雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 2月26日(金)の2 夜は二人で浜松市職主催の映画と講演に

2016年02月26日 21時58分30秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2月26日(金)の2 夜は二人で浜松市職主催の映画と講演に

 夜は、知り合いのHさんとNさんから話を聞いて、労政会館会議室でおこなわれた浜松市職員組合主催の、リラン・バクレー監督の映画「ザ・思いやり」上映会に、則子さんと2人で行きました(部外者ですが)。

 映画は、日本の米軍基地やグアム米愚基地・イラク戦争の映像をたっぷり見せて、「思いやり予算」の分析を始めて映像にした画期的な映画と思いました。

 とくにイラク戦争で米軍がイラク人を射殺する映像はショッキングでした・
 
 お金の問題は、もっと普通のコストと比較を入れた方がよかったかなあと。

 1兆円や1億円は、実感が湧きませんから。

 写真は映画のあとの、内山弁護士の短時間の講演。これもよかったです。


雨宮日記 2月25日(木) 昼間は、つらくてだらだら過ごしました

2016年02月25日 21時39分05秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2月25日(木) 昼間は、つらくてだらだら過ごしました

 なんか、精神的に調子悪くて、昼間は、ほんとは『平和新聞』の配達に行かなきゃいけないのだけど、行けなくて、自分の部屋でだらだ過ごしました。配達は明日に延期しました。

 それに咥えて、去年春から(たぶん)始まった花粉症の鼻水が出て、これは別に苦痛ではないですが、則子さんが、やたら「鼻かみにさい」「指でふかないで、テイッシュ使って」と言うので、うるさいです。

 毎年。いつもの「春のうつ」が始まってるのかも知れません。きついのに、無理矢理、無理すると、精神に打撃を受けるので、こういう時期には、できるだけ「低調」を受け入れてだらだら過ごします。

 「がんばらない」ように見えたらすみません。

 「生きるためには、がんばらない」と決めています。

 則子さんが、午後5時頃帰ってきたので、ぼくは入れ替わりに、「ビデオ編集に行ってきます:と「総がかり行動」のビデオ編集に出かけました。

 ビデオ編集よりは、「制服向上委員会」や「第2次東アジア大戦」の可能性、「無謀な北朝鮮経済制裁」が戦争を導く、という話で盛り上がりました。というより、現実的な未来のの話に、3人とも、怖くなりました。

 リアルな内容は、とても書く勇気がありません。

 北朝鮮軍部が聞いたら、「よし、これは採用:と言うでしょうし。

 戦前「壁に耳あり、障子に目あり」

 戦後「壁に耳あり。障子にメアリー」(自衛隊員への警句、美女スパイに注意せよ)

 ぼくに直接聞いてください。  
 

雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第7部 老人性痴呆 48 48 巣鴨拘置所」

2016年02月20日 19時48分53秒 | 雨宮家の歴史
「戦後編 第7部 老人性痴呆 48 48 巣鴨拘置所」


 名古屋の長男夫婦が、入院直後に見舞いに来たときは、まだ家内の記憶ははっきりしていて、喋ることも出来た。
 「わたし、刑務所におったときねえー」
 と、突然長男に話しかけた。

 「おい、おい、どうなってんだ」
 と長男はびっくりして私に聞いた。長男の大声に家内はそのまま口をつぐんでしまって、あとは何も言わなかったので、何を言おうとしていたのかは分からない。

 「アッハッハッハッ、それは刑務所ではない。差入屋のことだろう」

 家内の言った刑務所とは、地元の人たちが「巣鴨の刑務所」と呼んでいた東京拘置所のことである。明治初年に建てられた赤煉瓦造りの巣鴨の拘置所は、昭和十二年に改築されて、鉄筋コンクリート造りとなった。独房は三帖の広さで、水洗便所付きであた。窓が低く広かったが、それだけ冬は寒気が厳しく、夏は日射しが暑かった。池袋に近かったのに「巣鴨」と呼ばれたのは、地番が豊島区西巣鴨一ー三二七七だったからである。

