秒 | 古代史を考える

古代史を考える 住吉神社の神さまは誰?住吉神社はどこ?

 「遠州の遺跡・寺社・地名 124 南区金折町の住吉神社 2013年11月19日 21時54分56秒 | 遠州古代史 」の続きです。

 まず住吉神社の神さまは、『古事記』でイザナギが妻のイザナギと別れて「ツクシのヒムカの橘のオドのアハキ原」でみそぎをして生んだ中に、「其の底筒男命、中筒男命、上筒男命三柱の神は、墨江(すみのえ)の三前(みまえ)の大神なり」とあります。

 そして同じ『古事記』の「仲哀天皇記」でおきながたらし姫命が朝鮮半島へ渡り「墨江大神の荒御魂を以ち、国守る神と為て祭り鎮め還り渡りたまふ」とあります。

 『日本書紀』にも同じ神話があり、こちらは「住吉大神」です。

 この「底筒男命、中筒男命、上筒男命三柱の神」は、航海の神ですから、当然、航海の目印になるような神です。しかも、太陽神のような単神ではなく、「3柱」です。

 そのような現象や天体があるのでしょうか?それがあるのです。天体ファンなら、いや日本人ならだいたい知っている「オリオン座」の真ん中が3つ並んだ「3つ星」なのです。

 しかもオリオン座の「3つ星」は、天体座標で天の赤道付近にありますから、ほぼ真東から出て真西に沈みます。夜の航海の目当てとして、これほど確かな東西を指し示す天体は他にありません。

 大阪の住吉神社へは行ったことがないので、大和(だいわ)岩雄さんの『神々の考古学』によると「わが国でも、三つ星に重ねた神殿があるからである。その神殿は、大阪の住吉大社の筒男三神をまつる、縦に並んだ3つの神殿である」(p72)、「縦に神殿が並ぶのは日本中の神社で住吉大社のみである。」(p74)。

 「底筒男命、中筒男命、上筒男命三柱の神」はオリオン座の3つ星で間違いないと思います。

 そこで「『古事記』の「墨江大神」はどこにいたか、ですが、『古事記』のみそぎの記事が「ツクシの」と特定している以上、この「住吉大神」は九州で生まれた九州の神であるとするしかありません。その後、九州勢力が東へ勢力を伸ばすのに従って、住吉神社も大阪の難波に新拠点を置いたとするのが妥当な説だと思います。

 その九州の住吉神社は、安本美典さんの『日本神話120の謎』(勉誠出版、2005年)によると宮崎県と福岡県の2つあります。どちらが元なのかは、今のところわかりません。

 


古代史を考える おいしい「ぜんざい」は出雲が発祥の地か?

2013年10月15日 20時15分13秒 | 古代史を考える

古代史を考える おいしい「ぜんざい」は出雲が発祥の地か?

 さっき、午後7時半からのテレビ(局名も、番組名も不明)で、おもしろい古代史情報をやってましたので、特報です。

 「ぜんざい」と「おしるこ」の違いなど諸説ありますが、とにかく「ぜんざい」は、小豆(あずき)をお砂糖で甘く煮て、お餅やお団子や栗などを入れた食品、ということでしょうか。

 出雲では、日本全国の神々が全国では「神無月(かんなづき)」という旧暦の10月に出雲に集まるので、出雲では「神在り月(かみありつき)」です。

 この「神在り月 かみあり」を音読みすると「じんざい」となりますが、出雲で、この「神在月」に出されるごちそうが「じんざい」で、これがなまって「ぜんざい」となったと言ってました。

 文献的根拠があるかどうか、調べてみます。日本における「お砂糖」の使用の歴史とも関連するんでしょうか?

 いま「ぜんざい 出雲」で検索をかけたら、ビックリ!なんと「出雲ぜんざい学会」がヒットしました。

 「出雲ぜんざい学会新聞」も発行されています。おもしろい!

 ま、だからといって学問的根拠と言うことではないですが、一人ひとりで確認してください。

 ぼくも、これから検討して、自分の考察をアップします。最低限言えるのは、「出雲」という地域が中国・朝鮮との関係で、東アジアの先進的「薬学」の集積地となっていたということです。

 甘い「お砂糖」の「クスリ効果」が出雲に伝わっていてもおかしくありませんが、古代日本の「砂糖」は何から取ったんでしょうか?

