雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮智彦古代史メモリー 17 20200131 遠州の遺跡・寺社8 古代中国の土笛「ケン」と弥生の土笛

2020年01月31日 20時18分29秒 | 遠州古代史


雨宮智彦古代史メモリー 17 20200131 遠州の遺跡・寺社8 古代中国の土笛「ケン」と弥生の土笛

タイトル番号「遠州の遺跡・寺社8」が違っていました。正しくは「遠州の遺跡・寺社9」。

「遠州の遺跡・寺社8 古代中国の土笛「ケン」と弥生の土笛
2010年04月21日 05時32分10秒 | 遠州古代史

 浜松市の弥生時代を代表する全国的にも有名な遺跡が伊場遺跡です。
 その伊場遺跡で、弥生後期の地層から、土笛が1つ、出土しています。

 この「弥生の土笛」「弥生のオカリナ」は、実は、古代中国の殷王朝の時代の楽器で、出雲地方を中心に、弥生前期の日本海沿岸で遺跡から出土しています。

 正式名称は「陶ケン」と言い、「ケン」という漢字は、「土」へん+「員」です。

 口から息を吹き込む大きな穴が1つと、指で押さえるための表て4個、裏で2個の6つの小さい穴があります。

 出土しているのは、福岡県・山口県(下関市・綾羅木(あやらぎ)遺跡)・島根県(松江市・タテチョウ遺跡)・兵庫県(丹後町・竹野遺跡)などの10遺跡で40個余です。

 この土笛を、どういう祭りや祭儀で、どんなメロディーを吹いたのか、再現できないものかと思います。
 もとの「殷」のメロディーが再現できればいいのですけど。

 他の出土が弥生前期なのに、浜松市の伊場だけが弥生後期なのは、想像すれば、やはり、日本海文明「出雲文明」が、何らかの理由で崩壊したときに、そこから逃れて伊場まで「亡命」してきた「亡命者」が持ってきたのでしょうか。

 それとも、出雲から何らかの交易や交流で誰かが持ってきたものでしょうか。

 あるいは、出雲を征服した占領者が戦利品として持ち帰ったものでしょうか。

 古代中国の殷王朝と日本列島の交流という点では、もっと考察したいと思います。
 

雨宮智彦より お知らせ 2020年1月30日(木)

2020年01月30日 21時11分45秒 | お知らせ

雨宮智彦より お知らせ 2020年1月30日(木)

いまパソコンメールを久々に受けようとしてみたら、全く受信しないので、パソコンメールは今のところ使いません。あしからずご了解ください。

いまボクは、メールはスマホ携帯のSMSメールだけを使っています。

生活上、携帯電話にはあまり出ません。あまり近くにはいないことが多いです。

長文のテキストを送りたい方は、USBメモリーを実物でお渡しください。



雨宮智彦古代史メモリー 16 20200130 遠州の遺跡・寺社8 「井」の国、引佐町の支配者・井伊氏の謎 20100419

2020年01月30日 20時02分30秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 16 20200130 遠州の遺跡・寺社8 「井」の国、引佐町の支配者・井伊氏の謎 20100419


遠州の遺跡・寺社8 「井」の国、引佐町の支配者・井伊氏の謎
2010年04月19日 05時15分17秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社8 「井」の国、引佐町の支配者・井伊氏の謎

 引佐町の龍湛寺の駐車場から南へ出ると、道は道なりに西へ曲がっていて,西へ曲がったすぐのところに「井伊氏の井戸」の看板が出ていました。

 初めて来たボクは、運転している車を慌てて、左折して細い道へ入りました。すぐ左側にその「井伊氏の井戸」がありました。
 
 井伊氏の始祖は、1010年(寛弘7年)に、この井戸で生まれたという井伊氏祖・備中守共保です。

 井伊共資さんという人が、渭伊社参詣時に 井戸脇に常人に見えぬ神童を発見して、我が子とし、一女と婚せしめたのが井伊家始祖共保という伝説があります。

 井戸のところに書いてあった解説では「又、史説として、天日槍命(あめのひほこのみこと)三十二代三宅好用、醍醐天皇の延喜年間奈良より荘司として着任、この井戸の傍に居を構え、それより三代目の井端谷(いはたや)篤茂の娘が共資公に嫁し共保を生誕したとも伝えられます。三宅の家紋は橘であります」とあり、びっくりしました。

