雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

新・古代史ノート 14 雨宮神社 20220215

2022年02月15日 10時11分09秒 | 遠州古代史
新・古代史ノート 14 雨宮神社 20220215


 やっと古代史ブログ再開します。


 ボクのペンネームは雨宮(あまみや)智彦です。このペンネームの由来は、古代史・古墳・神社が大好きなボクが遠州の古い神社である天宮神社から最初、天宮智彦というペンネームを考えたことにあります。


 でも「天(あま)」というのはあまりに恐れ多くて、罰が当たりそうなので、同じ音で「雨(あめ)」に変更しました。


 ネットで調べると、雨宮神社は全国にあるようです。リストを作りたいと思います。これは雨宮○○神社や、遠州の天宮神社まで含めるのかどうか、研究します。


 一応いま判っている範囲で書いておきます。


  雨宮神社    熊本県相良村 天之水分神、国之水分神、久比邪持神(久比奢母智                     神)、高於加美神(高?神)、舟玉命
雨宮神社 香川県三豊市財田町 高?神、闇?神、天水分神
  雨宮社     名古屋市中川区 高?神、志那都比古神、天照皇大神
  雨宮坐日吉神社 長野県千曲市雨宮1 大山咋命、大己貴命 少彦名命 あめのみやにます
  天宮神社    静岡県森町 田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命


 とても興味深いです。


 「雨」「天」「?」の同一性と差異も勉強しなければ。


 「奄美」「アマミキョ」も考えないと。


 明らかに遠州の天宮神社は祭神が宗像の3女神で、雨宮神社とは異質ですね。


 熊本県相良村にはいちばん有名な雨宮神社があります。全景と巨岩の写真が印象的です。雨宮神社には、どこまで岩石信仰があるかどうかですね。


 問題は高?神(高於加美神)の性格でしょうか。これはすこし研究して、別項で詳述します。







新・古代史ノート 13 神社古墳 2 (旧)冨士神社(東区上西町) 20210707

2021年07月07日 21時27分20秒 | 遠州古代史
新・古代史ノート 13 神社古墳 2 (旧)冨士神社(東区上西町) 20210707


 冨士神社の2つ目です。ただし旧原稿 20131017 のコピーです。


「遠州の遺跡・寺社・地名 114 東区上西町の「富士神社」東向き
2013年10月17日 21時11分35秒 | 遠州古代史


 この前、探査に行ってきました。東区上西町の神社です。東向きでした。つまり、お参りをする庶民は真西、夕陽の方向を拝みます。


 祭神は「木之花咲耶姫命 このはなのさくやひめみこと」です。この「コノハナサクヤヒメ」は、富士山の火山信仰と関連して、東海から関東に分布する神だと思っていますが(ちゃんと調べてないけど)、とすると、疑問がわきます。


 『古事記』『日本書紀』では、誰が見ても「西日本」、たぶん「九州」に「天孫降臨」したニニギが現地の豪族の娘、コノハナノサクヤ姫と結婚した家系が天皇家の始まりです。


 同じ「コノハナノサクヤヒメ」ですが、一方は九州、他方は東海から関東、「同名」だから「同じ神」というのは早計、即断ではないでしょうか?


 こういう疑問を最初に文章として述べたのは、たぶん、古田武彦さんと思いますが、違っていたら、ご教授ください。


 むしろ、こういう推定が成り立つのではないでしょうか?


 日本古来の「聖なる山」である富士山の神、「コノハナノサクヤ姫」の聖性は、古代人の誰も否定できないので、7世紀の『古事記』『日本書紀』創作者は、日本列島の本来の支配者「山住の神」とその長女「コノハナノサクヤ姫」を、アマテラスからの系譜の下に、「結婚して」「従属した」という説話で組み込んだ、と。


 『古事記』『日本書紀』が「創作小説」ではなく「伝承」「説話」の集大成(盗作)であることの証明は、古田武彦さん著『盗まれた神話』(ミネルヴァ書房から201年に復刊、2800円+消費税)を参照してください。


 なお古田武彦さんの「『東日流外三郡誌』は偽書ではなく真実の古文書である」という説は真実ではないとボクは判断します、念のため。どうか、誰が言っているかではなく、その人が言っている内容で個別に判断していただきたいと思います。カール・マルクスさんの言うことでも、まったく同じです。」


 むしろ今では、記紀神話での「コノハナノサクヤ姫」は阿蘇山の火山女神ではないのかというイメージが浮かんできます。


 真実はまだわかりません。



新・古代史ノート 12 神社古墳 1 冨士神社(中区助信町) 20210703

2021年07月03日 10時46分43秒 | 遠州古代史
新・古代史ノート 12 神社古墳 1 冨士神社(中区助信町) 20210703


 助信町のクリニックへ定期診療で行った帰りに、車椅子で近くのこの冨士神社へ寄って見ました。


 神社は南向き。ただし移転や合同で移っていますので、さだかではありません。


 祭神は「このはなのさくやひめのみこと(木花咲耶賣命)」と「やまとたけるのみこと(日本武尊)」


 「冨士神社」なんだから火山・富士山の女神を祭っているのは当然です。でもペアの「やまとたけるのみこと(日本武尊)」というのが一般的とは思えない。やはり、本来のペアがやまとたけるのみことによって追い出されてしまったのではないか。


 富士山の女神は果たしてこのはなのさくやひめだったのかという問題もある。このはなのさくやひめのみこと自体が記紀神話では九州の女神であって、記紀神話では冨士山は影も形もない。本来、富士山の女神は誰だったのか。