 縄文時代や、弥生時代に「砂糖」は、あったのかな?古墳時代は?

 次回の「古代史を考える」は、テレビドラマ「あまちゃん」の考察です!なんで「古代史」と関係あるの?と疑問をもったあなた!「古代史」は「あま」に満ちています。東海の古代史も「あま」でいっぱいです!

 

 


古代史を考える 5月11日は岐阜・長良川の「鵜飼い」開きです

2013年05月13日 06時35分57秒 | 古代史を考える

古代史を考える 5月11日は岐阜・長良川の「鵜飼い」開きです

 馬込川を散歩すると、かなりの確度で、1羽の鵜が川面を沈んだり、浮いたりして魚を食べています。

 この鵜の習性を利用して、人間が「鵜」を使って魚を取るのが、有名な「長良川の鵜飼い」です。

 そこでは夜間に、かがり火をたいて、紐で首を結んだ鵜を使っています。

 高校教師で歴史学者の加藤文三さん(加藤さんは鬱になったので、ぼくは「同類」だと勝手に「仲間」扱いしてます…)の傑作『民謡歳時記 上』青木書店、p226~228によれば、夜ではなく昼、紐で結ぶのではなく放し飼いが鵜飼いの東アジア「古代」での姿ではないかと、しています。

 そして、そういう「鵜飼い」地帯は、日本列島から海を越えて、中国、ベトナムj、インドまで連なっている。

 「鵜飼いベルト」は、森林で「照葉樹林」地帯、穀物では「稲作ベルト」と三重に重なっている、と加藤さんは説いています。それ、正しいですね。

 日本列島の「鵜飼い」の北限は、秋田県の田沢湖と岩手県の雫石付近を結ぶ線で、それ以北は、稲作の普及が遅れたところです。

 世界最古の鵜飼いの記事は、なんと中国の7世紀初頭、『隋書』「東夷伝倭国条」に書かれた記事です。

 謎なのですが、朝鮮には鵜飼いの記事がありません。沖縄にも、台湾にもありません。

 記事がないのは「鵜飼い」がなかったからだと、誰か証明しませんか?

 デューク・エイセスの「にほんのうた」の岐阜で「マンボ鵜」がありましたね。

 「ユラユラ メラメラ
 キラキラ ブラブラ
 長良川の屋形船 ユラユラユラユラ
 舳先のかがり火 メラメラメラメラ
 波にうつる火 岐阜提灯
 キラキラキラ ブラブラ
 鵜匠があやつる 鵜
 僕はあなたの 鵜
 夜は二人で ウッ!…」

 


古代史を考える 日本の神さまと仏さまと世界の神さま

2013年05月10日 05時34分34秒 | 古代史を考える

古代史を考える 日本の神さまと仏さまと世界の神さま

 Eテレで日本の仏像を探訪する番組を見ていて思ったこと。日本も中国も、いろんな「仏像」がありますが、日本の八百万(やおよろず)の神さまの神像は、あまり見たことがありません。

 則子さんに「なぜでしょうね」と言って、「ボクに何故か聞いて見て」と言ったら

 則子さん「なぜ」と言うので

 ぼく「さっぱりわからん」と言うと則子さんは笑って、「その決めセリフを言いたかったの」と。はい、そうです。テレビドラマ「ガリレオ」の物理学者湯川学准教授の、番組の半分くらいで必ず言う、おきまりのセリフです。ボクも、いっぺん言ってみたかったんだ。

 神社に行っても、スサノオ神やアマテラス神など、神さまの像はおがめません。つまり、日本の神さまは「見えない神さま」「不可視の神さま」なんです。

 ところが西洋では、ギリシアの神さまは、ちゃんと神の像があります。キリスト教では「神(ゴッド)」の像はなくて「神の子」であるイエスさんの像や、神のみ使いである「天使」の像はあります。

 日本で言うと、神社の狛犬や、お稲荷さんの狐は像があるようなものでしょうか。

 


