雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

過去現在未来のメモリーノート 77 社会の相(フェイズ)が変わった

2020年03月31日 10時58分02秒 | 過去現在のメモノート

過去現在未来のメモリーノート 77 社会の相(フェイズ)が変わった

 日本では2020年3月に「社会の相(フェイズ)が変わった」とボクは思う。

 「社会の相(フェイズ)」とは「歴史的発展段階」や「時代」とは違って社会的バランスを断ち切って起こるような、たとえば大規模火山噴火とか中世ヨーロッパのペストなどの疫病流行とか大災害をいう。

 「3.11」も日本にとっては大災害だったが世界的な大災害ではなかった。

 今回の新型コロナウイルス危機は誰が見ても世界的危機です。

 これにたちむかうことは世界人類一人ひとりのそれぞれの通常の業務を中断できる人は中断してたちむかうべき重大事なのだと思います。


今年の平和行進実施についての意見 雨宮智彦

2020年03月30日 16時03分49秒 | 戦争と平和

 3月28日、以下の個人意見を日本原水協および静岡県原水協にFAXで送りました。これは、まだたぶん最初の意見書です。実際に送ったものは当然、リアル氏名とリアル住所・電話が書かれています。

「今年の平和行進実施についての意見


 こんにちわ。静岡県で浜松市原水協の事務局員・浜松市平和委員会の理事&事務局員をしています。

 3月27日に自宅へ届いた日本原水協の「原水協通信 4月号」を見ましたが、今回のウイルス危機についての公式機関の公式見解は、どこにも示されていません。

 3・1ビキニデーの諸集会の中止についての記事は(3)面にあります。でも、問題は、① コロナウイルス危機にどう対応するか、② いま平和運動の目前の焦点になっている「平和行進」をどうするか、だと思います。

 そのことが正面から書かれず、コロナウイルス危機に平和運動がどう対応するか「平和行進」をどうするか正面からの検討がされず、「平和行進」がやれるという前提で各地方が自主的に対応をまかされているような印象を受けました。

 やはり中央で「こういう理由でやれる、やるならこういうふうにやれる」「やらないなら統一的にやらない」という方針をすぐ出していただきたいと思います。

 ニュースではアメリカの失業者は戦前の1930年代の大恐慌のときくらいになるのでは、と言っています。ぼくも日本の戦後史にない社会的危機なのではないか、と思います。

 命とくらしをまもる平和運動がこの事態を横目で見て座視しているように見えてしまうのではなく、ま正面からとらえて論議するべきだと思います。

 この時期、平和行進を強行することは、平和運動が命とくらしをまもる立場から、「自粛」で苦しみ悩む国民から浮き上がっているかのように見えると思います。

 先進的平和運動は、国民とともに苦しみ悩むべきではないでしょうか。

 イギリスから平和行進に来ると書いてありますが、イギリスでは首相も感染、全世界的に感染爆発が始まっていると思います。

 現場で実際に実行する立場からも、いろいろ論議しました。その結果、今年は実際上できないのではないかとの結論にたっしました。

 人数限定では平和行進とはいえないとも思います。また例年、準備や出迎えで協力してくれる自治体もこんな状況では歓迎してくれるでしょうか。

 ぜひ論議していただいて、今年は中止の決定を出していただきたいと思います。


                        2020年3月28日
平和委員会1会員の立場で

雨宮 智彦」


雨宮日記 2020年3月29日(日) 関東では白い桜に白い雪

2020年03月29日 20時18分02秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 2020年3月29日(日) 関東では白い桜に白い雪

 桜が咲いたのに、自粛勧告でさびしい週末。

 さらに関東では降雪。世界は白くなった。

 午後はビデオ編集。2月の尾林弁護士講演をあと1時間くらいで終わりそう。

 浜松の男性感染者の詳報がすこしわかりました。

 男性は3月20日から21日に静岡県外に5人で出かけた。そのうちの1人が新型コロナの陽性だとわかったので、男性は相談センターに相談した。感染源となった人はそういうことです。この感染源となった人が何県の人かは公表されていません。

