雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

新・本と映像の森 214 ブレヒト『ブレヒト詩集』飯塚書店、1971年

2018年11月30日 10時10分24秒 | 本と映像の森

新・本と映像の森 214 ブレヒト『ブレヒト詩集』飯塚書店、1971年

 <双書 世界現代詩集 2>、B6版、190ページ、定価480円

 20代のころは、詩が好きで詩集をよく読んだ。これはそれらの詩人のひとり。ドイツの現代劇作家だが詩もいい。

 本を見ると、この本には訳されていない詩をボクの手書きで書きこんである。題名だけすこし紹介する。

 カール・リープクネヒトのための墓碑銘
 カール広場のポプラ
 息子の誕生にあたってー蘇東坡による
 「母」より劇中詩
 捜索
 詩人たちの移住
 動揺する者に
 解決

 本文では、20年代のワイマール時代、30年代のナチスの弾圧による亡命時代、そして東ドイツ時代と分かれている。

 いま読み返すと、「Ⅰ」の「快適な生活について」「マリー・Aの思い出」「水死したむすめについて」「商人のうた」などがいちばんいい。

 Ⅱの「ぼくたちだ党とは」「学習をたたえる」「コミュニズムをたたえる」などの詩は、いつ書かれたのだろうか。ボクの後知恵だが、これらは1920年代に書かれてもいい詩だと思う。いや、もっと前か。

 いま感じることは「Ⅰ」と「Ⅱ」は2つに分裂していて関連がない。もちろん現実の「Ⅰ」と「Ⅱ」は分裂してはいないと思う。これは主体の側の悲劇的な分裂だと思う。

 そういう意味では現代のシェークスピアはまだ出ていない。いやそうではなくてボクが見つけられていない。現代の小林多喜二や現代の宮本百合子も。

 あの頃読んで、ボクが心に残った詩の断片(p71)

 「正しい道でも、きみひとりでは行くな。
 ひとり離れて行く道は
 いちばん正しくない道だ。
 ………
 とどまって、ぼくらとともに思考せよ!
 ぼくらからわかれてひとりで行くな!」

 読み直して「Ⅲ」の「ドイチェ・マルジナリエン 1938」「東部戦線のドイツ兵たちに」がいい。

 いま2018年にブレヒトの詩集が手に入るだろうか?Amazonで検索したら、新刊本は品切れでも中古ではありそうです。

 


雨宮日記 11月29日(木) 豆子さんがミカンの皮を食べる

2018年11月29日 22時22分03秒 | 雨宮日誌

 雨宮日記 11月29日(木) 豆子さんがミカンの皮を食べる

 おうちコープが珍しく夕方6時前に来る。いつもは1人で午後2時ごろに来るのに、きょうは2人できたので何かあったのだと思う。

 ウサギの豆子さんが、ミカンの皮を則子さんがごみ箱に捨てたら、ごみ箱をひっくりかえして皮を食べていた。匂いがよかったのか。

 則子さんが留守でファックス電話が5~6回かかってくるが、通じない。文書は受診できない。うちは電話番号がわからなので誰からか、わからない。

 部屋が寒いので、毎年のことだが足のそばに電気ストーブをつける。

 


新・本と映像の森 213 浜松文芸館『浜松文芸十人の先駆者』浜松文芸館

2018年11月28日 13時59分38秒 | 本と映像の森


新・本と映像の森 213 浜松文芸館『浜松文芸十人の先駆者』浜松文芸館

 A4版、カラー、21ページ。

 2013年(平成25年)の「藤枝静男没後二十周年 藤枝静男展」のチラシといっしょにあるので、たぶん「藤枝静男展」のときに買うかもらったかしたものだと思う。

 まだ浜松文芸館が鹿谷の坂の途中にあって、クリエート浜松へ引っ越す前のころ。

 「浜松文芸十人の先駆者」とは次の10人。1人につき2ページずつ。

 ① 松島十湖  まつしまじっこ    1849-1926 77才
 ② 加藤雪膓  かとうせっちょう   1875-1932 57才
 ③ 柳本城西  やなぎもとじょうさい 1879ー1964 86才
 ④ 原田濱人  はらだひんじん    1884-1972 88才
 ⑤ 鷹野つぎ  たかのつぎ      1890-1943 54才
 ⑥ 相生垣瓜人 あいおいがきかじん  1898-1985 86才
 ⑦ 清水みのる しみずみのる     1903-1979 76才
 ⑧ 百合山羽公 ゆりやまうこう    1904-1991 87才
 ⑨ 藤枝静男  ふじえだしずお    1908-1993 85才
 ⑩ 小百合葉子 さゆりようこ     1901-1986 84才

 10人はこれでいいのか、という議論は今日はしない。

 それぞれの伝記も今日は略す。ただ父の書いた『落葉松』「第2部」に触れている歌人で加藤雪膓や柳本城西などをあげておく。これはボクの祖父・福男(とみお)が浜松でアララギ派の歌人だったことによる。

