雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

日本・世界の遺跡・神社・遺物  1  富士山と出雲大社

2014年04月08日 19時44分45秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物

日本・世界の遺跡・神社・遺物  1  富士山と出雲大社

 「遠州の遺跡・神社・地名」は、実際に雨宮が行って、見て書いていくので、行かない、行けないところも書きたくなりました。

 なにせ、無職無収入で、則子さんから月3万円のおこづかい(本代・アルコール代を含む、食費・ガソリン費・ネット携帯費は含まない)で生活しているので、時間はあっても、遠くへ宿泊研究ツアーには行けません。そこで、こういう、「行かないところ」も文献に基づいて書く古代史コーナーをつくりました。

 まず富士山です。タイトルが「富士山と出雲大社」というとっぴもないタイトルですが、池田潤さん著『古事記のコード(暗号)』戎光祥出版、2011年初版、によれば、「富士山は出雲大社と同じ緯度、35度21分の上にある」あるいは「出雲大社は富士山と同じ緯度、35度21分の上にある」。

 これは、みなさん、地図を出して確認すれば自分の目でそうかどうか、すぐ確認できることですから、正否を確認してみてください。

 もしそうなら、そこから「なぜか」と問いをするのが科学というものです。

  ☆

 つまり、真実は「出雲大社は、日本を代表する聖なる山、火の山、富士山の真西に建設された」ということなのか。それとも偶然なのか。

 今は深入りはしませんが、最近、毎週発行している『日本の神社』の№8、「富士山本宮 浅間大社」がでました。

 そのなかの13ページで紹介されているのは、富士山頂の「奥宮・末社」の「久須志神社」は、オオナムチノミコトとスクナビコナミコト、つまり出雲神話の主神を祭っている、という、ぼくも初めて聞く話です。

 そして28ページでは、歴史家の関裕二さんが「『日本書紀』と『古事記』のどちらにも富士山は登場しない」「『日本書紀』はヤマト建国と「東」との関係を無視し、歴史叙述から抹殺している」と書いています。このことは古田武彦さんも主張しています。

 そのとおりだと思いますが、それはなぜか、ですね。その一因は、ヤマト政権の公式歴史(記紀)では、ヤマト政権は出雲政権から武力で「国譲り」を強制した、とされていることに、何か歴史の謎があるのではないでしょうか。この謎はまだ、誰も解いていません。

 出雲政権が東国との関係が深く、この遠州でも出雲文化の大きな勢力があったことを「「遠州の遺跡・神社・地名」で書いてきました。まだ書きます。

 

 


日本と世界の古代史 農業の開始はハンコの開始か?

2013年12月21日 05時43分03秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物

日本と世界の古代史 農業の開始はハンコの開始か?

  「日本と世界の古代史 1万1千年前のトルコの石柱遺跡が人類史を書き換える 2013年12月19日 22時12分22秒 | 日本と世界の古代史」で紹介した「世界不思議はっけん」で質問「農業の開始(トルコの地域では小麦の栽培)と共に始まった一人ひとりが持つ物は?」に対する答えは「ハンコ」でした。

 しかし、中東に於いては「農業の開始がハンコの開始」だったのかもしれませんが、日本に於いては正しくないと思います。

 日本の弥生時代、稲農耕の開始とともに、ハンコは始まっていません。日本でハンコが始まるのは統一国家=律令国家のできる7世紀末から8世紀です。

 参考は田中琢・佐原真『考古学の散歩道』(岩波新書、1993年)の「Ⅰ 日本人とは?日本文化とは?、2 象牙とハンコ(執筆:田中琢)」です。

 律令体制の崩壊とともにハンコ文化は衰退して、サイン文化に代わります。そして江戸時代からまたハンコ文化が復活して、現代に至ります。

 なぜ?ということは同書では解明されていません。おもしろい問題ですが。

 なお中東古代や日本古代のハンコは「粘土」に「封泥」するため、現在のハンコで字の外を掘るのと違って、逆に、「字」が掘られています。

 