 もうひとつ、すぐ近くの八坂神社との関係が問題です。古くは同じ神社である可能性はないのか。


 手元にある『浜松市神社名鑑』(静岡県神社庁浜松支部、1982年、A5、243ページ)によれば2つの神社は同じ宮司です。








 「雨宮智彦のブログ」で書いたはずな近い神社ですが、検索しても見つかりません。見つけたらアップします。


 神社古墳へ行ったのは5年ぶりです、たぶん。また可能なかぎり、遺跡神社古墳めぐりをしたいと思います。


 また、せめてぼくの手元にある写真と文献を少しづつ見ていただけたらと思います。



新・古代史ノート 11 大和岩雄さん亡くなる 20210626

2021年06月26日 14時24分28秒 | 遠州古代史
新・古代史ノート 11 大和岩雄さん亡くなる 20210626


 古代史学者の大和岩雄(おおわいわお)さん亡くなられました。6月20日、93才でした。


 ぼくの偉大な先輩の一人でした。謹んで哀悼の意を表しますとともに、大和岩雄さんの業績を深く学ばなければと思います。


 ぼくの手元に大事にもってるのは3冊だけですね。もっともかなり3冊とも何回も読み込みました。


 ぼくの好きな大陽と岩の信仰の専門家のような存在と思います。つぎの3冊をまた読みます。


・『天照大神と前方後円墳の謎』六興出版(ロッコウブックス)、1983年、338ページ
・『神々の考古学』大和書房、1998年、401ページ
・『神と人の古代学 太陽信仰論』大和書房、2012年、581ページ


新・古代史ノート 10 三方原と三方五湖 20210618

2021年06月18日 18時58分24秒 | 遠州古代史
新・古代史ノート 10 三方原と三方五湖 20210618


 浜松では三方原は普通名詞のように有名だが、浜名湖の東側に広がる広大な洪積台地です。


 なぜ「新・古代史ノート」で取り上げるのかというと、ほとんど空想の域を出ないのだが、若狭の「三方五湖」との関連を想起するからだ。


 同じ「三方」だが、問題は両者がどちらも古代までさかのぼるかどうか、研究してみないといけない。とくに古文書と木簡。何かわかったら再度、書くつもりです。


 三方五湖と三方原は誰か学者が触れていたような記憶があるが、いまはわからない。誰の、どういう著書かわかったら触れます。


 古代の「近江(おうみ)」と「遠江(とうとうみ=とうつおうみ)」の近縁性は疑いないと思う。渡来人との関連でも。


 じゃあ、三方五湖と浜名湖は?これが、それぞれのみずうみの変遷も研究してみないと、わからない。



新・古代史ノート 9 過去記録6 「古代ブログ 6 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 1 東区安間町と海人族」 20210206

2021年02月06日 11時34分34秒 | 遠州古代史
新・古代史ノート 9 過去記録6  「古代ブログ 6 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 1 東区安間町と海人族」 20210206




「古代ブログ 6 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 1 東区安間町と海人族


 10月2日に「新・本と映像の森 91」で紹介した「(鄕土5) 浜松市東区役所『東方見聞録 東区の文化誌』2011年、A5版、321ページ、ダイジェスト版と併せて定価1000円。今まだ販売しているかは不明で、東区に問い合わせてください。まちづくり推進課 053-424-0164。」に以下の叙述がある。


 108p「第31話 安間を開拓した安間了願とその子孫」に、次のように出ている。


 「安間鄕は、江戸初期以前に、安間・安間新田・薬師・薬師新田・北島の五か村に分離した。安間氏の祖先は海人(あま)族と見られる。海人が阿間に変わり、安間になったと言われる。」


 安間了願は、14世紀の南北朝期に生きた武人で、『太平記』巻二五に名前も出ている。


 以下の続く、六所神社については「古代ブログ」「浜松の遺跡・古墳・地名・寺社」の別項目とする。


 見ての通り、可能性はある叙述だが、その典拠がないので正しいとも、なんとも言えない。他日を期すことにする。


 海人族の移住というのは、魅力あるテーマなのだが、慎重を期す。


 ちなみに安間川は「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」にも出てくる浜松の川で、東区豊町付近から11.5kmを南流し天竜川に注ぐ。最近、しばしばニュースで氾濫が話題になる川である。


 海人族というのは、いろいろ説があります。ボクは、天皇家の「天(あま)」つまり、「天族」も元々は「海人族」説ですが、同じ説の方も何人か、いるようです。


 これは、もっと後に詳述。」







新・古代史ノート 8 過去記録5 浜松(引馬)の太陽の東西線 蜆塚遺跡ー宗源院ー西来院ー普済寺ー曳馬城 20210205

2021年02月05日 20時15分32秒 | 遠州古代史


新・古代史ノート 8 過去記録5 浜松(引馬)の太陽の東西線 蜆塚遺跡ー宗源院ー西来院ー普済寺ー曳馬城 20210205




「遠州古代史 過去記録 3 浜松(引馬)の太陽の東西線 蜆塚遺跡ー宗源院ー西来院ー普済寺ー曳馬城 20210113


「雨宮智彦の古代ブログ 3 浜松(引馬)の太陽の東西線 
2017年09月03日 06時30分21秒 | 遠州古代史


 今年、NHKテレビで「井伊直虎」をとりあげたため、徳川家康の浜松侵攻時のことに注目があつまっている。


 家康が浜松(引馬城)には降伏を認めて、井伊家や気賀には武力を使ったのは、何か理由があるのかも知れない。家康にしては珍しく残虐な堀川城の虐殺はなぜか。もっと勉強しないと。


 さらに家康の正妻、瀬名姫(築山御前)は浜松の「東西線」である西来院に墓があるのは、なぜか。


 以下2つは、前に書いたことである。再録する。


    ☆


「雨宮日記 6月12日(木)の5 博物館の入り口に立っている「家康の道」の案内板
2014年06月12日 15時34分58秒 | 雨宮日誌


 この「家康の道:の案内板なのですが、位置関係が正確にかかれていないので、この案内板では、まるで蜆塚遺跡と宗源院と浜松城が東西線状にあって、西来院や普済寺はその線より少し南にあるように見えてしまいます。