 男性の住所や年齢などは発表されていません。男性は同居者がいます。そのくらいかな。



自伝のための破片 13 林泉書房(松城町)の1

2020年03月29日 08時32分17秒 | 青い銀河とオレンジの花

自伝のための破片 13 林泉書房(松城町)の1 

 『全国古本屋地図』という本が手元にあります。全国の古本屋さんを地図を掲載して1つひとつの古書店を説明している本です。

 昭和52年10月15日第1版~昭和53年8月15日改定新版第2刷、164ページ、定価800円。

 この本の56ページに「林泉書房(松城町六四)は新本兼業、主人は老歌人であったが亡くなってしまって閉店してしまったのは惜しい。」と書いてあります。

 「林泉書房(松城町六四)」はぼくの家です。ここに「主人は老歌人」とあるのはぼくのおじいちゃん(祖父)で福男(とみお)のことです。

 おじいちゃんが亡くなったのは1974年(昭和49年)9月18日のことで86才でした。

 「昭和53年」には閉店していません。父とぼくの2人でやる新刊書店としてちゃんと存在していました。「亡くなってしまって閉店してしまった」とあるのは大間違いです。

 林泉書房が閉店になるのは、もっと先の10年後、昭和の終わりの頃のはなしになります。



雨宮日記 2020年3月28日(土) 浜松市で最初の感染者

2020年03月28日 21時49分06秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2020年3月28日(土) 浜松市で最初の感染者

 昨日・今日と平和行進の実施問題で意見書をつくってました。詳しくは、また書きます。

午後7時から鈴木市長が、浜松市で最初のコロナウイルス患者が出たと記者会見したそうです。男性で自営業者ということです。それ以外は発表しません。

 記者会見する意味あるなかな。

 情報公開とプライバシー羽後とのバランスはむずかしい。

 静岡県で4人目。


雨宮智彦哲学経済学メモリー 27 20200328 資本論の学習 7 「共通な社会的実体の結晶として」の「価値」 20100325

2020年03月28日 19時46分01秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 27 20200328 資本論の学習 7 「共通な社会的実体の結晶として」の「価値」 20100325


「資本論の学習 7 「共通な社会的実体の結晶として」の「価値」
2010年03月25日 04時46分18秒 | 人間・生命・宇宙

 1ページを何回も「学習」する、カタツムリのような遅い歩みですみません。

 カタツムリで思い出して,脱線しますが、最近、デンデンムシムシカタツムリを見なくなっていませんか?これは、大気汚染による酸性雨の影響で、カルシウムの殻をもつカタツムリが減っているのではないかという記事を数年前に見ました。
 ほんとうにそうかもしれません。

 子どもたちが「でんでんむし、むし、かたつむり、おまえの頭はどこにある」という歌を知らないなら、さびしい日本列島だなと思います。

 前回、引用した原文です。
 「そこでこれらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性以外のなにものでもなく、区別のない人間的労働の、すなわちその支出の形態【雨宮注 労働の具体的形態のこと】にはかかわりのない人間的労働力の支出の、単なる凝固体以外のなにものでもない。」(新日本新書①p65、原書p52)

 この続きで、マルクスさんは、こう書いています。

 「これらの物が表わしているのは、もはやただ、それらの生産に人間的労働力が支出されており、人間的労働が堆積(たいせき)されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値ー商品価値である。」

 第1点は、注意深く読むと、新日本新書版は「もの」と「物」を訳し分けています。このことは「表わす」と「現わす」も同じだと思います。

 第2点は、マルクスさんは、価値とは、抽象的人間労働の直接の結晶であるとはしていないことです。

 抽象的人間労働の「それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値ー商品価値である。」

 このことの意味は、また後で述べたいと思いますが、マルクスさんは、そう言っているということを確認して、この項目を終えます。」


雨宮日記 2020年3月27日(金) 外は小雨、アメリカは「世界恐慌時に匹敵の恐れ」

2020年03月27日 10時20分19秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 2020年3月27日(金) 外は小雨、アメリカは「世界恐慌時に匹敵の恐れ」

