雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

人間・心・集団1 ヒトは自分の「物語」なしには生きられない

2009年11月28日 05時21分24秒 | 人間・生命・宇宙
人間・心・集団1 ヒトは自分の物語なしには生きられない

 最近、感じたことを書きます。
 どんなヒトでも、自分の生まれてきて・生きている意味、存在価値、なぜ自分は今を生きているのかという確認無しには生きていけないと思います。
 そういう確認がなければ、ヒトは絶望して「自分には生きていく価値がないんだ」と自死に至るしかないのではないでしょうか。
 そういう自分の生きている意味を「自分の物語」と呼びましょう。
 
 そんな物語などいらない(と思う、たぶん)、トンボや蝶々やアメーバと人間の違いでしょうか。
 もしぼくの大好きなモノサシトンボに自我があったら、ごめんね。

 ヒトは自我を持ってしまい、宗教とか哲学とか世界観とか、自分の存在価値を確認してくれる「物語」が必要なのだ、と思います。
 
 この雨宮智彦のブログ、「哲学・思想・文化・人間」はそういうヒトの側からと、哲学・思想・科学の側からと両方から考えていきたいと思います。

 雨宮智彦は、宗教を否定しません。
 雨宮智彦にとって、宗教は必要ではありませんが。

 それはヒト(「ヒト」とは、人間の1人ひとりの個体を指します)にとって必要な自分を保つための「物語」=安全装置の一つではないでしょうか。

 それが宗教であれ、哲学であれ、科学であれ、世界中のヒトが、お互いを相互尊重しながら、生きていくのが21世紀の世界の姿なのではと思います。
 

 




遠州の遺跡・寺社3 山神社と蜆塚遺跡

2009年11月21日 16時42分10秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社 山神社と蜆塚遺跡


 1

浜松市の縄文時代と言えば蜆塚遺跡、蜆塚遺跡と言えば縄文時代、という風に浜松市民の頭の中には、縄文時代=蜆塚遺跡という等号ができていると思います。
 その有名な蜆塚遺跡のすぐ南側、つまり蜆塚遺跡と浜松市博物館の間に、小さな神社があることはあまり知られていないと思います。
 博物館の駐車場へ車を入れてすぐ北へ歩くか、それとも蜆塚遺跡の駐車場へ車を入れてすぐ南へ歩くかすると、その「山神社」が見えてきます。
 祭神は大山ずみ命(おおやまずみのみこと)。
 1982年に静岡県神社庁浜松支部が編集発行した『浜松市神社名鑑』(p54)では「当社は、その起源がが詳かではないが、往古より蜆塚遺跡の」と書いてあります。「往古」とはいつなのでしょうか。

 山神社の祭神のオオヤマヅミ神は、佐々木高明さんの『日本文化の基層を探る』(NHKブックス)にあるように日本土着のおそらく南方系の海人の神です。オオヤマヅミの娘がコノハナノサクヤヒメです。佐々木さんは「南島系の海人の系統というのは」「本州南岸を黒潮にのって志摩から伊豆の三宅島、伊豆の三島と展開し」(p179)と書いています。
 佐々木氏は年代を特定していませんが、伊豆諸島に少なくとも縄文時代から海人が展開しているのです。

 蜆塚遺跡の住民をオオヤマヅミ神を信仰する南方系の漁民(海人)と推測することは空想でしょうか。縄文時代の「往古」から蜆塚の集落の横に山神社があったと考えるのは空想でしょうか。今後の具体的課題としたいと思います。
 なお、山神社は東向きであり、当然太陽信仰の神社だと推測されます。

 2

 谷川健一さんは『青銅の神の足跡』(集英社、1979年)で「古い地名、伝承、氏族、神社。この四つを組み合わせることで、文献記録ではたどれない古代に遡行することができると考える。もとよりそこには考古学の助けが必要であるが。」と書いています。私は、これに共感するとともに「遺跡・古墳」も組み合わせて考えたいと思います。

 なお、蜆塚遺跡のなかの南端部分に「蜆塚古墳」があることも付記しておきます。

遠州の遺跡・寺社2 遠江「若倭部」の万葉歌と木簡

2009年11月21日 00時06分31秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社2 遠江「若倭部」の万葉歌と木簡