 しかし、実際には、蜆塚遺跡ー宗源院ー西来院ー普済寺ー曳馬城(現在の東照宮)は東西の一直線上にあります。地図でみなさん、確かめてください。


 さらに明らかに、その線上に、蜆塚遺跡の東にある山神社が入り、山神社は東を向いていますから、山神社に祭られた神様は、山神社から3つのお寺と曳馬城を見守っていることになります。


 明らかな太陽信仰の名残だと、ぼくは思うのですが、「家康の道」に関連しては、まだ誰もぼく以外には気付いていないようです。


 浜松城は、この線から南へずれて建設されていることからして、明らかにこの「家康以前の道」を家康は、無視して、あるいは地元の信仰をねじ伏せて現地点に築いたことになります。


 それに対する地元の抵抗が実際はなかったかもしれない家康が曳馬城を攻め落とした時に闘ったとされる飯尾氏の妻「椿姫」たち、女性達の戦闘伝説として地元に残ったのではないでしょうか。


 太陽信仰ですから、女性が「巫女」として関連することは確かでしょう。


 なお、この線に気付いて則子さんに最初話した頃に、このブログで書いておきました。


     ☆


「遠州の遺跡・寺社・地名(近世編) 119 蜆塚ー3つの寺ー曳馬城の東西線
2013年11月01日 22時23分59秒 | 遠州古代史


 神社の研究はしていますが、お寺の研究は、あまりしていません。神社のことを考えるために、浜松市の中心部を見ていて発見しました。


 浜松の縄文時代を代表する遺跡である蜆塚遺跡は、古墳もあり、真横に東向きの「山神社」があることからも、縄文時代以後も、影響力をもった遺跡であると思います。


 その蜆塚遺跡=山神社から春分・秋分の日の出の方向、真東に東西線を引いていくと、西から「宗源院」「西来院」「普済寺」と3つのお寺を通っています。


 地図を見てもらえばわかりますが、3つのお寺とも「かろうじて、かすめて」いるのではなくて、3つのお寺の北端・南端は3つともほとんど同じです。


 そして、さらにまっすぐ東へ伸ばして、「中世~近世」という時代限定で考えると、当時の「曳馬城」、つまり徳川家康が侵略してくる以前の「飯尾氏」の時代のお城を通ります。


 つまり、同時代の「過去の遺跡ーお寺ーお城」が同緯度になっています。このことは偶然ではなくて、意味があることだと思います。


 家康は、浜松を占領してから、新たに、この緯度よりかなり南へ「浜松城」を築きます。このことも、過去の伝統と決別する意味で、重要なことだと思います。


 これって、これまでに誰か気がついた人がいるという事実がありましたら、ぜひ、私までご一報ください。」







新・古代史ノート 7 過去記録4 『延喜式』「神名帳」の「朝日波多加神社」はどこか 20210204

2021年02月04日 08時38分48秒 | 遠州古代史
新・古代史ノート 7 過去記録4  『延喜式』「神名帳」の「朝日波多加神社」はどこか 20210204


 < 4回シリーズの2回目。写真が見つかったら後で掲載します。 >




「遠州の遺跡・寺社・地名 『延喜式』「神名帳」の「朝日波多加神社」はどこか


 『延喜式』「神名帳」には、遠江国「長上郡」で5つの神社が掲載されています。「大歳神社・邑瀬神社・服織神社・朝日波多加神社・子倉神社」ですが、ここでは「朝日波多加神社」がどこか、考えます。


 候補になるのは、これまで掲載してきた「内野神明宮」と「半田町・六所神社」の2つの神社です。


 『浜北市史 通史 上巻』は「第3章 天宝堤と岩水寺、第2節 式内社於呂神社と岩水寺創建の頃、1 於呂神社と式内社」の中でこう考察しています。公平を期すために、省略無しで引用します。


 「朝日波多加(あさひはたかの)神社 『遠江風土記伝』ほか諸本とも内野神明宮にあてている、異説に『式社考』の半田邑説、『神社…録』の飯田村説があるが、両説とも、「波多」を渡来人秦(はた)氏の居住地と見て、半(は)田・飯(はん)田の語音からの類推と考えられる。
 しかし、既述のとおり渡来人の特殊な墳墓と考えられる積石塚古墳の所在、内野古墳群の集中からも『倭名抄』幡多(はた)郷の中心は内野辺にあったことは確実であり、式内社・朝日波多加神社も内野にあったと考えてよいだろう。
 同社が神明社になったのは、平安末期伊勢神宮を本家とする荘園美園御厨の形成以降のことであろう。また、県史は美園御厨に隣接して宇治乃御厨を内野神明宮にあてている。
 内野神明宮の祭礼には、現在も「朝日波多加神社」の大きな幡が立てられる。内野の人たちの心に千年の時を経て、式内社「朝日波多加神社」の伝承が息づいているのである。」(p488~489)【注:( )内は『浜北市史』のルビ】
 
 まず第1点は、神社名の「朝日」ですが、『浜北市史』は、この「朝日」についてまったく触れていません。当然、これは太陽信仰の「朝日」であって、この神社の信仰と深く係わっていると思います。通常、神社名は、地名か神名かであって、信仰内容を神社名に掲げていることの意味を深く考えるべきです。


 朝日信仰である以上、この「朝日波多加神社」は、日の出の東を向いていると考えるのが常識的です。では、そういう神社は、この「ハタ地域」にあるでしょうか。あります。それが半田町の六所神社であり、まさに小高い丘の上にあって、東に面しています。この神社の鳥居から神社に朝日が直接差し込むのです。


 それに対して、内野神名宮はどうでしょうか。内野神名宮は神社が南向き、参拝者は北向きで、朝日の出る方向とはまったく関係がありません。
 
 第2点。『浜北市史』が「内野神明宮の祭礼には、現在も「朝日波多加神社」の大きな幡が立てられる。内野の人たちの心に千年の時を経て、式内社「朝日波多加神社」の伝承が息づいているのである。」と述べている内容はどうでしょうか。


