雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

本と映像の森24 山之内重美『黒い瞳から百万本のバラまで』

2010年03月31日 05時31分25秒 | 本と映像の森
本と映像の森24 山之内重美さん著『黒い瞳から百万本のバラまで ロシア愛唱歌集』<ユーラシア・ブックレット31>、東洋書店、2002年6月15日第1刷~2005年6月30日第4刷、63ページ、定価600円+消費税

 みなさんは、ロシア民謡が好きですか?
 ぼくは、若い頃、浜松に帰ってきて、偶然、市民「合唱団美樹(みき)」を知って、そこで歌っていたので、ロシアの歌が好きです。
 
 合唱団美樹で体験した最初の定期演奏会、たぶん1976年の、ファイナル曲「ロシア」は、凄い感動でしたね。

 著者の山之内重美さんを知ったのは、深夜の配送の仕事上、運転しながらラジオを聞いているので、NHKラジオ深夜便で、午前4時からの放送で、聞いたのがきっかけでした。

 山之内重美さんは「歌手、俳優,ロシア研究家」、つまり歌手なのに研究者、研究者なのに歌手、という、貴重な存在です。

 山之内さんのこの本での一番の主張は、「ロシア民謡」と言うけど、ほとんど「民謡」ではなくて、現代の歌曲です。
 
 この本は、「黒い瞳」「カリンカ」「すずらん」「つる」など1つひとつの曲について、ロシア語の原詩と日本語訳詞をかかげて、そのできかたや、作詞者・作曲者・歌手をていねいに解説しています。

 こういう作業がていねいにされると、ロシア民謡であれ、なんであれ、なにも考えずに、心地よく歌って・・・・というわけにはいきません。

 吟遊詩人ブラート・オクジャワの、ソ連体制に抑圧されながら生ききった生涯の話は、胸におちます。

 まだ、もっと、考えながら歌い・・・歌いながら考えたいと思います。

 

雨宮日記 3月29日(月) 妻N子さんの現職場の最後の勤務

2010年03月31日 05時13分19秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 3月29日(月) 妻N子さんの今の職場の最後の勤務

 今日の夜8時から明日30日の朝7時までが、N子さんの今の介護施設の職場での最後の勤務日です。

 保育園を50代半ばでやめて、失業対策制度でホームヘルパー2級をとって、自宅のすぐそばにちょうどできたグループホームに勤めて今日まで、○年。

 お疲れさまでした。
 退職、おめでとうございます。
 ようやく「脱出」できましたね。

 2ヶ月ぐらい自由にのんびりしてください。(N子さんいわく「智彦くんがいろいろ予定を持ち込んでスケジュールを埋めちゃわないように」)

 N子さんは、昼間の勤務で、もう少し休む自由のきく介護の職場を探すそうです。60才になったので、厚生年金を少しもらいはじめたので、これまでの仕事よりも給与は少し下がってもいいということです。

 ぼくが60○才になって国民年金をもらっても、月5万円しかもらえません。夫婦ともども働きながら、娘2人も含め、雨宮家の生活をなんとか支えていくしかないですね。

 ぼくたち2人、精神的には、魂的には、幸せな人生だと思いますが、くらし的には、生活的にはリアルに不幸せです。
 もちろん、逆に精神的・魂的に不幸せ、くらし的・生活的には幸せよりは、僕たちのほうがいいですが。
 やっぱり、どっちも幸せだといいなと思います。

 N子さんは介護福祉士の試験が終わった後、かなり久しぶりに浜松中央図書館に行って、『甘えの構造』とか『心でみる世界』とか借りてきて、学習をしています。

 台所で本を読みながらメモしているN子さんの姿を見ていると、なんだか幸せな気分になって、惚れ直しました。

本と映像の森23 柳田邦男『「人生の答」の出し方』新潮文庫

2010年03月30日 05時06分23秒 | 本と映像の森
本と映像の森23 柳田邦男さん著『「人生の答」の出し方』新潮文庫、新潮社、平成18年11月1日発行、514円+消費税