 外はいま小雨。世界中が外出を控えてると思うけど、関東圏は特に外出自粛の週末。週末の日本列島は雨気味な天気です。

 週末は終末ではないけれど。

 ネットニュース(Yahoo!)を見たら「米の失業申請、週328万人 世界恐慌時に匹敵の恐れ」とあり「セントルイス連邦準備銀行のブラード総裁は22日、米メディアに、失業率が6月までに30%に上昇しうるとの予測を示していた。」。

 世界恐慌時には「33年の約25%」だそうです。

 「恐慌」という用語は共産党の『赤旗』でも使っていませんが、マルクス主義者ならみんな「恐慌」という概念で今回の事態を研究するべきでしょう。

 いっぱいわからんことがある。生物学的にも経済学的にも。

 もうひとつ「米が世界最多 感染者8万2404人に 米大学が集計」がありました。そのなかで「ジョンズ・ホプキンス大学の集計によりますと、世界の感染者数は52万6044人に上っています。」

ことばと詩 28 神野沙希「細胞の……」

2020年03月27日 09時08分35秒 | ことばと詩

ことばと詩 28 神野沙希「細胞の……」

 このごろ短歌や俳句や川柳を興味深く見ている。

 とくに現在の俳句や川柳がとても新選でおもしろい。

 『しんぶん赤旗 2020年3月23日』(7)面「月曜インタビュー 俳句は命の肯定の詩型 自由な突破力生かして」がいい。

 そのなかで出ていた1句。

    細胞の全部が私さくら咲く 沙希


雨宮智彦哲学経済学メモリー 26 20200326 資本論の学習 6 使用価値と労働の有用性を抽象すると

2020年03月26日 21時05分13秒 | 過去現在のメモノート
雨宮智彦哲学経済学メモリー 26 20200326 資本論の学習 6 使用価値と労働の有用性を抽象すると


資本論の学習 6 使用価値と労働の有用性を抽象すると 
2010年03月25日 04時22分13秒 | 人間・生命・宇宙

 前々回の「資本論の学習4」で以下の文章を引用しました。

 「そこで、諸商品の使用価値を度外視すれば、諸商品にまだ残っているのは、1つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。」(新日本新書①p64、原書p52)

 その続きの学習です。

 マルクスさんは、こう言います。
 「それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的形状はすべて消し去られている。」

 そして、労働による生産物の具体的形状が消し去られたということは、その元の「労働の有用的性格も消え失せ」る、と。

 マルクスさんは、このような「労働のさまざまな具体的形態も消え失せ、これらの労働は、もはやお互いに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間的労働」に「還元され」と分析し、このような労働をここで「抽象的人間労働」と定義しています。

 この問題は、次の節「第1章第2節 商品に表わされる労働の二重性」で詳しく分析されるので、ここではこれまでにしておきます。

 ただ1点だけ、次のパラグラフを考えます。
 「そこでこれらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性以外のなにものでもなく、区別のない人間的労働の、すなわちその支出の形態【雨宮注 労働の具体的形態のこと】にはかかわりのない人間的労働力の支出の、単なる凝固体以外のなにものでもない。」(新日本新書①p65、原書p52)

 問題は「まぼろしのような対象性」という用語です。
 「対象性」は、文章で明らかなように「凝固体」と同じ意味だと同じだと思います。
 
 つまり、具体的有用労働は、使用価値という、目に見える「まぼろしのよう」ではない対象性に「凝固」するのですが、具体性を抽象した抽象的人間労働は、その使用価値の中の価値という「まぼろしのような対象性」「凝固体」になるのだと思います。

