雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 2019年11月30日(土) 11月は終わり

2019年11月30日 22時04分13秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 2019年11月30日(土) 11月は終わり

 今日も、パソコン内の掃除とパソコン外の(部屋の)掃除。

 ちょっと腰が痛いので、ずっと長時間、椅子に座っていられない。休み休みやる。休むときはラフマニノフのピアノ協奏曲、2番か3番を聞いて橫になっている。

 ラフマニノフのピアノ協奏曲、2番か3番は眠るときも聞く。ほぼ毎日、聞いている。

 放送大学をラジオで聞けるので、ときたま聞く。今日の「音楽・情報・脳」はおもしろかった。麻薬を人が耽溺してしまう生理的根拠、その物質を快感物質ドーパミンとおなじように摂取してしまうらしい。

 16ビートの音楽が好まれるが、世界の民族音楽や日本の民俗音楽にも16ビートああるらしい。

 ネットで調べてみたら、げげっ、テキストは3000円近くして高い。

 


新・本と映像の森 314 noho『となりの妖怪さん 1』イースト・プレス、2018年

2019年11月28日 16時18分48秒 | 本と映像の森


新・本と映像の森 314 noho『となりの妖怪さん 1』イースト・プレス、2018年

 247ページ、定価本体760円。

 友だちから借りたおすすめコミックです。

「新・本と映像の森 310 まるかわ『よろずの候(こう) 1』ウングコミックス、2018年」と同じような傾向の、同じような静岡県におこる出来事を描いています。

 妖怪と人間があたりまえに共存して仲良く生きている日本社会。東京も出てくる。

 第1巻で、主人公はカラス天狗のジローと少女のムーちゃん、そして20才になって猫又になったばかりの新米化け猫ぶちお、かな。

 他にもバイプレーヤーが魅力的。

 化けキツネの百合ちゃん
 天狗のおっちゃん
 妖怪の総大将、タレントの青年・山本さん
 カッパ少女の中川さん
 透明な巨人、ダイダラボッチ
 学校の異空間の相談員、花子さん
 犬の早千代さん(例の早・・・伝説です)

 この作品の舞台は特定していませんが、作者あとがきでは作者の祖母のふるさと、演習地方だそうです。どこなんでしょうね。

 2巻以降が楽しみです。なおカメラの充電器がどこかへ逃げてしまって、絵柄を紹介できません。ごめん。

 


新・本と映像の森 313 劉慈欣『三体』早川書房、2019年

2019年11月27日 19時29分21秒 | 本と映像の森


新・本と映像の森 313 劉慈欣『三体』早川書房、2019年

 7月15日初版~7月22日8版、447ページ、定価本体1900円。

 いま話題の中国SFだそうだ。ただしボクは今まで「中国SF」なるものを1冊とも、1編とも読んだことはない。これは新聞の日曜の評論で知った。

 小説は中国文革のとき1967年、理論物理学者の娘から物語は始まる。娘・葉文潔(イエ・ウェンジエ)が都会を追放され、中国西部の「紅岩基地」に所属するようになる。

 第2部「三体」では、それから40数年後、北京の科学者たち。主人公たちの中心はナノマテリアル開発者・汪淼(ワン・ミャオ)かな。

 主人公の科学者たちは「三体」というゲームにかかわり、その3つの恒星での歴史にかかわるゲームが架空のものではなく何か真実があることに気づき始める。

 その「三体ゲーム」をめぐって「三体協会」は「降臨派」と「救済派」に分裂したりする。「三体ゲーム」自体がおもしろいし、小説内小説のような構成なのもおもしろい。

 葉文潔は紅岩基地で異星文明との接触に成功したのか?その異星文明は「3つの太陽をもつ惑星系」なのか?実際のファーストコンタクトは、これからあるのか。

 これから人類は破滅するのか?三体人は破滅するのか?