 天日槍命なら日本に渡来した新羅の王子で、明らかに、古代朝鮮の新羅系の人です。
 そうすると、もしかしたら、「橘諸兄」など「橘」氏は、新羅系でしょうか?

 思い出しましたが、引佐町の西隣りの三ヶ日町は、橘諸兄の子孫の橘逸勢が、伊豆国への護送中に、遠江国板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没しました。
 これも何か、井伊氏と関係あるんでしょうか?

 そこで病没したということは、そこで熱心に看病してくれた人たちがいるということだと思います。

 もうすこし「橘」氏のことも調べます。

 



雨宮智彦古代史メモリー 15 20200129 本と映像の森 29 奥野正男『鉄の古代史3 騎馬文化』白水社 20100413

2020年01月29日 15時53分08秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 15 20200129 本と映像の森 29 奥野正男『鉄の古代史3 騎馬文化』白水社 20100413

本と映像の森 29 奥野正男『鉄の古代史3 騎馬文化』白水社
2010年04月13日 05時57分06秒 | 本と映像の森

2000年1月20日発行、231ページ、定価2800円+消費税

 奥野さんが批判する、日本古代史の「定説」は以下の通りです。

 ① 戦後の日本古代史の通説は、戦前の「皇国史観」と古代天皇家が朝鮮南部を支配したという「任那日本府」説を表面的には避けて否定するように見えながら,実は、それを受け継いでいる。

 ② 3世紀の卑弥呼は大和(現在の奈良県)にいて、3世紀から南朝鮮を支配する日本統一国家が成立していた。

 ③ 高句麗の「広開土王」碑文の「倭」は、近畿天皇家・大和政権の派遣軍である

 ④ 倭国の鉄は、5世紀まですべて輸入にたよっていて鉄の獲得が、近畿天皇家の南朝鮮への軍事的遠征と支配の理由である

 ⑤ 5世紀の『宋書』に出てくる「倭の五王」は、近畿の天皇のことである。

 ⑥ 前方後円墳は、近畿天皇家が、日本列島の地域豪族に、設計を配布し、その造作を許可したものである。

 このような問題について、奥野さんは、考古学の解明した事実に基づいて、この当時の流れは、南朝鮮から日本列島へ流れていくのであって、その逆ではないことを明らかにします。

 3世紀からの近畿天皇家による南朝鮮の軍事的支配という虚構は、2010年の今は、崩れ去る寸前です。

 このことを雨宮智彦は、解明して、通説に反論していきたいと思います。」



雨宮日記 2020年1月28日(火) 12月の総がかり行動のビデオを創る

2020年01月28日 21時16分37秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 2020年1月28日(火) 12月の総がかり行動のビデオを創る