古代史を考える 1 「卑弥呼の墓」について

2013年02月26日 05時19分23秒 | 古代史を考える

古代史を考える 1 「卑弥呼の墓」について

 魏志倭人伝には、倭国女王の卑弥呼の死について、こう書かれています。
 「卑弥呼以て死し、大いに「ちょう」を作る。径百余歩。」(すみません。「ちょう」の漢字が今書いているソフト「一太郎」にありません。原文を見て下さい)

 「径百余歩」とは何でしょうか。もし、ほんとうに箸墓が卑弥呼の墓であるなら、前方後円墳なのですから「幅○○歩、径○○歩」とか書くべきでしょう。
 「径」という意味は、やはり「円墳」または「四角形の古墳」としか思えません。
 そして問題は「百余歩」です。中国古代には「歩」は「里」の下の単位です。そして「1里=300歩」です。

 「倭人伝」には、「1里」が何kmかを確定できるデータがあります。たとえば、以下のようになっています。
 ① 南朝鮮の狗邪韓国(今の釜山付近とされています)から「対海(対馬のことです)」まで「千余里」
 ② 対海国は「方四百里ばかり」
 ③ 対海から「一大国(当然、今の壱岐島のことです)」まで「千余里」
 ④ 一大国は「方三百里ばかり」
 ⑤ 一大国から「末廬国」まで「五百里」

 「余」はどれくらいでしょうか?3割?2割?2割くらいと仮定してみます、
 「方四百里」というのは四辺形で一辺が四百里という意味ですから、一辺の長さ分を計算に入れましょうか。
 すると、1200里+400里+1200里+300里+500里=3600里
 以上を実際の地図で確かめると、釜山付近から福岡県の東松浦半島まで、約200kmです(手許の『プレミアムアトラス 日本地図帳』平凡社)。
 200km÷3600里=0.05555km/里=約55m/里

 古田武彦さんの別の計算では、約75~90m/里としていますので、雨宮計算と古田さんの計算は誤差は3割くらいありますが、桁はあっています。
 この「倭人伝」の数値から計算すると、1里=300歩ですから、卑弥呼の墓は、雨宮計算では、半径18m、古田さんの計算では25mから30mとなります。
 どういう計算をするにしろ、同じ文章の中で、違う尺度体系が使われているようなことはあり得ないと思います。
 もし、南朝鮮から北九州までの「距離」が何倍も過大であると仮定するなら、当然、卑弥呼の墓の「径」も何倍も過大でなければなりません。
 私は、南朝鮮から北九州までの距離、倭人伝内の距離、墓の直径など、すべて実際の距離に近い適正な数字であると思います。

 参考文献は、古田武彦さん著『「邪馬台国」はなかった ー解読された倭人伝の謎ー』ミネルヴァ書房、2012年(原著1971年)、p131~156、p231~240
  ☆
 なお、卑弥呼は、倭国の女王であって、邪馬壱国(現代の通称では邪馬台国)の女王ではありません。邪馬壱国は、倭国の首都です。「邪馬壱国の女王」と呼ぶことは、「東京の天皇」と呼ぶような珍妙な言い方です。正しくは「倭国の女王」「日本国の天皇」です。
  ☆
 歴史的人物である卑弥呼さんは、敬称(「さん」)を略させていただきました。


カテゴリー「古代史を考える」「古代史ニュース」「古代史の本」を新設

2013年01月26日 15時17分35秒 | 古代史を考える

カテゴリー「古代史を考える」「古代史ニュース」「古代史の本」を新設

 これまで「世界と日本の古代史」に分類してきた記事を3つに分けて、「古代史を考える」「古代史ニュース」「古代史の本」を新設しました。1月26日(土)午後3時19分現在、まだ新カテゴリーに振り分け中です。


日本の古代史 浜松でも出土している「琴」はどんな楽器?

2012年09月06日 06時02分37秒 | 古代史を考える

日本の古代史 浜松でも出土している「琴」はどんな楽器?

