雨宮日記 1月18日(金) 絶望の国で「希望の国」とは?
明日の「原発講義」の準備で大変なのですが、いちおう一段落したので、午後、則子さんと図書館に行きました。
まず城北図書館に行って、則子さんは「車で待ってるね」というので、一人で音楽CD3枚を返して、同じ枚数の3枚を借りました。借りたのは、チャイコフスキーさん作曲「ピアノ協奏曲全集」(なんと第3番まであります!)、宮沢賢治さんの童話朗読「よだかの星」などです。
次に城北図書館からまっすぐ南下して、松城町の中央図書館に行って、則子さんもボクも1時間くらい粘って何冊も借りました。
家へ帰ってから、則子さんは夕食を作って、今週が2回目の、午後6時半から7時半の浜松駅前「原発アクション」へ出掛けました。出掛ける前、自分で「原発はいらない」のステッカーを手書きで書いてでかけました。
ぼくはその間に、谷島屋三方原店から「本が2冊入りました」と電話があったので、買いに行ってから、布団で寝ていると、午後8時過ぎに則子さんが帰ってきました。
「先週は40人くらいだったけど、今週は20人くらいだった。」と。「市民運動を秘かに監視している警察の公安ぽい、マスクをかけた男性2人がいたよ」と。
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「希望」とは何でしょうか。魯迅さんが言うように「希望も、絶望も、虚妄であることは同じ」でしょうか。人間は「絶望の国」であるからこそ「希望」を求めます。絶望がなければ、希望も必要ありません。
園子温監督の映画「希望の国」で、津波と放射能で荒れ果てた海岸の、雪の廃墟をさまよう未婚のカップル男女が、そこで何故か出会った小さな兄妹の「流されたビートルズのCDを探しているんです」と言われて、同じように探していると、いつのまにか小さな兄妹は、まるで幻影のように消えてしまいます。
カップルの女性は「おーい!」「おーい!」と呼び始めますが、だんだん涙声になって、彼氏が抱きしめる中、さらに大きな声で「おおおーーい!」と呼び続けます。
そして彼氏は、彼女の耳元に「結婚しよう」とささやきます。
思うに、「希望」とは何か具体的な理念や状態や政策ではないのではないでしょうか。
「希望」とは、そこで、まだ何か「することがあること」。
もう何もすることがなくなれば、そこは、もう袋小路で、未来のない「絶望の国」です。
映画の中の、あの小さな兄妹は、たぶん、未婚の彼氏と彼女が、未来に産んで育てることになる、自分たちの長男と長女なのだと想像します。
この国では、もう、過去にも現在にも「希望」はなくて、未来にしか「希望」は存在しないのでしょうね。
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アフリカ・マリでのフランス軍の空爆と、アルジェリアでのゲリラ襲撃について書きたかったのですが、今日はお昼前に起きて、午後、講演なので、後に回します。
「発端」の問題でいうと、マリ共和国にはフランス資本が入っていて、ウラン鉱山がある、そこが、話の大事な出発点だと思います。