 昨年12月19日の浜松総がかり行動のビデオを創ってネットに「ピース浜松」で
アップする。18分。

 中国・武漢の肺炎はだいぶ増えてきた。ネットでいくうもフェイク情報・誤り情報・デマ情報が出ていることに注意。

 「致死率15%」は誤り。実際は「致死率3%」程度。「人類史上最悪」ではない。


雨宮智彦古代史メモリー 14 20200127 遠州の遺跡・寺社7 引佐町の龍潭寺の石庭(せきてい) 20100413

2020年01月27日 14時39分22秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 14 20200127 遠州の遺跡・寺社7 引佐町の龍潭寺の石庭(せきてい) 20100413 「遠州の遺跡・寺社7 引佐町の龍潭寺の石庭(せきてい) 2010年04月13日 05時19分57秒 | 遠州古代史  4月11日(日)に、龍潭寺にも行きました。ここは、「井の国」=今の「引佐町」をすくなくとも平安時代(あるいはもっと前から)から江戸時代までの地域豪族「井伊氏」の菩提寺です。  井伊氏の元祖・共保さんから40代の祖先をまつっています。  ちょうど本堂の工事中でしたが、有名な、小堀遠州さんが設計した「石庭」は見ることができました。  小堀遠州(こぼりえんしゅう)さんは、父親が豊臣秀吉の弟・豊臣秀長に仕え、遠州さんは茶の湯では、千利休さん→古田織部さん→小堀遠州さんという流れの宗匠です。  さらに、建築や庭造りにも才能を発揮したマルチタレントです。  この小堀遠州さんが企画・設計・監督した「石庭」は、龍潭寺へ来る前に見た「天白磐座遺跡」と多くの共通点があります。  ① 自然の中に、たくさんの石が散在していること。  ② 中心的な巨石がいくつかあること(天白磐座遺跡では、山頂の3つの石と西南の2つの石、龍潭寺石庭では両脇と中心の3つの石)  ③ 周囲に緑の森が茂っていて、鳥の声が聞こえること  ④ どちらも周囲に水が流れていること(天白磐座遺跡は神宮司川が、龍潭寺石庭は人工的な水の流れが)  ここからは推理なのですが、天白磐座遺跡では、小堀遠州さんの生きていた江戸時代まで、祭祀が続いています。   小堀遠州さんが、井伊家の当主の依頼を受けて、この「龍潭寺石庭」を設計したときに、地元の人あるいは井伊家当主さん自身から天白磐座遺跡のことを聞き、実際に、この天白磐座遺跡を見にいった可能性は大きいのではないでしょうか。  あまりにも類似点が多すぎます。  これ以上のことは、もっと小堀遠州さんのことを調べて書きたいと思います。」<


雨宮智彦古代史メモリー 13  20200126 遠州の遺跡・寺社6 天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡 20100411

2020年01月26日 21時00分18秒 | 遠州古代史


雨宮智彦古代史メモリー 13  20200126 遠州の遺跡・寺社6 天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡 20100411

 もはや右手右足マヒでは、あの裏山に登ることはできません。よって文献を調査するだけになりました。

 でも今は文献を読み直す時間がないので、過去の書いたメモリーを出しているだけです。


「遠州の遺跡・寺社6 天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡
2010年04月11日 21時32分18秒 | 遠州古代史

 今日4月11日(日)は暖かくて、N子さんと2人で、お弁当(おにぎり)を持って北区引佐町まで出かけました。
 
 今日の一番の目的地は「天白磐座遺跡」です。数年前に初めて行ったことがあり、今回が2回目です。

 渭伊神社の駐車場に車を止めて、「むささびがいます」という看板を見て、ゲートボールをしているおじいさん・おばあさんたちの横を通り、渭伊(いい)神社の境内に入りました。
 N子さんは、ぼくの神社趣味を知っているので別に驚かないのですが、「ここが何か特別な神社?」と怪訝な顔でした。
 N子さんの前に立って、渭伊神社さんの前で(今日は裏を見せてもらいますよ、よろしくと)拝んでから、神社の横をすり抜けて裏山に登っていきました。
 
 急な山を登っていくと、現われました。
 山の途中に、いくつもの大きな石が土の中から露出していて、山頂(標高は約42m)にはひときわ巨大な岩が3つ、とくに2つの石が大きく、その真ん中が空間になっていて、異様な空間です。
 「すごい、なにこれ」とN子さんも感嘆し「誰かがこれ運んできたの?」と言います。確かに、まるでダイダラボッチか誰かが、大きな磐を3つここに運んできて置いたみたいな状況ですが、それはないだろう、むしろ、逆に、誰かがこの位置に埋まっていた巨石を土の中から掘り出したのではないか、と思います。