 「どんな楽器って、出土した琴を見ればわかるじゃん」と言う方もあると思いますが、ぼくの言う「どんな楽器」という意味は、どんな場合に、どんな人が演奏したのか、という意味です。

 琴が単なる楽器と言うだけではなく、重要な役割をしているのは、『日本書紀』でも『古事記』でも、仲哀天皇の北九州・香椎の宮での死と、その妻の神功皇后の物語です。

 まず『日本書紀』では「仲哀天皇記」では、神功皇后に神が宿り、西に新羅という金銀の国があり私(神さま)をまつれば自然に新羅が服属すると予言します。ところが仲哀天皇は西ノ海に何も見えないのでそれを信ぜず、熊襲と戦争をして勝てず、翌年2月に死亡します。神功皇后は自分が神主となって武内すくねを呼んで琴を弾かせ、琴の頭部と尾部に幣帛を多数おいて、神の名を聞いたとあります。

 『古事記』では、もっと劇的で、ここでは神功皇后が神がかりするのは同じですが、琴を弾くのは仲哀天皇です。妻が神がかりして、夫が琴を弾くというこの方が古式なような気がします。神功皇后が「西の方に金銀の国がある。神である私は天皇にこの国を帰属させよう」といいますが、天皇は「西は海しか見えない」、偽りの神だと思ってしまい、馬鹿馬鹿しくなって琴を弾くのをやめてしまいます。重臣の武内すくねが、必死で琴を弾くように進言したので、天皇はゆっくり生半可に琴を弾いていたら、琴の音が聞こえなくなって、火をかかげると、天皇が死んでいました。

 つまり夜、真っ暗闇のなかで、琴を弾き、神託がなされるということでしょうね。

 浜松で出土した琴は、どういう場で演奏されたのでしょうか。

 遠州の遺跡・寺社・地名 87 浜松市北区都田町の郷ヶ平3号墳から馬や琴の埴輪出土 2012年08月16日


古代史考 マザーグースの葬送歌と『古事記』の葬送歌と萩尾望都さん『小鳥の巣』

2012年08月20日 06時34分21秒 | 古代史を考える

古代史考 マザーグースの葬送歌と『古事記』の葬送歌と萩尾望都さん『小鳥の巣』

 少し、自由に、日本の古代史について、書いていきます。

 イギリスの童謡「マザーグース(直訳すると「母さんガチョウ」)の中に「誰がクックロビンを殺したか」という有名な歌があります。

 「クックロビン」は「雄の駒鳥」のことです。

 以下、訳して見ました。

  誰が 殺した クックロビン、それは私、とスズメが言った、私の弓と矢で、私が殺した クックロビン

  誰が 死ぬのを 見た?、それは私、とハエが言った、私の目で、私が見た、彼が死ぬのを

  誰が 受けた 彼の血を?、それは私とサカナが言った、私の小さな皿で、私は受けた、彼の血を

  誰が つくるの 白い死に装束?、それは私、とカブトムシが言った、私の鍼と糸で、私は作る、死に装束

 まず、この歌をテーマに使った推理小説が、ヴァン・ダインさんが1929年に発表した『僧正殺人事件』です。そして、日本では、漫画家の萩尾望都さんが『小鳥の巣』のなかで使ったので、ボクは初めて、マザーグースの「誰が殺したクックロビン」を知りました。

 ドイツのギムナジウムで、14才の少年たちが織りな思春期の切ない物語です。「小鳥の巣」は、連作「パンパネラ」一族のシリーズなのですが、吸血鬼として永遠の生を生きる、主人公のエドガーやアランと、つかのまの青春を生きる少年達との対比が印象的です。

 「小鳥の巣」は、ロビン・カーが飛び降りてしまったあと、遅れて、学園にやってきたエドガー・アランと、在校生のキリアン、マチアス、テオとの興隆と確執が悲劇に終わります。なにが悲劇か、作品を読んでください。

 「日本古代史考」なのに、何が関係アルの?

 実は、『古事記』に、似たような物語があるのです。

 高天原の神々が、ニニギさんを派遣する前に、実は何人も派遣して失敗していました。その一人が「天の若日子」さんでした。ところが派遣された天の若日子さんは、大國主の娘の下照る姫さんと結婚してしまい、住み着いてしまいました。

 若日子さんが、高天原から「どうなってんの」と派遣された女性を射殺した矢が天井に届いて、そ れを最高責任者の高木神が投げ返したら、若日子の心臓を貫いて死んでしまいました。

 そこで「若日子が死んだ場所に、もがり屋を建てて、鴈を食べ物を備える役に、サギをほうきで掃き清める役に、カワセミを料理を作る人に、スズメを碓をつく女に、雉を泣く女の役に定めて・・・