 六所神社の鳥居には「朝日宮」という看板が掲げられていて「千年の時を経て、式内社「朝日波多加神社」の伝承が息づいているのである」と言えます。


 第3点は、この六所神社の裏山が、いま浜松医大のある「半田山」であるという点です。、まさに「ハタ地域」の真ん中にある神社です。
 内野はハタ地域の中心という推定にたよった地名論議より、確実な「ハタ地域」そのものという点でも、この六所神社の方が候補としてはベターです。


 第4点は、秦氏は渡来人の系統でいうと、主にカラ・新羅の系統であって、浜北内野の積み石塚古墳は高句麗の系統で、系統が違うという点です。


 本国の朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済・加羅の4国が長期に軍事対立して戦争をしているのであって、「渡来人」という概念だけでおおざっぱに考えてはいけないのではないでしょうか。


 この地方でも「有玉伝説」で有名な坂上氏は、百済系統であって、秦氏とは系統が違います。


 「内野古墳群の集中」は誰が作ったのかは不明ですが、秦氏のものと断定するには資料が足りないと思います。


 以上4つの論点により、現在のところは「朝日波多加神社」は、半田町の「六所神社」であるとしてほぼ間違いないものと考えます。


 (2013年11月14日 「ボクの太陽」の誕生日に捧げる)」



新・古代史ノート 6 過去記録3 西区雄踏町の息(おき)神社 20210203

2021年02月03日 20時11分19秒 | 遠州古代史
新・古代史ノート 6 過去記録3 西区雄踏町の息(おき)神社 20210203


< タイトルが前後して錯綜したため、すべて統一して掲載し直すことにしました。一度いや何度か読んだ方はごめんなさい。20210203 >


 「雨宮ブログを検索すればわかることですが、遠州古代史の過去記録が膨大になるため自分で書いた原稿をみごとに忘れている場合もあります。自分の再認識のためにも「過去記録」の再掲載をしていきます。


 過去に1枚しか使えなかった写真も掲載していきたいと思います。


 新しい叙述は、もっと記録を勉強してからでないと、できません。


 あるいはこれまで掲載しなかったものもボクのファイルのなかには、あるかもしれません。




「遠州の遺跡・寺社・地名 西区雄踏町の息(おき)神社の2


 この息神社には、南北朝時代の2つの獅子頭(ししがしら)と、室町時代の7つの古面が伝わっています。獅子頭というのは獅子舞の踊りに使う木製の獅子の頭です。古面は、もちろん仮面劇で使われる、顔にかぶるお面のことですから、推測では、冬至の「能舞台」で使ったもの、あるいは能で使われることを想定して作られたか、奉納されたものということでしょうか。


 獅子頭には「永和元年乙卯十月吉日」「応安七甲寅七月一日」とあるので、永和元年は南北朝時代の北朝の年号で、西暦1375年のこと、応安七年は1374年ですから、近接する1年3ヶ月くらいの間隔で2つの獅子頭は作られたか、奉納されたことになります。


 この年代が「製作年月日」なのか「奉納予定年月日」なのかは、不明です。





 今日、書きたいのは、能面の方です。7つの能面のうちの1つの「女面」には、なんと「いらこ里う志ん参」という文字が記されているのです。


 「いらこ里」とあるのは、この雄踏から船でそう遠い距離ではない、渥美半島の先端「伊良湖岬」の「いらこ」でしょう。だとすると、問題は「里」です。


 8世紀初頭から、それ以前の「国ー評ー里」制から「国ー郡ー里」制へ替わり、さらに「国ー郡ー郷ー里」制に変わったのが、霊亀元年(西暦715年)です。そして郷の下の単位としての「里」が廃止されたのは天平十二年(740年)ごろですから、「里」の呼称は、正式にいえば、西暦740年以前ということになります。


 「8世紀半ば以前の古面」??


 観阿弥や世阿弥による「能」自体が室町時代なのに、「8世紀の能面」というのは形容矛盾ですね。でも、室町以前でも、日本列島には踊りもあり、仮面劇もあり、たぶん「面」もあったろうと思います。


 「面」は、すべて室町時代以後の「能面」ということは言えないと思います。


 この面も含め、7つの面の「木材の科学的検査など」、現代科学による分析をおこなっていただきたいと思います。少なくとも、この「古面」の木材年代を推測することは可能ではないでしょうか。





 現時点で、可能な推測を言うなら、ここ雄踏の地の水軍ともつながりを持つ、渥美半島先端の「伊良湖岬」付近の「いらこ里」の女性、もしかしたら「う志ん(うしん)」という名前の女性が「女面」を作らせ、この息神社に奉納したのでは、ないでしょうか。


 「う志ん参」は「う志ん参(うしん参る)」つまり、「う志ん」が息神社にお「参」りした)と解釈していいのでは?この「伊良湖里」の「う志ん」は、いったい何世紀の女性なのでしょうか?何才くらいの?どんな女性だったでしょうか?」




「遠州の遺跡・寺社・地名 西区雄踏町の息(おき)神社


 バス停「宇布見浅羽」からへ → 信号 → バス停「図書館」 → 信号を南へ → 1本目の狭い道路を左(東)へ入ると、息神社です。もう少し東には、室町時代からの豪族の旧家「中村家」があります。


 「延喜式神名帳」に載っている古い神社です。南向き。


 どうして「息神社」が「おき神社」なのでしょうか?「さっぱり、わからない」と思っていたのですが、現地に行って、少し分かりました。


 神社に立っていた説明版には、祭神が「志那都比古神、志那都比メ神、宇迦之御魂神、猿田彦神、大宮比メ神」の6神とありました。「主神夫妻」の志那都比古神、志那都比メ神」ですが、『古事記』の「国生み」の後の「神生み」の中に「風の神、名は志那都比古神(しつなひこのかみ)を生みたまふ」とあります。