 辰巳和弘さんなどが、この遺跡を発見し発掘調査をした結果、周囲の土の中から、古墳時代を中心に、縄文時代から江戸時代までの祭祀遺物が発見され、縄文時代から江戸時代まで続く祭祀遺跡であることが明らかになりました。

 おもしろいのは、3つの巨磐に囲まれた山頂部分には、古墳時代の遺物は見つからないことです。つまり、最盛期の古墳時代には、この3つの磐に囲まれた地は、立ち入ってはならない神聖な空間だったということになります。

 全国でも数少ない、遠州地方でも画期的な遺跡です。
 何よりも、この大きな磐やたくさんの岩と、森と山がつくりだす異様な、結界のような空間は、まさに神が降りてくるにふさわしい、一人きりではこわくなるような「異界」です。

 それにしても、これほど重要な遺跡なのに、ほとんど人は来ません。僕たちがいた時間帯も、中年の男性が1人来ていただけでした。まあ観光地化して、人がこの神聖な結界をけがしても困りますが。
 
 山頂から南西部の山裾のぎりぎり、もう向こうは神宮司川という地点にも大きな岩とそれに重なって少し小さい岩があって、「鳴岩」というそうです。
 これは山頂の磐とは違って、磐と磐のあいだがほとんどありません。
 こちらは、小さめの厚みの薄い磐は、もしかしたら、運べた可能性もあるのではないでしょうか。
 2つか3つの磐またはその磐と磐のあいだの空間を神聖視するという基本点は変わらないとすれば、そういう空間を作り出すために、小さめの磐を運んだという可能性も考えていいのではないかと、思います。

 もちろん、事実に基づく考察の範囲内である考古学では、そういう空想や推理は範囲外ですが、僕たちがそれに縛られる必要はもうとうないので、思いきり空想の翼を羽ばたかせたいと思います。

 この山のすぐ北と西を青い水の神宮司川(じんぐうじがわ)が流れていて、まさに「引佐」町は、土着豪族の「井伊(いい)氏」が支配してきた「井(い)」の町であり、同時に「石(いし)」の町であることを痛感します。

 参考文献としては、辰巳和弘さん著『聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』<シリーズ「遺跡を学ぶ」033>、新泉社、2006年12月2日発行、定価1575円が一番でしょうか。

 もちろん、正式の発掘報告書も出ています。辰巳和弘さん編で『天白磐座遺跡』引佐町教育委員会発行、1992年刊、です。
 浜松市に問い合わせれば、まだ在庫があるかもしれません。私は数年前に旧引佐町役場で買いました。

 なお「磐座」という言葉がここで使われたかどうか明確でないことから、「渭伊神社境内遺跡(いいじんじゃ けいだいいせき)」と呼ぶ人もいます。

 蛇足ですが、木谷恭介さんが『遠州姫街道殺人事件』というのを祥伝社から出しています。まだ読んでいませんが、手に入れて読んだら「本と映像の森」にアップします。

 さて、まだ問題があります。それは「天白(てんぱく)」という地名です。この「天白」とは、静岡県から三重県にかけて「天白神社」という神社が分布していて、その関係かとも思います。
 中区十軒町のわが家のそばの上島5丁目にも「天白神社」があります。この「天白神社」について調べると、何か「天白磐座遺跡」の謎に一歩近づけるかもしれません。

 それと、やはり日本全体での、磐座信仰・岩信仰を調べないといけないということでしょうか。

 さっき書いた「井の国」と「石信仰」の結びつきという点では、やはり注目すべきは、あの有名な北九州の「磐井の乱」(乱なのかどうかは異説が出ていますが)の「磐井(いわい)」でしょう。
 記紀では、近畿天皇家に反抗した地方勢力で北九州の王、ということになっていますが。
 まさしく、水と石の信仰を体現した名前です。
 これ、どういうことなんでしょうか。

