雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮家の資料 10 福男さんの短歌「梅雨」 20210706

2021年07月06日 09時33分51秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の資料 10 福男さんの短歌「梅雨」 20210706


 わが家にあった古い雑誌『落葉松』に掲載されていたおじいちゃんの短歌です。できたら中谷福男さんの短歌をすこしづつでも掲載していきたいと思います。




「   梅  雨    中谷福男


長雨はやうやくはれぬ向つ山樹立どよもし風過ぐるなり


軒並めし鉢朝顔はいやしげに葉生ひ茂りて今日も降る雨


垣の外にひくくしたたる柿の枝の粒ら實靑し今日も降る雨


今日もかも雨やふらなな枕邊にひびく海なり大きかりけり


ころころと朝田(あした)の面に鳴きかわす蛙の聲はともしろきかも


雨はれて朝さやけし鈴懸の瑞葉つらなめ飛ぶつばくらめ


風のむた樹立どよもし吹くなへにそがひ松山月傾きぬ


はしきよしまがきの外に童等は我汽車を見て手をあげいけり


梅雨はれの若葉深きにこもりなくみどり児の聲大きかりけり
             ー 友の家に出産あり ー」



雨宮家の資料 9 福男「「谷島屋タイムス」とその作品群」 1957年 20210201

2021年02月01日 10時42分40秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の資料 9 福男「「谷島屋タイムス」とその作品群」 1957年 20210201

 「浜松ペンの会」という会で出した同人雑誌『麥 No.5』が手元にあります。「麥」という漢字を見て、ボクは読めなくて「きび」と読んでしまったのですが、国語辞典ではわからないのです。


 しかたなく電子辞書の漢和辞典の手書きページで調べて読みは「ばく」、つまり「麦」だと判りました。現代人のボクとしては、雑誌のどこかに「BAKU」と書いて欲しいです。


 発行は昭和32年、1957年7月20日、編集人は菅沼八十一さん。「浜松ペンの会」は、50ページに「会則」と「同人名簿」、32人の同人が載っている。


 このなかを見ると、祖父福男さんの「「谷島屋タイムス」とその作品群」という文章が6ページから9ページまで掲載されています。


 中身はいずれ全文紹介したいと思います。


 さらに表紙裏の広告ページには左下に「林泉書房 浜松市新町91 電(呼出)2189 出張所・追分町市バス停前」という、うちの広告が載っています。


 ボクが小学校高学年のころ、夏休みに静大工学部へ兄と虫取りに行って、その帰り、おばさんがやっていた追分の出張所に行って休んだ記憶がある。


 この出張所がいつからいつまであったのか、現時点ではわからない。なんとか調べてみたい。


なお「いろりの火」という短いエッセイを書いている「栗原勝」さんは後の浜松市長さんと同一人物なのかは知らない。






雨宮家の資料 8 節三『日記』 1970年~1979年 20210131

2021年01月31日 16時01分48秒 | 雨宮家の歴史


雨宮家の資料 8 節三『日記』 1970年~1979年 20210131


 祖父・福男の日記も父・節三の日記もいくつもあります。


 これは、そのなかの1冊です。1970年(昭和45年)から1979年(昭和54年)に書かれた日記で、1マスが横5cm7mm、縦3cm7mmです。


 たとえば「1979年(昭和54年)7月4日(水)は「くもり時々小雨、冷【?】こすぎる。西来院8時くる(¥2000)。午前、平老■、中■■。午後1時半~3時、工、浜工、医大、城北工、髙■■、工試、フジタケ。夕方■■、医大請求書、6■」


 だいぶまだ判読不能のところがあります。判読不能は■で表示してあります。「工」というのは静大工学部、「工試」は繊維試験場のことです。


「西来院8時くる(¥2000)」というのは朝8時に西来院(せいらいいん)の坊さんが自宅に「宅施餓鬼読経」に来たということです。日記の同じページに西来院からの7月1日付け消印のハガキがはさんでありました。





雨宮家の資料 7 節三『落葉松』 2013年 20210127

2021年01月27日 14時02分07秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の資料 7 節三『落葉松』 2013年 20210127