 つまり「風の神」なのです。『古事記』では、ここに1回だけ名前が出てくるだけで、いっさい伝承がありませんが、風の神なら神社名の「息神社」と合っています。


 つまり「風の息」です。松本清張さんが『風の息』という現代史に題材を取った推理ドキュメンタリーを書いています。」





遠州古代史 過去記録 4 「古代ブログ 6 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 1 東区安間町と海人族」 20210114

2021年01月14日 13時05分54秒 | 遠州古代史
遠州古代史 過去記録 4  「古代ブログ 6 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 1 東区安間町と海人族」 20210114


「古代ブログ 6 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 1 東区安間町と海人族


 10月2日に「新・本と映像の森 91」で紹介した「(鄕土5) 浜松市東区役所『東方見聞録 東区の文化誌』2011年、A5版、321ページ、ダイジェスト版と併せて定価1000円。今まだ販売しているかは不明で、東区に問い合わせてください。まちづくり推進課 053-424-0164。」に以下の叙述がある。


 108p「第31話 安間を開拓した安間了願とその子孫」に、次のように出ている。


 「安間鄕は、江戸初期以前に、安間・安間新田・薬師・薬師新田・北島の五か村に分離した。安間氏の祖先は海人(あま)族と見られる。海人が阿間に変わり、安間になったと言われる。」


 安間了願は、14世紀の南北朝期に生きた武人で、『太平記』巻二五に名前も出ている。


 以下の続く、六所神社については「古代ブログ」「浜松の遺跡・古墳・地名・寺社」の別項目とする。


 見ての通り、可能性はある叙述だが、その典拠がないので正しいとも、なんとも言えない。他日を期すことにする。


 海人族の移住というのは、魅力あるテーマなのだが、慎重を期す。


 ちなみに安間川は「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」にも出てくる浜松の川で、東区豊町付近から11.5kmを南流し天竜川に注ぐ。最近、しばしばニュースで氾濫が話題になる川である。


 海人族というのは、いろいろ説があります。ボクは、天皇家の「天(あま)」つまり、「天族」も元々は「海人族」説ですが、同じ説の方も何人か、いるようです。


 これは、もっと後に詳述。」











遠州古代史 過去記録 3 浜松(引馬)の太陽の東西線 蜆塚遺跡ー宗源院ー西来院ー普済寺ー曳馬城 20210113

2021年01月13日 13時12分53秒 | 遠州古代史
遠州古代史 過去記録 3 浜松(引馬)の太陽の東西線 蜆塚遺跡ー宗源院ー西来院ー普済寺ー曳馬城  20210113


 
「雨宮智彦の古代ブログ 3 浜松(引馬)の太陽の東西線 
2017年09月03日 06時30分21秒 | 遠州古代史


 今年、NHKテレビで「井伊直虎」をとりあげたため、徳川家康の浜松侵攻時のことに注目があつまっている。


 家康が浜松(引馬城)には降伏を認めて、井伊家や気賀には武力を使ったのは、何か理由があるのかも知れない。家康にしては珍しく残虐な堀川城の虐殺はなぜか。もっと勉強しないと。


 さらに家康の正妻、瀬名姫(築山御前)は浜松の「東西線」である西来院に墓があるのは、なぜか。


 以下2つは、前に書いたことである。再録する。


    ☆


「雨宮日記 6月12日(木)の5 博物館の入り口に立っている「家康の道」の案内板
2014年06月12日 15時34分58秒 | 雨宮日誌


 この「家康の道:の案内板なのですが、位置関係が正確にかかれていないので、この案内板では、まるで蜆塚遺跡と宗源院と浜松城が東西線状にあって、西来院や普済寺はその線より少し南にあるように見えてしまいます。




 しかし、実際には、蜆塚遺跡ー宗源院ー西来院ー普済寺ー曳馬城(現在の東照宮)は東西の一直線上にあります。地図でみなさん、確かめてください。


 さらに明らかに、その線上に、蜆塚遺跡の東にある山神社が入り、山神社は東を向いていますから、山神社に祭られた神様は、山神社から3つのお寺と曳馬城を見守っていることになります。


 明らかな太陽信仰の名残だと、ぼくは思うのですが、「家康の道」に関連しては、まだ誰もぼく以外には気付いていないようです。


 浜松城は、この線から南へずれて建設されていることからして、明らかにこの「家康以前の道」を家康は、無視して、あるいは地元の信仰をねじ伏せて現地点に築いたことになります。


 それに対する地元の抵抗が実際はなかったかもしれない家康が曳馬城を攻め落とした時に闘ったとされる飯尾氏の妻「椿姫」たち、女性達の戦闘伝説として地元に残ったのではないでしょうか。


 太陽信仰ですから、女性が「巫女」として関連することは確かでしょう。


 なお、この線に気付いて則子さんに最初話した頃に、このブログで書いておきました。


     ☆


「遠州の遺跡・寺社・地名(近世編) 119 蜆塚ー3つの寺ー曳馬城の東西線
2013年11月01日 22時23分59秒 | 遠州古代史


 神社の研究はしていますが、お寺の研究は、あまりしていません。神社のことを考えるために、浜松市の中心部を見ていて発見しました。


 浜松の縄文時代を代表する遺跡である蜆塚遺跡は、古墳もあり、真横に東向きの「山神社」があることからも、縄文時代以後も、影響力をもった遺跡であると思います。


 その蜆塚遺跡=山神社から春分・秋分の日の出の方向、真東に東西線を引いていくと、西から「宗源院」「西来院」「普済寺」と3つのお寺を通っています。


 地図を見てもらえばわかりますが、3つのお寺とも「かろうじて、かすめて」いるのではなくて、3つのお寺の北端・南端は3つともほとんど同じです。


 そして、さらにまっすぐ東へ伸ばして、「中世~近世」という時代限定で考えると、当時の「曳馬城」、つまり徳川家康が侵略してくる以前の「飯尾氏」の時代のお城を通ります。


