雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 12月25日(金)の1 日本平和大会ビデオ〔25分)ほぼ完成

2015年12月26日 20時29分58秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月25日(金)の1 日本平和大会ビデオ〔25分)ほぼ完成

 10月31日と11月1日に御殿場市で開かれた「日本平和大会イン富士山」のビデオ「記憶版」(25分)が、ほぼ完成しました。あとは細かい手直しの編集を日曜日の午後・約4時間やって、30日の午後にナレーションの「テイク2」を則子さんにお願いして、それでめでたく完成です。

 最初「14分目標」とボクは宣言していたけど、これだけ大規模な1200人が参加した大会、とても無理でした。

 でも、仕上がりは論理的・情勢的にも、映像的(イメージ的)にも満足しています。

 2015年夏から秋の、あの熱いみんなの行動・思い・勇気を表現したビデオになったと思います。

 京夫妻宅に入り浸って、熱中した成果です。

 これは本編ですが「記憶編」です。このあと2時間弱くらいの、もっと詳しい「記録編」をつくります。「記憶編」と「記録編」を合わせて1本のDVDーRにして、たくさんの人に見てもらおうと思ってます。

 基本的には、著作権フリー、コピー自由にしようと思ってます。
 
 「記録編」の完成は、もう少しかかります。「3/1ビキニデー集会」までには完成させたいと思っています。もうすこしお待ちください。

  
  ☆

 今から年年始は、2014年に急逝した伊東市平和委員会の高橋孝子さんの撮影した映像を1月13日の静岡県平和委員会の新年会までにビデオにします。おそらく20分以下。

 リアルな迫力ある映像なのですが、惜しむらくは、ビデオ撮影に素人なので、映像が安定しないし、対象に固定ができていなくて、残念。でも、なんとか京夫妻と協力して編集しましょう。

 タイトルは「故・高橋孝子 遺作 東富士・オスプレイ・今沢」です。

  ☆

 日本平和大会での神奈川県平和委員会・アレン・バークレーさんの発言と映像「真実の瞬間」は、すでに17分のビデオに編集しました。非常に、ユーモアとウイットがきいた、リアルな映像です。

 


 


 

雨宮日記 12月23日(水) 浜岡原発パンフ最終編集会議 

2015年12月26日 20時23分24秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月23日(水) 浜岡原発パンフ最終編集会議

 1年半にわたる「浜岡原発パンフ」の編集も、最終版。

 あと執筆者2人の承諾がくれば印刷屋へファイルが送られ、校正に入ります。

 校正は3校おこない、ほぼ1ヶ月でオールカラーパンフA4版、40数ページ、頒価400円が完成です。

 ボクとしては、やっと完成して肩の荷がおりた思いです。

 最終ぎりぎりまで練りに練って。率直にお互いの原稿を直し合った成果です。

 

祖父の高畑疎開日記 1 昭和二十年六月二十三日

2015年12月18日 22時21分22秒 | 雨宮家の歴史
祖父の高畑疎開日記

 はじめに

 父(節三)も祖父(福男)も筆まめなのは、どうもボクに文化的「遺伝」したようです。ここに連載するのは、祖父・福男(とみお)の1945年(昭和20年)6月末からの日記です。
 当時、祖父は浜松市の中心街・新町(今は消えてしまって「中央何丁目」になってしまった)91番地で本屋・林泉書房を借家で営んでいました。当時、祖父は57才でした。
 浜松市の中心街を焼き払った6月18日の浜松大空襲で、わが家も焼けてしまい、当時家にいた、祖父・福男と福男の妻・里子、福男の母・まつ、福男の次男・照男、福男の三女(9番目の子ども)・はるみの5人は、浜北・高畑(たかばたけ)の「まつ」の実家でまつの弟の山田堅一方の離れ(六畳一室)を借りて疎開することになりました。
 当時、ぼくの父・節三は浜松工業を卒業して朝鮮で就職していました(『落葉松』第1部参照)。
 祖父が文庫版の掛川報徳社発行の『報徳日記』に、6月23日から書き始めた日記を、ここに連載します。元の日記は漢字カタカナ文ですが、父・節三が1981年(昭和56年)に、ガリ版で「漢字ひらがな文」に直して小冊子で抄録・発行し親戚に配ったものを引用します。一部、句読点を加筆しました。
 *1、*2 は父と私のつけた注です。
 戦後70年記念連載ですが、毎日掲載して戦後71年までかかります。ご愛読ください。