 図式としては,以下のようになります。
 
 ① 具体的有用労働 → 凝固 → 目に見える使用価値
 ② 抽象的人間労働 → 凝固 → まぼろしのような対象性

 こういうことかな?」


雨宮智彦哲学経済学メモリー 25 20200325 哲学の学習 15 量 その2 分離と連続、外延と内包

2020年03月25日 21時15分50秒 | 過去現在のメモノート
雨宮智彦哲学経済学メモリー 25 20200325 哲学の学習 15 量 その2 分離と連続、外延と内包


「哲学の学習 15 量 その2 分離と連続、外延と内包
2010年03月23日 04時14分13秒 | 人間・生命・宇宙

 遠山啓さんの本の続きです。

 遠山さんは、量を、まず分離量と連続量に分けます。
 そして連続量を、外延量と内包量に分けます。

 「物体もしくは物質に対するもっとも基本的な操作は合併である。
 たとえば、2つのバケツのなかにはいっている水をあわせて1つにするような操作が、この合併という操作である。

 この合併に対して加法的なのが外延量であり、そうでないのが内包量である。

 たとえば、2つのバケツのなかにはいっている水の体積がそれぞれ3リットルと5リットルだとすれば、あわせた水の体積は3リットル+5リットル=8リットルになる」
 「体積・重さ・値段などは問題なく加法的である。」(p107)
 
 「これに対して、合併が加法を意味しないような量も存在する。密度・濃度・温度・速度・単価などがそうである。20度の水と30度の水をあわせてかきまぜても50度にはならないで、20度と30度とのあいだのある値をとるだろう。つまり合併から加法がでてこないのである。」(p107~108)

 「べつのいい方でいえば外延量は“大きさ”もしくは“広がり”の量であり、内包量は“強さ”の量である」(p108)
 
 遠山さんは言います「このような内包量をくらべるのには計算という手段を必要とせず、感覚の助けによって判定することができる」

 つまり「熱い」「冷たい」「暑い」「涼しい」などの感覚で判定することができるということです。

 これは量?質? どっちなんでしょうか。」

雨宮日記 2020年3月24日(火) もがり笛

2020年03月24日 19時47分39秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2020年3月24日(火) もがり笛

 いい天気だったけど、強い風で電線がうなっていた。

 昼休みに則子さんと話をしていて俳句のようなものがうかんできた。

 晩ご飯のときに、できあがりを則子さんに見せたら、けなしたりしなかったので発表することにした。

       誰の悲しみかもがり笛の高い声  雨宮智彦



哲雨宮智彦哲学経済学メモリー 24 20200324 学の学習 14 量について その1

2020年03月24日 13時47分23秒 | 過去現在のメモノート
哲雨宮智彦哲学経済学メモリー 24 20200324 学の学習 14 量について その1


「哲学の学習 14 量について その1
2010年03月22日 23時23分22秒 | 雨宮日誌

 数学から学ぶということですが、量とは何でしょうか。

 たとえば「お皿のなかに果物がいくつありますか」という場合で、「7個あります」というのは量です。

 数学的にいうと「お皿」の中に果物の「集合」があり、たとえばミカン3個とリンゴ4個の「集合」があります。
 
 量というのは、遠山啓さんによれば「3メートルの棒、高さ3メートルの家は、物体もしくは物質として存在するが、3メートルそのものは存在しない。つまり、量の背後にはじゃばらず物体もしくは物質が存在しているのである。」
 (『遠山啓著作集 数学教育論シリーズ5 量とは何かⅠ』太郎次郎社、1984年新装版、p107)

 そして量とは、集合の要素が等質であるときに量となる。つまり、ミカン3個の集合、リンゴ4個の集合、あるいは果物7個の集合。

 そして、量よりさらに抽象的なものが数となります。たとえばミカン3個とリンゴ3個は量としては異なったものですが、数としては同じものです。

 つまり、集合 → 量 → 数、という概念の発展系列が考えられます。(遠山さんの同書、p82~83)
 
 量についての学習は次回に続きます。

 この遠山さんの本は、25年前に買ったので、今はどういう形で出ているのかは調べてありませんが、「水道教育」の著者として著名なので何らかの形で出版されているだろうと思います。」



雨宮智彦哲学経済学メモリー 24 20200324 資本論の学習 5 「実存する」とは何でしょうか?