 父の書いた雨宮家の伝記で、第1の基本資料です。2013年5月1日に、兄妹3人で出資しあって、ぼくが編集しました。


 費用を安くするため印刷原稿を一太郎でぼくがつくり、ネットで印刷会社を見つけてつくりました。


 A5版、253ページ、非売品。


 その後、この「雨宮智彦のブログ」に全文を連載し、これはいまでも読むことができます。


 ぼくのところに、少部数ですが在庫があります。




 以下はその目次。




 「目次


Ⅰ 自伝 戦前編


  落葉松
  はじめに(記憶)


   第一部 わが家のルーツ   


  Ⅰ 1  父の誕生
  Ⅰ 2  祖父の上京
  Ⅰ 3  中谷家の誕生
  Ⅰ 4  陸軍被服廠
  Ⅰ 5  日清戦争
  Ⅰ 6  東京開成中学校
  Ⅰ 7  谷島屋書店
  Ⅰ 8  アララギ
   第二部 生い立ちの記

  Ⅰ 9  母のこと
  Ⅰ 10 下垂
  Ⅰ 11 孝男叔父
  Ⅰ 12 祖母の影
  Ⅰ 13 広沢.町
  Ⅰ 14 西来院
  Ⅰ 15 谷島屋別荘
  Ⅰ 16 浜松工業学校
Ⅰ 17 林泉書房
  Ⅰ 18 鮮満修学旅行
  Ⅰ 19 徴兵検査
 
   第三部 在鮮記


  Ⅰ 20 軍需工場
  Ⅰ 21 召集
  Ⅰ 22 入隊
  Ⅰ 23 南鮮へ
  Ⅰ 24 敗戦
  Ⅰ 25 特別警察隊
  Ⅰ 26 釜山埠頭勤務隊
  Ⅰ 27 安養勤務隊
  Ⅰ 28 復員引き揚げ
  Ⅰ 29 回帰点
 Ⅰ 戦前編 あとがき


  Ⅱ 自伝 戦後編1
   
   第四部 山口県光市


  Ⅱ 30 朝日塩業
  Ⅱ 31 山口県光市
  Ⅱ 32 塩の歴史
  Ⅱ 33 枝条架
  Ⅱ 34 結婚
  Ⅱ 35 中村住宅二二六号
  Ⅱ 36 長男と次男の出生
  Ⅱ 37 台風


第五部 肉親を送る


  Ⅱ 38 母を送る
  Ⅱ 39 長兄の戦時死亡宣告
  Ⅱ 40 長姉の空襲死

 第六部 戦後の始動


  Ⅱ 41 バラック住宅
  Ⅱ 42 林泉書房の再開
  Ⅱ 43 閉店

 第七部 老人性痴呆


  Ⅱ 44 十軒町
  Ⅱ 45 うつ病
  Ⅱ 46 一番はじめは
  Ⅱ 47 入院
  Ⅱ 48 巣鴨刑務所

 第八部 前立腺ガン


  Ⅱ 49 ガンの発覚
  Ⅱ 50 膀胱の手術
  Ⅱ 51 ストレス
  Ⅱ 52 ガン雑感
  Ⅱ 戦後編 あとがきー月の沙漠


Ⅲ 後編 文芸評論
 Ⅲ 1 「引馬野の歴史的、地理的考察」
      序
一、大宝二年(七〇二年)
二、参河行在所
三、引馬野と榛
四、持統太上天皇
結び
 Ⅲ 2 和田稔著『わだつみのこえ消えることなく』
 Ⅲ 3 戦後文学は古典となるか
 1 はじめに
 2 戦後文学
 3 野間宏
 4 武田泰淳と堀田善衛
 5 大岡昇平
 6 島尾敏雄
 7 梅崎春生
 Ⅲ 4 雪腸と子規 ー浜松詩歌事始 上編
 Ⅲ 5 左千夫・茂吉と城西  ー浜松詩歌事始 中編
 Ⅲ 6 大正歌人群 ー浜松詩歌事始 後編