 1  「麁玉郡若倭部」の兵士の歌

 「万葉集」の中には、いまの静岡県西部、当時の「遠江」で読まれた歌が「東歌」として掲載されています。

 「巻第二十」に、「天平勝宝七歳乙未の二月に、相替りて筑紫に遣わされた諸国の防人等の歌」があり、「4321」から7首、遠江の歌が載っています。

 「4322」番が「主帳丁麁玉郡若倭部身麿」による次の歌です。

 「わが妻はいたく恋らし 飲む水に影さえ見えて 世に忘られず」。

 意味は、「わたしの妻は かなり私を恋しているらしい 私の飲む水に 妻の面影さえ見えて どうしても 忘れることができない」

 現代的に考えると、かなり屈折した表現ですが、この古代兵士、性は「若倭部」、名は「身麿」の、遠く筑紫、つまり九州へ送られるときに、故郷に残してきた妻への、切々とした思いが伝わってきます。
 
 「麁玉郡」は「あらたまぐん」と読みます。古代の遠江の地名で、浜松市では、「有玉郡」または「有玉神社」として残っています。

 「若倭部身麿」は、解説書に従っていまのことろ「わかやまとべむまろ」と発音しておきます。

 この「若倭部」の名前が付いた神社が浜北市にはあります。宮口の庚申寺のすぐ横に、現在は「八幡神社」という名前ですが、明治維新までは「若倭部神社」でした。


  2 伊場木簡の「若倭部」

 浜松市東伊場の弥生から律令にいたる複合遺跡「伊場遺跡」で出土した「伊場木簡」の中に、「若倭部」の名前が現れています。

 伊場木簡では、若倭部の姓をもつ人名は24例に達し、宗宣部(そがべ)・語部(かたりべ)のそれぞれ10例を倍以上上回っています。
 (『静岡県史 通史編1 原始・古代』静岡県、p469)

 その中に「已亥年五月十九日渕評竹田里若倭部連老末呂」と書かれた木簡があります。「已亥年」とは699年(文武三年)であり、「渕評」とは、伊場遺跡にあった「評役所」と推定されています。

 つまり、古代の「若倭部」は、浜松市の伊場遺跡付近と、浜北市の宮口から浜松市の有玉にかけてと二カ所に拠点を持っていたか、それとも伊場遺跡付近から浜北市宮口付近まで広い範囲に分布していたかということになります。

 「若倭部」は、『万葉集』という古代文献と、伊場木簡という古代の直接文字史料と、神社名という現代に残る資料と、3つの系統で確認されていることになるのです。

 (「遠江と古代史の森」に2005年1月17日UPしたものを再録)



遠州の遺跡・寺社1 五社神社の謎の「姫大神」 

2009年11月21日 00時03分14秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社1 五社神社の謎の「姫大神」


 1 浜松・五社神社の「姫大神」

 浜松市の中心部、今の「はまホール」、昔の「浜松市民会館」のすぐ北側に、「五社神社・諏訪神社」があります。

 毎年、「紅白歌合戦」が終わって「行く年来る年」が始まる頃、元旦の午前0時前から、急に、この五社神社前は、新年の参拝の人が集まってきます。人の波が、午前0時から午前1時頃まで続くのですが、浜松では、伝統があり、今でも人々の尊敬を受ける神社であることはまちがいありません。

 神社には、位(くらい)というのがあって、「特一級」から「十五等級」まであります。この「五社神社・諏訪神社」は、「特級」ですから、「偉い神様が祭られている」ことは、間違いないはずです。

 いま五社神社・諏訪神社の前に行くと、大きな赤い鳥居の左に、説明版があります。その説明版でも、手元にある『浜松神社名鑑』という本でも、五社神社の祭神は、つぎの5人です。
 つまり、神様が5人いるから「五社神社」ということのようです。

 1 太玉命
 2 武雷命
 3 斎主命
 4 天児屋根命
 5 姫大神
 
 問題は、最後の5番目の「姫大神」です。5人の神様のうち、4人までは、固有名詞で、『日本書紀』などの古代文献にも名前の出てくる神様ですが、「ひめおおかみ」とは、なんでしょうか。