 戦後、占領軍に接収されて、戦犯が収容される「巣鴨プリズン」と変わり、「巣鴨」といえばその代名詞となった。東京裁判が終わり返還された後、昭和四十六年に解体されて、三十五年の歴史の幕を閉じた。昭和五十三年、その跡地に六十階建ての「サンシャインビル」が建設され、今の池袋の繁栄をもたらした。 

 拘置所の未決囚は、食物や日用品、衣類などの自弁が認められていた。ペンや鉛筆に石筆と石版は使えた。本は官本が借りられ、自分の読みたい本も許可があれば差入れが許された。封筒や便箋は使えないが、葉書は使え、週一回程度発信出来た。それらの品を家族たちの依頼によって、収監者に届けることを業としていたのが差入屋で、拘置所や刑務所には付きものであった。また、獄中で不用になったものを家族に返す(宅下げ)ことも仲介していた。両者は不即不離の関係にあった。

 家内は、この巣鴨拘置所の差入屋に勤めていた。家内が言った刑務所とは差入屋のことである。

 戦時中、徴用令というものがあった。徴兵の赤紙に対し白紙といわれた。不要不急の仕事に就いている者や、定職のない者が対象になった。殊に家事見習いといわれた嫁入り前の娘たちは恐慌をきたした。軍需工場などは、これら徴用された人々が過半数を占めていた。

 家内は、東京本郷の菊坂(樋口一葉が明治時代に住んでいた)に生まれたが、弟妹たちは西巣鴨一ー二七六二など拘置所の近くで印刷屋を手がけていた父の家で生まれている。徴用を避けるために、近くでもあるし、伝手があったのうであろう、差入屋に勤め始めたのである。非国民といわれても仕方のない時代であったが、国民は、如何に徴兵や徴用を逃れるを真剣に考えた時代であった。

 差入屋に出入りしていた人の中に、作家の宮本百合子女史がいた。夫の顕治が留置されていて裁判中だった。戦争末期の暗黒時代の裁判であるから、出廷人も裁判官、検察官の他は被告の顕治と傍聴人の百合子ぐらいであった。裁判のない日は、週一回ぐらい面会に来ていた。教養のある恰幅の良い色白の立派な姿をした婦人であるから、同じように留置されている、窃盗や闇商売の被告人の家族から慕われて、差入れの手続きや、人生相談のようなことを頼まれていた。彼等の身嗜は皆見すぼらしかった。女子の細かいところに気のつく面倒見のよい性質が、持って生まれた気質と相俟って、自然とそうなった。

 家内は女子から帯止めをもらい、記念にしまってある。

 第四部にも書いたが、その宮本顕治の故郷の山口県光市に、戦後私たちは住むようになって、百合子の著作物に親しむことになるとは、何か因縁を感ぜずにはいられない。

 「昭和二十年六月十六日午後、私は巣鴨の東京拘置所の正門から、網走刑務所から私の身柄を受け取りに来た看守三人につれられて、池袋の駅へ歩き始めた。五月に上告審が棄却になって、無期懲役が確定して、私は空襲で周囲がすっかり焼けてしまった拘置所の監房で、懲役囚として荷札づくりの作業をやっていたが、いよいよ網走送りとなったのである」

 顕治の著作の中の一部であるが、空襲ですっかり焼けてしまったという空襲は、二十年四月十三日の夜であった。三月十日の江東地区の東京大空襲に匹敵するこの空襲は、午後一一時ごろから約三時間、B29、三百三十機が豊島・王子・小石川など東京‥城北地区を襲った(六月十八日の浜松空襲は百三十機である)。その空襲を,顕治は拘置所の独房の中から見ていた。出るに出られなかったのである。