 「人生の答」とは何でしょうか。
 そもそも答えとは、「人生の問い」がなければ成立しません。
 
 ○×式の「回答」ではないと思います。
 最近はやりの、「○○検定」では抜け落ちてしまうもの、だと思います。
 もっとアナログな、論理ですらないもの、それが「人生の問い」であり「人生の回答」であると思います。

 人生ですから、当然「生と死」です。
 正確に言うと「人生 始まりは誕生で 終わりは死」ですが。

 たくさんの一人ひとりが「生と死」について、どう問うて、どう答えを探ったかを、ノンフィクション作家の柳田邦男さんが取材し考えた記録です。

 たとえば、49才で神経難病のALSを発症した西尾健也さん。
 あるいは、「生きがい療法」を実践し患者と富士登山やモンブランに登った医師・伊丹仁郎さん。
 ユダヤ人強制収容所を生き延びたフランクルさんの言葉「人生から何を我々は期待できるかが問題なのではなくて、むしろ、人生が我々に何を期待しているかが問題なのである」(『夜と霧』)
 たとえば写真家の星野道夫さん。
 そして、医師の日野原重明さん。
 
 柳田さんは「魂をゆさぶる言葉」のすばらしさを語っています。
 私も言葉に命の響きを取り戻したいと思います。
 そういう魂と、言葉を探して、もっと遠くへ行きたいなと思います。

 生と死にかかわる医療関係者、介護関係者、お医者さんや、看護師さん、介護職員さん、あるいは医療組織関係者のみなさん、みんな必読の本だと思います。

 

遠州古代史3 銅鐸・さなぎ・猿投・佐鳴湖

2010年03月29日 20時50分29秒 | 遠州古代史
遠州古代史3 銅鐸・さなぎ・猿投・佐鳴湖

 日本の古代「弥生時代」には、祭りや政治で使われた金属器に、銅鐸・銅矛・銅剣などがありました。
 問題はこの銅鐸です。
 当初は九州などの西日本で出現しますが,次第に東へ移動して、出雲や近畿地方・東海地方で主に出土します。

 出雲の加茂岩倉遺跡でいっきょに39個の銅鐸が出土して、出雲は50個、奈良県は16個ですから、数だけで言えば銅鐸の分布の中心は出雲ということになりますが、簡単には言えません。

 近年では関東地方でも出土し始めたので、関東も銅鐸圏にしないといけないですね。

 弥生時代後期に、遠州地方でも多数出土し、とくに都田川下流域は「銅鐸の谷」とも呼ばれています。

 この銅鐸を「さなぎ」「猿投(さなげ)」との説があります。

 「さなぎ」はもちろん昆虫の蛹(さなぎ)です。
 蛹と銅鐸は形が似ているでしょうか?どうでしょうか?

 前回のイザナギさん・イザナミさんの夫婦神=クジラ説からいくと、
 クジラ=蛹=銅鐸となるんですが、無理なような気もしますが。どうでしょうか。

 愛知県には猿投山(さなげやま)という標高629mの山があって、巨石信仰でも知られています。 

 浜松市最大の淡水湖である佐鳴湖(さなるこ)は古くは「猿投」とも呼ばれ、遠州地方が銅鐸の宝庫であり、佐鳴湖の西・北・東の3方向で銅鐸が出土し、佐鳴湖の南の伊場遺跡からは銅鐸の破片が出土しています。
 
 まさに佐鳴湖は「銅鐸の湖」です。

 いずれにしろ銅鐸は今から約2000年前、弥生時代の最先進の。当時のハイテク技術による金属器です。
 銅鐸の解明なしに、浜松の弥生時代の解明はありません。
 いろいろと考えていきたいと思います。

 浜松の銅鐸は浜松市北区細江町の「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」や浜松市博物館などで見ることができます。