日本と世界の古代史 1万1千年前のトルコの石柱遺跡が人類史を書き換える

2013年12月19日 22時12分22秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物

日本と世界の古代史 1万1千年前のトルコの石柱遺跡が人類史を書き換える

 ギョベクリ・テペ

 11月末にテレビ『世界ふしぎ発見』で、古代史のきわめておもしろい内容をやっていたのでしょうかいします。

 まず「ギョベクリ・テペ」、これはトルコの古代遺跡で、謎の石柱がいくつも建てられた円形の遺跡がいくつも発掘され、1994年から現在でも発掘がずっと続いています。つまり、あまりに広大すぎてまだまだ発掘が続きます。

 高さ5.5m、重さ16トンの石柱が建っている円形の遺跡は20以上あります。

 驚くべきは、その年代で、1万1千年前です。つまり、まだ農業もなければ、金属器もない時代です。

 石柱には、動物や鳥などが掘られていて、それぞれの円形遺跡ごとに動物が違う。発掘者のクラウス・シュミットさんは、「動物を掘った石柱はそれぞれの部族が信仰していた動物」と言っています。
 
 つまり、鳥やジャガー?、狐?、蛇などそれぞれの氏族が動物を信
仰していて、その氏族が全体として1つの部族としてまとまっていた、というのです。

 さらにおもしろいのは、この「ギョベクリ・テペ」から300km離れた、同時代の住居遺跡「ハサンケイフ・ホユック遺跡」で、小さい「石柱」が発掘され、明らかに、この遺跡の住民は日常的には、自分の村の、小さな石柱を拝んでいたが、年に1回、300km離れた「聖地」にお参りしてお祭りをしていたのではないか、と推定されています。

 300kmというと、浜松から

 農業も始まっていない時代に。このような「宗教」が発生していたというのは、人間精神の歴史の新たな解明だと思いますが、誰か、理論的に説明しているのでしょうか?

    ☆

 「動物の名前をつけた氏族」ということで、すぐわかるのは、アメリカインディアンのまったく同じ族名制度です。
 
 モーガン『古代社会』で、こう書かれています。「カユーガ・イロクォイ部族は、2胞族の中に8氏族を有している。」「それは次のごとくである。
 第1胞族 氏族 ー 1熊 2狼 3海亀 4シギ 5鰻
 第2胞族 氏族 ー 6鹿 7ビーヴァー 8鷹」

 これは一例で、地域が違えば動物名もいろいろです。まさに古代トルコと同じ氏族制度です。

    ☆

 1万1千年前という年代ですぐ思うのは、日本列島の、「まだ農業が始まらない」「金属器もまだない」という同じ状況で、1万2千年前には縄文土器が作られているという点です。

 新石器時代=農業の開始とするのは正しくなく、どちらも同じ新石器時代の狩猟=採集文化、あるいは新石器時代の採集=狩猟文化であることは確かだと思います。いずれにしろ、もっと生産・消費を含めて時代区分を考え直さないといけないようです。

    ☆
 
 この石柱を見て、すぐ連想したのは映画「2001年宇宙の旅」の黒い石柱「モノリス」です。もちろん、何の関係もないのですが、もしこの発見が「2001年宇宙の旅」製作の前だったら、アーサー・クラークさんがこの石柱からヒントを得て、この物語を創ったと言われますね。
 
 「2001年」の製作は1960年代で、この石柱発掘のかなり前です。SF作家の想像と、古代人の想像が、一致してしまったのは非常におもしろいです。


 


日本古代史の本 田中琢・佐原真『考古学の散歩道』岩波新書、1993年

2012年12月19日 05時34分16秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物

日本古代史の本 田中琢さん・佐原真さん著『考古学の散歩道』岩波新書、1993年

 法隆寺問題から逸れますが、むかし(19年前)に読んだ本が出てきたので、紹介します。

 考古学者の田中琢(たなかみがく)さんと、佐原真(さはらまことさん)が交互に雑誌『ルック・ジャパン』と雑誌『図書』に執筆した考古学評論を一冊にまとめたもので、考古学ファンの市民としては、非常に読みやすいです。