編者あとがき」


雨宮家の資料 6 福男『歌界写真』 昭和四十四年~四十七年 20210126 

2021年01月26日 20時07分47秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の資料 6 福男『歌界写真』 昭和四十四年~四十七年 20210126 


 おじいちゃんの書いたタイトルは『歌界写真』となっているが、たぶん趣旨から言えば「歌会写真」と言ったほうがいいと思う。


 21ページほどの写真帳で、歌会後の記念写真や皆合でのスナップ写真がはりつけてある。


 昭和四十四年~四十七年なので、西暦で書くと1969年から1972年。


 また機会をみつけて、ひとつひとつ検証したい。







雨宮家の資料 5 節三『福男 昭和二十年 高畑疎開日記』 1981年 20210125

2021年01月25日 17時04分31秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の資料 5 節三『福男 昭和二十年 高畑疎開日記』 1981年 20210125


 おじいさんの福男さんたちが浜松の6・18浜松大空襲で住んでいた新町を焼け出され、北浜村高畑(たかばたけ、現浜北区)に疎開した時の日記です。


 B6版、55ページ。


 父が1981年8月にガリ版で発行したものです。原文のカタカナをひらがなに改めています。


 6月23日に始まって翌年1月14日でガリ版は終わっていますが、「高畑疎開日記は新町に再開する5月15日まで続きます」(p52)と書かれています。いま、もとの日記が残っているかどうか、わかりません。








雨宮家の資料 4 節三『福男歌集目録』発行年不明 20210124

2021年01月24日 15時30分37秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の資料 4 節三『福男歌集目録』発行年不明 20210124


 父がガリ版で印刷してホッチキスでとめた資料だと思われる。B6版。18ページ。発行年不明


 最初に「(序) 福男が蒐集した歌集および歌論関係の書籍・雑誌?を整理しました。戦災で焼失したものもあって不完全ですが一応現在残ってゐるもののリストです。」とあります。


 目次は以下のとおりです。


 「(一) 島木赤彦
  (二) 岡麓
  (三) 中村憲吉
  (四) 斎藤茂吉
  (五) 土屋文明
  (六) アララギ派歌集
  (七) 歌論
  (八) 文庫
  (九) 全集
  (十) 雑誌
   ① アララギ
   ② 犬蓼
   ③ 短歌
   ④ 月刊静岡アララギ
   ⑤ 短歌研究
   ⑥ 短歌現代
   ⑦ 一般誌
   ⑦ 地方誌」


 祖父が亡くなったころから、そう遠くない時期に作られた資料と思われますが、いまこの目録に上げられたもののうちどれくらいの文献が手元にあるか、実際に調べてわかったらお知らせします。








雨宮家の資料 3 節三『図書館で借りた本の目録』 1989年~2009年5月 20210123

2021年01月23日 16時07分45秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の資料 3 節三『図書館で借りた本の目録』 1989年~2009年5月 20210123


父が浜松市立中央図書館で借りるため、つけていた借りた本の目録。本屋のお客さんから予約をとるための本の見本の白本に書かれている。


 1989年8月に始まって、2009年5月に終わっている。


 このころ父は、たぶん自転車で自分で松城の市立中央図書館までいっていたような気がする。






雨宮家の資料 2 福男『備忘日記』 1949年8月1日から1950年12月31日  20210122

2021年01月22日 16時31分59秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の資料 2 福男『備忘日記』 1949年8月1日から1950年12月31日  20210122


 ボクの祖父、福男(とみお)さんの日記。表紙に赤鉛筆で「24年8月1日ー25年12月31日」と書いてあるところは父の字かなと思う。祖父は日付でも漢数字を使っていて洋数字ではないから。


 裏表紙に「國文館」と書いてあって林泉書房で売れ残った日記を使ったのかも知れない。


 この頃は父は山口県光市にいたころで日記には出てこない。


 最初の日の記述、不明字は△、【 】内はボクの注。


 「昭和二十四年八月一日 晴 起七. 寝九.三〇 午前、工試【工業試験場】へ行キ△△△。廿三人【23人】△入帳。 △△、菊男キブネ△ はるみへ友人二名来訪。」


 解読に時間と知恵がいるので、今日はこれだけ





雨宮家の資料 1 節三『釜山埠頭日誌』 1946年 20210121

2021年01月21日 20時48分02秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の資料 1 節三『釜山埠頭日誌』 1946年 20210121