 半日の歴史ツアーから帰ってきて、上島の行きつけのコーヒ-(雨宮は)や紅茶(N子さんは)のおいしい喫茶店「シーン」で、N子さんいわく「自分の地域にいろんな,おもしろいものがあるのね。」
 これから暇を創って、いっしょに地域の歴史を回ろうという話になりました。

 今日の話の続き、まだアップします。
 次は「石庭」です。」

 


雨宮日記 2020年1月25日(土) またブログ更新を忘れた

2020年01月25日 09時41分23秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 2020年1月25日(土) またブログ更新を忘れた

 今朝は7時に起きる.9時すぎにパソコンを開いて、ネット接続した。あれ?昨日、更新してないや。

 毎日、短時間でも雨宮日記だけでも書いておくつもりだったが。あまりに熱中していたらしい。まあ、いいことだけど。

 中国は「春節」、つまり新年の休暇。

 中国・武漢では交通封鎖が始まった。飛行機・鉄道が停止らしい。完全封鎖なんてできないと思うけど。アホな強権的中国政府ならやるかな?これ、第2のまちがいだと思うけど。


雨宮智彦古代史メモリー 12 20200125    遠州古代史3 銅鐸・さなぎ・猿投・佐鳴湖 20100329

2020年01月25日 09時28分28秒 | 遠州古代史

 

雨宮智彦古代史メモリー 12 20200125    遠州古代史3 銅鐸・さなぎ・猿投・佐鳴湖 20100329

[「遠州古代史3 銅鐸・さなぎ・猿投・佐鳴湖
2010年03月29日 20時50分29秒 | 遠州古代史

 日本の古代「弥生時代」には、祭りや政治で使われた金属器に、銅鐸・銅矛・銅剣などがありました。
 問題はこの銅鐸です。
 当初は九州などの西日本で出現しますが,次第に東へ移動して、出雲や近畿地方・東海地方で主に出土します。

 出雲の加茂岩倉遺跡でいっきょに39個の銅鐸が出土して、出雲は50個、奈良県は16個ですから、数だけで言えば銅鐸の分布の中心は出雲ということになりますが、簡単には言えません。

 近年では関東地方でも出土し始めたので、関東も銅鐸圏にしないといけないですね。

 弥生時代後期に、遠州地方でも多数出土し、とくに都田川下流域は「銅鐸の谷」とも呼ばれています。

 この銅鐸を「さなぎ」「猿投(さなげ)」との説があります。

 「さなぎ」はもちろん昆虫の蛹(さなぎ)です。
 蛹と銅鐸は形が似ているでしょうか?どうでしょうか?

 前回のイザナギさん・イザナミさんの夫婦神=クジラ説からいくと、
 クジラ=蛹=銅鐸となるんですが、無理なような気もしますが。どうでしょうか。

 愛知県には猿投山(さなげやま)という標高629mの山があって、巨石信仰でも知られています。 

 浜松市最大の淡水湖である佐鳴湖(さなるこ)は古くは「猿投」とも呼ばれ、遠州地方が銅鐸の宝庫であり、佐鳴湖の西・北・東の3方向で銅鐸が出土し、佐鳴湖の南の伊場遺跡からは銅鐸の破片が出土しています。
 
 まさに佐鳴湖は「銅鐸の湖」です。

 いずれにしろ銅鐸は今から約2000年前、弥生時代の最先進の。当時のハイテク技術による金属器です。
 銅鐸の解明なしに、浜松の弥生時代の解明はありません。
 いろいろと考えていきたいと思います。

 浜松の銅鐸は浜松市北区細江町の「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」や浜松市博物館などで見ることができます。