 SFとして成功している。きわめつけにおもしろいと思う。

 3巻構成の第1巻。来年は第2巻が出るという。早く読みたいな。

 


雨宮日記 2019年11月26日(火) 奧の部屋を片付ける

2019年11月26日 20時46分10秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 2019年11月26日(火) 奧の部屋を片付ける

 「奧の部屋を片付ける」と言っても111日くらいはかかる(と思う)。つまり何年かかかるでしょう。

 まだ余命がどれくらいかさだかでないので全部捨てきる決心がまだつかない。それで捨てれるものは捨てて、内容別に整理をしている。

 平和委員会の月刊『平和運動』もあちこちに散らばっていたのを今集めてる。『平和新聞』は必要なものは全部切りぬいて、内容別ノートに貼っていく。

☆☆

 今日は、業者に階段の手すりをつけにきてもらった。一部、付けてないところがあって降りにくかったので、私費でつけた。

 


雨宮日記 2019年11月25日(月) ウサギさんの出迎え

2019年11月25日 21時53分01秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 2019年11月25日(月) ウサギさんの出迎え

 暖かい日。明日からは寒くなる。

 夕食のあと則子さんはバイクで出かける。ボクがテレビを見ていると、ウサギの豆子さんが足もとに寄ってきて、ボクの靴下をかんでくる。

 「私を暖めて」と言っているので両足ではさんでいてあげる。ずっとはさんでいると疲れるが、豆子さんはこれが好きらしい。ボクの靴下が臭くてもいいらしい、たぶん。好い匂いではないと思うが。

 1時間くらいして則子さんのバイクの音がすると2本の耳をピンと上げる。玄関がカチャッと開く音がすると、慌てて迎えに行くのか、玄関へ出て行く。ウサギはおもしろい。

 


ことばと詩 21 一色登希彦:小松左京/原作『日本沈没 2 日本海溝』小学館、2006年

2019年11月24日 15時11分45秒 | ことばと詩


ことばと詩 21 一色登希彦:小松左京/原作『日本沈没 2 日本海溝』小学館、2006年

 ビッグコミックス、206ページ、定価本体505円。

 地球物理学者田所雄介はM大の幸長助教授とともに、海底開発KKの潜水パイロット小野寺俊夫の操縦で日本海溝の最深部へ潜る。

 そこで田所先生が小野寺俊夫に語ったことば。


「この極環境 ー
 昨晩、君が宣(のたも)うた主義主張にふさわしい、

 独自自閉(スタンドアローン)にて

 何にも拠らぬ1個の人間として、
 この先の現実と
 向き合ってくれたまえ。」(p118)


 「スタンドアローン」とはボクの感覚ではネットなどはシャットダウンして、かついかなる人間関係や組織にもたよらず、ただ1人で考えることです。

 ありえないかな?

 


雨宮日記 2019年11月23日(土) 車椅子で外出

2019年11月23日 21時59分11秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 2019年11月23日(土) 車椅子で外出

 午後、車椅子で曳馬協働センター3Fで平和委員会の戦争体験を聞く会。行き帰り、馬込川の土手を行く。まだボクも則子さんも冬の使者・オオバンを見ない。もうカモは来ているのに、今年は遅い。

 車椅子で曳馬協働センターに来るのは2回目。エレベーターがあるので安心。

 戦争体験を聞く会は80代のご夫婦。興味深かった。とくに疎開のはなし。平和委員会の方で詳報します。

 


新・本と映像の森 312 藤田祐樹『南の島のよくカニ食う旧石器人』岩波書店、2019年

2019年11月22日 15時34分17秒 | 雨宮日誌


新・本と映像の森 312 藤田祐樹『南の島のよくカニ食う旧石器人』岩波書店、2019年

 8月23日第1刷、岩波科学ライブラリー287、136ページ、定価本体1300円。

 沖縄の洞窟で旧石器人を求めて発掘をしている著者。

 玉泉洞(ボクたちが40年前、1979年に新婚旅行で行ったところ)から数百メートルの距離にある鍾乳洞サキタリ洞遺跡で発掘を始めた著者はくる日もくる日も「カニ、カニ、カニ、カワニナ、カニ、カニ」という状態になります。