 祖父の高畑疎開日記 1
 
「 六月二十三日  曇時々小雨

 今日は朝、照男*1 も手伝い、ジャガイモ掘り、次でモーターをかけて麦扱【こ】き、晝【昼】食后も引続き馬力をかけ、夕方になり小雨降出したため全員手伝ひ七時頃終了。入浴夕食。
 寿(たもつ)さん*2 、小生一家四名の配給帖面を受けて来られ、早速照男に米、醤油を買はしむ。明日晝食より四名丈、別に食事を献立することにする。」

  *1 照男:福男の次男
  *2 寿さん:山田家の当主

  注)この日は沖縄戦が三ヶ月におよぶ死闘を経て、牛島司令官が自決、日本軍の組織的抵抗が終わった日だが、日記にはその影もない。また、
    当時、新聞が発行されていたのかも不明。ラジオはどうだったのか。なお、沖縄戦が公式に終わったのは沖縄日本軍が降伏調印した9月7
    日だった。




雨宮日記 12月17日(木)の1 オオバンガたくさん渡ってきました

2015年12月18日 11時38分24秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月17日(木)の1 オオバンガたくさん渡ってきました


 今年も馬込川にオオバンガ数十羽渡ってきました。

 黒い体に白いくちばし、きれいです。

 色が薄いのは今年生まれの若鶏でしょうか?

 写真は三浦橋のすぐ北側です。

雨宮日記 12月15日(火) 浜岡原発パンフの原稿手直しに必死

2015年12月16日 22時13分37秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月15日(火) 浜岡原発パンフの原稿手直しに必死

 スポーツの「◎◎mレース」のゴールが近いので、ランナーは必死で最後のがんばり、速度を上げるように、締め切り間近の今、必死で最後の手直しをしています。

 木曜日が浜岡原発パンフ「最後の編集会議」をして、印刷屋に原稿を入れて、3回くらいまで「校正」をします。

 完成は1月~2月になります。

 オールカラーパンフ、A4版、40数ページ、定価400円です。

 1年半の汗と涙の結晶です。

 ぼくの撮りためた「里山生きもの写真」も役に立ってうれしいです。

 

雨宮日記 12月13日(日) 戦争体験を聞く会1を開催しました

2015年12月16日 21時46分08秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月13日(日) 戦争体験を聞く会1を開催しました

 今日は次子おばさんの葬儀でしたが、ぼくは「戦争体験を聞く会」の主催者兼視界のため、参加できませんでした。則子さんが、仕事を変わってもらい出席しました。

 1945年の4/30爆弾空襲と、7/29艦砲射撃を両方体験したという希有の貴重な体験をリアルに語っていだだき、一同感動しました。

 艦砲射撃で被弾した大きなイチョウが、真っ黄色に色づいて、黄色いイチョウの葉が一面に散って「イチョウロード」になっていました。その上を歩きました。

 詳細な記録は「ピース浜松」に後で掲載する予定です。京夫妻に2カメでビデオを撮ってもらったので、後でビデオも編集する予定。今は「日本平和大会」と「PM4~6」の編集で忙しく、とてもできません。

 6/18の浜松大空襲(焼夷弾)で、成子町のお寺におにぎりを届けに行ったら、焼け跡で何人もの黒焦げで直立した人間の死体を見た話は衝撃的でした。

 艦砲の破片も見せてもらいました。すごく辺が鋭くて、ヒゲが剃れそうでした。平和大会で見た映像の「155ミリ榴弾砲の破片」に何故か、そっくりでした。

   ☆

 わが家は戦争中、中心街の新町にいましたが、6/18の大空襲で焼け出され、祖母の親戚の浜北の高畑に疎開しました。それで7/29の艦砲射撃は経験せずに助かりました。

 戦後、すぐ新真珍帰ったのですが、松城町に引っ越してからだいぶたった後に、元わが家の敷地から土の下で、不発の艦砲弾が発見されました。ゾッとしまたね。ぼくたちは爆弾の上を飛び跳ねていたわけです。

 
 

 


 

雨宮日記 12月12日(土) 次子おばさんのお通夜に則子さんと行ってきました

2015年12月13日 02時54分31秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月12日(土) 次子おばさんのお通夜に則子さんと行ってきました