 家に残っている父・祖父などの日記・メモ・資料を少しづつ紹介していきます。できたら全文を掲載できるようになりたいです。


 父・節三は日本の敗戦時、平壌で徴兵され南朝鮮にいたためシベリア送りを免れましたが、1946年4月まで釜山で残務整理にあたりました。父が23才から24才の頃です。


 手書きの実物の当時の日記が残っているので、いずれ全文を公表したいと思います。


 今日は紹介だけです。


 現物はタテ19センチ×13.5センチ。24ページ。


 さいしょの半分は、1月14日から4月12日までの日記ですが後半はかなり書かれた日がまばらです。


 あとの半分は当時の流行歌や英語の歌が書かれていて、釜山滞在時に書かれたものか、浜松へ帰ってから書かれたものかはわかりません。


 表紙に「釜山勤務隊 本部 中谷節三」とあり、裏表紙には「福岡縣二日市町 朝鮮軍残務整理班 釜山軍連絡部」と書いてあります。




 












雨宮家ノート 2 山口県光市での父の写真 20200318

2020年03月18日 10時30分17秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家ノート 2 山口県光市での父の写真 20200318

 則子さんが父の部屋を片付けていて、古い写真を見付けてくれました。

 全体としては戦前のものらしいのだが、その一部はボクが生まれる直前のものらしい。今日、紹介するのは1949年に撮影した写真だと思います。それは現像した写真館の日付があったので。

 若いころの新婚のころの父の写真だと思う。

 35ミリのフィルムではなく、手札(てふだ)版の長方形の1枚のフィルム。もちろん、モノクロの反転ネガなので、友だちの力を借りて反転させました。

 たぶん撮影したのは1枚入れて撮影して、という写真機だと思う。家に写真機があったのか?買ったとすれば、いくらくらいだったのか?詳しいことは不明、もっと調べてみます。

 背景はたぶん山口県光市の借家で新婚の父母が住んだ家でう。この2年後にボクが生まれることになるはずです。

なお「雨宮」はボクのペンネームなので実名は当然、違います。


中谷福男 断片 ① 「土(つち)のいろ」

2018年07月08日 16時32分10秒 | 雨宮家の歴史


中谷福男 断片 ① 「土(つち)のいろ」

 中谷福男(なかたにとみお)はボクの祖父です。父の連載した『落葉松(からまつ)』の補遺として、すこし気のついたことを書いていきます。

 福男おじいちゃんは最初は谷島屋に勤め、後に自営の本屋を始めました。歌人でもあります。

 ボクが昔買った『土のいろ 復刻版』に福男おじいちゃんのことが1個所で載っているのは気がついていたけど、今『土のいろ集成 索引』が出てきて、それによれば多に3個所載っている。

 ただし「中谷」の読みが「なかや」になっているので「なかたに」で探すと見落とす場合がある。「p192」のいちばん上に「中谷福男」は掲載されている。

 そこに「⑤ 273 274、⑨ 352 403」と書かれている。

 「総目次索引」の方で見てゆくと、以下の通りです。

 「第五巻(復刊の) 第八巻第七号

  井戸に関する報告ー位置・構造・俗信等
   2 浜松市広沢町の一例 中谷福男 273
   3 磐田郡光明村船明(ふなぎら)地方の一例 中谷福男 273
   4 磐田郡光明村百古里の一例        中谷福男 274」

 「浜松市広沢町」というのは戦前、中谷家がいたところだし、「磐田郡光明村船明(ふなぎら)地方」というのは中谷家が出身の所です。

「百古里」というのは今は分かりません。

 それから「第九巻(復刊の) 復刊第七号

  鄕土関係書目  中谷福男  352」

 それに「復刊第八号

  新町の御地蔵様 中谷福男  403」

 新町は林泉書房が最初に店を出したところで、今は「中央何丁目」かになって消滅してしまいました。

 