2020年03月23日 21時18分54秒 | 過去現在のメモノート
雨宮智彦哲学経済学メモリー 24 20200324 資本論の学習 5 「実存する」とは何でしょうか?

「資本論の学習 5 「実存する」とは何でしょうか?
2010年03月20日 04時15分49秒 | 人間・生命・宇宙

 前回第4回に『資本論』第1章第1節から以下のような引用をしました。ページは新日本新書版第1巻です。
 
 「さらに、2つの商品、たとえば」300リットルの小麦=akgの鉄「この等式は何を意味するか?
 同じ大きさの1つの共通物が、2つの異なった物のなかに、すなわち」300リットルの小麦のなかにも、akg「の鉄のなかにも、実存するということである。」
 「したがって、両者は,それ自体としては、一方でもなければ、他方でもないある第3のものに等しい。」(p63)
 「この共通なもの【第3のもの】は、商品の幾何学的、物理学的、化学的、またはその他の自然的属性ではありえない。・・使用価値としては、諸商品は、なによりもまず相異なる質であるが、交換価値としては、相異なる量でしかありえず、したがって、1原子の使用価値も含まない。」(p64)

 注)原文の「ブッシェル」では現代の私たちにはぴんとこないし、イメージできないので「300リットルの小麦」という表現をしてみました。

 ここで問題なのは「実存する」というマルクスさんの表現です。

 ドイツ語原文では「existireren」で、その直前の「交換価値は、一般にただ、それとは区別されうるある内実の表現様式、「現象形態」でしかない。」(p62)という「現象形態(Ersheinungsform)」とは明らかに用語が異なっています。

 マルクスさんの用語が異なっていれば、概念も違うというのが特別の理由がない限りは妥当な話だと思います。

 脱線して考えると、たぶん、ここでいう「実存」はフランスのサルトルさんの「実存主義」とは何の関係もないと思います。
 もし関係があったら、ごめんなさい。

 第4回では省略した文章はこうです。

 「両者はどちらも、それが交換価値である限り、この第3のものに還元されうるものでなければならない。簡単な幾何学上の1例がこのことを明らかにするであろう。およそ直線形の面積をはかり、比較するためには、それをいくつかの三角形に分解する。三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現ー 底辺×高さ÷2 ーに還元される。これと同じように、諸商品の交換価値もある共通物に還元されて」(p63)

 つまり、「二つの異なった物のなかに」「実存する」「同じ大きさの1つの共通物」は「その目に見える形【交換価値】とはまったく異なる表現に還元され」ます。

 あとの第3章第1節では、こう述べられています。

 「鉄、リンネル、小麦などの価値は、目には見えないけれども、これらの物そのもののうちに実存する」(p162、原書p110)

 とにかく「実存」という概念と「現象」という概念が違うということを今日は学習しました。

 「実存」という概念は、ヘーゲルさんから来ているので、またそっちも含めて縦横斜め、学習を続けます。


< 補足 20200323 >


 『資本論』における「実存」という用語は、全巻のなかに多出します。それに「存在」とは微妙に違うようです。

 いまは「実存」という概念は「目には見えない」ということと関わっていて、とくに「転倒」という意識・観念の現象とかかわりがあるようです。

 ところが2019年から出ている新日本出版社の『新訳 資本論』では、これまでの新日本出版社の訳が変わってしまって、どうも「実存」ではなく「存在」になってしまったようです。