 浜松市博物館で遠州で出土した銅鐸の詳しいカラーガイドブック『浜松市の銅鐸』(A4版、45ページ、400円)が出ていますので博物館で買うことができます。
 
 同じく浜松市博物館で『発見!!滝峯才四郎谷銅鐸』というのもでています。これもおすすめです。A4版、25ページ、300円。

 さて、これを読んで「それがどうした?」「銅鐸のことがわかっても、私の暮らしに何の関係がある?」と思う人もいらっしゃると思います。

 これは雨宮の追求している楽しみのひとつです。

 2年前の11月7日に73才で亡くなった筑紫哲也さんは、死を自覚したときに「お墓には何も持って行けません。残る物は何かというと、どのくらい自分が人生を楽しんだか、それが最後の成績表だと思うんです」と思わったそうです。

 今日は妻のNこさんが今の職場をやめてしばらくフリーになる、最後の勤務(朝7時までの夜勤)の日です。
 N子さんといっしょに、あるいは1人で、あるいはみんなで、自分のために精一杯生き、他人のためにも精一杯生きたいと思います。」

 


雨宮智彦古代史メモリー 11 20200123  日本古代史4 クジラって誰?イザナギさん・イザナミさんは誰 20100327

2020年01月23日 21時07分50秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 11 20200123  日本古代史4 クジラって誰?イザナギさん・イザナミさんは誰 20100327


「日本古代史4 クジラって誰?イザナギさん・イザナミさんは誰
2010年03月27日 19時32分14秒 | 古代史を考える

 このまえ、西欧人の組織「シー・シェパード」の人が日本の調査捕鯨船を妨害するために侵入して逮捕されたという話を聞きました。

 「シー・シェパード」の人の抗議は、「人間並みに知性のある同じ哺乳類であるクジラやイルカを日本人が狩って食べるのは野蛮だ」「豚や牛など知性のない哺乳類を食べるのは人間にゆるされる」という主張だろうと思います。
 違っていたら、抗議、受け付けます。

 どこかの映画祭で上映されたという、イルカ撲殺映画の話を聞いても、なにか、最初のボタンの掛け違いがあるのではないでしょうか。

 「本と映像の森」で紹介した「ブンナ」の話を再録します。

 「ブンナは、自分たちの人生(いやカエル生)が、他の動物たちを食べて、他の動物たちに食べられることをリアルに学び、自分を生かしてくれる動物たちに感謝するようになっていきます。
 人間も同じだと思います。
 食事をするときに「いただきます」と言いますが、これは、「生き物であるあなたたちの体を,今から自分のからだにいただきます。」ということなんですね。
 食事のあと「ごちそうさまでした」というのも、食べてしまった生き物たちへのお礼の言葉なんだと思います。
 私は思うのですが、食べるのは敵だからではなくて、同じ仲間だからこそ食べるんですね。
 食べた動物や植物が毒ではなくて、自分の体の栄養になることを知っているからこそ食べるんです。」

 さて、そこで大転換です。
 『古事記』『日本書紀』の最初に出てくる,日本列島を産む夫婦神「いざなぎ」さん・「いざなみ」さんは何物なのか?

「いさな」は古語で、クジラのことです。
 これは万葉集の解釈でも、確定しています。

 記紀伝承の元を創った「あまぞく」「海女族」「天族」は、朝鮮半島と日本列島のあいだの海洋を支配する海洋民族だったのではないでしょうか。
 
 「アマテラス大神」はやはり天(あま)(ではなく、海女(あま)の海のことで、海を照らす太陽神ではなかったでしょうか。

 そして、この「あまぞく」の祖先神(トーテム)が、鯨である「いざなぎ」「いざなみ」なのではないでしょうか。

 トーテムとは、1つの部族が動物、たとえばヘビとか鳥とか、熊とか虎を祖先神として信仰し、自分たちがその子孫であるという信仰です。

 アメリカインディアンの「トーテムポール」もその1つです。

 記紀伝承(ぼくは「日本神話」とは言いません)では、イザナギさん・イザナミさんが天の浮き橋の上に立って、玉(たぶん勾玉でしょうか)で飾った矛を下ろして探ると、青海原がみつかり、矛の先から滴った海水が凝り固まって一つの島になりました。
 この島をオノゴロシマと名付けました。
 イザナギ・イザナミさんは、オノゴロシマに降りて、国(洲)を生みみました。