 目次を紹介します。

 紀元前後のボートピープル、象牙とハンコ、キモノと装身具、縄文人のイヤリング、「わたしの茶碗」「わたしの箸」、世界最古のカードシステム、大工道具からみた日本人、縄文の森の復活、大昔の歯の語るもの、米について何がわかったか、花を飾る文化、道具の進歩と豊かさと、地震を発掘する、日本のポンペイ、国際化とはー考古学の場合、戦争はいつ始まったか、周辺からの視点、考古学の戦争、文化財保護の思想

 


日本古代史の本 谷沢永一『聖徳太子はいなかった』新潮新書、2004年

2012年12月15日 05時16分04秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物

日本古代史の本 谷沢永一『聖徳太子はいなかった』新潮新書、新潮社、2004年発行

 『サライ』の特集に水を差すようで、申し訳ないですが、聖徳太子という人は実在しません。宣伝・イメージの中に「存在することに」された人で、実在したのはウマヤド皇子です。

 「そんな馬鹿な!」と怒った人は、文句はこの谷沢(たにざわ)永一さんに言ってください。

 ぼくは、谷沢さんが、ほぼ真実を述べていると思います。

 つまり、なぜ日本国政府関係者(藤原不比等などです)が『日本書紀』で「聖徳太子」を必要としたか、なぜ法隆寺関係者が「聖徳太子」を必要としたか。

 内容の紹介にはなっていませんね。図書館で借りるか、自分で買うか、手に取って読む価値のある本です。

 『サライ』特集p30に、十七条憲法のことが褒められています。しかし、谷沢さんによれば、「十七条憲法」は『日本書紀』に「作られた」とあるが、施行されたとは書いてない。『日本書紀』以外に「十七条憲法」が効力を発揮した話は、ないようです。つまり、『日本書紀』の中でのみ有効な、聖徳太子を存在することにしたいための宣伝文書ではないでしょうか。

 720年に『日本書紀』に「十七条憲法」が述べられていたというのは、今のところ、事実ですが、その100年前に、実際に「十七条憲法」が実在したという事実は、まったく証明されていません。

 さらに、「日出る国の天子…」という、『日本書紀』には出てこない、隋の天子に日本列島の正式政府から送付された外交文書が『隋書』には掲載されています。

 これが聖徳太子の「外交」だとされているのですが、聖徳太子は「天子」ではありません。単なる「皇子」であって、七世紀初頭には「皇太子」制度さえ、ありませんでした。もし、「日出る国の天子…」文書がヤマト国家から送られたのであれば、送ったのは推古天皇でなければなりません。

 こういう齟齬を、谷沢さんは追求しています。ぜひお読みください。

 


日本古代史の本 森浩一さん著『日本神話の考古学』朝日新聞社、1993年

2012年12月06日 05時44分04秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物

日本古代史の本 森浩一さん著『日本神話の考古学』朝日新聞社、1993年

 考古学者の森浩一さんが、まじめに「記紀神話」と「考古学」に格闘した一冊です。もちろん「神話」と「考古学」の最初の格闘ではありませんが、考古学界の重鎮の著書ということで、大きな意味があると思います。

 これ以前の格闘としては、ぼくの認識では、古田武彦さんと安本美典さんです。残念ながら、古田さんと安本さんは敵視しあっていますし、この森さんの著書と、古田さん・安本さんの著書ともなんら関連ないし共鳴しあっていません。残念です。

 森さんが主張しているのは、記紀神話は、現代人は知らない、弥生時代の現地の土地勘がリアルに書かれていて、津田説のような小説的虚構とは思われないという点です。

 つまり、記紀神話は歴史的事実をリアルに描写している側面があるということです。

 それは、ぼくも同感です。

 目次は、以下の通り。

   国生みとイザナミの死

   三種の神器

   出雲と日向

   神武東征

 