 ドイツ語版原書 p51 上製版Ⅰa p63   新訳 p69
p64 p86 p92
         p100      p143     p151
         p110 p160 p169

しかし、その1行あとに旧新日本出版社版では、「存在」がすでにあるのです。

 旧訳 「この関係のなかでは、上着は、価値の実存形態として、価値物として、通用する。なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだからである。他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現われてくる。」
 ( 上製版、Ⅰa85~86ページ、原書64ページ )

 新訳 「この関係のなかでは、上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する。なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだからである。他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現われてくる。」
 ( 新訳、①92ページ、原書64ページ )

とすると旧訳で「実存」「存在」という2つの表現を、新訳は「存在」という表現にまとめてしまったことになります。これが妥当な訳といえるかどうかです。

そして残りの問題はドイツ語原語がどうなっているかですね。ドイツ語原書は持っているので時間があるときに調べてみます。

 違うことばを同じ日本語に訳してもいいのです。大事なのはマルクスがそのことばを使った文意です。

 逆に同じ用語を2つに訳し分ける場合もありうると思います。

 なにかわかったら書きます。



雨宮智彦哲学経済学メモリー 23 20200323 人間・心・集団 3 森繁久弥さんの「人間は、芸+人」 20100319

2020年03月22日 20時53分25秒 | 過去現在のメモノート
雨宮智彦哲学経済学メモリー 23 20200323 人間・心・集団 3 森繁久弥さんの「人間は、芸+人」 20100319


人間・心・集団3 森繁久弥さんの「人間は、芸+人」
2010年03月19日 04時30分42秒 | 人間・生命・宇宙

 今年、森繁久弥さんが亡くなったあと、NHKラジオで深夜に、追悼放送があり、以前の森繁さんの録音が流れていました。

 その中で、森繁さんが「以前は、芸人というのは、芸のある人だと思っていたが、いまは、芸人というのは、芸+人だ、芸も、人もどっちもだいじだと思う」という意味のことを語っていたのが印象的でした。

 芸というのは、能力のことだと思います。
 それに対して「人」というのは、人間のなかで、ふつう「人格」とか「魂」とかいわれるもので、これが一人ひとりの人間の中心、司令塔なのだと思います。

 私のイメージでは、1人の人間の中心には「魂」「人格」とか呼ばれるものがあり、その周囲に、周りの人間や自然とコミュニケーションする「能力」が発達していきます。
 それを「労働力」「労働能力」と呼んでもいいでしょうね。

 「芸」という「能力」が発達しても、それは必ずしも「人格」「魂」の発達とはならず、その変質や後退になる場合もある、ということを森繁久弥さんは言っているのだと思いました。

 自分の能力が発達したことを、自分の「人格」「魂」そのものが発達して,他人より上に立ったように誤解してしまう人もいるのではないでしょうか。
 

雨宮日記 2020年3月21日(土) 学習会へ行くので馬込川の堤防を散歩

2020年03月21日 20時21分04秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2020年3月21日(土) 学習会へ行くので馬込川の堤防を散歩

 暖かい天気なので、学習会へ行くのに車椅子で則子さんと出かけました。

 馬込川の堤防を歩くと、春がいっぱいありました。

 まだ黒いオオバンがたくさんいます。ツバメがもう飛んでいます。菜の花が裂いています。

 オドリコソウやホトケノザがいっぱい咲いています。

 堤防のやぶのなかからウグイスのホーホケキョというさえずりがよく聞こえます。

 堤防の外側に面した家のオジイチャンと飼っている兎が道路へ出てきていました。春だからかなあ。

 道草をしちゃったので、すこし学習会には遅れてしまいました。

 いつも2階の狭い部屋でやってる学習会は3階の広い部屋で、あいだをかなり開けて学習をしました。

 今日、イタリアの死者は4000人を超えました。来月のいまごろは世界はどうなっているのでしょうか。