 つまり、同時代の「過去の遺跡ーお寺ーお城」が同緯度になっています。このことは偶然ではなくて、意味があることだと思います。


 家康は、浜松を占領してから、新たに、この緯度よりかなり南へ「浜松城」を築きます。このことも、過去の伝統と決別する意味で、重要なことだと思います。


 これって、これまでに誰か気がついた人がいるという事実がありましたら、ぜひ、私までご一報ください。」



遠州古代史 過去記録 2 『延喜式』「神名帳」の「朝日波多加神社」はどこか 20210112

2021年01月12日 09時54分44秒 | 遠州古代史
遠州古代史 過去記録 2  『延喜式』「神名帳」の「朝日波多加神社」はどこか 20210112


「遠州の遺跡・寺社・地名 『延喜式』「神名帳」の「朝日波多加神社」はどこか


 『延喜式』「神名帳」には、遠江国「長上郡」で5つの神社が掲載されています。「大歳神社・邑瀬神社・服織神社・朝日波多加神社・子倉神社」ですが、ここでは「朝日波多加神社」がどこか、考えます。
 候補になるのは、これまで掲載してきた「内野神明宮」と「半田町・六所神社」の2つの神社です。


 『浜北市史 通史 上巻』は「第3章 天宝堤と岩水寺、第2節 式内社於呂神社と岩水寺創建の頃、1 於呂神社と式内社」の中でこう考察しています。公平を期すために、省略無しで引用します。


 「朝日波多加(あさひはたかの)神社 『遠江風土記伝』ほか諸本とも内野神明宮にあてている、異説に『式社考』の半田邑説、『神社…録』の飯田村説があるが、両説とも、「波多」を渡来人秦(はた)氏の居住地と見て、半(は)田・飯(はん)田の語音からの類推と考えられる。
 しかし、既述のとおり渡来人の特殊な墳墓と考えられる積石塚古墳の所在、内野古墳群の集中からも『倭名抄』幡多(はた)郷の中心は内野辺にあったことは確実であり、式内社・朝日波多加神社も内野にあったと考えてよいだろう。
 同社が神明社になったのは、平安末期伊勢神宮を本家とする荘園美園御厨の形成以降のことであろう。また、県史は美園御厨に隣接して宇治乃御厨を内野神明宮にあてている。
 内野神明宮の祭礼には、現在も「朝日波多加神社」の大きな幡が立てられる。内野の人たちの心に千年の時を経て、式内社「朝日波多加神社」の伝承が息づいているのである。」(p488~489)【注:( )内は『浜北市史』のルビ】
 
 まず第1点は、神社名の「朝日」ですが、『浜北市史』は、この「朝日」についてまったく触れていません。当然、これは太陽信仰の「朝日」であって、この神社の信仰と深く係わっていると思います。通常、神社名は、地名か神名かであって、信仰内容を神社名に掲げていることの意味を深く考えるべきです。


 朝日信仰である以上、この「朝日波多加神社」は、日の出の東を向いていると考えるのが常識的です。では、そういう神社は、この「ハタ地域」にあるでしょうか。あります。それが半田町の六所神社であり、まさに小高い丘の上にあって、東に面しています。この神社の鳥居から神社に朝日が直接差し込むのです。


 それに対して、内野神名宮はどうでしょうか。内野神名宮は神社が南向き、参拝者は北向きで、朝日の出る方向とはまったく関係がありません。
 
 第2点。『浜北市史』が「内野神明宮の祭礼には、現在も「朝日波多加神社」の大きな幡が立てられる。内野の人たちの心に千年の時を経て、式内社「朝日波多加神社」の伝承が息づいているのである。」と述べている内容はどうでしょうか。


 六所神社の鳥居には「朝日宮」という看板が掲げられていて「千年の時を経て、式内社「朝日波多加神社」の伝承が息づいているのである」と言えます。


 第3点は、この六所神社の裏山が、いま浜松医大のある「半田山」であるという点です。、まさに「ハタ地域」の真ん中にある神社です。
 内野はハタ地域の中心という推定にたよった地名論議より、確実な「ハタ地域」そのものという点でも、この六所神社の方が候補としてはベターです。


 第4点は、秦氏は渡来人の系統でいうと、主にカラ・新羅の系統であって、浜北内野の積み石塚古墳は高句麗の系統で、系統が違うという点です。


 本国の朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済・加羅の4国が長期に軍事対立して戦争をしているのであって、「渡来人」という概念だけでおおざっぱに考えてはいけないのではないでしょうか。


 この地方でも「有玉伝説」で有名な坂上氏は、百済系統であって、秦氏とは系統が違います。


 「内野古墳群の集中」は誰が作ったのかは不明ですが、秦氏のものと断定するには資料が足りないと思います。


 以上4つの論点により、現在のところは「朝日波多加神社」は、半田町の「六所神社」であるとしてほぼ間違いないものと考えます。


 (2013年11月14日 「ボクの太陽」の誕生日に捧げる)」



遠州古代史 過去記録 1 西区雄踏町の息(おき)神社 20210111

2021年01月11日 10時03分40秒 | 遠州古代史
遠州古代史 過去記録 1 西区雄踏町の息(おき)神社 20210111


 雨宮ブログを検索すればわかることですが、遠州古代史の過去記録が膨大になるため自分で書いた原稿をみごとに忘れている場合もあります。自分の再認識のためにも「過去記録」の再掲載をしていきます。


 過去に1枚しか使えなかった写真も掲載していきたいと思います。


 新しい叙述は、もっと記録を勉強してからでないと、できません。


 あるいはこれまで掲載しなかったものもボクのファイルのなかには、あるかもしれません。




「遠州の遺跡・寺社・地名 西区雄踏町の息(おき)神社の2


 この息神社には、南北朝時代の2つの獅子頭(ししがしら)と、室町時代の7つの古面が伝わっています。獅子頭というのは獅子舞の踊りに使う木製の獅子の頭です。古面は、もちろん仮面劇で使われる、顔にかぶるお面のことですから、推測では、冬至の「能舞台」で使ったもの、あるいは能で使われることを想定して作られたか、奉納されたものということでしょうか。