「文芸評論」 ⑭ 「浜松詩歌事始 前編 雪膓と子規 1」20170903
   ・・・・・・・・・
「文芸評論」 ⑲ 「浜松詩歌事始 中編 左千夫・茂吉と城西 3」20170912
「文芸評論」 ⑳ 「浜松詩歌事始 中編 左千夫・茂吉と城西 4」20170914
「文芸評論」 ㉒ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 1」20170918
「文芸評論」 ㉓ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 2」20170919
     
 などなど。

 


雨宮日記 11月27日(火) 9/23ビデオ第14回目が完成

2018年11月27日 19時55分36秒 | 雨宮日誌

 雨宮日記 11月27日(火) 9/23ビデオ第14回目が完成


 まだ昼閒は暖かい。則子さんは浜北の長女のところへいく。長女の下の2才の娘と遊ぶ。かくれんぼやお医者さんごっこ。「耳 みみ」と明確に言う。

 ボクはNくんとビデオ作り。「20180923 久保山愛吉氏追悼焼津行動 ⑭ 9・23焼津のつどい 特別発言 高木理文さん」ができあがり、「ピース浜松 市民の平和ブログ サイトB」にアップ。時間10分20秒。

 夜は寒くなるので、右手だけ手袋をして右足だけ厚い靴下をはく。

 


新・本と映像の森 212 中原英臣・佐川峻『ウイルス進化論 ー ダーウィン進化論を越えて ー』ハヤカワ文庫、早川書房、1996年

2018年11月26日 09時10分00秒 | 本と映像の森

 

新・本と映像の森 212 中原英臣・佐川峻『ウイルス進化論 ー ダーウィン進化論を越えて ー』ハヤカワ文庫、早川書房、1996年

 251ページ、定価560円、原書1989年。

 問題:ウイルスは生物か無生物か?ウイルスは害虫か?

 答え:ウイルスは生物の進化のための1器官である。

 これは現在の正当生物学、ダーウィン生物学を真っ向から否定するものだが、ボクはもしかしたらこちらのほうが正しい。

 つまり進化の起きる大変動の時期は、通常とは違うメカニズムが働く。生物が変わるのに外部的要因だけを見てしまいがちだが、内部的要因も正確に見なくてはいけない。それが、この「ウイルス進化論」だ。

 普通の長く続く平穏な時代には数千万年も生物は量的に変わっても、質的には変わらない。「進化」は「不連続の時代」の現象なのだ。ダーウィン進化論の「中立的な遺伝子の突然変異」では「不連続の時代」の急速な進化の説明がつかない。

 また、昆虫などの工業地帯での「変化」「黒化」や最近の耐性菌化は遺伝子の変化ではなく、その発現形式の変化なのだから進化とは関係ない。不可逆的な進化ではなく、可逆的な適応現象である(p228~231)。

 プラスミド、ベクターなど細かい議論は、まだよくわからないので勉強する。

 


雨宮日記 11月25日(日) 浜松基地航空祭「エアフェスタ」当日

2018年11月25日 19時27分37秒 | 雨宮日誌

   雨宮日記 11月25日(日) 浜松基地航空祭「エアフェスタ」当日

 快晴。朝7時50分ごろ、最初の爆音。

 実感として中区十軒町では、意外に爆音は例年より小さい感じだった。

 他の観測者の意見も聞いて総合的に判断をしたい。

 


雨宮日記 11月24日(土) ビデオ編集日

2018年11月24日 21時48分03秒 | 雨宮日誌

 

雨宮日記 11月24日(土) ビデオ編集日

 Nくんと2人で「青い地球 」を完成。ところが何故か「平和新聞」本紙がまだ届かない。困るんだよね。

 ビデオは9/23の続き。「20180923 久保山愛吉氏追悼焼津行動 ⑬ 9・23焼津のつどい 特別発言 志田 剛さん」。8分19秒。完成してアップする。

 明日は浜松基地航空祭「エアフェスタ」で、今日は土曜日なのに飛んでいる。今日はあまりうるさくはない。

 柿やミカンがおいしい。食事もおいしい。病気になってからボクがなんでも残さずに食べるようになった。

 


古代ブログ 94 古代史ニュース 天竜区・の光明山古墳が全長1m伸びた

2018年11月23日 13時42分25秒 | 遠州古代史


古代ブログ 94 古代史ニュース 天竜区・の光明山古墳が全長1m伸びた

 春に浜松市が調査を発表した二俣の光明山古墳で新たに全長が62mから83mに1m伸びました。

 春の発表は浜松市のホームページで検索してください。「平成30年 4月 18日 浜松市市民部 文化財課 埋蔵文化財グループ 報 道 発 表 ℡:053-457-2466 光明山古墳は葺石、埴輪を備えた地域の王墓であることが分かりました。」で。

 以下、再録。

「古代ブログ 11 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 4 天竜区の光明山古墳
2017年10月17日 23時46分23秒 | 遠州古代史