 浜松市博物館で遠州で出土した銅鐸の詳しいカラーガイドブック『浜松市の銅鐸』(A4版、45ページ、400円)が出ていますので博物館で買うことができます。
 
 同じく浜松市博物館で『発見!!滝峯才四郎谷銅鐸』というのもでています。これもおすすめです。A4版、25ページ、300円。

 さて、これを読んで「それがどうした?」「銅鐸のことがわかっても、私の暮らしに何の関係がある?」と思う人もいらっしゃると思います。

 これは雨宮の追求している楽しみのひとつです。

 2年前の11月7日に73才で亡くなった筑紫哲也さんは、死を自覚したときに「お墓には何も持って行けません。残る物は何かというと、どのくらい自分が人生を楽しんだか、それが最後の成績表だと思うんです」と思わったそうです。

 今日は妻のNこさんが今の職場をやめてしばらくフリーになる、最後の勤務(朝7時までの夜勤)の日です。
 N子さんといっしょに、あるいは1人で、あるいはみんなで、自分のために精一杯生き、他人のためにも精一杯生きたいと思います。

雨宮日記 3月28日(日) 里山喫茶で文化と自然をたっぷりと

2010年03月29日 05時28分07秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 3月28日(日) 里山喫茶で文化と自然をたっぷりと

 浜北区の灰木川里の家で、第3回里山喫茶を開きました。
 ぼくとN子さんは、スタッフとして参加しました。ぼくは2回目、N子さんは1回目です。
 
 里山の1本桜が白い花を満開に咲かせています。
 ニホンアカガエルの黒い小さなオタマジャクシが、たくさん、寒谷の田んぼを泳いでいます。
 シュレーゲルアオガエルが土の中で、姿を見せず、コロコロコロと歌っています。
 
 午前10時から12時までの2時間、OさんのギターとN先生のフルート伴奏で「みんなで歌おう」、コーヒータイムのあと、N先生のすてきなフルート演奏と飾らないすてきなMCを楽しみました。

 遠くでウグイスが鳴き、シュレーゲルアオガエルがコロコロコロとバックコーラス、至福の時でした。

 里の家の裏山のハルリンドウやタチツボスミレやイモリの池(今日は少し寒かったのでイモリはみれませんでした)を案内し、寒谷のモウセンゴケや、田んぼのアカガエルのオタマジャクシや水路のカワニナ(ゲンジボタルのえさ)を紹介しました。

 心配した雨も夕方ほんのすこし湿っただけでした。

 夜になって家で「何、あの音」と思ったら遠雷でした。
 外へ出てみると稲光と遠雷はするのですが、月が照っていました。
 
 稲光は稲妻(いなずま)つまり、稲の妻で、稲妻と雨は、稲を育てる女性神ではないでしょうか。
 古来、雨や水は女性神で、川の蛇行からか、ヘビに象徴されています。
 

 
 

雨宮日記 3月26日(金) お花見の皆さん「飲酒速度」注意!

2010年03月29日 05時09分00秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 3月26日(金) お花見の皆さん「飲酒速度」注意!

 桜が咲き始め、週末はみなさん「お花見」だと思います。
 日本人とサクラの関係については、「日本古代史3」で書きましたが、「お花見」は、豊作の神様「サ」が山から降りてきて、今年も豊作であることを願う「予祝」行事です。
 
 外国人には、なんで「4月に桜が咲くと、日本人は、集団で「お花見」と称して、桜の咲く下で飲み会をするのか」わけがわからないようです。
 日本人にだって「それは毎年やる年中行事です」というくらいしか、わからないのだから、外国人に説明できるわけはありませんね。
 
 雨宮が書いたような、日本民俗学の通説というか常識程度でも、市民に普及し、学校で教えられるといいんですが。

 浜松市の中田島街道に静岡県警が設置した電光掲示板があります。
 そのなかに、すごく、おもしろい「警告」があったので、紹介します。

 写真で見えるように「静岡県警察 飲酒速度 取締中」と書いてあります。
 たぶん「何分間に、何合以上飲むと」「飲酒速度違反」で、おまわりさんがやってきて、「あなたは飲酒速度違反で、罰金何円です」ということになるのではないでしょうか。

 お花見のみなさん、飲酒速度に気をつけて、あんまり一気に飲まないように、ゆっくり飲みましょうね。

日本古代史4 クジラって誰?イザナギさん・イザナミさんは誰

2010年03月27日 19時32分14秒 | 古代史を考える

日本古代史4 クジラって誰?イザナギさん・イザナミさんは誰?