 そしてある日、これは旧石器人の「貝塚」いや「蟹塚」でないかと気づきます。そして「貝器」や旧石器を発見します。

 ウナギを釣り、旬の蟹を食べ、貝のビーズでおしゃれをする。

 沖縄の旧石器人は約2万年前の人類。当時の沖縄島の旧石器人の生活をリアルに生き生きと描き出します。

 浜松付近のむかしの旧石器人は、三ヶ日人も豊川人も縄文人ということになり、浜北人だけが旧石器人で残りました。

 沖縄は、いま旧石器人研究の最先端で注目です。

 


ことばと詩 20 山口正之『現代社会と知識労働』よりp67 20191121

2019年11月21日 21時50分40秒 | ことばと詩


ことばと詩 20 山口正之『現代社会と知識労働』よりp67 20191121

 むかし1970年代に読んだ古い本が本棚の奧から出てきた。内容は全然古くないどころか、かなり今年にも当てはまる。むかし、かなり綿密に読もうとした。

 ただマルクスやレーニンの引用が多いので、読みにくかった記憶がある。

 山口正之『現代社会と知識労働』新日本新書、新日本出版社、1972年、207ページ、定価280円。

 今日は、あまり内容について書いている時間が無いので、一言だけ紹介する。

 「資本関係にたいする闘争を、たえず、個人的な支配の形態にたいする人格的な「直接行動」に還元しようとするならば、「資本の権力」に所在を見失うことになるか、「人」にたいする個人的攻撃や、「物」に直接的破壊を、「社会革命」と錯覚することになろう。」
 (p67)

 


雨宮日記 2019年11月20日(水) 夜は冷える

2019年11月20日 20時12分06秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 2019年11月20日(水) 夜は冷える

 昼閒、平和委員会事務局会議。および「青い地球」編集。

 夜になると寒い日になってきました。

 お風呂に入る前。
 妻「お風呂、入ろうか?」
 夫「え、入ったばっかりじゃない?」
 妻「入ったのはおとついでしょ。昨日も今日も入ってない」

 お風呂に入ったあと(自分が入ったわけでもないのに、満足そうに)
 妻「ああ、いいお湯だった」

 


雨宮日記 2019年11月19日(火) 索引作り

2019年11月19日 22時02分13秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 2019年11月19日(火) 索引作り

 本や分野別の索引をつくっている。作ったからといって、どうってことないが。

 「本や分野別の索引」と書いても、たぶん世界で自分だけのものなので、言葉は誰にも通じない。ある程度できたら、どれかを紹介することにする。



 昨日、ニュースでやっていたが、71才の女性が、その夫と90代の2人の両親を介護していて3人を殺してしまったという。

 71才の女性というとボクの妻・則子さんもまったく同じ71才だし、90代のボクの父とボクと高齢ウサギの3人(2人と1匹)を介護している。

 ちゃんと介護する人の苦しみを聞いて、実際にそれを和らげられる人はいなかったのか。

 


遠州古代史ニュース 1 浜松市天竜区・光明山古墳が国史跡に 20191118

2019年11月18日 14時55分56秒 | 遠州古代史


遠州古代史ニュース 1 浜松市天竜区・光明山古墳が国史跡に 20191118

 国の文化審議会が浜松市天竜区・光明山古墳を国史跡に指定するように文部大臣に答申しました。

 これで静岡県内の国史跡は48件になります。(『中日新聞 2019年11月16日』(28)面)。


 以下は過去の「雨宮智彦のブログ」光明山古墳関係記事。


 「古代ブログ 11 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 4 天竜区の光明山古墳
2017年10月17日 23時46分23秒 | 遠州古代史

 浜松市の最大規模の前方後円墳は、三方原台地には無く、天竜区の天竜川が平野に出る直前にあります。

 光明山(こうみょうさん)古墳は長さ82メートル、浜松市内で最大で、後円部は直径42メートル、高さ8メートルです。

 巨大なのと、光明寺に隣接しているので草に覆われていて、古墳の輪郭は定かではありません。ただし、冬に行けば、どうでしょうか。ネットで「Google アース」で見ても、あまりよくわかりません。