 「姫(ひめ)」も「大神(おおかみ)」も、固有名詞ではない、一般名詞です。
 なんで、「姫大神」なる女性が、ひとりの特定できる女性だと言えるのでしょうか。

 そういう疑問から始まって調べ始めたら、すこしわかってきました。

 2 春日神社と宇佐神宮の「姫大神」

 静岡県神社庁浜松支部編集で『浜松神社名鑑』という本が昭和57年(1982年)に発行されています。浜松市内の神社「231社」をそれぞれ1ページづつまとめた本です。
 
 この本を見ていくと「姫大神」が、五社神社以外には、春日神社に出てきます。しかも、浜松市内に笠井地区に3つ、馬郡町にに1つある春日神社の祭神は、ほぼ五社神社と同じです。

 私は、五社神社という神社は、諏訪神社と合体していることから推定して、諏訪神社という出雲系の神社と思っていたのですが、それは大間違いのようです。
 つまり、五社神社は、実は、藤原氏の氏神である春日神社と同じ系統と言うことになるようです。五社神社・春日神社と、諏訪神社・遠江一宮である小国神社などとはまったく違います。

 インターネットで「姫大神」を検索すると、いろんな「○○○姫大神」がヒットしますが、春日神社以外に、もうひとつ、固有名詞のない「姫大神」が出てきます。

 それは、九州・大分県の宇佐神宮の「姫大神」です。
 しかも、宇佐神宮、つまり、日本で一番多い神社である八幡様の総本山ですが、一般に考えられている宇佐神宮の主神である八幡様=応神天皇ではなく、実は、「姫大神」こそ、宇佐神宮の本来の主神であるとする考察がいくつもあります。

 春日神社の「姫大神」と宇佐神宮の「姫大神」が同じ女性神と仮定すると、なぜ、藤原氏の春日神社に「姫大神」が入り込んでいるのでしょうか。あるいは藤原氏の最初からの祖先神なのでしょうか。

 インターネットで宇佐神宮を検索したら、「姫大神」は卑弥呼であるとの解釈が出ていました。非常に魅力的な仮説ですが、まだ仮説であって証明されていません。

 「姫大神」とは何か、私も、探索を続けたいと思います。

 (「遠江と古代史の森」に2004年12月30日アップした再録)

遠州古代史1 浜松の神社の方向性

2009年11月09日 23時21分16秒 | 遠州古代史
 遠州古代史1 浜松の神社の方向性

 秋も深くなりました。新型インフルエンザがはやってきました。社会崩壊というまでにはならないようですが、かからないように気を付けて、かかった人が多くなっても企業や職場が崩壊しないように対応に頭を痛めるところですね。
 さて、今日が第1回の記事です。
 以前書いていた「遠江と日本 古代史の森」は少量ですが、そのまま凍結保存してありますが、それ以外の分野も含めて、ブログで新たに探っていきたいと思います。
 http://www.geocities.jp/nobuhama56/nihonkodaisi/index.htm

 今日のテーマは「神社の方向性」です。皆さんが、近くの神社に参拝に行くと、参道を歩き、鳥居をくぐって、拝殿の前で神様に参拝します。それはどちらの方角ですか?
 この参拝の方向は、私達が神社の中にいる神様を拝むわけですから、逆に神様は私達が参拝するのと180度逆の方角を見ていることになります。この神社の拝殿から鳥居や参道の方向を「神社の方角」とします。
 実際に、たくさんの神社を調べると。この方角には大きく東方向と南方向の2つに2大別されます。
 もちろん浜松でも、例外で西向きの神社もありますがそれは別途考えたいと思います。
 東向きの神社は、おおまかに言えば太陽の出る東を向いているわけですから、太陽信仰の神社であると推定されます。
 南向きの神社は、天の信仰に基づく南北軸の神社ではないでしょうか。
 東向きの神社は古い太陽信仰の神社で出雲系統や南方系統であり、南向きの神社は比較的新しい大陸系・北方系の信仰に基づく神社ではないでしょうか。
 浜松の神社をもっと調査して、正確なデータをだしたいと思っています。