 「四月にアメリカ空軍の大空襲があった。夜だった。非常措置として看守は、どんどん監房の本錠を仮錠として、すぐ扉を開けて逃げられるようにしていったが、私の監房は本錠のままだった。(この一つを見ても。戦前の国の非人間性の政策がはっきりとわかる)。爆弾は病監の一部に落ちたが、一般の建物にはそれ以上燃えひろがらなかった。しかし監房の空は、周囲の燃えひろがる火事のために、赤々と窓越しに燃えていた」

 米軍は、戦後のことも考えて拘置所を残したのか、焼かれずに残ったが周りはすっかり焼けてしまった。池袋は今でこそ新宿並の繁華街となったが、戦前賑やかだったのは、駅前の映画館や呑み屋などが並ぶ一部(カフェー通りといった)のみで、そこを抜ければ、夜など歩くのもどうかと思われる程の場末の町と変わりなかった。

 光子の実家の安藤家は当時、池袋にあった。空襲警報のサイレンが鳴り始めたのは、焼夷弾が落ちて燃え始めてからである。いつでも逃げられるように着のみ着のままであったが、次弟は頭に怪我をした。夜が明けてから救護所で傷の手当てを受け、にぎり飯を貰って日暮里まで歩き、避難列車で疎開先の土浦に辿り着いた。

 焼ける前のことであるが、ある日、鳥打ち帽をかぶり大きな風呂敷包みを背負った和服姿の男が家内の家に入って来た。嫁入り前の娘が三人もいるから呉服屋かと思い母親が応対に出た。男が目くばせするのでよくよく見れば、家に下宿している刑務所看守のQ氏ではないか(家内の差入屋就職は、このQ氏の口利きだったのかも知れない)。事情を聞くと、逃亡者が出たので探しに行くところだという。そのための変装である。

 戦争も末期になると、受刑者も工場などに動員されていた。三月十日の東京大空襲の時には、百四十名の受刑者によって死体処理作業班が結成されて、警官・軍隊・警防団と共に死体処理作業に従事した程である。受刑者も外へ出て働くことが多くなったので、逃亡し易い環境になっていた。

 Q氏は、戦後浜松刑務所に転属となり、私たちが昭和二十三年五月に、孝男叔父夫婦の媒酌により、八幡宮で式を挙げた時、家内は両親と共に、そのQ氏の官舎に厄介になったという因縁もある。

 先日、その結婚式の写真を家内に見せたところ、花嫁衣装の自分自身は「わたし」と頷いたが、羽織袴姿の私については「誰だか知らない」と言った。


 ( 「戦後編 49 ガンの発覚(第8部 前立腺ガン)」に続く )

本と映像の森  317 『季刊 邪馬台国 第138号=2016年2月』

2016年02月18日 19時41分37秒 | 本と映像の森

本と映像の森 317 『季刊 邪馬台国 第138号=2016年2月』

 「古代史の総合雑誌」という副題がついている季刊雑誌です。発行は福岡県福岡市の梓書院、当然、日本では数少ない(いや唯一かも)「邪馬台国九州説」に明確に立つ雑誌です。ぼくは創刊号から読んでいます。

 ただし、長く編集長を務め、いまも健筆をふるっている安本美典さんの主張に、ぼくは全面賛成ではありません。一つひとつの主張を、みなさんが自分で考えて、判断していかないと、「信じる」のは危ないです。「信じる」のは宗教であって、科学ではありません。
 
 今号は「総力特集 奴国の時代」です。日本の歴史上、初めて対外的に認められた国家、「倭奴国」なのに、ほとんど学会では2世紀後の「邪馬台国」の1%も論争がないようです。

