雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

古代史ニュース 5月25日 沼津市が前方後方墳「高尾山古墳」破壊の暴挙を決定

2015年05月30日 22時40分42秒 | 古代史ニュース
古代史ニュース 5月25日 沼津市が前方後方墳「高尾山古墳」破壊の暴挙を決定

 高尾山古墳は沼津市にある長さ62m、最大幅34mの前方後方墳。静岡県内では前方後方墳は各地域に1個しかなく、それも各地域で最初期に作られたとされる説が多数です。

 たとえば浜松市では北区引佐町の北岡大塚古墳、東を向いていて、全長46,5m、最大幅26.5m。1979年に発見されました。

 磐田原台地では、全長46.6m、最大幅36mの小銚子塚古墳。北岡大塚古墳と長さがほぼ等しいのが注目されます。それに、こっちは西を向いている、

 清水区の午王堂山3号墳で全長78m。これは少し時代が遅い。

 ひとつ記事で「3世紀の古墳」と書いているのは「卑弥呼の墓=箸墓古墳」説に立った謬論もいいところで、ぼくは4世紀のものだと思います。

 ぼくは道路を直角に近く曲げて、自動車には不便に作っても残す価値のある古墳だと思います。


古代史ニュース 5月19日 兵庫県淡路島で銅鐸7個が見つかる

2015年05月30日 22時16分11秒 | 古代史ニュース
古代史ニュース 5月19日 兵庫県淡路島で銅鐸7個が入れ子で見つかる

 新聞報道で、淡路島西部・松帆地区で古期の銅鐸が7個も見つかりました。3個、3個は入れ子の状態。

 発見数7個は、加茂岩倉遺跡の39個、滋賀県大岩山銅鐸の24個、神戸市桜ヶ丘銅鐸の14個に次ぐものです。

 長期に使っていたのか、すり減っているそうです。

 すぐ近くの「松帆古津路」で銅剣14本が見つかっているのも注目されます。

 加茂岩倉銅鐸と似ているのも、注目されます。

古代史ニュース 1月3日 浜松市博物館「馬を語る」「白鳳の甍」展

2014年01月03日 21時06分57秒 | 古代史ニュース

古代史ニュース 1月3日 浜松市博物館「馬を語る」「白鳳の甍」展

 浜松市博物館で、興味深い展示が見られるようなので、報道しておきます。一つは今年のエトの「馬」の展示、2月2日まで馬にまつわる発掘資料や歴史資料約200点が展示されているそうです。