 浜松市の最大規模の前方後円墳は、三方原台地には無く、天竜区の天竜川が平野に出る直前にあります。

 光明山(こうみょうさん)古墳は長さ82メートル、浜松市内で最大で、後円部は直径42メートル、高さ8メートルです。

 巨大なのと、光明寺に隣接しているので草に覆われていて、古墳の輪郭は定かではありません。ただし、冬に行けば、どうでしょうか。ネットで「Google アース」で見ても、あまりよくわかりません。

    ☆

 『静岡県史 通史編 1 原始・古代』に3箇所で叙述があります。。

 219ページ 「すでに松林山古墳、銚子塚古墳など100メートルを超すほどの大型前方後円墳は4世紀代に出現していたが、5世紀になると畿内系の古墳という範疇で理解できるような古墳 ー たとえば天竜市光明山古墳、磐田市堂山古墳などの90~100メートル級の前方後円墳も認められる。同時にこの時期には有数の大型円墳が登場し、首長層の中にも重層的な階層差のあったことがうかがわれる。」
 
 245ページ 「F2【天竜川流域(左岸)ー石田古墳群ーの磐田北大支群】には4世紀の古墳はないが、5世紀の大型前方後円墳(光明山古墳)が含まれている。その占地は、天竜川平野の扇央を押える位置にある。そこで、4世紀代に天竜川の東と西に地域を分けていた勢力圏が5世紀に統一され、群集墳盛行期になるとD・E・Fの3地域に分立したとする構想が成り立つことになる(浜松市博物館『古代の浜松』昭和62年)。」

 404ページ 「この地域に土師部がいたことは疑いない。とくに京見塚【磐田市の円墳、直径47m、高さ8.1m、5世紀後半】の埴輪窯で焼かれた円筒埴輪と同一の製品が、天竜川沿いの光明山古墳(全長88メートルの前方後円墳。天竜市山東)と千人塚古墳(径50メートルの円墳。浜松市初生町)から出土しており、水運を使った搬出・輸送も考えられている(『磐田市史』資料編1)。」

 また、神谷昌志さんの『遠州歴史散歩』静岡新聞社、1989年、の「光明寺と光明山古墳」(p114~115)によれば「昭和30年に静岡県の文化財に指定された。この古墳は昭和10年光明寺がこの地に移ってきた時点ではまだその存在が判らなかったが、数年後に埴輪の破片が発見されたことから古墳であることが判り、昭和46年古墳の南側に老人憩いの家を建設するにあたって、隣接地にあった円墳を調査したとき、本格的な測量を実施し・・・・天竜市【現在では浜松市】最大の古墳であることが判った。」(p115)

 以下、過去の再録を3つ「遠州の遺跡・寺社」の「25」「26」「27」まで

「遠州の遺跡・寺社 25 天竜区の光明山古墳を暑いなか…
2010年08月17日 05時14分57秒 | 遠州古代史

 二俣にN子さんと車で出かけたので、ついでに、以前から行ってみたかった光明山古墳(こうみょうさんこふん)と光明寺を見に行きました。

 土地勘はないので、天竜区役所(建て替え中)から少し東という感覚で、最初入っていった谷間は、現地の山の西側の谷で、間違いでした。

 もう一度、谷間に入った道に戻って目の前に見える山の東側へ回りました。「光明寺」と書いてあったので山裾を巡る道を、車で上へ上りました。

 光明寺へ登る階段を見つけたので、空き地に車を止めて、二人で北へ登ろうとして、南側を見たら、なんとそこに「光明山古墳」の看板が立っていました。
 あ!これだ!
 これが新浜松市内で最大の古墳なんですね。
 
 古墳らしく整備されているのではないので、看板がなければ、樹木のおいしげる、たんなる山です。
 たしかに、周りの谷を見下ろす尾根の頂点にあるので、きちんと整備して古墳の前方部に立てるようにしてもらえば、この位置の重要性が感覚出来ると思います。

 南北の方向の前方後円墳で、長さ82メートルは浜松市内で最大で、後円部は直径42メートル、高さ8メートルです。
 
 なんで、平野に出たもっと南ではなくて、天竜川が平野に出る直前の山の上に、浜松市内最大の前方後円墳があるのかという問題です。

 やはり、これは、長野県に分岐した出雲勢力が天竜川を南下したことからくるのではないでしょうか。
 つまり、南から海から来た古墳ではなく、北側から天竜川を南へ下ってきた古墳です。

 浜松市の解説では、古墳時代中期の、5世紀後半の古墳のようです。
 この古墳を築いた二俣の古代豪族と、もっと南の天竜川に住み着いた豪族との関係を知りたいなと思います。

 ちょうど、ほかのご夫婦といっしょになって、そのご夫婦も、いっしょに浜松の古墳を回っているそうで、浜松の古墳談義に花が咲きました。
 蛭子森古墳や内野古墳群は行ったそうですので、ぼくのおすすめは「入野古墳は、頂上から下の平野が見れていいですよ」と話しました。
 こういう古代史マニアがもっと増えるといいですね。」