 ユーラシア大陸の東の端と・・・西の端と・・・何か関係あるんでしょうね。

 ところで、アランは途中で、不慮の事故で消滅しちゃったけど、エドガーは物語の中では・・・2012年の今も。生きているはずです。いまも、10代の若い姿のままで……。

 初めて「ポーの一族」シリーズを読んだ時は、たぶん20代でしょうか。今は、ぼくも、もうじき60才です。

  ☆

 萩尾さんが「クック・ロビン」と書いて「コック・ロビン」と書かなかったのは、たぶん「コック=男性器」というイメージがあって、ドイツのギムナジウムの14才の少年達のイメージと、かなり違うと云う判断でしょうか。

 

 


日本の古代史 「邪馬台国」をめぐる奇術・トリックを考えました

2012年01月28日 05時01分57秒 | 古代史を考える

日本の古代史 「邪馬台国」をめぐる奇術・トリックを考えました

 前回、邪馬台国の所在地・卑弥呼の墓について、物証=物と遺跡からの証明について考えました。

 簡単に言うと、たとえば青銅器とくに矛、それから銅鏡、青銅器の鋳型、卑弥呼の絹、そして弥生時代の鉄器などの分布です。

 詳しくは、この問題でいちばん論陣を張ってきた古田武彦さん(その前期の著書)と安本美典さんの著書を参照してください。

 なお、古田さんと安本さんとは犬猿の仲で(つまりけんか状態で)すが、だからと言って、二人の意見の共通内容について、無視しないでくださいね。

  ☆

 今日のテーマは邪馬台国をめぐるトリック・奇術です。

 奇術とは、舞台にあがった奇術師が、聴衆の目の前で、聴衆の視線や興味を「ミス・リーディング」して、別の方向にそらして、肝心の動きを見落としてしまう術です。

 そもそも「邪馬台国」は中国から認められた日本列島の国「倭国」の「女王の都するところ」です。

 つまり「倭国」の首都が「邪馬台国」なのです。日本の首都は東京です。
 
 ですから、まず「倭国」の研究をしてから、その首都の「邪馬台国」を研究すべきで、「倭国」の歴史を無視しての「邪馬台国論」は無意味です。

 つまり「倭国」「倭人」は、中国の歴史書、朝鮮の歴史書に、紀元前後から8世紀に至るまで出現するわけですから、その「倭国」と古代「日本国」との関係、さらには「天皇」との関係を考えることが重要です。

 中国人・朝鮮人・日本人が入り乱れた日本の古代史、どうして「日本国」ができたのか考えることから、歴史を始めましょう。


 


古代史を考える 卑弥呼の墓や鏡の俗説は「偽志倭人伝」です

2012年01月26日 05時24分16秒 | 古代史を考える

古代史を考える 2012年1月25日(水) 卑弥呼の墓や鏡の俗説は「偽志倭人伝」です

 今は、あまり時間がないので、感想だけを記します。

 最近の「邪馬台国論争」、とくにマスコミ(新聞)での「発見」を見ていると、卑弥呼の墓は奈良県の箸墓で、卑弥呼の鏡は古墳時代の三角縁神獣鏡で、つまり古墳時代の奈良県に邪馬台国はあり、対立するクナ国は、東海地方や愛知県にあるという説まで出ています。

 倭国の首都、というか倭国王の卑弥呼さんがいる邪馬台国は、いつの時代なのか、どこにあるか、ですね。

 「魏志倭人伝」に年号まで書いてあるので3世紀に間違いないけど、それは弥生時代だったはずなのに、いつのまにか3世紀は古墳時代であると断定する無理。

 卑弥呼が古墳時代なら、どうして弥生時代の青銅器の「矛」が「倭人伝」に出てくるんでしょうか。

 倭人伝は書いています「兵には矛・楯・木弓を用う」

 この「古事記」「日本書紀」にも出てくる「矛」は、当然、西日本のとくに北九州の海岸に鋳型(つまり生産遺跡)が分布しています。

 弥生時代の近畿地方は、青銅器「銅鐸」の時代ですから、矛など、あるはずはありません。

 無理が通れば道理は引っ込んで「偽志倭人伝」にならないといいのですが。