 古墳から出土した馬の埴輪や馬の絵馬(文字通りなら「絵の馬」ですね)や近代の写真などだそうです。

 もう一つは同じ浜松市博物館で平行で展示しているようですが、「白鳳の甍~浜松市篠場瓦窯の出土品展」です。これは、昨年、市内浜北区で展示されたものです。

 「篠場瓦窯(しのんばがよう)」とは、奈良時代、8世紀初頭の浜松では最古の瓦窯跡です。場所は浜北区根堅です。

 寺院をつくるための窯場跡ですが、瓦や須恵器や文字瓦など貴重な発掘物が展示されているそうです。

 古代や考古学が好きな方、あるいは「神社ガール」必見の展示だと思います。

 浜松市博物館は今日3日まで休館、あとは月曜日休館です。


古代史ニュース 4月22日(月) 奈良県桜井市大福遺跡で「筒状銅器」発掘

2013年04月30日 05時32分52秒 | 古代史ニュース

古代史ニュース 4月22日(月) 奈良県桜井市大福遺跡で「筒状銅器」発掘

 もともとは別々の遺跡とされていた橿原市北東部の「坪井遺跡」と、桜井市北西部の「大福遺跡」は同じ「坪井・大福遺跡」と認識されるようになったようです。

 弥生時代前期から古墳時代まで継続する遺跡です。

 以下は「かしはら探訪ナビ」内の 「橿原市/坪井・大福遺跡」 を参照。 

 報道では、「弥生時代後期から古墳時代前期初頭」の地層から「筒状銅器」が見つかって、「銅鐸」を鋳つぶした再利用の可能性とあります。

 筒状銅器は、長さ9.1cm、直径2.2cm、厚さ 最大4mm、74gです。

 祭祀用の「やり」に固定する「目釘ぎ穴」があるとされています。

 そして「装飾用」?ともいう「すかし穴」があるのは、銅鐸と同じですね。

 銅鐸を作った同じ「工人」が作ったのかどうかです。

 筒状銅器は、いまのところ静岡県・岐阜県・愛知県・滋賀県など9県の10遺跡から出土していて、奈良県では初です。

 つまり、近畿の「銅鐸圏」より少し東に分布がずれて東海地方を中心にしているということですね。

 これは「弥生時代後期」なのか「古墳時代前期」なのか、考えないといけませんね。10例の出土状況がわからないと判断できないのですが、どうでしょうか。

  ☆

 報道では「筒状銅器」となっていますが「筒型銅器」とは違うとされているようです。

 つまり「筒状銅器」は、「弥生時代後期から古墳時代前期初頭」ですが、「筒型銅器」は「古墳時代前期(4世紀)後半から中期(5世紀)前半」とされています。

 つまり時代が違うのです。でも、似ている!

 この「筒型銅器」は、朝鮮半島との関係があるようです。おもしろい!

 大福遺跡の「筒状銅器」などの写真は、ネットで写真がいっぱいあるので皆さんの自分の目で見てください。

 おもしろいです!探求します!


遠州古代史ニュース 磐田市明ヶ島古墳群の土製品が重要文化財に

2013年03月04日 05時17分38秒 | 古代史ニュース

遠州古代史ニュース 磐田市明ヶ島古墳群の土製品が重要文化財に

 文化庁文化財審議会は2月27日、磐田市明ヶ島原(みょうがじまばら)の明ヶ島古墳群(5世紀前半)から出土した土製品を国の重要文化財に指定するよう国に答申しました。

 報道によれば、明ヶ島古墳群から出土したのは、土製品1064点と破片約3千点です。土製品は、動物や、乳房や男性器で性別がわかる人間、よろい、琴、刀などをかたどった30種類があり、磐田市教育委員会は、「祭祀に使われた」と推測しています。

 土製品は、明ヶ島5号墳の下から見つかりました。磐田原台地の東側、太田川平野を見下ろす眺望のよい場所に造られた明ヶ島5号墳は、南北18.5m、東西13.8m、高さ2.4mの方墳で、5世紀中頃(約1,550年前)明ヶ島古墳群の中心として造られました

 この土製品は、区画整理にともない、平成6年から平成13年までおこなわれた発掘で出土したものです。

 平成17年2月25日に静岡県の有形文化財に指定されていますが、今回、国の指定になりました。

 出土品約100点の展示が、磐田市埋蔵文化センターで3月2日(土)から8日(金)まで公開されています。入場無料。

 実際に見に行ったら、また、ここでレポートします。

 


古代史ニュース 2013年2月20日(水) 箸墓の地上を立ち入り調査

2013年02月21日 05時06分11秒 | 古代史ニュース

古代史ニュース 2013年2月20日(水) 箸墓の地上を立ち入り調査

 各新聞やテレビでも報道していますが、「箸墓」に考古学者たち16人が宮内庁の許可を得て地上を歩いたという記事が出ました。

 各紙で違いはありますが、『静岡新聞 2月20日(夕刊)』は「“卑弥呼の墓”立ち入り」「箸墓古墳は最古の前方後円墳とされ」「「径百余歩」が、箸墓後円部の直径約150㍍と同規模である」「出土品から築造年代は260年前後とみられる。卑弥呼が死んだ248年ごろにも近い」と書いています。

 すべて、「魏志倭人伝」ではなく「疑史倭人伝」だとボクは思います。

 ① 箸墓の年代は、無理矢理、3世紀にした「卑弥呼の墓」説から、4世紀の後半説までいろいろあって、どれが定説とは言えません。マスコミは「裁定機関」「正義の裁判所」なのでしょうか、あほらしいです。

 ② たとえ「卑弥呼」と「箸墓」は同時代となっても、卑弥呼は九州にいれば、箸墓は奈良県、無理です。証明できていません。

 ③ 「箸墓は最古の前方後円墳」と書いてありますが、実は箸墓より、古い古墳が奈良県内にもあることはすべての考古学者が認めています。これだと「箸墓は最古の古墳」のように読めますね。その場合、箸墓より古い古墳群が、いったい誰たちのお墓なのか、説明できません。

 ④ 「径百余歩」=150mか?実は、古代史学者の古田武彦さん(そのすべての主張が正しいとは思いません。主張の一つひとつについて検証すべきです)は、「短里説」を主張していて、その場合、もっと小さくなります。