 


日本古代史の本 内倉武久さん著『謎の巨大氏族・紀氏』三一書房、1994年

2012年11月30日 05時49分03秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物

日本古代史の本 内倉武久さん著『謎の巨大氏族・紀氏』三一書房、1994年

 浜松の中央図書館の日本古代史コーナーで目についたので、昨日借りてきました。

 著者は朝日新聞の元記者です。

 和歌山県を中心にした古代豪族「紀氏(きし)」は、通常は大和政権が朝鮮に派遣した軍事氏族という説になっていますが、著者は和歌山県現地の古墳などの遺跡と遺物を具体的に追いかけながら、記紀や風土記などの古代文献で、朝鮮や日本列島の紀氏の行動を具体的に跡づけていきます。

 あまり読まれない『日本書紀』に描かれた、朝鮮での紀氏の行動がきわめてリアルでおもしろいです。

 「仁紀41年」には、百済に派遣された紀角宿禰が、百済王族の酒君(さけのきみ)の無礼を責めたので、百済王は酒君を鎖で縛って倭に差し出したという記事があります。

 「雄略紀9年」には、紀小弓宿禰が朝鮮に派遣され戦死、小弓の息子である紀大磐は父の戦死した地へ行って父の同僚の権限を取り上げたので内紛がおき、蘇我韓子は川で大磐を弓で射ようとして失敗、逆に大磐に弓で射落とされて川で溺れ死んだ、とか。

 著者は、紀氏がもともとは朝鮮半島から日本列島に渡ってきた渡来人である可能性を遺跡・遺物・文献から主張しています。

 その可能性は高いと思います。

 紀氏は、瀬戸内海や淀川水系の交通も押さえていたようです。

 おもしろいのは紀氏が石清水八幡宮を創建したということです(p183)。これは京都の「清水寺」、浜松の「岩水寺」との関係でも、また考察したいと思います。

 紀氏と九州・ツクシ国家との関係も気になります。和歌山市にある5世紀終わりの、馬のよろいで有名な大谷古墳の石棺は九州・阿蘇から運ばれています。

 古代日本の列島全体を、たて・よこ・ななめ、いろんなラインで考えないといけませんね。


古代史の本 こうの史代さん画『ぼおるぺん古事記(一)天の巻』平凡社

2012年09月15日 20時21分15秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物

古代史の本 こうの史代さん画『ぼおるぺん古事記(一)天の巻』平凡社、2012年(平成24年)5月25日初版第1刷~7月7日初版第2刷、127ページ、定価1000円+消費税

 こうのふみよさんは、1968年9月、広島市生まれのマンガ家。主なコミックは、広島原爆を描いた『夕凪の街 桜の国』、戦時下の呉に住む女性とその家族を描いた『この世界の片隅で』、現代エッセイ『ぴっぴら帳』などです。

 今年は「古事記」1300年なので、他にも里中美智子さんが描いているようです。

 こうのさんのペンタッチは「ぼおるぺん」的で、あまり陰影を描きこまないので、題材が暗い場面でも暗くならなくて、芯のある明るさがあって、とてもいいです。

 文章は、ほとんど原文に近いのでしょうか。現代文になっていませんが、絵で読めるので、非常に読みやすいです。

 目次は その1 なれりなれり、その2 あなにやしあなにやし。その3 うみうみ、その4 よみよみ、その5 そそぎそそぎ、その6 べそべそ、その7 さがみにかみ、その8 ゑらぐゑらぐ、その9 くさぐさ、その10 なづちなづち、その11 すがすが。

 (二)地の巻は9月中に、(三)海の巻は11月に刊行予定だそうです。(四)以後はあるのかな?