 「倭奴国」が福岡にあったことは、ほとんど異論がないようです。博多湾の「志賀島」で出土した「金印」もありますし。

 『季刊 邪馬台国』は、書店で買えます。ぼくは谷島屋で定期購読しています。A5版で、192ページ、定価1350円(消費税込み)です。

 日本古代史に関心のあるアマチュアの方の必読文献、と思います。

 目次を抜粋しておきます。
 
 安本美典「年代論争 縄文・弥生はいつからか?」
 
 編集部「奴国の時代(2)」

 上田龍児「奴国の東 ー大野城市の弥生時代遺跡-」

 岩瀬聡「安徳台遺跡群について」

 井上筑前「奴国の遺跡群」

 笛木良三「『三国志』の写本検索」

 澤田康夫「連載 考古学入門講座 第2回 弥生式土器」

 井上修三「連載 世界遺跡巡り 第10回 フランスの巨石文化 カルナック」

 河村哲夫「連載 ブッダへの道 第14回 法顕が見た5世紀初頭のアジア」




雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「第2部 戦後編 47 入院」

2016年02月14日 15時59分20秒 | お知らせ
雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「第2部 戦後編 47 入院」


 そのうちに家内は徘徊を始めるようになり、一時も目が離せなくなった。玄関に施錠し、窓は鍵を閉めて、家内につきっきりでいなくてはならなくなった。錠を外して出て行かぬとも限らないからである。

 しかし、閉じ込めておくだけでは解決できないので、一緒に散歩に出るが、歩きながら
 「ここは、主人と前に来たことがある」と、私を他人のように言う。

 帰って来ると、私の家ではないと入ろうとしない。馬鹿力があって、いくら引っ張ってもびくともしない。
 「じゃあ、お前の家に帰るから、着物を替えて行こう」と言うと、おとなしく家へ入る。

 夜、ふと目をさますと家内がいない。玄関の方でガタガタ音がしている。「しまった」。

 ちょうど息子の車が玄関の出口をふさぐように停めてあったので、家内は出られずうろうろしていた。外は雨が降っていた。出られれば雨に濡れてでも飛び出していってしまうのであろうか。ある時は、夜半真暗な食堂の戸棚の陰にじっと、突っ立っていたこともあった。私もだんだんいらだって来て眠れず、酒の量が増えてきた。

 次男の嫁さんが世話をして、介護のデイ・サービスや、ショート・ステイに行くようになったが、家内は、迎えのマイクロ・バスに乗る時、次男の嫁さんに向って「私を騙したわね」と言っていた。

 まだ正気な状態を見せる時もあり、自分の病気の悪いところは、「頭だ」とちゃんと指摘することを思うと、私もどうなっているんだろうと分からなくなってしまう。

 平成七年の二月、聖隷住吉病院でM・R・I(磁気画像診断)を受診した。

 両側大脳に若干量の梗塞巣が見られ、また、若干の萎縮が見られるから、血管性痴呆が発症している可能性は指摘できるが、梗塞巣はそれ程著しいものではないので、アルツハイマー病でも差し支えない。甚だ、はっきりしない診断であるが、血管性にせよ、アルツハイマーにせよ痴呆には変わりはない。

 次男の嫁さんの在宅介護も、保育園の園長の仕事の合間を見てのことで、三月に入ると卒園式など手が抜けなくなる。園児の母親で某病院の婦長をしている方の紹介で、家の近くの天王町の天王病院に入院することが出来た。

 平成七年の三月十五日であった。平成十六年の三月で十年目になる。日数では三千三百日余である。途中大腿骨骨折などがあって、手術して寝たきりになってしまった。食事も自分では食べられず、流動食である。平成十年は金婚式であったが、式をあげることが出来ず、痛恨の一言に尽きる。

 ( Ⅱー48 巣鴨拘置所」に続く )

雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』 Ⅱ 戦後編 46 一番はじめは

2016年02月14日 15時42分37秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』 Ⅱ 戦後編 46 一番はじめは