 ⑤ 「九州説」の一人である原田大六さんは、福岡県糸島郡の「平原弥生古墳」こそ、卑弥呼の墓であると主張していることは有名です。もちろん、150mもありません。

 ⑥ 炭素年代の260年前後説ですが、安本美展さんや季刊雑誌『邪馬台国』が、データに基づいて批判しているのを、みなさん参照して考えてください。つまり、データと解釈は違う場合があるのです。この場合、解釈について、多くの批判が出ているのを、マスコミは無視している場合があります。

 ⑦ 3世紀は弥生時代なのか?古墳時代なのか?箸墓の年代が3世紀なのか、4世紀なのか論争するのは科学者の自由ですが、時代自体が、1世紀もずり下がるわけはありえません。

 もっと精密な論議はあるのですが、紹介する時間がありません。みなさん、自分で調べてみてください。

 『朝日新聞 2月19日 夕刊』は、もうすこし冷静で、タイトルが「卑弥呼説 どこまで解明」となっています。

 本文では「邪馬台国が今の奈良県周辺にあったという「近畿説」の研究者の間では、箸墓古墳は卑弥呼の墓の最有力候補とされている」と、客観的報道に徹しています。一つの見識ですね。

 


古代史ニュース 1月30日 東京都新宿区で縄文人骨11体発掘

2013年01月31日 05時33分15秒 | 古代史ニュース

古代史ニュース 1月30日 東京都新宿区で縄文人骨11体発掘

 新宿区の発表です。いちばん詳しいのは、新宿区役所のHPのようです。

 新宿区市谷加賀町2丁目遺跡で、昨年10月から共同住宅建設にともなう発掘調査がおこなわれました。

 縄文土器と人骨11体が発掘され、人骨の放射性炭素年代測定で、約4000年前の縄文時代中期から後期の時代と判明しました。

 つまり浜松の蜆塚遺跡と同じくらいの年代ということでしょうか。

 出土した武蔵野台地は酸性土壌で、ふつうは人骨が残らないので(なぜ残ったのか?は書いてありませんでした)、きわめて貴重な資料と書いてありました。

 11体のうち、男性は3体、女性は3体が判別できたそうです。どうやって判別したかは、書いてありませんでした。

 

 


古代史ニュース 11月30日付 ニサンザイ古墳の墳丘の埴輪・葺石を公開

2012年12月04日 05時19分36秒 | 古代史ニュース

古代史ニュース  11月30日付 ニサンザイ古墳の墳丘の埴輪・葺石を公開

 大阪府の百舌鳥(もず)古墳群にあるニサンザイ古墳は、今までは全長290mで日本で8番目の全長の前方後円墳で、5世紀後半とされています。

 ところが調査で全庁は300mで全国第7位とわかったとネットで出ています。

 天皇陵の比定はないのですが、「倭の五王」の時代の「大王」であると推定する古代学者は多いようです。

 墳丘を陵墓参考地として管理する宮内庁と周濠を所有する堺市が10月から共同調査していました。11月30日に墳丘の19ヶ所を発掘して出土した直径35センチ前後の円筒埴輪や葺石が公開されました。

 近くなら見に行きたいです。


古代史ニュース 2012年6月 最古の戸籍が福岡県太宰府市で出土

2012年06月16日 06時18分57秒 | 古代史ニュース

古代史ニュース 2012年6月 最古の戸籍が福岡県太宰府市で出土

 これまで古代日本で最古の戸籍は、西暦701年、つまり8世紀初頭の奈良・東大寺正倉院の文書「筑前国嶋郡川辺里戸籍」とされてきました。

 つまり福岡県の戸籍が天皇家の本拠地・奈良の平城京から出土していたわけです。これは福岡県から出土したのではありません。
 
 それが太宰府政庁跡の北西1.2kmの「国分松本遺跡」で戸籍木簡が出土しました。

 今回の7世紀末の「最古の戸籍」というのは同じ「嶋」で「嶋評」「川辺里」です。

 701年に「評」から「郡」に変更されたとされているので、701年以前です。そして「進大弐」という冠位名が出てくるので、685年以後、という解釈です。

 木簡には「兵士」「戸主建部身麻呂」「丁女(成人の女性)」「老女」などが書かれています。非常に、興味深いです。

 これについての解釈は、また別途書きたいと思います。

 一案ですが、日本の古代国家では、各地方のたとえば現地の「郡衙」には木簡に書かれた「戸籍」を原本として保管して、中央(8世紀には奈良・平城京)では木簡の戸籍を書写した「紙」の戸籍で管理したのでは、ないでしょうか?
 