 このまえ、西欧人の組織「シー・シェパード」の人が日本の調査捕鯨船を妨害するために侵入して逮捕されたという話を聞きました。

 「シー・シェパード」の人の抗議は、「人間並みに知性のある同じ哺乳類であるクジラやイルカを日本人が狩って食べるのは野蛮だ」「豚や牛など知性のない哺乳類を食べるのは人間にゆるされる」という主張だろうと思います。
 違っていたら、抗議、受け付けます。

 どこかの映画祭で上映されたという、イルカ撲殺映画の話を聞いても、なにか、最初のボタンの掛け違いがあるのではないでしょうか。

 「本と映像の森」で紹介した「ブンナ」の話を再録します。

 「ブンナは、自分たちの人生(いやカエル生)が、他の動物たちを食べて、他の動物たちに食べられることをリアルに学び、自分を生かしてくれる動物たちに感謝するようになっていきます。
 人間も同じだと思います。
 食事をするときに「いただきます」と言いますが、これは、「生き物であるあなたたちの体を,今から自分のからだにいただきます。」ということなんですね。
 食事のあと「ごちそうさまでした」というのも、食べてしまった生き物たちへのお礼の言葉なんだと思います。
 私は思うのですが、食べるのは敵だからではなくて、同じ仲間だからこそ食べるんですね。
 食べた動物や植物が毒ではなくて、自分の体の栄養になることを知っているからこそ食べるんです。」

 さて、そこで大転換です。
 『古事記』『日本書紀』の最初に出てくる,日本列島を産む夫婦神「いざなぎ」さん・「いざなみ」さんは何物なのか?

「いさな」は古語で、クジラのことです。
 これは万葉集の解釈でも、確定しています。

 記紀伝承の元を創った「あまぞく」「海女族」「天族」は、朝鮮半島と日本列島のあいだの海洋を支配する海洋民族だったのではないでしょうか。
 
 「アマテラス大神」はやはり天(あま)(ではなく、海女(あま)の海のことで、海を照らす太陽神ではなかったでしょうか。

 そして、この「あまぞく」の祖先神(トーテム)が、鯨である「いざなぎ」「いざなみ」なのではないでしょうか。

 トーテムとは、1つの部族が動物、たとえばヘビとか鳥とか、熊とか虎を祖先神として信仰し、自分たちがその子孫であるという信仰です。

 アメリカインディアンの「トーテムポール」もその1つです。

 記紀伝承(ぼくは「日本神話」とは言いません)では、イザナギさん・イザナミさんが天の浮き橋の上に立って、玉(たぶん勾玉でしょうか)で飾った矛を下ろして探ると、青海原がみつかり、矛の先から滴った海水が凝り固まって一つの島になりました。
 この島をオノゴロシマと名付けました。
 イザナギ・イザナミさんは、オノゴロシマに降りて、国(洲)を生みみました。

 この稿は、まだ続きます。
 「さなぎ」に続きます。
 

 
 


日本古代史3 さくら・さつき・さなえ・・・の「さ」とは

2010年03月27日 19時03分49秒 | 古代史を考える

日本古代史3 さくら・さつき・さなえ・・・の「さ」とは

 今日は3月27日(土)で、桜(さくら)がもう7分咲きで、浜松は昨夜から「お花見」モードです。

 今夜は土曜夜なので、浜松城公園とかは、みんな盛り上がっているんでしょうね。
 なぜ日本人は「花見」をするのか?
 なぜ桜が咲いたから、飲み会をするのか?
 ガイジン(外国人)には不可解だそうです。
 当の日本人も、その理由は知らないかもしれませんね。
 「なんでって?だって親の時代から毎年そうしているんだから」