 「ねえ、あしたは家へ帰りませんか?」
 寝ていた家内が、突然むっくり起きあがって布団の上にかしこまって言った。
 「家へ帰る?」

 「ええ、私の家よ。ここは借りてるんでしょ?」
 「借りてる?ここは俺たちの家だよ」
 「誰が建てたのよ」
 「俺に決まっているじゃないか」
 「そんなこと、わたし一度も聞いたことないわ」
 「地鎮祭から建前、みんなお前と一緒に来たじゃないか」
 「わたし、何も知らないわ。わたしに黙ってやったのね、わたしは騙されたのかしら。新築にしては古いわね、中古を買ったのかしら」

 私は二の句がつげなかった。この夜更けに家内と言い争っても仕方ない。
 「うん、よしよし、あした帰ろうね。送っていってあげるから、今夜はもう寝よう」
 「あした送っていってくれますか。それはどうも済みません」

 あした帰るという言葉に安心したか、家内は寝床に入って眠ってしまうが、朝起きれば、昨夜のことは何もなかったような顔をしている。家内が帰りたいという言葉は、前に住んでいた松城町の家のことである。新しく引越してきた家に馴染めず、三十年以上住んでいた前の家が忘れられないのであろう。

 「ねえ、今夜帰れないかしら。わたし電話をかけてみるわ。主人が心配して待ってるかも知れないから」
 「電話?番号はわかるのか」
 「ええ、五二局の八九三九番よ」
 前の家の電話番号をちゃんと覚えているのには驚いた。しかし、今の新しい番号はわからない。私は居間へ行って、電話をかけたようなふりをして戻った。

 「いくら電話をかけても出ないよ」
 「どうしたのかしら、どこへ行ってしまったのかしら・・・・」
 心配して待っているという相手は、家内の夫、即ち私のことである。
 「お前の旦那はこの俺だよ」
 「うそ言ってー」
 「じゃあ、この俺は誰なのだ。敏雄は元気かな。この前の法事の時、一晩厄介になったが松雄、京子、昭子みんなお前の弟妹は元気だろうか」
 「え?敏雄をご存じなんですか?どうして私の弟や妹を知ってらっしゃるのですか?」
 「知らない筈はないじゃないか。俺はお前の旦那だよ。俺とお前は夫婦じゃないか」
 家内は不思議そうに私を見つめていたが、「分からない」と寂しそうにひとことつぶやいた。
 私は私であって、私でない奇妙なことになってしまった。



 玄関を出ると、隣のブロック塀越しに金木犀がよい匂いを放って、秋も深まってきた。電話で予約しておいた医療センターでの診察の日である。地方の予約治療で有名な、K先生の診断を受けるためである。医療センターは四〇年前、私の母の最後を家内が看取った病院である。その家内を連れて、私と次男の嫁の三人でタクシーで出かけた。

 頭部のC・T検査のあと、別室でカウンセラーと机をはさんで、質問検査があった。私と次男の嫁は、補助椅子にかけてその模様を眺めていた。

 最初に名前を訊かれた。白い紙に自分の名前を書いたが、斜めになっていてはっきりと読めなかった。
 「あなたはどこで生まれましたか?」
 「東京です」
 「東京、東京のどちらですか?」

 家内は考えていたが、すぐには出てこず、しばらくして「菊坂」と言いかけたので、私が「本郷の菊坂です」と助け舟を出して、アッ、いけなかったかと後悔した。
 「ここの病院の名前はわかりますか?」
 「分りません」
 「お家の方に聞いてきませんでしたか?」

 私は、医療センターに行く予定と家内に教えておいたが、余り警戒心を持たせてはいけないと思って、何度も言わなかった。
 「ここは何県何市ですか?」
 浜松市は分ったが、静岡県は分らなかった。
 「あなたの具合の悪いところは?」
 家内は、瞬発的に、間を置かずに
 「頭です」と言った。