 この稿は、まだ続きます。
 「さなぎ」に続きます。」

 


雨宮日記 2020年1月22日(火) 父の介護度認定調査

2020年01月22日 22時00分55秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 2020年1月22日(火) 父の介護度認定調査

 今日午前中に、やうやく父の介護度認定調査がありました。あんまり詳しく書きません。これは父の日記ではないので。

 則子さんの日記でもないので、則子さんの悪戦苦闘については書きません。直接則子さんから聞いてください。

結果がわかるのは2週間くらいかかるそうです。

 


雨宮智彦古代史メモリー 10 20200122  日本古代史3 さくら・さつき・さなえ・・・の「さ」とは 20100327

2020年01月22日 21時50分51秒 | 遠州古代史


雨宮智彦古代史メモリー 10 20200122  日本古代史3 さくら・さつき・さなえ・・・の「さ」とは 20100327

 この時期、シリーズ・タイトルが変だったのは無視してください。

 当時、自分がこんなふうに考えていたという意味で、当時の原稿は一字一句変えていません。

「日本古代史3 さくら・さつき・さなえ・・・の「さ」とは
2010年03月27日 19時03分49秒 | 古代史を考える

 今日は3月27日(土)で、桜(さくら)がもう7分咲きで、浜松は昨夜から「お花見」モードです。

 今夜は土曜夜なので、浜松城公園とかは、みんな盛り上がっているんでしょうね。
 なぜ日本人は「花見」をするのか?
 なぜ桜が咲いたから、飲み会をするのか?
 ガイジン(外国人)には不可解だそうです。
 当の日本人も、その理由は知らないかもしれませんね。
 「なんでって?だって親の時代から毎年そうしているんだから」

 民俗学のほぼ定説では(「定説」は必ず、その「定説」に反対の学者もいますからね、)お花見は、ほんとうは、農業での今年の豊作を祈る「予祝(よしょく)」行事ということのようです。
 つまり、今年の田や畑の豊作を願って、みんなでお酒を飲み、団結を誓う、村の行事です。
 雨宮も、そう思います。

 日本人の神さま信仰では、稲の豊作の神様は、毎年秋に、山に帰っていって、春に里に戻ってきます。
 その神様を迎える行事が春のまつり「お花見」です。
 秋に神様を山に送る行事が「秋祭り」です。

 で、問題は、なぜ「さくら」の花なのかです。
 民俗学の説では、「さくら」という言葉は「さ」+「くら」で、「さ」は神様のこと、「くら」は、その神様が降りてくる「倉」を意味します。
 
 「さ」はいろんなバリエーションがあります。

  五月 さつき 神様が降りてきて稲が育つ月
  早苗 さなえ 神様が宿った稲の苗
  早乙女 さおとめ 稲を田植えするときの聖なる女性たち
   (ですから、早い年齢の、若い乙女とかという意味はほんらいないと思います。
    何歳だろうと、早乙女です。
    東京大空襲を追求している方は早乙女勝元さんです。)
  五月雨 さみだれ 5月の雨のことです

 どうでしょうか?
 これは雨宮説です。
 みなさん、無条件に、信じないでくださいね。
 自分で具体的に調べて、自分の目と頭で判断して、肯定するなり,否定するなりしてください。」

   


雨宮日記 2020年1月21日(月) ブログ休む

2020年01月22日 08時00分34秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 2020年1月21日(月) ブログ休む