「遠州の遺跡・寺社26 天竜区の光明寺と光明山古墳
2010年08月20日 05時12分48秒 | 遠州古代史

 「遠州の遺跡・寺社25 天竜区の光明山古墳を暑いなか…」で書いた光明山古墳のすぐ北側の階段を上っていくと、光明寺の境内です。

 目の前に、大きな「大黒堂」があって、まさしく金色のお顔の巨大な「大黒様」がニコニコして座っていらっしゃいました。
 どうみても、藤子不二雄さん(どっちか忘れました)のマンガの主人公です。いま、あのおじさんの名前が出てきません。年ですねえ。思い出したら、加筆します。

 やはり山伏さんや修験道とも関係する山岳寺院なのでしょうね。
 右に(東に)ある社務所でN子さんが何か買っているので、ぼくも行って、聞いてみました。

 「上の方にあるあの寺院はなんですか?」
 「ああ、あそこが、ここのご本尊さまの摩利支天さまですよ」
 「へえ、でもこの暑さじゃ、登っていくのはきついですね」
 「そうですね、ぜひ涼しい季節においでください」
 「はあい、秋になったらまたきますね」

 その摩利支天さまですが、かなり複雑な性格のようで、調査研究します。

 今日書きたいのは、その光明寺と光明山古墳の関係です。
 つまり、光明寺へ登っていく階段を望む位置に、なぜ光明山古墳があるのでしょうか。しかも、光明山古墳は、南北方向なので、被葬者の豪族の遺体は南北向きに寝かせられたとみるのが妥当な線でしょう。

 光明山古墳に埋葬されている5世紀の天竜の支配者・族長と、光明寺の関係が問題なのですが、古墳とお寺とどっちが先であるにしろ、古墳に埋葬された支配者(男女かは不明)が、死後に神仏に参拝するとすると、ちょうどいい位置に階段があって、ということになります。

 ふつう、考古学者と宗教学者を兼ねる人は、たぶん、いないので、こんな話を書く人も少ないかなと思いますが。
 
 ぼくは、やはり、光明山古墳の被葬者(浜松市内で最大の古墳を築いた本人)が死後も神仏に参拝することを想定して、光明山古墳と光明寺の位置が決まったのだと思います。

 もちろん、光明寺はむかしはもっと奥の「光明山」にあったり、という歴史がありますが、基本線は変わらないと思います。

 もう一つ、同じような実例をあげておくと、東区の羽鳥八幡神社と蛭子森古墳です。
 同じように、南北向きの羽鳥八幡神社の参道を延長すると、道の向かいの蛭子森古墳につきあたります。
 しかも、円墳ですが、遺体の向きは南北向きです。
 
 寺社と古墳の関係で、これほど明確ではないですが、近接して同一地内にあると解釈できるのが、浜北の六所神社と興覚寺後古墳、中区の蜆塚遺跡の蜆塚古墳と山神社です。

 六所神社は南向きで興覚寺後古墳は東西、蜆塚古墳は円墳で山神社は東向きということで、その意味はもうすこし考えます。」


「遠州の遺跡・寺社27 天竜区二俣・光明山古墳の続き
2010年08月23日 04時56分11秒 | 遠州古代史

 『天竜市史 上巻』(天竜市役所編集・発行、1981年)の「原始・古代編」の第2章「古代の天竜市域」の「第1節 光明山古墳」と「第2節 天竜市の古墳群」で、139ページから170ページまで、光明山古墳を始め、天竜市内の47の古墳(うち現存は39基)を解説しています。

 145ページで以下のように推理しています。

 「光明山古墳に葬られている人が、生前どこに住んでいて、どれ位の範囲に勢力を張っていたかよくわからないが、この古墳を作らした次の首長とその取り巻きは、山東一帯、例えば八幡遺跡や上市場遺跡あたりに居を構えていたのではないかと思われる。
 そして、その勢力範囲は、後の古墳群のあり方から見て東は、豊岡村野部あたりまで、西は浜北区根堅から宮口あたりまでと考えられる。
 とすれば、それは天竜川三角州地帯の頂点に位置するわけで、天竜川の水利権を掌中にした一大勢力ではなかったかと考えてみたくなる。」

 生前どこに住んでいたかはともかく、その勢力範囲についての考察は妥当なものではないだろうかと、思います。

 つまり、通常、いまの天竜区と浜北区に分けて、以前で言うと天竜市と浜北市に分けて考えてしまうのっが普通の思考法なのですが、この光明山古墳の主は、天竜区を南へ越えていまの浜北区の範囲まで掌握し、「天竜川の水利権を掌中」のものにしていたというのは妥当でしょう。

 さらに推理するなら、その後、この「水利権」は誰かに奪われたと推理すべきでしょう。
 この点については「遠州の遺跡・寺社」の別項で推理したいと思います。

 そして、光明山古墳付近での古墳造営は断絶したと見て良いのでしょうか、それとも細々と続いていたのでしょうか。」

 

 


雨宮日記 11月22日(木) 宮本百合子全集の箱を捨てた

2018年11月22日 14時04分25秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 11月22日(木) 宮本百合子全集の箱を捨てた

 五体健全ならやらないけど、右手が不随なのでこういう全集の箱は出しにくい。固いと出せないこともあるので、この際だから「箱」は全部サヨナラした。

 さよなら、元気でね。「雑ガミ」で元気で再生してね。

 「手紙」のなかをめくると、かなり書き込みがあるので、索引づくりを始めた。「宮本顕治&百合子の総索引」をつくろうかな?