 父・節三さんの弟の菊男さんの奥さんの次子さん(ぼくから言えば「つぎこおばさん」)が9日に亡くなって、今夜がお通夜でした。

 則子さんは、ほんとうは今日は夕方から夜勤だったのですが、勤務を変更してもらい、今日は早番にしました。ぼくも、午後「ビデオ編集日」だったのですが、延期しました。

 親戚の「通夜」は、浜北イズモホールで午後4時半からです。家から会場まで30分かかります。

 則子さんが、なんとか午後4時半に帰って来たので、5時前には出ようと準備を始めました。

 ところがYシャツを着たら、首が太ったのか、Yシャツの一番上のボタンがかけられない。慌てて別のYシャツをに着替えました。たぶん、この夏から秋に、ビデオ撮影がいっぱいあったので、ビデオ撮影のときは首をまっすぐにして前を見ないと撮影できないので、首も太くなってきたんじゃないかと思います。

 ワンタッチ「にせネクタイ」も苦労してつけて、やっと出発したのは午後5時前、間に合うかな?

  ☆

 なんとか会場にすべりこんだのは、5時半直前。

 それから懐かしい親戚の人たちと、会ったことのない人たちといろいろ話しました。

 何十年ぶりに会った、次子おばさんの次男の「まあちゃん」、62才。北海道釧路市に住んでます。

 みんなに「雨宮家系図」の修正をもらいました。ありがとうございます。

  ☆

 それにしても、みんなは数十年経って、高齢化しているのに、わが妻・則子さんは、若い頃の姿を、そのまま、とどめています。「年齢不詳の則子園長」のままですね。

 福井の「人魚を食べて不老不死になった八百比丘尼」伝説みたいに、結婚した雨宮智彦くんの死を見届けて、次の旦那を探しに行く・・・なんて怖いですけど・・・ありうるかも。

 あ、これって、のろけですか?

  ☆

 雨宮夫婦の関係は対等平等ではありません。対等平等の夫婦がいれば、それは尊重しますが。則子さんは、ぼくのことを、外では「智彦さん」と言いますが,2人だけの空間では「智彦くん」です。

 だから2人だけの空間で「智彦さん」と呼ばれるとゾッと悪寒が走ります。

 悪夢の時間が始まります。

 
 

雨宮日記 12月11日(金) 被爆者の証言ビデオ撮影第5回

2015年12月13日 02時12分57秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月11日(金) 被爆者の証言ビデオ撮影第5回

 被爆者の会西遠支部と協力して、被爆者の会の大和さんと原水協の雨宮則子さん(妻です)がインタビュアーで、ぼくが撮影、広島・長崎の被爆者の証言をビデオ撮影し始めたのは1年前。

 編集をやってくれる「きょうしろう」君(ペンネーム)に4回目から撮影にも加わってもらい、2カメ(2台のカメラという意味)で撮影しています。

 今日は福祉交流センターで、午後、撮影をしました。

 2人とも女性で、1人は広島で、1人は長崎で被爆しました。すごくリアルで感動する証言でした。

げんぱつぶやき 2 人間は避難できるけど‥‥

2015年12月04日 18時59分09秒 | 原発を考える1
げんぱつぶやき 2 人間は避難できるけど‥‥

 「原発事故避難計画」について議論が高まっています。

 「避難できっこない」「被曝する危険」は確かです。
 
 でも、動物は避難できない。

 昆虫は避難できない。

 ましてや樹木や草たちは避難できないんです。

 人間が動物や植物などいのちを放射能で汚す権利があるのでしょうか。

 この地球の大地を汚すことが許されるのでしょうか。

 もうすでに人類は、地球の「管理人さん」(高橋留美子さん「メゾン一刻」より)の資格を失っているのではないでしょうか。

 

雨宮日記 12月4日(金) 午後はビデオ編集

2015年12月04日 18時55分04秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月4日(金) 午後はビデオ編集

 今日は日本平和大会ビデオ編集、午後1時から4時まで。

 父の食事時間4時半に間に合うように帰宅。

 則子さんが夜勤なので、午後4時に間に合うように職場に行きました。夕食も作っておいてくれました。ありがとう。

 豚肉の○○とほうれん草とテンプラとシチュー。

 ぼくは暖めただけです。