 民俗学のほぼ定説では(「定説」は必ず、その「定説」に反対の学者もいますからね、)お花見は、ほんとうは、農業での今年の豊作を祈る「予祝(よしょく)」行事ということのようです。
 つまり、今年の田や畑の豊作を願って、みんなでお酒を飲み、団結を誓う、村の行事です。
 雨宮も、そう思います。

 日本人の神さま信仰では、稲の豊作の神様は、毎年秋に、山に帰っていって、春に里に戻ってきます。
 その神様を迎える行事が春のまつり「お花見」です。
 秋に神様を山に送る行事が「秋祭り」です。

 で、問題は、なぜ「さくら」の花なのかです。
 民俗学の説では、「さくら」という言葉は「さ」+「くら」で、「さ」は神様のこと、「くら」は、その神様が降りてくる「倉」を意味します。
 
 「さ」はいろんなバリエーションがあります。

  五月 さつき 神様が降りてきて稲が育つ月
  早苗 さなえ 神様が宿った稲の苗
  早乙女 さおとめ 稲を田植えするときの聖なる女性たち
   (ですから、早い年齢の、若い乙女とかという意味はほんらいないと思います。
    何歳だろうと、早乙女です。
    東京大空襲を追求している方は早乙女勝元さんです。)
  五月雨 さみだれ 5月の雨のことです

 どうでしょうか?
 これは雨宮説です。
 みなさん、無条件に、信じないでくださいね。
 自分で具体的に調べて、自分の目と頭で判断して、肯定するなり,否定するなりしてください。
   



本と映像の森22 CD 竹田恵子「宮沢賢治 星めぐりの歌」

2010年03月26日 04時15分39秒 | 本と映像の森
本と映像の森22 CD 竹田恵子「宮沢賢治 星めぐりの歌」

 本と映像(映画・アニメ)だけではなくて、ぼくの大好きな音楽や朗読も紹介していきたいと思います。
 ですから、正確には「本と映像と音声の森」です。

 宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜」つながりで、まず紹介したいのは、宮沢賢治さんが自分で作詞作曲した「星めぐりの歌」です。

あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の つばさ
あをいめだまの こいぬ、
ひかりのへびの とぐろ
オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす

アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち
大ぐまのあしを きたに
五つのばした ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて

 賢治さんの「双子の星」や「銀河鉄道の夜」でも作品の中で、歌われています。

 ぼくが、すごい、今までで、いちばんいい!と感じたのは、劇団「こんにゃく座」の竹田恵子さんが歌ったアカペラ(無伴奏)版です。

 このCDに入っている「ポラーノの広場の歌(林光作曲)」や「あまのがわ(林光作曲)」もいいです。

 「あまのがわ」は、賢治さんの「銀河鉄道の夜」の第1次稿から、第4次稿までの推敲過程で,残念ながら消えてしまった「うた」です。


 いちばんすごいのはオペラ「シグナルとシグナレス」です。
 こんな、ユーモアとペーソスに満ちた作品を、暗いはずの戦前に書いてしまっていいんでしょうか。
 賢治さんの生きた時代から70年以上経った今となっても,生きている作品です。
 感動しました。
 
 CDで「ALM RECORDS ALCD-7033」、製造・発売元、コジマ録音、です。
 いま手に入れられるか、わかりません。

 浜松の方で、貸して欲しい方にはお貸しします。
 興味のある方は,ご連絡ください。


雨宮日記 3月25日(木) 通勤道に沖縄のシーサーが

2010年03月26日 03時57分47秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 3月25日(木) 通勤道に沖縄のシーサーが

 昨年は、妻のN子さんに「お腹の円周の増大」について警告されましたので、今年は食べる量を減らすのと、できるだけ歩くようにしています。

 自宅から馬込川を歩く散歩にもできるだけ行きますが、浜松の中心部へ出かけるときはエコのためにも遠鉄電車で行く、そして自宅から会社へ行くときはできるだけ歩くようにしています。
 松城町の中心部から引っ越すときに、N子さんの当時の職場と自分の職場に近い土地を探して、家を建てたので、自宅から会社まで歩いて20分くらいです。