 瞬間、私は胸に冷たい刃物を突きさされたようにドキリとした。家内はなんら変わりなく、平静な顔をしていた。
 なんだ、ちゃんと分かっているじゃないか。それなのにどうして私をあわてさせるようなことを言うのだろう。
 最後にK先生の診断があった。先生は、お手玉二つを家内に渡して「お手玉はやったことがあるでしょう、ちょっとやってみてごらん」と言った。
 お手玉は夏休みに孫娘とやっていたが、先生の前では緊張したのかうまくできなかった。

 総合結果は八点で、十点以下は重度の
痴呆で、もう後期に入っていて、施設への入居を考えた方がよいという。私はまだそんなに進んでいるとは思ってもいなかったのでショックであった。三才ぐらいの知能程度であるという。

 その日の夜は、疲れていたがなかなか寝つかれなかった。家内も、うとうとしているようであったが、何か口の中でモグモグ、お経のようなものを口ずさんでいるようであった。私は聞こえる左耳をそばだてて聞いてみると、それはお手玉遊びの「数え唄」であった。昼間の診察の時、K先生より渡されたお手玉がうまく出来なかったのを気に病んでいるに違いなかった。

  一番はじめは 一の宮
二は     日光東照宮
三は     佐倉の宗五郎
四はまた   信濃の善光寺
五つは    出雲の大社
六つ     村々鎮守様
七つ     成田の不動さん
八つ     八幡の八幡宮
九つ     高野の高野山
十で     処(ところ)の氏神さん・・

 最後の方は、もう聞こえなかった。

 ( 「Ⅱー47 入院」に続く )


雨宮日記 2月11日(木) 津和野ふきさんの自由律俳句を掲載

2016年02月13日 20時38分07秒 | お知らせ
雨宮日記 2月11日(木) 津和野ふきさんの自由律俳句を掲載

 ぼくの「相棒」の津和野ふきさんの俳句を掲載。

 今の季節だけでばなく、年間秀作選です。


 はこべとつくしが風とお話しバス停広場

 地の底に影をうつしてめだかすいすい

 紙ひこうき追いかけて何度でも飛ばす少年
 
 山の上でも声ふりしぼってつくつく法師

 絵になる山里に拡がる稲穂の絨毯

 赤とんぼ真っ直ぐ影を落として空へたつ

 ゆずの香りが引き寄せるふるさとの母の記憶

 イルミネーションで飾られた木立の悲鳴
   

遠州古代史 新・寺社古墳巡り 2 浜松市浜北区高畑の八雲神社 

2016年02月08日 17時47分01秒 | 遠州古代史
遠州古代史 新・寺社古墳巡り 2 浜松市浜北区高畑の八雲神社

 高畑の宝住院のすぐ東に接するのが八雲神社です。

 明治維新政府の「神仏分離(廃仏毀釈)」で独立したのでしょうか。ただし浜松では「廃仏」はせず、隣りあわせに「神様」と「仏様」が同居しているところは多いです。

 「八雲」ですから、名称からは出雲系統ですが。主神が誰かは分かりません。

 神社は、ほぼ南向き(計測器を持っていかなかったので)


 

 。
 

雨宮日記 2月7日(月) 桜は何の象徴か

2016年02月08日 16時40分34秒 | お知らせ
雨宮日記 2月7日(月) 桜は何の象徴か

 数日前、ネットのユーチューブで「桜チャンネル」というのをやっていました。ヘリ空母「かが」(命名は大日本帝国海軍の空母「加賀」から)の進水式をやってました。

 「守るも攻めるも黒金の…」が響き、まことに異様でした。

 ところで、その日の夜、『万葉集』を読んでいて、思いついたこと。日本人の頭の中に「特攻」というと「桜散る」がイメージングされて、焼き付いているのですが。
 
 はたして『万葉集』の「桜ちる:は死を歌っているのでしょうか。もし、そうであれば「桜咲く」は生まれることを歌っていなければなりません。

 もちろん、桜が咲くことを情景的に歌う歌も大飯ですが。少なくとも、桜が散る=人が死ぬ、というのは近代の、あるいは戦争中の無理矢理解釈なのではないでしょうか。

 少し調べてみます。まず万葉集や古今和歌集の桜の歌を全部読んでみます。何かわかったら、ここに書きます。

 そろそろ桃の花がほころび始めました。春はまだ遠いのですが、春の匂いがし始めました。


雨宮家の歴史 48 「父の自伝『落葉松』 第7部 Ⅱー45 うつ病」

2016年02月08日 15時45分43秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の歴史 48 「父の自伝『落葉松』 第7部 Ⅱー45 うつ病」