    ☆

 『静岡県史 通史編 1 原始・古代』に3箇所で叙述があります。。

 219ページ 「すでに松林山古墳、銚子塚古墳など100メートルを超すほどの大型前方後円墳は4世紀代に出現していたが、5世紀になると畿内系の古墳という範疇で理解できるような古墳 ー たとえば天竜市光明山古墳、磐田市堂山古墳などの90~100メートル級の前方後円墳も認められる。同時にこの時期には有数の大型円墳が登場し、首長層の中にも重層的な階層差のあったことがうかがわれる。」
 
 245ページ 「F2【天竜川流域(左岸)ー石田古墳群ーの磐田北大支群】には4世紀の古墳はないが、5世紀の大型前方後円墳(光明山古墳)が含まれている。その占地は、天竜川平野の扇央を押える位置にある。そこで、4世紀代に天竜川の東と西に地域を分けていた勢力圏が5世紀に統一され、群集墳盛行期になるとD・E・Fの3地域に分立したとする構想が成り立つことになる(浜松市博物館『古代の浜松』昭和62年)。」

 404ページ 「この地域に土師部がいたことは疑いない。とくに京見塚【磐田市の円墳、直径47m、高さ8.1m、5世紀後半】の埴輪窯で焼かれた円筒埴輪と同一の製品が、天竜川沿いの光明山古墳(全長88メートルの前方後円墳。天竜市山東)と千人塚古墳(径50メートルの円墳。浜松市初生町)から出土しており、水運を使った搬出・輸送も考えられている(『磐田市史』資料編1)。」

 また、神谷昌志さんの『遠州歴史散歩』静岡新聞社、1989年、の「光明寺と光明山古墳」(p114~115)によれば「昭和30年に静岡県の文化財に指定された。この古墳は昭和10年光明寺がこの地に移ってきた時点ではまだその存在が判らなかったが、数年後に埴輪の破片が発見されたことから古墳であることが判り、昭和46年古墳の南側に老人憩いの家を建設するにあたって、隣接地にあった円墳を調査したとき、本格的な測量を実施し・・・・天竜市【現在では浜松市】最大の古墳であることが判った。」(p115)

 以下、過去の再録を3つ「遠州の遺跡・寺社」の「25」「26」「27」まで

「遠州の遺跡・寺社 25 天竜区の光明山古墳を暑いなか…
2010年08月17日 05時14分57秒 | 遠州古代史

 二俣にN子さんと車で出かけたので、ついでに、以前から行ってみたかった光明山古墳(こうみょうさんこふん)と光明寺を見に行きました。

 土地勘はないので、天竜区役所(建て替え中)から少し東という感覚で、最初入っていった谷間は、現地の山の西側の谷で、間違いでした。

 もう一度、谷間に入った道に戻って目の前に見える山の東側へ回りました。「光明寺」と書いてあったので山裾を巡る道を、車で上へ上りました。

 光明寺へ登る階段を見つけたので、空き地に車を止めて、二人で北へ登ろうとして、南側を見たら、なんとそこに「光明山古墳」の看板が立っていました。
 あ!これだ!
 これが新浜松市内で最大の古墳なんですね。
 
 古墳らしく整備されているのではないので、看板がなければ、樹木のおいしげる、たんなる山です。
 たしかに、周りの谷を見下ろす尾根の頂点にあるので、きちんと整備して古墳の前方部に立てるようにしてもらえば、この位置の重要性が感覚出来ると思います。

 南北の方向の前方後円墳で、長さ82メートルは浜松市内で最大で、後円部は直径42メートル、高さ8メートルです。
 
 なんで、平野に出たもっと南ではなくて、天竜川が平野に出る直前の山の上に、浜松市内最大の前方後円墳があるのかという問題です。

 やはり、これは、長野県に分岐した出雲勢力が天竜川を南下したことからくるのではないでしょうか。
 つまり、南から海から来た古墳ではなく、北側から天竜川を南へ下ってきた古墳です。