 完成するのは数年かかるだろうけど。

 


雨宮日記 11月21日(水) 探していた全集が出てきた!

2018年11月21日 09時40分50秒 | 雨宮日誌

 
雨宮日記 11月21日(水) 探していた全集が出てきた!

 この数年、どっか家の中にあるはずと探していた『宮本百合子全集』がついに出てきました。今日、則子さんが父の部屋を掃除していたら出てきました。なぜ父の部屋にあったのかは不明。他にもあるみたい。

 でも嬉しいなあ。ネットの「青空文庫」で宮本百合子さんの小説や日記の本文は読めるけど、本で読むのとは違うし、本でないと線をひけないし、注釈はたぶん「青空文庫」ではないし。

 でも全集の箱はどうしよう。捨てちゃおうか。

 


過去現在未来のメモリーノート 52 ジャーナリストの「評価」は

2018年11月20日 12時03分33秒 | 過去現在のメモノート


過去現在未来のメモリーノート 52 ジャーナリストの「評価」は

 安田純平さんについての「たこ 他己」評価がさかんなようだ。「自己責任」という人がなぜ「他己評価」をするのか?

 それはともかくジャーナリストの「評価」はその人が書くものだけで決まる。書く作品が低レベルなら、その人は低レベルのジャーナリストだ。

 姿勢が民主的だとか、平和勢力の側に立っているとか、そいうことは一切関係ないと思います。

 そういう点で、今回は安田純平さんの書いた作品が出てくるまでは、なにもわかりません。
 
 フォトジャーナリストであれば、その人が写す写真がすべてです。フォトジャーナリスト森住卓さんは写真も文章もいいですけどね。

 以下、「過去現在未来のメモリーノート 50 安田純平さんの無事帰国に際して考えたこと」の再録。


「過去現在未来のメモリーノート 50 安田純平さんの無事帰国に際して考えたこと
2018年10月28日 10時02分03秒 | 過去現在のメモノート

 日本人「ジャーナリスト」の安田純平さんが3年半にわたる監禁生活から解放されて無事帰国した。

 要点だけ書く。

 <1> ボクは安田純平さんに心から「無事でよかったね」という。

 <2> 「自己責任」論はボクはとらない。「自己責任」論では人間の生死に冷たすぎると思う。もちろん、それぞれの人生は「自己責任」の側面はある。

 <3> <1>だからといって、安田純平さんの報道や主張が正しいなどというつもりはない。それは、すべて事実と道理に基づいて検証してからの話である。また安田純平さんの報道や主張が、検証の必要がある重みがあるかどうかも別の問題だと思う。

 <4> ジャーナリストの安全という点で今回、安田純平さんのシリア情勢判断に緩みがなかったかどうか安田さんの猛省を望む。

 <5> 金を支払ったのかどうか。カタール政府が払ったという報道もある。ボクは日本政府の例の領収書のいらない金庫から払った可能性もあると思う。

 以上は2018年10月27日(土)午前6時24分、書き終わる。」

 


新・本と映像の森 211 槇村浩「間島パルチザンの歌」1932年

2018年11月19日 11時17分09秒 | 本と映像の森

 

新・本と映像の森 211 槇村浩「間島パルチザンの歌」1932年


 槇村浩『間島パルチザンの歌 ー 槇村浩詩集 ー』(新日本文庫、新日本出版社、1980年、198ページ、定価340円)よりp38~50

 槇村浩さんは戦前、高知県の詩人・日本プロレタリア作家同盟員・共産青年同盟員・日本共産党員候補。

 「間島パルチザンの歌」を発表した直後に、警察に検挙され特高の拷問と虐待を受ける。

 「「間島パルチザンの歌」は当局【警察】によって一時一句、題名まで発禁【発売禁止】だと宣言され」(p197「自筆略歴」)た。

 1938年9月3日土佐脳病院で死亡、26才。

 基本は「槇村浩『間島パルチザンの歌 ー 槇村浩詩集 ー』(新日本文庫、新日本出版社、1980年」によったが、ネット「青空文庫」「槇村浩」「間島パルチザンの歌」も参考にした。

 なお「間島」は「かんとう」と読む。現在の「中華人民共和国 吉林省 延辺朝鮮族自治州」のこと。

 以下、「間島パルチザンの歌」全文。


思ひ出はおれを故郷へ運ぶ
白頭の嶺を越え、落葉松の林を越え
蘆の根の黒く凍る沼のかなた
赭ちゃけた地肌に黝ずんだ小舎の続くところ
高麗雉子が谷に啼く咸鏡(かんきょう)の村よ

