雨宮日記 11月3日(月) 谷島屋で注文していた『ゴータ綱領批判』を買う
谷島屋から昨日・電話が来て、岩波文庫『ゴータ綱領批判』が来ました、というので買いにいく。いつものように店内の特に、新書版・文庫版コーナーを巡って、おもしろそうな本を買う。正しそうな本ではない。
今日は、なにかで読んだ『赤毛のアン』の新訳、集英社文庫の松本侑子訳、800円+(訳注つき)と、以前に一部を読んだ『完訳 ファーブル昆虫記』のダイジェスト版、ただしダイジェストの方がおもしろいかも、という奥本大三郎訳の『ファーブル昆虫記2 狩りをするハチ』、これも集英社文庫を衝動買いしました。
「ゴータ綱領批判」は、マルクスさんの徹底的な批判文で、21世紀の今も読む価値があると思います。ただし。自分の感性と自分の根拠に基づいて、他人に「指導」されることなく読めば、の話です。
以下、ぼくの読解を、大月書店・国民文庫版に基づいて書いておきます。これは、11月9日の30分のぼくのお話しの準備作業です。
< 資料 ③ > マルクス「ゴータ綱領批判」1875年
「[A①]三、「労働を解放するためには、労働手段を社会の共有財産に高めること、また労働収益を公正に分配しつつ総労働を協同組合的に規制することが必要である。‥‥(中略)‥‥「労働の全収益」という文句が消え失せたように、いまや全体として「労働収益」という文句も消え失せる。
[A②]生産手段の共有を土台とする協同組合的社会の内部では、生産者はその生産物を交換しない。
[A③]同様にここでは、生産物に支出された労働がこの生産物の価値として、すなわち生産物にそなわった物的属性ととして現われることもない。
[A④]なぜなら、いまでは資本主義社会とは違って、個々の労働はもはや間接的にではなく直接に総労働の構成部分として存在しているからである。
[A⑤]「労働収益」という言葉は、今日でも意味があいまいだからしりぞけるべきものだが、こうしてまったくその意味を失ってしまう。
[B①]ここで問題にしているのは、それ自身の土台の上に発展した共産主義社会ではなくて、反対にいまはようやく資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会である。したがって、この共産主義社会は、あらゆる点で、経済的にも道徳的にも精神的にも、その共産主義社会が生まれ出てきたばかりの母胎たる旧社会の母斑をまだ帯びている。
[B②]したがって、個々の生産者は、彼が社会にあたえたのと正確に同じだけのものを ー控除をしたうえでー 返してもらう。個々の生産者が社会に与えたものは、彼の個人的労働量である。‥‥(中略)‥‥だから、ここでは、平等な権利は、まだやはり ー原則上ー ブルジョア的権利である。もっとも、もう原則と実際が衝突することはない。ところが、商品交換のもとでの等価物の交換は、たんに平均として存在するだけで、個々の場合には存在しないのである。こんな進歩があるにもかかわらず、この平等な権利はまだつねにブルジョア的な制限につきまとわれている。‥‥(中略)‥‥すべてこういう欠陥を避けるためには、権利は平等であるよりも、むしろ不平等でなくてはならないだろう。
[C①]しかし、こうした欠陥は、長い生みの苦しみののち資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会の第1段階では避けられない。権利は、社会の経済構造およびそれによって制約される文化の発展より高度であることは決してできない。
[C②]共産主義社会のより高度な段階で、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することが無くなり、それとともに精神労働と肉体労働の対立が無くなったのち、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求となったのち、諸個人の全面的な発展にともなって、彼らの生産力も増大し、協同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧き出るようになったのち ーその時、初めてブルジョア的権利の狭い範囲を完全に踏み越えることができ、社会はその旗の上にこう書くことができる。
[C③]ー各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」
[D①]私が、一方では「労働の全収益」に、他方では「平等な権利」と「公正な分配」とにやや詳しく立ちいったのは、一方では、ある時期には多少の意味を持っていたが今ではもう時代遅れの駄弁になっている観念を、わが党に再び教条として押し付けようというすることが、また、他方では、非常な努力でわが党に植えつけられ、今では党内に根をおろしている現実主義的見解を、民主主義者やフランス社会主義者お得意の、権利やら何やらに関する観念的なおしゃべりで再び歪曲することが、どんなにひどい罪悪を犯すことであるかを示すためである。
[D②]以上に述べたことを別にしても、いわゆる分配のことで大騒ぎしてそれに主要な力点を置いたのは全体として誤りであった。
[D③]いつの時代にも消費手段の分配は、生産諸条件そのものの分配の結果に過ぎない。しかし、生産諸条件の分配は、生産様式そのものの1特徴である。
[D④]たとえば資本主義的生産様式は、物的生産諸条件が資本所有と土地所有というかたちで働かない者のあいだに分配されていて、これに対して大衆は単に人的生産条件すなわち労働力の所有者に過ぎない、ということを土台にしている。生産の諸要素がこのように分配されていれば、今日のような消費手段の分配がおのずから生じる。
[D⑤]物的生産諸条件が労働者自身の協同的所有であるなら、同じように、今日とは違った消費手段の分配が生じる。
[D⑥]俗流社会主義はブルジョア経済学者から(そして民主主義者の一部がついで俗流社会主義者から)、分配を生産様式から独立したものとして考察して、また扱い、したがって社会主義を主として分配を中心とするものであるかのように説明するやり方を、受け継いでいる。
[D⑦]真実の関係が明らかにされているのに、なぜ逆戻りするのか?」(p22~29)
(以上で(三)終了)
「[E①]次に問題になるのは、国家制度は共産主義社会において、どんなふうに変わるか?ということである。言い換えれば、そこでは今日の国家機能に似たどんな社会的機能が残るのか?ということである。。この問題にはただ科学的に答えることができるだけであって、人民という言葉と国家という言葉を千度も組み合わせたところで、ノミの1跳ねほども問題には近づきはしないのである。
[E②]資本主義社会と共産主義社会とのあいだには、前者から後者への革命的転化の時期がある。この時期に照応してまた政治上の過渡期がある。この時域の国家はプロレタリアートの革命的執権以外の何物でもあり得ない。」(p39~40)
≪ マルクス=エンゲルス『ゴータ綱領批判・エルフルト綱領批判』大月書店<国民文庫>よりマルクス「ゴータ綱領批判」 ≫