『落葉松』補遺 2 YS-11松山事故

2017年10月12日 11時54分07秒 | 雨宮家の歴史

 

 『落葉松』補遺 2   YS-11松山事故

 私が生死の境を味わった二回目は飛行機事故である。昭和四十一年(一九六六年)の秋だった。長男は、来春の大学受験を控えて勉強中だった。

 本屋の同業組合の親睦旅行を、その年は初めて飛行機を利用して、松山の道後温泉へ行くことにした。あいにくと朝から雨であった。
 大阪まで新幹線で、伊丹空港から飛行機に乗るのであるが、雨が強くて欠航があり、飛行機のやりくりがつかないと見えて、待合室で待つこと予定より半日も遅れていた。
 日曜日で大安であったので、新婚らしい若い人々で華やいでいた。やっと乗れるようになったのは午後三時頃であった。まだ雨は降っていた。
    
 家では夕食も済んだ午後七時ごろ、長男は二階でラジオを聞きながら、受験勉強をしていた。
 突然、ラジオがニュースで「松山空港で飛行機が墜落した」と報じたので、長男は階段を転げるように降りた。
 「飛行機が落ちた!松山でYSー11が落ちた1」

 ちょうど家内の母が来ていて話に興じているとろだった。さあ、それからが大変だった。
 組合長の奥さんから、
 「現地に電話するのだが、なかなか通じないので、もう少し待ってください。」
 その後、
 「ホテルには、まだ入っていないそうです。」 という連絡があった時は、誰も声を出す者はいなかった。家内の母は、
 「私は悪いところへ来てしまった。」
 と、オイオイ泣き出した。長男も、大学はあきらめるしかないだろうと思ったそうである。

 しばらくして、「全員、ホテルへ着きました。」という連絡が入った。家内も縮まった生命を伸ばすことができた。家内の母は、ショックからか、私の帰りを待たず、翌日早々に帰京してしまった。
 私たちの乗った飛行機は、国産プロペラ機のYSー11で、落ちたYSー11は私たちの便のすぐ一便後に着陸しようとして失敗した。
 四五人乗りで、滑走路の短い地方航空向きの飛行機だった。天気が良ければ一時間の空路が、この日は一時間半かかり、安全ベルトは遂に降りるまで外すことは無かった。時々、エアーポケットに入ってガクンと落ちたりして、大丈夫かなと思ったものだった。松山空港へ着いた時は、もう薄暗く、雨は余計ひどく、風も強かった。

 私たちの乗ったYSー11は、海側から滑走路に入り、山際の手前で止まった。飛行機は風に向かって着陸するので、次の便は、山側から海側に向かって降りたが、滑走路いっぱいでも止まれず、又舞い上がって着陸をやり直そうとして、風にあおられたか失速して海に突っ込んだ。

 私たちはホテルに着いてから、テレビで事故を知った。私は、すぐに家に、確かに私が生きていることを電話して、安心してもらった。
 運命の分かれ道がどこにあるか知らないが、今度も地獄門まで行きかけて戻ってきた。家内は過去に車事故と、飛行機事故と二回もショックを味わっている。いつも口ぐせに、
 「あなたには貸しがあるわよ。」と言っていた。その貸しを、家内の介護で返すことになるとは夢にも思わなかった。

 

 

 

 


『落葉松』補遺 1 交通事故で「意識不明の重態」

2017年10月09日 11時29分31秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』補遺 1 交通事故で「意識不明の重態」

 私(注:節三)は以前、二回静止の境をさまよったことがある。一回目は昭和三十六年(1961年)だった。交通事故であったが、私が被害者で「意識不明の重態」であった。

 六月の昼過ぎ、私は自転車で広沢の西来院(せいらいいん)裏の道路を北に向かっていた。蜆塚幼稚園より東進して来たオートバイと出会い頭に衝突したのである。

 私は、はねとばされて道の反対側の側溝に頭をぶつけたものと思われるが、事故の時の状況は私は一切、覚えていないので、あとで警察の調書づくりのとき、警官より聞いてわかった。