雪溶けの小径を踏んで
チゲを負ひ、枯葉を集めに
姉と登った裏山の楢林よ
山番に追はれて石ころ道を駆け下りるふたりの肩に
背負繩はいかにきびしく食ひ入ったか
ひゞわれたふたりの足に
吹く風はいかに血ごりを凍らせたか

雲は南にちぎれ
熱風は田のくろに流れる
山から山に雨乞ひに行く村びとの中に
父のかついだ鍬先を凝視めながら
眼暈ひのする空き腹をこらへて
姉と手をつないで越えて行った
あの長い坂路よ

えぞ柳の煙る書堂の陰に
胸を病み、都から帰ってきたわかものゝ話は
少年のおれたちにどんなに楽しかったか
わかものは熱するとすぐ咳をした
はげしく咳き入りながら
彼はツァールの暗いロシアを語った
クレムリンに燻ぶった爆弾と
ネヴァ河の霧に流れた血しぶきと
雪を踏んでシベリヤに行く囚人の群と
そして十月の朝早く
津波のやうに街に雪崩れた民衆のどよめきを
ツァールの黒鷲が引き裂かれ
モスコーの空高く鎌と槌の赤旗が翻ったその日のことを
話し止んで口笛を吹く彼の横顔には痛々しい紅潮が流れ
血が繻衣(チョゴリ)の袖を真赤に染めた
崔先生と呼ばれたそのわかものは
あのすざましいどよめきが朝鮮を揺るがした春も見ずに
灰色の雪空に希望を投げて故郷の書堂に逝った
だが、自由の国ロシアの話は
いかに深いあこがれと共に、おれの胸に沁み入ったか
おれは北の空に響く素晴らしい建設の轍の音を聞き
故国を持たぬおれたちの暗い植民地の生活を思った

おゝ
蔑すまれ、不具(かたわ)にまで傷づけられた民族の誇りと
声なき無数の苦悩を載せる故国の土地!
そのお前の土を
飢えたお前の子らが
若い屈辱と忿懣をこめて嚥み下くだすとき――
お前の暖い胸から無理強ひにもぎ取られたお前の子らが
うなだれ、押し黙って国境を越えて行くとき――
お前の土のどん底から
二千萬の民衆を揺り動かす激憤の熔岩を思へ!

おお三月一日!
民族の血潮が胸を搏うつおれたちのどのひとりが
無限の憎悪を一瞬にたゝきつけたおれたちのどのひとりが
一九一九年三月一日を忘れようぞ!
その日
「大韓独立萬歳!」の声は全土をゆるがし
踏み躙られた日章旗に代へて
母国の旗は家々の戸ごとに飜(ひるがえ)った

胸に迫る熱い涙をもっておれはその日を思ひ出す!
反抗のどよめきは故郷の村にまで伝はり
自由の歌は咸鏡の嶺々に谺した
おお、山から山、谷から谷に溢れ出た虐げられたものらの無数の列よ!
先頭に旗をかざして進む若者と
胸一ぱいに萬歳をはるかの屋根に呼び交はす老人と
眼に涙を浮かべて古い民衆の謡うたをうたふ女らと
草の根を噛りながら、腹の底からの嬉しさに歓呼の声を振りしぼる少年たち!
赭土の崩れる峠の上で
声を涸らして父母と姉弟が叫びながら、こみ上げてくる熱いものに我知らず流した涙を
おれは決して忘れない!

おお、
おれたちの自由の歓びはあまりにも短かゝった!
夕暮おれは地平の涯に
煙を揚げて突き進んでくる黒い塊を見た
悪魔のやうに炬火を投げ、村々を焔の波に浸しながら、喊声をあげて突貫する日本騎馬隊を!
だが焼けけ崩れるの家々も
丘から丘に搾裂する銃弾の音も、おれたちにとって何であらう
おれたちは咸鏡の男と女
搾取者への反抗に歴史を綴ったこの故郷の名にかけて
全韓に狼煙を揚げたいくたびかの蜂起に血を滴らせたこの故郷の土にかけて
首うなだれ、おめおめと陣地を敵に渡せようか

旗を捲き、地に伏す者は誰だ?
部署を捨て、敵の鉄蹄に故郷を委せようとするのはどいつだ?
よし、焔(ほのお)がおれたちを包まうと
よし、銃剣を構へた騎馬隊が野獣のやうにおれたちに襲ひ掛からうと
おれたちは高く頭(かしら)を挙げ
昂然と胸を張って
怒濤のやうに嶺をゆるがす萬歳を叫ばう!
おれたちが陣地を棄てず、おれたちの歓声が響くところ
「暴圧の電光を覆ふ」朝鮮の片隅に
おれたちの故郷(ふるさと)は生き
おれたちの民族の血は脈々と搏うつ!
おれたちは咸鏡の男と女!