 でないと、奈良の正倉院に、福岡の「嶋評」の戸籍があることが理解できません。


 


日本古代史ニュース 福岡市元岡古墳群G6号墳で銘文鉄刀を発掘

2011年09月22日 05時54分23秒 | 古代史ニュース

日本古代史ニュース 福岡市元岡古墳群G6号墳で銘文鉄刀を発掘

 福岡市教育委員会は9月21日、福岡市西区の元岡古墳群のG6号墳(直径18m)の石室から、銘文の入った鉄刀が出土したと発表しました。

 鉄刀は、長さ約75センチで、さびていましたが、X線撮影で象眼(ぞうがん)された文字が発見されました。

 文字は「大歳庚寅(こういん)正月六日庚寅日時作刀凡十二果○」と19文字が書かれ、発表に寄れば最後の文字は「練」の可能性があるとしています。

 『日本書紀』で百済から西暦554年にもたらされた南朝系の暦「元嘉(げんか)暦」だとすると西暦570年になるとしています。

 報道ではこの元岡G6号墳は「7世紀中ごろ」とされていますので、この約1世紀の差が気になります。

 この刀がどこで作られたかですが、考えられることは,以下のようになります。

 ① 現地で古墳の被葬者の家系の誰かが作った(もちろん、誰かが技術者に作らせた」のですが)。
 ② 九州の誰かが作って、元岡古墳群の被葬者乃家系に与えた。
 ③ 九州以外の、たとえばヤマト国家がつくって与えた。

 いつつくられたか、ですが、以下のどちらか、だと思います。

 ① 庚寅(西暦570年)に作られて、約1世紀弱後に埋蔵された
 ② 「庚寅」という年号を使って、7世紀半ばに作られた 

 いろんな可能性を考えていくべきで、銘文入り鉄刀が出土すると、すぐに「ヤマト国家から下賜(かちょう)」と発言する短絡思考では日本古代史の解明は困難だと思います。

 すくなくとも、鉄刀の銘文には、そんなことはいっさい書いてありません。
 
 やはり、鉄刀の文章が語ることに、まず耳を傾けましょう。

 「ヤマト国家から下賜(かちょう)」と、すぐ言えるためには、以下の前提の証明が不可欠です。
 
 ① ヤマト国家しか鉄刀の象眼技術は持っていなかった
 ② 大和政権しか鉄刀の象眼と下賜の権利は持っていなかった

 今回が「銘文付鉄刀」の出土としては7回目と報道しています。

 たぶん、東から、以下の様でしょうか。これ以外に「七支刀」があります。
 ① 千葉県 稲荷台1号墳出土「王賜銘」鉄剣 5C
 ② 埼玉県 稲荷山古墳出土の鉄剣銘
 ③ 奈良県 東大寺山古墳出土鉄刀 「中平年」
 ④ 兵庫県 箕谷(みいだに)2号墳 「戊辰(ぼしん)年五月」銅象嵌 =607年
 ⑤ 島根県 岡田山1号墳出土の鉄刀 「各田了臣」
 ⑥ 福岡県 元岡G6号古墳出土鉄刀 
 ⑦ 熊本県 江田船山古墳出土鉄刀 約75字 

 7カ所の内、奈良県は、すこし異質な「中平年」の東大寺鉄刀だけです。
 
 あとは関東2カ所(千葉・埼玉)、近畿1カ所(兵庫県)、山陰1カ所(島根県)、九州2カ所(福岡県・熊本県)。

 「ヤマト国家からの下賜」というなら、まずヤマト国家内の豪族に「下賜」されて、奈良県内からたくさん「銘文付鉄刀」が出土しても、おかしくないですが。

 なぜわずか直径18mの古墳から、こんな銘文付鉄刀が出るのでしょうか?これより大きい古墳は福岡県に、九州に何基あるでしょうか?

 浜松でも18mより大きい古墳はたくさんあります。もし、古墳の大きさが、豪族の各付けを表現しているなら、おかしな現象ですね。