 

   


日本古代史の本 池田潤著『古事記のコード』戎光祥出版、2011年

2012年09月15日 05時27分03秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物

日本古代史の本 池田潤著『古事記のコード 太陽のラインと隠された古代地図』戎光祥出版、2011年(平成23年)12月1日初版初刷、267ページ、定価1800円+消費税、
 
 この本は、『古事記』『日本書紀』などの日本神話と地名に関連して東西ライン、夏至冬至線などを追求した、日本列島のレイラインの「まとめ」の様な本です。とくに「消された富士山」の謎を追っていて、必読です。
 たとえば富士山を通る北緯35度21分の東西線を西へ辿ると、古代の13の国を通ります。この13の国のうち7つでそれぞれの国の「一宮」がこの線上に位置しているのです。
 あるいは現在の宮崎県「日向(日に向かう)」から夏至の日の太陽の日の出の方角に、四国の足摺岬、室戸岬、伊勢の朝熊ヶ岳、そして富士山があり、最期に「日立」に至るラインも指摘されています。
 こういう目で著者はイザナギ・イザナミや神武天皇の通ったという道を辿ってその意味を解明していきます。
 以下、ここに展開された古代の地名や古代の神々の解明は,別途個々に紹介していきたいと思います。

 


日本古代史の本 中西勉さん編『万葉集 全訳注原文付』講談社文庫、全4巻と別巻1

2012年01月23日 05時04分38秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物
日本古代史の本 中西勉さん編『万葉集 全訳注原文付』講談社文庫、全4巻と別巻1

 「生きることは歌うこと」「歌うことは生きること」…「歌」という意味に、① 音楽としての声で「歌う」歌、② 「短歌」「俳句」「詩」などの文学として、文字としての「歌」の2つの意味がありますが、それが渾然一体として混じり合っていたのが古代だと思います。

 ぼくのおじいちゃん(祖父)の福男(とみおさん)は、アララギ派の短歌人でしたので(『浜松市史』にも掲載されています)、ぼくが万葉集大好きなのも、まるっきり祖父の短歌と無縁ではないと思います。

 でも、大学時代から古代史や万葉集にはすごく興味があったのに、祖父の短歌のこととは、まるっきり意識がなかったのは、なぜなんでしょうか。不思議です。

 ぼくが大学で混声合唱団にすこし入り、浜松に帰ってきてから浜松の市民合唱団に入ったのも、そういうことと無関係ではないと思います。

 まったく別の場所で知り合って親しくなった、恋人(当時は、まだ妻ではないので)の則子さんを、合唱団に引き込んだのも。

 あ、万葉の話に戻します。

 『万葉集』の全20巻、4516首を、抄訳や抜粋ではなく、全部の歌を読んでいくために、① 原文の漢字だけの文章、② 読み下し文、③ 現代語訳、④ 語注、⑤ 情景や作者についての解説など、⑥ 全体の索引、がそろっているのがベストだと思います。

 この中西進さんの文庫本(全5冊セット)は、このうち ④が少しで、⑤はなしというハンディはありますが(なにせ文庫本に詰め込んであるので)、初学者にとっての初歩的要求を満たしたすてきな本です。

 別巻(1冊)は「万葉集事典」というタイトルで、年表・研究史年表や、人名・動物・植物・地名のあいうえお順の索引、資料などがあって、とても便利です。

 なお、この4冊の本文が1冊になった単行本もありますが、重たいし、別巻の索引などもないし、こちらの文庫本の方がお勧めです。

  ぼくは、この文庫本5冊を、ちょうどうまく入る布のケース(写真をみてください)に入れて、家の中で持ち歩いています。

 こういう数冊にわたる文庫本って、読んでいるうちに、1冊だけ、どこかに「逃亡」してしまって「行方不明」ということがよくあるのです。

 ④や⑤が充実している本も、探して読んでみたいと思っていますが、まだまだ先の課題です。

 4516首を1日に10首読んでいっても、451日かかります。

 


日本古代史の本 佐々木高明『日本文化の基層を探る』

2011年11月19日 14時37分46秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物
日本古代史の本 佐々木高明さん著『日本文化の基層を探る ーナラ林文化と照葉樹林文化ー』NHKブックス、日本放送出版協会、1993年10月30日第1刷~2004年2月10日第10刷、253ページ、定価970円+消費税

