「Ⅰー11 孝男叔父」
次男孝男が日本楽器の技術養成所見習生の第一回生として入所したのは、福男が谷島屋へ入店した、翌明治三十九年のことで、小学校を出たばかりの十三歳であった。技術見習生というのは、ピアノ・オルガンの製作に一般工と区別して、専門の技術者を養成するためだった。
五年の寄宿生活による年季と、一年の御礼奉公の計六年間の修業年限があった。昼は工場において技術を、夜は中学程度の英語・国語・修身・数学・体操の五科目を教えられた。月十銭の小遣いが支給され、五年後には五十銭、御礼奉公には月二円支給された。寄宿生活といっても、寄宿舎がある訳でもなく、各自勝手に事務所や工場、天井裏などに寝た。
第一回生は五名採用されたが、六年間勤めて技術を習得したのは、孝男叔父と、砂山町にある外波山楽器の創始者、外波山昇作氏の二名のみであった。孝男十八歳、昇作氏十九歳であった。昇作氏が受け取った「技術修得証明書」が同家に残っているとの事であるが(平成五年三月八日付『静岡新聞』夕刊)孝男叔父も山葉寅楠翁署名の終了証書が今に残っていると、自著『ピアノの技術と歴史』(音楽の友社刊)の中で述べている。
孝男叔父はピアノ調律技術を修得して、日本のピアノ調律界の第一人者となり、社団法人・日本ピアノ調律師協会を設立した。
私が昭和十年春、浜工入学祝いの東京見物の時、泊まったのは孝男叔父の家で、自宅でピアノ調律師を養成しながら、音楽プロデューサーを兼ねていた。仕事上とはいえ、自動ピアノがあり、電話は勿論、電気冷蔵庫もあったのには驚いた。
戦後、国立(くにたち)音楽大学にピアノ調律技術科を作り、講師となった。昭和四十八年紫綬褒章を受賞したが、五十一年、八十三歳でその一生を終えた。私たち夫婦の仲人であった。
密葬の時、娘婿の細野日出臣氏より、戦時中私が在鮮中に(「第三部 在戦記」参照)世話になった平壌医学専門学校教授の坂田氏一家が、故郷の新潟へ無事引き揚げたことを聞いた。坂田氏の奥さんは日出臣氏の姉であった。在鮮中は、はっきりとその系累を聞く間もなかったが、引き揚げてから知った。
因みに日出臣氏の父親、細野正文氏は氷山と衝突して沈没した、「タイタニツク号」に乗船していて救助された、たった一人の日本人だったことも最近分かった。ミュージシャン・細野晴臣はその孫になる。