 歩くといろんな発見があります。
 コンクリの道路の隅に根を張っている野の花や、キジバトやムクドリやスズメなどの鳥たち。
 ちょうど学校から集団下校の小学生たち。
 曳馬でも青空や、遠くの山々がきれいだということも。

 この前、通勤路で発見した、沖縄の魔除けの「シーサー」(獅子)です。
 沖縄大好き人間ですので、うれしくなりました。
 
 調べてみると、元々は、エジプトのスフィンクスのように「単体」だったのが、日本の神社の「狛犬」(こまいぬ)に影響されて、左右1対になったということのようです。

 蛇足ですが、メタボ脱出のためとはいえ、体重を急に5kg以上減らしたり、あるいは5kg以上増えると、死亡率が数割上がるという研究が、最近の新聞記事にありました。
 本当だとしたら、こわいですね。
 
 「過ぎたるは及ばざるがごとし」です!用心しましょうね!





 

 

資本論の学習7 「共通な社会的実体の結晶として」の「価値」

2010年03月25日 04時46分18秒 | 人間・生命・宇宙
資本論の学習7 「共通な社会的実体の結晶として」の「価値」

 1ページを何回も「学習」する、カタツムリのような遅い歩みですみません。

 カタツムリで思い出して,脱線しますが、最近、デンデンムシムシカタツムリを見なくなっていませんか?これは、大気汚染による酸性雨の影響で、カルシウムの殻をもつカタツムリが減っているのではないかという記事を数年前に見ました。
 ほんとうにそうかもしれません。

 子どもたちが「でんでんむし、むし、かたつむり、おまえの頭はどこにある」という歌を知らないなら、さびしい日本列島だなと思います。

 前回、引用した原文です。
 「そこでこれらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性以外のなにものでもなく、区別のない人間的労働の、すなわちその支出の形態【雨宮注 労働の具体的形態のこと】にはかかわりのない人間的労働力の支出の、単なる凝固体以外のなにものでもない。」(新日本新書①p65、原書p52)

 この続きで、マルクスさんは、こう書いています。

 「これらの物が表わしているのは、もはやただ、それらの生産に人間的労働力が支出されており、人間的労働が堆積(たいせき)されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値ー商品価値である。」

 第1点は、注意深く読むと、新日本新書版は「もの」と「物」を訳し分けています。このことは「表わす」と「現わす」も同じだと思います。

 第2点は、マルクスさんは、価値とは、抽象的人間労働の直接の結晶であるとはしていないことです。
 抽象的人間労働の「それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値ー商品価値である。」

 このことの意味は、また後で述べたいと思いますが、マルクスさんは、そう言っているということを確認して、この項目を終えます。



資本論の学習6 使用価値と労働の有用性を抽象すると 

2010年03月25日 04時22分13秒 | 人間・生命・宇宙
資本論の学習6 使用価値と労働の有用性を抽象すると 

 前々回の「資本論の学習4」で以下の文章を引用しました。

 「そこで、諸商品の使用価値を度外視すれば、諸商品にまだ残っているのは、1つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。」(新日本新書①p64、原書p52)

 その続きの学習です。

 マルクスさんは、こう言います。
 「それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的形状はすべて消し去られている。」

 そして、労働による生産物の具体的形状が消し去られたということは、その元の「労働の有用的性格も消え失せ」る、と。

 マルクスさんは、このような「労働のさまざまな具体的形態も消え失せ、これらの労働は、もはやお互いに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間的労働」に「還元され」と分析し、このような労働をここで「抽象的人間労働」と定義しています。