 浜松市の解説では、古墳時代中期の、5世紀後半の古墳のようです。
 この古墳を築いた二俣の古代豪族と、もっと南の天竜川に住み着いた豪族との関係を知りたいなと思います。

 ちょうど、ほかのご夫婦といっしょになって、そのご夫婦も、いっしょに浜松の古墳を回っているそうで、浜松の古墳談義に花が咲きました。
 蛭子森古墳や内野古墳群は行ったそうですので、ぼくのおすすめは「入野古墳は、頂上から下の平野が見れていいですよ」と話しました。
 こういう古代史マニアがもっと増えるといいですね。」


「遠州の遺跡・寺社26 天竜区の光明寺と光明山古墳
2010年08月20日 05時12分48秒 | 遠州古代史

 「遠州の遺跡・寺社25 天竜区の光明山古墳を暑いなか…」で書いた光明山古墳のすぐ北側の階段を上っていくと、光明寺の境内です。

 目の前に、大きな「大黒堂」があって、まさしく金色のお顔の巨大な「大黒様」がニコニコして座っていらっしゃいました。
 どうみても、藤子不二雄さん(どっちか忘れました)のマンガの主人公です。いま、あのおじさんの名前が出てきません。年ですねえ。思い出したら、加筆します。

 やはり山伏さんや修験道とも関係する山岳寺院なのでしょうね。
 右に(東に)ある社務所でN子さんが何か買っているので、ぼくも行って、聞いてみました。

 「上の方にあるあの寺院はなんですか?」
 「ああ、あそこが、ここのご本尊さまの摩利支天さまですよ」
 「へえ、でもこの暑さじゃ、登っていくのはきついですね」
 「そうですね、ぜひ涼しい季節においでください」
 「はあい、秋になったらまたきますね」

 その摩利支天さまですが、かなり複雑な性格のようで、調査研究します。

 今日書きたいのは、その光明寺と光明山古墳の関係です。
 つまり、光明寺へ登っていく階段を望む位置に、なぜ光明山古墳があるのでしょうか。しかも、光明山古墳は、南北方向なので、被葬者の豪族の遺体は南北向きに寝かせられたとみるのが妥当な線でしょう。

 光明山古墳に埋葬されている5世紀の天竜の支配者・族長と、光明寺の関係が問題なのですが、古墳とお寺とどっちが先であるにしろ、古墳に埋葬された支配者(男女かは不明)が、死後に神仏に参拝するとすると、ちょうどいい位置に階段があって、ということになります。

 ふつう、考古学者と宗教学者を兼ねる人は、たぶん、いないので、こんな話を書く人も少ないかなと思いますが。
 
 ぼくは、やはり、光明山古墳の被葬者(浜松市内で最大の古墳を築いた本人)が死後も神仏に参拝することを想定して、光明山古墳と光明寺の位置が決まったのだと思います。

 もちろん、光明寺はむかしはもっと奥の「光明山」にあったり、という歴史がありますが、基本線は変わらないと思います。

 もう一つ、同じような実例をあげておくと、東区の羽鳥八幡神社と蛭子森古墳です。
 同じように、南北向きの羽鳥八幡神社の参道を延長すると、道の向かいの蛭子森古墳につきあたります。
 しかも、円墳ですが、遺体の向きは南北向きです。
 
 寺社と古墳の関係で、これほど明確ではないですが、近接して同一地内にあると解釈できるのが、浜北の六所神社と興覚寺後古墳、中区の蜆塚遺跡の蜆塚古墳と山神社です。

 六所神社は南向きで興覚寺後古墳は東西、蜆塚古墳は円墳で山神社は東向きということで、その意味はもうすこし考えます。」


「遠州の遺跡・寺社27 天竜区二俣・光明山古墳の続き
2010年08月23日 04時56分11秒 | 遠州古代史

 『天竜市史 上巻』(天竜市役所編集・発行、1981年)の「原始・古代編」の第2章「古代の天竜市域」の「第1節 光明山古墳」と「第2節 天竜市の古墳群」で、139ページから170ページまで、光明山古墳を始め、天竜市内の47の古墳(うち現存は39基)を解説しています。