おう血の三月!―――その日を限りとして
父母と姉におれは永久に訣れた
砲弾に崩れた砂の中に見失った三人の姿を
白衣を血に染めて野に倒れた村びとの間に
紅松へ逆さに掛った屍の間に
銃剣と騎馬隊に隠れながら
夜も昼もおれは探し歩いた

あはれな故国よ!
お前の上に立ちさまよふ屍臭はあまりにも傷々しい
銃剣に蜂の巣のやうに突き刺され、生きながら火中に投げ込まれた男たち!
強姦され、肉を刳(けず)られ、臓腑(ぞうふ)まで引きずり出された女たち!
石ころを手にしたまま絞め殺された老人ら!
小さい手に母国の旗を握りしめて俯伏(うつぶ)した子供たち!
おお君ら、先がけて解放の戦さに斃れた一萬五千の同志らの
棺(ひつぎ)にも蔵められず、腐屍を禿鷹の餌食に曝す躯(むくろ)の上を
荒れすさんだ村々の上を
茫々たる杉松の密林に身を潜める火田民(かでんみん)の上を
北鮮の曠野に萠える野の草の薫りを篭めて
吹け!春風よ!
夜中よじゅう、山はぼうぼうと燃え
火田を囲む群落むらの上を、鳥は群れを乱して散った

おれは夜明けの空に
渦を描いて北に飛ぶ鶴を見た
ツルチュクの林を分け
欝蒼たる樹海を越えて
国境へ―――
火のやうに紅い雲の波を貫いて、真直ぐに飛んで行くもの!
その故国に帰る白い列に
おれ、十二の少年の胸は躍った
熱し、咳き込みながら崔先生の語った自由の国へ
春風に翼(はね)を搏うたせ
歓びの声をはるかに揚げて
いま楽しい旅をゆくもの!
おれは頬を火照らし
手をあげて鶴に応(こた)へた
その十三年前の感激をおれは今なまなましく想ひ出す

氷塊が河床に砕ける早春の豆満江を渡り
国境を越えてはや十三年
苦い闘争と試練の時期を
おれは長白の平野で過ごした
気まぐれな「時」はおれをロシアから隔て
厳しい生活の鎖は間島におれを繋いだ
だが かってロシアを見ず
生れてロシアの土を踏まなかったことを、おれは決して悔いない
いまおれの棲むは第二のロシア
民族の墻(かき)を撤したソヴェート!
聞け! 銃を手に
深夜結氷を越えた海蘭(ハイラン)の河瀬の音に
密林に夜襲の声を谺した汪清(ワンシン)の樹々のひとつひとつに
血ぬられた苦難と建設の譚(ものがたり)を!

風よ、憤懣の響きを篭めて白頭から雪崩れてこい!
濤よ、激憤の沫(しぶ)きを揚げて豆満江に迸れ!
おお、日章旗を飜す強盗ども!
父母と姉と同志の血を地に灑ぎ
故国からおれを追ひ
今剣をかざして間島に迫る日本の兵匪!
おお、お前らの前におれたちがまた屈従せねばならぬと言ふのか
太てぶてしい強盗どもを待遇する途をおれたちが知らぬといふのか

春は音を立てゝ河瀬に流れ
風は木犀(もくせい)の香を伝へてくる
露を帯びた芝草に車座になり
おれたちはいま送られた素晴らしいビラを読み上げる
それは国境を越えて解放のために闘ふ同志の声
撃鉄を前に、悠然と階級の赤旗を掲げるプロレタリアートの叫び
「在満日本革命兵士委員会」の檄!

ビラをポケットに
おれたちはまた銃を取って忍んで行かう
雪溶けのせゝらぎはおれたちの進軍を伝へ
見覚えのある合歓(ねむ)の林は喜んでおれたちを迎へるだらう
やつら! 蒼ざめた執政の陰に
購(あがな)われた歓声を挙げるなら挙げるがいゝ
疲れ切った号外売りに
嘘っぱちの勝利を告げるなら告げさせろ
おれたちは不死身だ!
おれたちはいくたびか敗けはした
銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした
だが
密林に潜んだ十人は百人となって現はれなんだか!
十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!
「生くる日の限り解放のために身を献げ
赤旗のもとに喜んで死なう!」
「東方解放軍」の軍旗に唇を触れ、宣誓したあの言葉をおれが忘れようか
おれたちは間島のパルチザン。身をもってソヴェートを護る鉄の腕。生死を赤旗と共にする決死隊
われらがものわれらがもの……
いま長白の嶺を越えて
革命の進軍歌を全世界に響かせる
――海 隔てつわれら腕(かひな)結びゆく
――いざ戦はんいざ、奮ひ立ていざ
――ああインターナショナルわれらがもの

 


新・本と映像の森 210 松谷みよ子『アカネちゃんと涙の海』講談社文庫、2012年

2018年11月18日 12時01分19秒 | 本と映像の森


新・本と映像の森 210 松谷みよ子『アカネちゃんと涙の海』講談社文庫、2012年

 原書1992年、289ページ、定価本体581円。

 松谷みよ子さんのライフワークの1つだと思います。

 松谷さんが196年に「三つになったモモ」を書いてから、モモちゃんとアカネちゃんのシリーズが「それにしても、ほんとにみんな大きくなりました。モモちゃんも、アカネちゃんも、ほんとにみんな大きくなりました。だから、このお話も、おしまいです。」と本としては完結したのは「30年かかって」のことでした。