 獅子頭には「永和元年乙卯十月吉日」「応安七甲寅七月一日」とあるので、永和元年は南北朝時代の北朝の年号で、西暦1375年のこと、応安七年は1374年ですから、近接する1年3ヶ月くらいの間隔で2つの獅子頭は作られたか、奉納されたことになります。


 この年代が「製作年月日」なのか「奉納予定年月日」なのかは、不明です。





 今日、書きたいのは、能面の方です。7つの能面のうちの1つの「女面」には、なんと「いらこ里う志ん参」という文字が記されているのです。


 「いらこ里」とあるのは、この雄踏から船でそう遠い距離ではない、渥美半島の先端「伊良湖岬」の「いらこ」でしょう。だとすると、問題は「里」です。


 8世紀初頭から、それ以前の「国ー評ー里」制から「国ー郡ー里」制へ替わり、さらに「国ー郡ー郷ー里」制に変わったのが、霊亀元年(西暦715年)です。そして郷の下の単位としての「里」が廃止されたのは天平十二年(740年)ごろですから、「里」の呼称は、正式にいえば、西暦740年以前ということになります。


 「8世紀半ば以前の古面」??


 観阿弥や世阿弥による「能」自体が室町時代なのに、「8世紀の能面」というのは形容矛盾ですね。でも、室町以前でも、日本列島には踊りもあり、仮面劇もあり、たぶん「面」もあったろうと思います。


 「面」は、すべて室町時代以後の「能面」ということは言えないと思います。


 この面も含め、7つの面の「木材の科学的検査など」、現代科学による分析をおこなっていただきたいと思います。少なくとも、この「古面」の木材年代を推測することは可能ではないでしょうか。





 現時点で、可能な推測を言うなら、ここ雄踏の地の水軍ともつながりを持つ、渥美半島先端の「伊良湖岬」付近の「いらこ里」の女性、もしかしたら「う志ん(うしん)」という名前の女性が「女面」を作らせ、この息神社に奉納したのでは、ないでしょうか。


 「う志ん参」は「う志ん参(うしん参る)」つまり、「う志ん」が息神社にお「参」りした)と解釈していいのでは?この「伊良湖里」の「う志ん」は、いったい何世紀の女性なのでしょうか?何才くらいの?どんな女性だったでしょうか?」




「遠州の遺跡・寺社・地名 西区雄踏町の息(おき)神社


 バス停「宇布見浅羽」からへ → 信号 → バス停「図書館」 → 信号を南へ → 1本目の狭い道路を左(東)へ入ると、息神社です。もう少し東には、室町時代からの豪族の旧家「中村家」があります。


 「延喜式神名帳」に載っている古い神社です。南向き。


 どうして「息神社」が「おき神社」なのでしょうか?「さっぱり、わからない」と思っていたのですが、現地に行って、少し分かりました。


 神社に立っていた説明版には、祭神が「志那都比古神、志那都比メ神、宇迦之御魂神、猿田彦神、大宮比メ神」の6神とありました。「主神夫妻」の志那都比古神、志那都比メ神」ですが、『古事記』の「国生み」の後の「神生み」の中に「風の神、名は志那都比古神(しつなひこのかみ)を生みたまふ」とあります。