 いま22日朝8時。きのうブログを書き忘れたのに気付く。ビデオ編集日で忙しいのと、今日が父の介護認定のため慌ただしいので、なんとなくパスしてしまった。

 「青い地球 1月25日号」をどうするかということもあった。今日になって、ほぼ諦めた。2月5日号へ回す。

 図書館と古本屋の両方で、読むのもたくさんあるし。

 イサベラ・バードの旅行記のマンガでダーウインの手紙がイサベラ・バードに送られているのが書いてあった。やっぱり旅行記の元のものを読みたくなった。


雨宮日記 2020年1月20日(月) 図書館と古本屋さんへ行く

2020年01月20日 16時28分11秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 2020年1月20日(月) 図書館と古本屋さんへ行く

 いい天気。

 午前中、則子さんと中央図書館へ行く。ボクは2冊返して、新しく8冊を借りる。重いので、まだ借りたいのがあったけど、8冊にしておく。

 図書館を出て車椅子で、すぐ近くの古本屋さんへ行く。古本屋さんへ行くのは10年ぶりくらいかもしれない。車椅子で入るのは一苦労だったけど、天井まで積み上げた古本を見るだけで満足。とくに文庫・新書・マンガ・郷土本が多い。

 メガネが合っていないので、遠くはタイトルが読めない。いまのところメガネを新しくするつもりはないが。

 文庫・新書を8冊買う。2300円でした。

 黒板『日本書紀』岩波文庫、1928年、復刊(3冊)。
 広津和郎『松川事件』中公文庫、(3冊)。
 『カラー版 東京の森を歩く』講談社現代新書、2017年。
 池澤夏樹『アマバルの自然誌』光文社文庫、2007年。

 文庫新書なら、まあなんとかいいかな。また来ようと思います。

 新刊を買うにしろ、図書館で借りるにしろ、古書で買うにしろ、いままで接したことのない本も情報も、自分を新しい未来へ開いてくれんですよね。

 もちろん、集めた本や情報をきちんとインプットして、脳のなかで発酵させて、それを外へアウトプットしなければ意味はないんですけどね。

 


新・本と映像の森 323 ますむらひろし『銀河鉄道の夜』連載中、2020年

2020年01月19日 17時10分48秒 | 本と映像の森

 

新・本と映像の森 323 ますむらひろし『銀河鉄道の夜』連載中、2020年

 原作:宮沢賢治。マンガ:ますむらひろし。「ネコの銀河鉄道」です。ますむらひろしさんは『銀河鉄道の夜』をマンガ化するのは30数年前にやっていて再挑戦ということのようです。

 タイトルに「銀河鉄道の夜 最終形」と書いてあるので、ますむらさんの燃える決意がわかります。

 共産党の週刊新聞『赤旗 日曜版』に今年の元日号から連載しています。(『赤旗 日曜版』は全国の共産党県委員会・地区委員会・支部で誰でも講読できます。1ヶ月930円。)

 『銀河鉄道の夜』の分量(A文庫で70ページ、B文庫で72ページ)からいえば1年間は連載して欲しいです。ボクは宮沢賢治ファンなので、ますむらさんが原作をどう料理するか、楽しみです。

 冒頭、教室で先生が天の川の図の前でしゃべっています。

「ではみなさんは
  そういうふうに 川だと云われたり
  乳の流れた
  あとだと云われたり
  していた
  このぼんやりと
  白いものが
  ほんとうは何か
  ご承知ですか」

 主人公のジョバンニとカンパネルラが最初から出てきます。さあどういうイメージで展開するんだろう。

 星座図はスペイン語で異国イメージが出ていて、いいですねえ。ネコたちの個性もよく描き分けられています。

 元の「銀河鉄道の夜」も読み返してみようと思います。ますむらさんの30年前のマンガ「銀河鉄道の夜」もどこかに出ていないかな。

 もういちど、マンガが完結した時点で「新・本と映像の森」を書こうと思います。

 ちなみに宮沢賢治さんは1896年8月27日生まれ、ボクは1951年8月27日生まれということで、「母さん、よくボクを8月27日に産んでくれたねえ」と大感謝です。