 145ページで以下のように推理しています。

 「光明山古墳に葬られている人が、生前どこに住んでいて、どれ位の範囲に勢力を張っていたかよくわからないが、この古墳を作らした次の首長とその取り巻きは、山東一帯、例えば八幡遺跡や上市場遺跡あたりに居を構えていたのではないかと思われる。
 そして、その勢力範囲は、後の古墳群のあり方から見て東は、豊岡村野部あたりまで、西は浜北区根堅から宮口あたりまでと考えられる。
 とすれば、それは天竜川三角州地帯の頂点に位置するわけで、天竜川の水利権を掌中にした一大勢力ではなかったかと考えてみたくなる。」

 生前どこに住んでいたかはともかく、その勢力範囲についての考察は妥当なものではないだろうかと、思います。

 つまり、通常、いまの天竜区と浜北区に分けて、以前で言うと天竜市と浜北市に分けて考えてしまうのっが普通の思考法なのですが、この光明山古墳の主は、天竜区を南へ越えていまの浜北区の範囲まで掌握し、「天竜川の水利権を掌中」のものにしていたというのは妥当でしょう。

 さらに推理するなら、その後、この「水利権」は誰かに奪われたと推理すべきでしょう。
 この点については「遠州の遺跡・寺社」の別項で推理したいと思います。

 そして、光明山古墳付近での古墳造営は断絶したと見て良いのでしょうか、それとも細々と続いていたのでしょうか。」

 


古代ブログ 112 秋田の温海山(あつみやま) 20191117

2019年11月17日 16時16分29秒 | 遠州古代史

古代ブログ 112 秋田の温海山(あつみやま) 20191117

 偶然読んでいた『芭蕉連句集』(岩波文庫、中村俊定・萩原恭男校注)にこういう発句があった.元禄2年の項です。

「三四 温海山や(曾良俳諧書留)
  出羽酒田 伊東玄順亭二而
 温海山や吹浦かけて夕涼 翁」(p114)

 翁というのは芭蕉のことでしょう。発句の漢字にふりがなをつけてありましたので、やっとボクも気がつきました。これは安曇族の「あつみ」なのだと。

 「温海山(あつみやま)や吹浦(ふくうら)かけて夕涼(ゆうすずみ)」

 この本では「温海山」「吹浦」に注釈が次のように書かれています。

 「温海山 ー 山形県酒田市の南約四十キロの海岸近くにある山」「吹浦 ー 酒田市の北、飽海郡遊佐町付近の海岸。温海山に「暑し」、吹浦に「吹く」を掛ける。」

 しかし、これが安曇族の「あつみ」であれば、温海山は本来の読みが「あつみやま」なので、それに漢字の「温海山」をあてはめたのにすぎません。

 それがボクの説に過ぎないにしても「あつみやま」の名称が古代海人の安曇族から出ている可能性を言わないのは、どういうものか。

 安曇族は九州が故郷で、愛知県渥美半島や、長野県安曇野をはじめ全国にその足跡は知られています。

 ボクのまわりにも渥美さんという人はいますね。

 


雨宮日記 2019年11月16日(土) 戦争遺跡ガイド

2019年11月16日 17時28分32秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 2019年11月16日(土) 戦争遺跡ガイド

 ある組合の若い人たちの「戦争遺跡マイクロバスツアー」ガイドを頼まれてやりました。

 2年ぶり、右半身不随になってから2度目の車椅子での戦争遺跡ガイドです。

 行ったところは、半田山トーチカ、豊岡町掩退壕(飛行機シェルター)、第1航測連隊跡地、航空自衛隊広報館。通ってガイドしたところは毒ガス部隊の門柱、朝鮮人の人を働かせて作った長池、航空自衛隊浜松基地。

 お昼の天丼もおいしかったです。

 

 写真は小豆餅の第1航測連隊跡地です。