 つまり「風の神」なのです。『古事記』では、ここに1回だけ名前が出てくるだけで、いっさい伝承がありませんが、風の神なら神社名の「息神社」と合っています。


 つまり「風の息」です。松本清張さんが『風の息』という現代史に題材を取った推理ドキュメンタリーを書いています。」







新・古代史ノート 5 過去記録2 「古代ブログ 1~100」リスト 2017年7月~2019年2月 20210106

2021年01月06日 13時59分37秒 | 遠州古代史


新・古代史ノート 5 過去記録2 「古代ブログ 1~100」リスト 2017年7月~2019年2月 20210106

「遠州古代史 「古代ブログ 1~100」リスト


 2017年7月~2019年2月


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古代ブログ 26 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 14 三方原学園内古墳群の8号墳 <102の再録>
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古代ブログ 49 古代史の本 7 『三国志』「鳥丸鮮卑東夷伝 第三十」
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古代ブログ 52 遠州古代史 浜松の円墳と前方後円墳のサイズ比較表(10m以上)<再録>
古代ブログ 53 遠州古代史 浜松「曳馬」と古代の「檜前」 <その1・2 再録>
古代ブログ 54 遠州古代史 銅鐸シリーズ ① 細江町「銅鐸の谷」の南側と北側の銅鐸群」<再録>
古代ブログ 55 遠州古代史 銅鐸シリーズ ② 銅鐸のデザイン <再録20051006>
古代ブログ 56 遠州古代史 銅鐸シリーズ ③ 銅鐸・さなぎ・猿投・佐鳴湖
古代ブログ 57 遠州古代史 銅鐸シリーズ ④ ツツミドオリ銅鐸出土地「碑」(南区安松町) <再録20131122>
古代ブログ 57 遠州古代史 銅鐸シリーズ ⑤ 「関東の銅鐸」の謎 <20131229再録>
古代ブログ 58 遠州古代史 銅鐸シリーズ ⑥ 細江町中川の滝峯不動尊 <20130830再録>
古代ブログ 59 遠州古代史 銅鐸シリーズ  ⑦ 銅鐸の出土村について、芝田文雄さんの考察<20131217再録>
古代ブログ 60 遠州古代史 銅鐸シリーズ ⑧ 細江町の不動平銅鐸「出土地」<再録20130831>
古代ブログ 61 遠州古代史 銅鐸シリーズ ⑨ 大野勝美『銅鐸の谷』1994 <20130822再録>
古代ブログ 62 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 31 早出町の薬師堂(早出薬師瑠璃光如来)<再録>
古代ブログ 63 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 32 旧俊光将軍社跡<再録>
古代ブログ 64 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 33 有玉神社内「俊光将軍社」<再録>
古代ブログ 65 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 34 中区上島7丁目の赤池薬師(白華寺)<再録>
古代ブログ 66 沖縄(琉球)の「宝貝」「子安貝」と中国史・貨幣 <再録>
古代ブログ 67 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 35 中区十軒町の十軒観音<再録>
古代ブログ 68 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 36 中区高林の白山神社<再録>
古代ブログ 69 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 37 東区天王町の大歳神社<再録>
古代ブログ 70 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 38 東区豊町の羽鳥八幡神社 <再録>
古代ブログ 71 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 39 東区豊町の羽鳥八幡神社(2) <再録>
古代ブログ 72 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 40 東区豊町の蛭子森(えびすもり)古墳 <再録>
古代ブログ 73 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 41 西区舞阪町の稲荷神社<再掲>
古代ブログ 74 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 42 東区の三方原学園内「千人塚古墳」<再掲>
古代ブログ 75 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 43 三方原学園内古墳群の8号墳<再掲>
古代ブログ 76 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 44 七鈴鏡と三方原学園内4号墳(円墳)<再掲>
古代ブログ 77 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 45 三方原古墳群出土の「七鈴鏡」は関東「鈴文明」との関係?<再掲>
古代ブログ 78 東海の遺跡・古墳・地名・寺社 1 御前崎市佐倉の「桜ヶ池」は諏訪湖につながって <再掲>
古代ブログ 79 東海の遺跡・古墳・地名・寺社 2 御前崎市の桜ヶ池にある「池宮神社」 <再掲>
古代ブログ 80 東海の遺跡・古墳・地名・寺社 3 藤枝市の鬼岩寺(きがんじ) <再掲>
古代ブログ 81 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 46 浜北・於呂(おろ)、再録
古代ブログ 82 古代資料 4 出雲・岡田山1号墳出土鉄刀銘文
古代ブログ 83 古代資料 5 『芸文類聚』巻八十三『広志』より
古代ブログ 84 古代史の本 8 『縄文貝塚につどう 蜆塚遺跡のくらし』浜松市博物館、2003年
古代ブログ 85 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 47 山神社と蜆塚遺跡<再録>
古代ブログ 86 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 48 引佐町の龍潭寺の石庭<再録>
古代ブログ 87 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 49 「井」の国、引佐町の支配者・井伊氏の謎<再録>
古代ブログ 88 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 50 イナサと小国神社と「国譲り」神話<再録>
古代ブログ 89 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 51 浜松市北区引佐町「北岡大塚古墳」<再録> 20180917
古代ブログ 90 浜松にある「丸石神」
古代ブログ 91 古代史の本 9 古田武彦『失われた九州王朝 ー天皇家以前の古代史ー』ミネルヴァ書房、2010年 20100517
古代ブログ 92 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 52 浜松市中区神田町の雀神社<再録>
古代ブログ 93 古代史ニュース インドネシア・ボルネオの4万年前の洞窟壁画
古代ブログ 94 古代史ニュース 天竜区・の光明山古墳が全長1m伸びた
古代ブログ 95 古代史の本 10 大山誠一『聖徳太子と日本人』角川ソフィア文庫、2005年
古代ブログ 96 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 52 中区住吉4丁目(青少年の家西側)の住吉南古墳
古代ブログ 97 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 53 南区金折町(かなおりちょう)の住吉神社
古代ブログ 98 「神無月」「霜月」のこと
古代ブログ 99 テレビ番組のお知らせ NHK総合「歴史秘話ヒストリア 銅鐸」
古代ブログ 100 テレビ「歴史秘話 銅鐸 まぼろしの王国」 20180216木pm10h25m


古代ブログ 103 浜松遠州古代史ニュース 2 浜北中屋遺跡の馬具(鞍)


古代ブログ 106 回る信仰 説明要項 2007年6月14日 雨宮智彦


古代ブログ 110 百舌鳥・古市古墳群の謎 20190728
古代ブログ 111 近畿古代の五芒星 20190825
古代ブログ 112 秋田の温海山(あつみやま) 20191117
遠州古代史ニュース 1 浜松市天竜区・光明山古墳が国史跡に 20191118 」



新・古代史ノート 4 古代史の本 1 『静岡県史 通史編1 原始・古代』

2020年12月31日 10時32分27秒 | 遠州古代史
新・古代史ノート 4 古代史の本 1 『静岡県史 通史編1 原始・古代』
 
 古代史の本・パンフレット・文献はこれまでも書いてきたが、系統的にみてきたことはない。


 せっかく古代史の本を2箇所にまとめたので、手元にあるものを紹介していきたい。専門家ではないのでたぶん必要な文献がそろってはいないだろうけど。


 最初は静岡県/編集・発行『静岡県史 通史編1 原始・古代』平成6年、A5版、1230ページ。


 やはり浜松の古代史の基本図書のひとつだと思う。


 なんせ平成6年(1994年)、26年前に発行の本なので、用語・概念が古いところがあるのと、それ以後の発掘は自分で補って読んでください。


 目次は以下のとおり。一部は略した、


「序章 静岡県の風土と歴史
 第一編 静岡のあけぼの
  第一章 赤土に埋もれた始原文化
  第二章 自然とともに生きる
  第三章 稲作の成立と発展
  第四章 古墳を築く
  第五章 古代国家へのあゆみ
 第二編 古代の静岡
  第一章 大和王権と遠江・駿河・伊豆の古代氏族
第二章 遠江・駿河・伊豆三国の成立
  第三章 国郡制の成立と国・郡の財政
  第四章 律令制下の社会と交通
  第五章 古代文化の開花
 第三編 平安時代の静岡
 古代郷里比定地一覧
 式内社考証集覧
 索引」