 佐々木さんの提唱する文化=社会系統論の特徴は、東日本のナラ林に特徴的な縄文文化と稲作農耕文化のあいだに、もう一つ照葉樹林文化がもたらした焼き畑農耕とその文化を重要視していることです。

 サトイモや雑穀栽培、味噌・納豆など大豆の加工食品、漆、などなどです。

 もう一つ、この本の特徴は、「5 海人と王権 ーその文化の系譜」(p159~192)で、日本列島の海人たちについて、3つ(4つ?)の系統を区別していることです。

 一つは、宮本常一さんが「南島系」と規定する、オオヤマヅミ神を祭る海人たちです。この海人たちは海に潜るのは男性だけです。南島から日本の海岸線をたどってきたようで「瀬戸内へまっすぐ入ってこずに、本州南岸を黒潮にのって志摩から伊豆の三宅島、伊豆の三島と展開し、瀬戸内へは鴨氏と結びついて摂津から入るという入り方をしている」としています。

 二つ目は江南系の一つ目の流れで、「安曇(あずみ)氏」です。ワタツミの神を信仰して、瀬戸内海から更に東へ、愛知県では「渥美半島」に名を残し、海から上陸して長野県では「安曇野」に定住しています。

 三つ目の、江南系のもう一つの流れが、ムナカタ氏で、ムナカタ氏の女性・尼子娘(あまこのいらつめさん)が天武天皇さんの后になり、高市皇子さんを生みました。彼女は胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)さんの娘です。

 さて、そうするとたとえば、わが浜松市の縄文時代の蜆塚遺跡を残した海人や、同じ縄文時代の日本海岸の能登半島の真脇遺跡の「日本漁業発祥の地」ともされる海人(うみびと)たちは、どこから来たのでしょうか?あるいはその文化のルーツは?

 それはともかくとして、この本は鵜呑みにしないで、細かく検討しながら租借してじっくり研究する価値のある本です。

世界古代史 1万1千年前、人類最古の祭祀遺跡「ギョベックリ・テペ」

2011年11月02日 06時28分38秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物
世界古代史 1万1千年前、人類最古の祭祀遺跡「ギョベックリ・テペ」
 
 科学雑誌『ニュートン』の10月号が「太陽」特集なので買ったら、125ページに、こういう記事がありました。

 トルコ南東の、シリアとの国境にも近い遺跡「ギョベックリ・テペ」の発掘で、地中から「エンクロージャー」と命名された丸い遺跡がいくつも、石の立石で丸く囲った、まるで「ストーンヘンジ」のような遺構が掘り出されました。

 というより、立石は、まるでA・C・クラークさんの小説で、S・キューブリック監督さんが映画にした『2001年宇宙の旅』に出てきた「モノリス」のような…。

 この立石には、虫や動物のような生物が刻まれています。

 イギリスの巨石文化「ストーンヘンジ」は5千年くらい前ですから、それをかなりさかのぼって、年代は1万1千年くらい前で、つまり中東で農業が始まる直前で、しかも単一の集団ではなく複数の集団が利用していたようです。

 記事では、農業が始まり技術が高まったことで、新しい文明が始まったのではなくて、むしろ逆で、新しい精神文明が始まったことで、農業が可能になったのではないか?としています。

 この遺跡は8千年前に突然、廃絶しています。どこかへ行ったのか、それとも。滅んだのか?