 この問題は、次の節「第1章第2節 商品に表わされる労働の二重性」で詳しく分析されるので、ここではこれまでにしておきます。

 ただ1点だけ、次のパラグラフを考えます。
 「そこでこれらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性以外のなにものでもなく、区別のない人間的労働の、すなわちその支出の形態【雨宮注 労働の具体的形態のこと】にはかかわりのない人間的労働力の支出の、単なる凝固体以外のなにものでもない。」(新日本新書①p65、原書p52)

 問題は「まぼろしのような対象性」という用語です。
 「対象性」は、文章で明らかなように「凝固体」と同じ意味だと同じだと思います。
 
 つまり、具体的有用労働は、使用価値という、目に見える「まぼろしのよう」ではない対象性に「凝固」するのですが、具体性を抽象した抽象的人間労働は、その使用価値の中の価値という「まぼろしのような対象性」「凝固体」になるのだと思います。

 図式としては,以下のようになります。
 
 ① 具体的有用労働 → 凝固 → 目に見える使用価値
 ② 抽象的人間労働 → 凝固 → まぼろしのような対象性

 こういうことかな?

 

本と映像の森21 水上勉『ブンナよ木からおりてこい』新潮文庫

2010年03月24日 22時53分05秒 | 本と映像の森
本と映像の森21 水上勉さん著『ブンナよ木からおりてこい』新潮文庫

 著者は「みなかみつとむ」さんではなく「みずかみつとむ」さんです。
 群馬県にある温泉は「水上(みなかみ)温泉」です。

 主人公のブンナは沼に住む若いオスのトノサマガエルです。
 周りのツチガエルたちと一緒に住んでいますが、ツチガエルといっしょに住むなかで、能力の高いトノサマガエルのブンナは、だんだんとイヤな性格になっていきます。
 なにしろ「トノサマ」ですからね。
 
 木登りの好きなブンナは、高い椎の木に、周囲の反対の声を無視して登っていき、2度目には1夜を明かそうとします。
 
 そこが実は肉食鳥類で鷲鷹類の一種であるトビが狩った獲物の動物を中間的に置いておく悲しい場であることがわかったのです。
 
 もうブンナは下りられなくなって、椎の木の頂上の土の中に潜って、トビの捕まえてきていずれトビに食べられる運命の動物たちの嘆きと葛藤を聞くことになります。

 モズ・スズメ・ネズミ・ヘビ・ウシガエル・ツグミたちの会話とブンナとの会話で、ブンナは何を学んでいくのでしょうか。
 ブンナは無事下りられるのでしょうか。

 なにしろモズにしろ、ネズミにしろ、ヘビにしろ、地上ではカエルを食べている動物たちなのです。

 ブンナは、自分たちの人生(いやカエル生)が、他の動物たちを食べて、他の動物たちに食べられることをリアルに学び、自分を生かしてくれる動物たちに感謝するようになっていきます。

 人間も同じだと思います。
 食事をするときに「いただきます」と言いますが、これは、「生き物であるあなたたちの体を,今から自分のからだにいただきます。」ということなんですね。
 食事のあと「ごちそうさまでした」というのも、食べてしまった生き物たちへのお礼の言葉なんだと思います。

 私は思うのですが、食べるのは敵だからではなくて、同じ仲間だからこそ食べるんですね。
 食べた動物や植物が毒ではなくて、自分の体の栄養になることを知っているからこそ食べるんです。

 スズメも、ヘビも、モズも・・・みんな、少し曲がっている人格(じゃない「動物格」)なのですが、その最後の時間に、自分の真実を吐露しているように思います。

 生態系のリアルな姿を具体的に知るための、いい本です。
 そして、生と死の問題を考えるための必読本です。

 

 
 

雨宮日記 3月24日(水) 市議会で子どもに「愛国」押しつけ

2010年03月24日 22時35分48秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 3月24日(水) 市議会で子どもに「愛国」押しつけ

 今日の浜松市議会本会議で、「浜松市子ども育成条例」が採決されます(もう採決されましたね、たぶん)。   

 自由民主党浜松の会派さんが委員会で、修正案を提案し、原案に「国を愛する心をはぐくむことができる環境づくり」を加えたものが委員会で可決されて、今日の本会議にかかったのです。