 私と家内とは従兄弟(いとこ)同士である。私の父と家内の母が兄妹であった。(「第四部 34 結婚」参照)。近親結婚は遺伝に良くないといわれていたが、山口県光市で生まれた長男、次男とも名古屋の大学に行き、長男はそのまま名古屋に居すわり、私にとっては曾孫まで二人いる。

 次男夫婦は私と同居していて、二人の娘がいる。長女は松城で生まれたが、今は近くの下石田町に嫁し、三人の子持ちである。子供三人、孫七人、曾孫二人皆病気一つせず健全である。私に信仰心はないが、神に感謝する次第である。

 ただ、心配は家内だけになってきた。家内は、前の町では踊りの会に入っていた。
 「踊りでもやっったらどうだ」
 「でも、どこでやっているのか、何もわからないわ」
 「じゃあ、編物はどうだ。俺のソックスも駄目になってしまって、穿けるものはないよ」

 編物は好きで、閑さえあればいつも編棒を動かしていた。私のセーターからソックスまで家内の手作りである。最初のうち、編棒と毛糸玉を炬燵の上に並べていたので、やる気になったのかと思っていたが、なかなか手がつかなかった。
 「どうした?」
 「うん、そのうちにやるわ」
 そのうちにやるわが、そのうちに編棒も毛糸玉も炬燵の上から消えてしまった。

 「編物はおしまいか」
 「ええ、やる気がしなくなってしまったわ。それに毛糸がないのよ」
 「毛糸はこの前あったじゃないか」
 毛糸玉はビニール袋に一ぱい入っていたが、しらぬ間に段ボール箱に押し込まれて、押入れに突っ込んであった。

 頭痛がするといって家内の病院通いが始まった。血圧が二〇〇近くあった。心電図で不整脈があり、心臓のエコー検査では軽い心肥大と言われ、検査をすれば悪い所がいくらでも出て来るような気がした。CT検査でも異常がなかったので、内科的ではなかろうと半年程で精神科へ廻された。

 精神科は午後の診察で、出かける日は、朝から落ち着けなくていやなものであった。精神科の最初の診察のあと、私はおそるおそる先生に伺った。

 先生は、押し殺すような低い声で「うつ病です」と言った。精神科というので、私は最悪の場合を考えていたが、医学書を引くと、「うつ病」とは「気分が憂鬱で、何もする気がなくなり、食欲もなくなり、死にたいなどと口走るようになる」と、あった。「何もする気がなくなる」は当っている。そう言えば、一時、死にたいとも言っていて、私は聞き流していたが、この頃は何も言わなくなっていた。半年程でまた内科へ戻った。

 頭痛の始まる前の年の一月のことであった。名古屋の長男の家へ、二人で一泊で出かけた帰りのことである。名古屋の長男は、大学を出るとそのまま名古屋に就職したので、もう浜松より名古屋の生活の方が長く、すっかり名古屋弁である。私は仕事をやめると、車も必要なかろうと免許更新をしなかったので、名古屋に行くのもJRの快速電車になった。

 四両編成の快速には、トイレが一つしかついてはいない。私は必ず乗る前に用を足すが、家内は「私はいいわ」とそのままの時が多い。混んでいる時など、トイレに行くのも大変である。その時は、ちょうど前の車両にあったので良かったが「トイレに行きたい」というので連れて行って、私はすぐ席に戻った。大府当たりだと思う。