 元城町の山田病院に救急車で運ばれた。意識不明だったから、私は一切知らない。
 家の前を救急車が坂を下っていったと、後で家内は言ったが、電話が入った時、家内は一歳になった娘をおぶったまま、室の中をぐるぐる意味も無く廻ったそうである。

 病院へ来てから、動転している家内は横になっている私を見て、起こそうとし、
 「あなた、あなた。」と顔へ手をやろうとした。看護婦に、
 「あ!駄目、駄目、動かしては駄目、さわっちゃ駄目よ。」と叱られた。
 「今はね、じいっとさせとなかくては駄目よ」
 もしもの場合を考えた家内は、中、小学生の息子二人と一歳の娘をかかえて、どうしたらいいのだろうと思ったが、それ以上には考えられなかったと後で言っていた。

 私は、医者が傷口を洗っているか、何か神経にさわって一度気がついたのを覚えているが、そのあとは知らず、医師が戻ったのは夕方であった。
 頭を打って、少し切った傷口があって血が出たのがよかった。頭部内出血で、脊髄液をとると、赤く濁っていた。
 オートバイの加害者は、高校を出たての青年で、その母親が毎日病室に来て涙ながらに、家内に謝るのであった。
 「こんな小さいお嬢さんがあるのに。」

 夕方、意識を回復した私は、そのあとは割合早く治って、じっとして動けない毎日であったが、二週間ほどで退院することができた。脊髄液もきれいになっていた。
 配達先のある学校の先生は、こう言った。
 「なんだ君、生きていたのか。死んだのかと思ったよ。新聞に重態と出ていたからな。」

 後年、孫とよくこんな話をした。
 「おじいちゃんはね、地獄まで行ってきたのだよ。」
 「地獄!鬼がいたでしょ。」
 「えんま様がね、おじいちゃんんが来るには早すぎる。帰れ!帰れ!というもんだから、帰って来たのさ。」
 「ほんとに、えんま様がいたの?どうして、おじいちゃんは天国に行かなかったの?」

 

  <  「補遺 2」へ続く > 


『落葉松』 ㉗

2017年09月26日 19時15分27秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』 ㉗
 

初出一覧

 『落葉松 ー私の自分史ー』いずみ印刷、平成一五年(2003年)三月、77p
 『落葉松 ー私の自分史・戦後編ー』いずみ印刷、平成一六年(2004年)四月、61p
 「引馬野の歴史的、地理的考察」平成四年(1992年)「市民文芸37号」p78~86、
 「和田稔著『わだつみのこえ消えることなく』平成六年(1994年)、静岡新聞社「文庫による読書感想文コンクール
 「戦後文学は古典となるか」平成一九年(2007年)「市民文芸52号」p115~125
 「雪腸と子規 ー浜松詩歌事始 上編ー」平成二一年(2009年)「市民文芸54号」p147~155
 「左千夫・茂吉と城西 ー浜松詩歌事始 中中編ー」平成二二年(2010年)「市民文芸55号」p177~184
 「大正歌人群  ー浜松詩歌事始 後編ー」平成二三年(2011年)「市民文芸5  6号」p141~148 



 編集後記

 父が今年三月三日で九十才を迎えました。九十才の記念に、これまで父が書きためた自分史と文芸評論を一冊の本にしようと企画しました。子供たち夫婦三組(兄夫妻、私たち、妹夫妻)で財政を分担して、次男の私が編集しました。
 なんとか一冊の本としてできあがりましたが、明治から平成に至る日本の近代史~現代史の中の父や中谷家の歴史、また浜松の短歌などの近代文芸史としても、まとまった叙述になったと思います。

 皆さんが、この本を読んだ感想などいただければ幸いです。
  
          雨宮智彦(次男)


落葉松 ー自伝と文芸評論ー
 
発行 2013年5月1日 第1版第1刷

非売品




 < 本編は、これで完結できました。付属の表は、掲載できたら掲載します。あと、祖父・福男についての当面の追加原稿を、すこし載せる予定です。 >