 どうして子どもたちが、「国を愛する心」を持たねばならないのでしょうか。愛しようと批判しようと自由ではないでしょうか。

 「国を愛する心をはぐく」まない子どもは、学校で批判されるのでしょうか、

 国を愛するか憎むか、自治体を愛するか無視するか、親を愛するか批判するか、それぞれの自由なのが市民社会ではないのでしょうか。

 それぞれがそれぞれの意見で決めていいんだよと浜松市の学校では教えられず、子どもたちに「国を愛しなさい」と押しつけられるのでしょうか。
 恐ろしいことです。

 そんなことを子どもに押しつけるより、まず「愛する価値のある国」「愛する価値のある自治体」をつくる、「愛する価値のある大人・議員」になる努力をみんなでしたらどうでしょうか。



本と映像の森20 クリストファー『トリポッド 1襲来』早川文庫

2010年03月24日 04時46分47秒 | 本と映像の森
本と映像の森20 ハヤカワ文庫、早川書房、2004年11月15日初版、254ページ、定価620円+消費税

 いま(今!です、2010年3月24日の午前4時50分です!)気がついたのですが、この本にも「定価(本体620円+税)」と書いてあるだけで「消費税」と書いてないんですね。
 これって、法律で「消費税」と書いてはいけないとか決められているのかな?
 それとも政府の「要請?」
 あるいは「要請」もないけど、書籍業界の自主規制?
 ほかの「業界」はどうなっているか?調べてみたいと思います。

 脱線しましたが、イギリスのSF作家、ジョン・クリストファーさん著『トリポッド 1襲来』は、宇宙からの侵略者による「破滅」もの4部作の第1番目です。

 「ネタバレ」がありますので、そういうのが嫌な方は、ここから後は読まずに、本を読んでからお読みください。

 「トリポッド」は英語ですが、日本語に訳すと「三脚」になります。

 宇宙からある日、「三脚」のような物体がやってきて、というと、やはり、最近、映画化された、H・G・ウェルズさんの「宇宙戦争」を思い出しますが、この「トリポッド」の方が、すごく上質の、よくできた、もっと怖い作品だと思います。

 「宇宙戦争」では、タコのような侵略者の宇宙生物が、地球の生態系を調査しきれなかったのか、たぶん、細菌かビールスで感染して死んでしまうのですが、「トリポッド」では,侵略者(第1巻では正体不明です)はもっと用意周到です。

 イギリスに住む主人公の少年ローリーは、従兄弟のアンディと、サマーキャンプに参加していて、オリエンテーションで道に迷い、夜、2人で潜り込んだ農場の納屋で、とんでもない事件を目撃します。

 20メートルの巨大な「三脚」が現れて、農場を襲い、農場の男性を触手でからめとって食べて、建物を破壊したのです。

 イギリス軍の戦車や軍用機が、この「トリポッド」を攻撃して破壊したのですが、それは事件の終わりではなく、始まりにすぎませんでした。

 この「トリポッド」事件を戯画化したテレビ番組が始まり、世界で大流行します。

 まるで催眠術にかけられるように、そのテレビを見た人たちのなかで、催眠にかかりやすい人が、「トリポッド」を賛美する「トリッピー」になってしまったのです。

 そのテレビ番組に魅せられた一人が、ローリーの妹アンジェラでした。 
 アンジェラは、家庭医の先生が、催眠術に詳しかったので、アンジェラがテレビを見てかけられた催眠を解いてくれたのですが、ほとんどの人は、そのまま、「トリポッド」の言うがままに行動していきます。

 それに気がついた、ローリーやアンディやアンジェラは、トリポッドの地球支配に抵抗する動きの中心になっていきます。
 もちろん、最初から意識的にそうなったわけではなく、それに抵抗していったら、そうなったんです。
 
 地球生命を破滅させる心の侵略者と、それに抵抗するレジスタンス、4巻本の始まりです。