日本古代史 10月17日 「万葉集」皇族・貴族の称号の訳語の感想

2011年10月18日 05時25分46秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物
日本古代史 10月17日 「万葉集」皇族・貴族の称号の訳語の感想

 『万葉集』を、我々のような市民が読むときに、普通は、原文ではなく「読み下し文」で、五七五七七にして読んでいます。
 問題はそのときの訳語ですが、たとえば皇族・貴族の称号をどう読んでいるのでしょうか。
 ぼくは講談社文庫の中西進さんの5巻本「万葉集」が原文が付いているので愛読していますが、これを引用します。かなりの漢字にふりがながついているので便利です。

 原文   読みかた   引用例  歌番号
大王    おほきみ  
王     おほきみ  額田王(ぬかたおほきみ) 7番
女王    おほきみ  誉謝女王         59番
王女    おほきみ  鏡王女          91番
天皇    すめろぎ               29番
皇子    みこ    川島皇子         34番
皇女    ひめみこ  御名部皇女        77番

 大王=大(おほ)+王(きみ)であるという解釈なら、やはり、王=きみと読むのが論理ではないでしょうか。
 もちろん「きみ」は漢字で書けば「君」です。
 さらに「女王」も「王女」も「おほきみ」と読むのはどういう感覚なのか。日本語で歌うためというなら、繊細な日本語を尊重して、きちんと訳し分けていただきたいです。
 むしろ音読みで「大王 だいおう」、「王 おう」「女王 じょおう」「王女 おうじょ」とした方がスッキリするのではないでしょうか。

 ここまで書いてから、用語問題と言うより、もっと深い論点を思いつきました。

 つまり「大王」とは、古代の日本列島で存在した国には、ただ一人しかいないはずです。西洋の「王様」的な存在が大王です。

 ところが「王」は、大王の息子とか、前の大王の息子とか、いっぱいいるので、西洋でいうと「王子」的な存在ですね。

 実際上、古代のあの時代に、たとえば6世紀前半の、継体天皇(というのは後の時代の言い方で,あの時代には「継体大王}でしょう)と天皇家の王子たちを同じ「おほきみ」と呼ぶとは、考えられません。

日本古代史 「万葉集」を読む 1 「日本」と「倭」と「ヤマト」と 

2011年09月20日 05時25分56秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物
日本古代史 「万葉集」を読む 1 「日本」と「倭」と「ヤマト」と

 講談社文庫の中西進さん全訳の『万葉集(二)』のp40に「956番」の大伴旅人さんが太宰府で詠んだ歌が載っています。

 中西さんの読み下しは以下の通りです。

 「やすみししわご大君(おほきみ)の食国(おすくに)は倭(やまと)も此処も同(おや)じとそ思ふ」

 原文はこうです。

 「八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念」

 ぼくは、こう思います。原文の「日本」がなぜ、読み下しでは「倭」と漢字で書いて、しかもふりがなが「やまと」なのでしょうか。

 日本をヤマトと訳していいのなら「日本書紀」も「ヤマト書紀」、「続日本紀」も「続ヤマト紀」に題名を訳しても良いことになります。

 普通の理解では「日本」は八世紀以後の日本国とか日本列島全体のことで、「倭」は七世紀以前の日本の旧名ですね。

 紀元五世紀の「宋書倭国伝」、紀元3世紀の「魏志倭人伝」での「倭国王」卑弥呼も有名ですし、紀元一世紀の「金印」に「漢委奴国」と記されているのも「委=倭」です。

 『万葉集』でも「日本」と「倭」が両方とも出てくるので、それぞれ「日本(にほん)」「倭(わ)」と訳せばいいのではないでしょうか。

 日本の一地方である「ヤマト」と訳すのは混乱・混同の元ではないでしょうか。

 「956番」の2つ前の「954番」は膳(かしわで)王さんの歌ですが、原文で「倭部越」を読み下しでは「倭(やまと)へ越ゆる」と訳しています。

 956では「日本」を「倭(やまと)」に、954では「倭」を「倭(やまと)」にというのは、違う原語を同じ訳語にするのは無理があると思います。

 すくなくとも、どうしてそうするかという説明は必要ですが、それがあるのかどうか、もっと学習します。

 「1047番」の長歌の最初は「やすみしし わご大君の 高敷かす 日本(やまと)の國は」と読み下していますが、原文は「日本國」で、現代語訳は「八方を支配なさるわが大君が、高々と治めなさる大和の国は」となっています。