 この文庫本には『アカネちゃんとお客さんのパパ』と『アカネちゃんの涙の海』が入っています。

 妹の「ちいさいアカネちゃんは、とってもとっても大きくなって、もう二歳と七ヶ月になりました。ママが、
  「えーと、おねえちゃんは、どこにいるのかな?」
 なんて、モモちゃんをさがしていると、アカネちゃんが、とたとた走ってきて、
「おねえちゃん、ここにいるよ」
って、自分の顔を指さすんです。」

 幼児の世界は、ほんとにおもしろいです。『アカネちゃんとお客さんのパパ』の第1話「アカネちゃんの腕時計」ではオモチャの腕時計をもらったアカネちゃんが「いまはおひるねのじかんじゃないもん、おやつだもん」と保育園を抜け出します。

 野原に行くと「ヒメジョンのあいだの細道を、きらきら光る銀色のおさじさんが、一列に並んで、よちよち、よちよちやってくるのです。

   おやつだ おやつだ
   おやつだ おやつだ
   プリン プリン
   プリンのおやつ
   ぼくは おさじさん
   おてつだいします
   お口のトンネル
   ああんとあけて
   ぼくは おさじの
   きしゃぽっぽ
   おいしいものを
   はこびます

 ネコのプーやクツシタのタッタちゃんやタアタちゃん。パパおおおかみ。ぬいぐるみのカバコーフ=モシモーノ。

 学校の幽霊や死に神や「アカネちゃんの涙の海」を泳ぐ赤ちゃんクジラやら。

 アカネちゃんが1才半のとき、ママはパパと離婚し、パパのやっていた劇団「太郎座」から退団します。離婚やパパの死、核実験などを書いた幼年童話はたぶん多くないでしょうう。

 このなかで歌われるうたがとても好きです。

ののさま どちら
いばらのかげで
ねんねをだいて
花つんでござれ
花つんでござれ

 残念ながら、ボクはまだ前作『ちいさいモモちゃん』『モモちゃんとアカネちゃん』を読んでいません。

 < これまで取りあげた松谷みよ子さんの本 >

 本と映像の森 307 松谷みよ子さん『いない いない ばあ』童心社、1967年
2014年07月13日 18時59分27秒 | 本と映像の森

新・本と映像の森 120 松谷みよ子『死の国からのバトン ー 直樹とゆう子の物語ー』偕成社、1976年 2018年03月10日 19時08分53秒

 


新・本と映像の森 209 テレビ・NHK「チコちゃんに叱られる!」

2018年11月17日 16時38分46秒 | 雨宮日誌


新・本と映像の森 209 テレビ・NHK「チコちゃんに叱られる!」

 毎週金曜日夜7時57分から8時45分。再放送は土曜日朝8時15分から。ボクは夏ごろ偶然に見て、はまった。

 5才の女の子「チコちゃん」の「ボーっと生きてんじゃねえよ!」の決めぜりふが心地よい。

 内容は意外に正統派で、科学的(と思います。でないこともある。)記憶に残った内容。

 「亀はなぜ長生きなのか?」
 「どうして高いところで足がすくむのか?」
 「なぜ小学校では兎がいちばん飼われるのか?」
 「クッキーとビスケットはどうちがう?」
 「・・・」

「チコちゃん」は、CG映像でセリフは男性俳優の声をボイスチェンジャーで女の子の声にしてある。

「今こそ全ての日本国民に問います!」というアナの上から目線のセリフも、岡村さんやゲストの演技も、最後の「バカー」「バカー」と鳴く「カラス」も面白い。

 「ボーっと生きてんじゃねえよ!」

 


古代ブログ 93 古代史ニュース インドネシア・ボルネオの4万年前の洞窟壁画

2018年11月16日 10時05分00秒 | 遠州古代史


古代ブログ 93 古代史ニュース インドネシア・ボルネオの4万年前の洞窟壁画

 11月8日付け「しんぶん赤旗」(14)面に「洞窟の動物壁画は世界最古 豪大学など研究 カリマンタン島 4万年前 ユーラシアの東西同時期に」と題した記事が載りました。『ネイチャー』の論文の解説です。

 「カリマンタン島」とはインドネシアのボルネオ島の73%を占める部分のことらしい。そのカリマンタンの東端の熱帯雨林の石灰洞窟に壁画はありました。

 いままで1万年前のものと考えられていた壁画が最新の放射性元素調査で世界最古の動物壁画だと判りました。

 野生の大型ウシとみられる壁画は4万年前、人間の手形はもっとも古いもので5万2千年前と判明しました。

 動物壁画で有名なスペインのアルタミラ洞窟やフランスのラスコー洞窟のものは約2万年から1万5千年前というところでしょうか。

 もちろんそれ以前のヨーロッパのネアンデルタール人も壁画を描いています。

 今回のインドネシア人はどちらでしょうか。ネアンデルタール人=旧人?それともクロマニヨン人=新人?