 苅谷を過ぎ安城に近づきつつあったが、まだ戻って来ない・時間にして十分くらいだったか、少し遅いなと席を立ってトイレを見に行った。「空」になっていたので、開けてみたが無人である。おかしいな、どこへ行ってしまったんだろうと思って、その車両(一番前の車両である)を前まで歩いて探したが、家内は見当たらなかった。席に戻り、どうしたらよかろうかと思案していたところ、ちょうど車掌が通りかかったので事情を話してみた。
 「車内放送をして見ましょう。それでも見えられなかったら、駅に連絡しますので、ここで待っていて下さい」

 しばらくして、家内の名前を呼ぶ放送があった。家内が果たしてこの放送を聞いて分かるかどうか疑問だったが、家内は現われなかった。しばらくして車掌が来た。家内の戻っていないのを確認して「駅に連絡します」と戻っていった。あとの祭りであったが、私は家内がトイレから出てくるのを、そばで待っていてやるべきだった。車両が違っていたから戻る席が分からなくなって、停車駅で降りる人について降りてしまったとしか考えられなかった。

 この電車は快速で、大府・刈谷・安城・岡崎に停まる。とすれば、刈谷か安城の駅で降りた可能性が高かった。私の頭は混乱して、家内が迷子ならぬ迷婆さんで、どこかの駅でうろうろしているのだろうと胸がつまった。

 岡崎駅を発車した頃、車掌がやって来て「連絡しましたところ、刈谷駅のホームに奥さんがおられたそうです。次の快速電車に刈谷駅で奥さんを乗せますから、旦那さんは浜松駅のホームで待っていてやって下さい」
 「見つかりましたか。それはどうも御手数をかけて済みません。ありがとうございました」

 私の言葉は返事にならなかったかも知れない。家内は車内でコートを脱いでいたので、身一つで財布も切符も持っていない。この寒空にホームで震えているのではないかと、車掌の「刈谷駅で見つかりました」という言葉を聞いた瞬間、不覚にも熱いものがこみあげてきて、涙があふれた。

 浜松駅の電車の着くホームで待つこと一時間、次の快速電車が着いた。どの車両に乗っているのか分らないので、又見失ってはいけないと、私は階段の近くに立っていた。ちょうどそこへ止まった電車の車両のドアから、最後に家内が降りてきた。家内は私を見たきり、何も言わずにさっさと階段を降りかけて行った「よかったなあ」と背中に言ってやった。


 (次回、「Ⅱー46 一番はじめは」に続く)



雨宮家の歴史 祖父の高畑疎開日記 2 1945年6月25日

2016年02月08日 15時32分48秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の歴史  祖父の高畑疎開日記 2

「 六月二十五日 晴

 寿さんも手伝い、壕を掘り出し宮坂さん*1 まで運搬す。

寿さん、高井より自転車を借り来り大いに助力せらる。

照雄*2、往路自転車、帰りは小生自転車。母少々疲れ出る。

今日はおやつに配給の大豆粉とうどん粉の焼物、夜は同じ品のスイトン*1。」


   *1 宮坂さん:不明
   *2 父の弟(ボクからは叔父さん) 
   *3 スイトン:本来は小麦粉でつくったダンゴを汁に入れて煮たものだが、大豆やうどん粉で代用している

雨宮日記 2月1日(月) 浜岡原発パンフ完成しました

2016年02月07日 16時41分21秒 | お知らせ
雨宮日記 2月1日(月) 浜岡原発パンフ完成しました

 やっと、と言うか、ついに、と言うか、浜岡原発パンフ完成しました。

 タイトルは「まもろう!命 なくそう!浜岡原発 ー浜岡原発永久停止裁判勝利のためにー」です。

 A4判・オールカラー・44ページ(実際は50ページ)・頒価400円・1000部印刷しました。

 西部の会の役員・事務局にお買い求めを。