 大君が治めるのは「大和の国」というのは、あまりにも小さすぎて大君から抗議声明が出るのではないでしょうか。

 大和の国は天皇家の最初の拠点であり、天皇家が治めていたのは日本全体というのが記紀や万葉の世界の前提ではないでしょうか。

 ですから、この1047番の場合、「日本」は大和という一地方ではなくて「日本」でないとつじつまがあわないと思います。

 ヤマト朝廷というのは歴史学者たちの名付けた他称で、自称は「日本天皇家」ではないでしょうか。

 「万葉集」を原文・読み下し・現代語訳で比較しながら、読んでいきたいと思います。
 

 

日本古代史 「天原」は天空?それとも高天原?それとも?

2011年09月16日 05時49分31秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物
日本古代史 「天原」は天空?それとも高天原?それとも?

 重宝している中西進さん編集の『万葉集(全4巻+別巻)』講談社文庫、を読んでいると、こういう歌に出会いました。

 「天の原 ふりさけ見れば 白真弓張りて 懸けたり 夜路は吉けむ」

 第1巻の194ページ、第289首です。「間人宿禰大浦初月歌二首」の1首目です。

 中西進さんの現代語訳の最初は「大空をふりあおいでみると」と訳しています。

 原文は「天原」です。なぜ「天原=天の原」が「大空」になるのでしょうか?

 そして、どうして「ふりあお」ぐのでしょうか?
 月を見るのですから、まず月の方向を向いて目を上げればいいので訳語「ふりあおぐ」という原語「ふりさけ」が何か不自然なのです。

 「ふりさけ」は実は、「ふりかえる」ではないでしょうか。

 「古今和歌集」の「巻第九」の最初、第406首目は,有名な安倍仲麿さんの歌です。

 「唐土にて月を見てよみける

  あまの原 ふりさけみれば 春日なるみかさの山に いでし月かも」

 この安倍仲麿さんの歌について、古代史学者の古田武彦さんは、「天の原」は天空のことではなくて、北九州の壱岐島の「天の原」という現代にもある地名で、九州から中国へ遠く渡ろうとする安倍仲麿さんが、壱岐島から振り返って、北九州の福岡付近にある「春日なるみかさの山にいでし月」を見て歌った歌だとしています。

 「春日」も「みかさ」も、福岡付近と、奈良付近の両方にあります。

 つまり、いまから故郷の筑紫を離れて、遠く中国へ任務で旅をするときに、故郷を「ふりかえって」偲ぶ、望郷の歌ではないでしょうか。

 問題は、日本神話の「高天原(たかまがはら)」と、この「天の原」との関係です。

 実は、万葉集の中には「高天原」=「天原」という歌もあるのです。

 たとえば「巻第二」の柿本朝臣人麿の歌(第167首)では,最初「天地の 初の時 ひさかたの 天の河原に」と歌い出し、途中で「天の原 石門を開き 神あがり あがり座しぬ」と。

 もし「天原」=「高天原」なら、なぜ言葉で書き分けるのか、という疑問が出てきますね。つまり、どっちかの語彙で統一すればいい、違うのは,概念が違うのでは?

 ひとつありうるのは、この「高天原」=「高い天原」は、壱岐の「天の原」よりももっと歴史的に「倭人」あるいは「天族(あまぞく)」がやってきた根源の土地で、壱岐の「天の原」は、その途中の拠点ではないでしょうか。

 こういう視点でいうと、「高天原」は、朝鮮半島のどこかに発進地として求めないと…そして海洋民族の中間拠点として壱岐島の「天の原」があります。

  ☆

 これ以後は妄想です。

 幻想古代史として語呂合わせで言うなら「高い天原」=「たかまがはら」から壱岐の「天の原」に海女族=天族は、最新鋭の鉄製武器を持って移動していきます。
 
 その壱岐の天の原から、さらに「高い」から「低い(ひくい)」へ、つまり「ひくまがはら」があっても、論理的には、おかしくないですね。