雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

古代ブログ 56 遠州古代史 銅鐸シリーズ ③ 銅鐸・さなぎ・猿投・佐鳴湖

2018年05月31日 15時36分42秒 | 遠州古代史


古代ブログ 56 遠州古代史 銅鐸シリーズ ③ 銅鐸・さなぎ・猿投・佐鳴湖

再録。

「遠州古代史3 銅鐸・さなぎ・猿投・佐鳴湖
2010年03月29日 20時50分29秒 | 遠州古代史

 日本の古代「弥生時代」には、祭りや政治で使われた金属器に、銅鐸・銅矛・銅剣などがありました。

 問題はこの銅鐸です。当初は九州などの西日本で出現しますが,次第に東へ移動して、出雲や近畿地方・東海地方で主に出土します。

 出雲の加茂岩倉遺跡でいっきょに39個の銅鐸が出土して、出雲は50個、奈良県は16個ですから、数だけで言えば銅鐸の分布の中心は出雲ということになりますが、簡単には言えません。

 近年では関東地方でも出土し始めたので、関東も銅鐸圏にしないといけないですね。

 弥生時代後期に、遠州地方でも多数出土し、とくに都田川下流域は「銅鐸の谷」とも呼ばれています。

 この銅鐸を「さなぎ」「猿投(さなげ)」との説があります。

 「さなぎ」はもちろん昆虫の蛹(さなぎ)です。
 蛹と銅鐸は形が似ているでしょうか?どうでしょうか?

 前回のイザナギさん・イザナミさんの夫婦神=クジラ説からいくと、
 クジラ=蛹=銅鐸となるんですが、無理なような気もしますが。どうでしょうか。

 愛知県には猿投山(さなげやま)という標高629mの山があって、巨石信仰でも知られています。 

 浜松市最大の淡水湖である佐鳴湖(さなるこ)は古くは「猿投」とも呼ばれ、遠州地方が銅鐸の宝庫であり、佐鳴湖の西・北・東の3方向で銅鐸が出土し、佐鳴湖の南の伊場遺跡からは銅鐸の破片が出土しています。
 
 まさに佐鳴湖は「銅鐸の湖」です。

 いずれにしろ銅鐸は今から約2000年前、弥生時代の最先進の。当時のハイテク技術による金属器です。
 銅鐸の解明なしに、浜松の弥生時代の解明はありません。
 いろいろと考えていきたいと思います。

 浜松の銅鐸は浜松市北区細江町の「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」や浜松市博物館などで見ることができます。

 浜松市博物館で遠州で出土した銅鐸の詳しいカラーガイドブック『浜松市の銅鐸』(A4版、45ページ、400円)が出ていますので博物館で買うことができます。
 
 同じく浜松市博物館で『発見!!滝峯才四郎谷銅鐸』というのもでています。これもおすすめです。A4版、25ページ、300円。

 さて、これを読んで「それがどうした?」「銅鐸のことがわかっても、私の暮らしに何の関係がある?」と思う人もいらっしゃると思います。

 これは雨宮の追求している楽しみのひとつです。

 2年前の11月7日に73才で亡くなった筑紫哲也さんは、死を自覚したときに「お墓には何も持って行けません。残る物は何かというと、どのくらい自分が人生を楽しんだか、それが最後の成績表だと思うんです」と思ったそうです。」


雨宮日記 5月31日(木) 日課その3 「睡眠」

2018年05月31日 11時33分44秒 | 雨宮日誌

 雨宮日記 5月31日(木) 日課その3 「睡眠」

 仕事をしていた頃は,深夜勤なので眠らずに、夜12時くらいから朝まで仕事をして、朝からお昼くらいまで眠る生活をしていた。

 仕事をやめても、生活リズムはなかなか正常には戻らなかった。

 2年前の脳出血の発作後は、反省してふつうの生活リズムに戻した。

 夜11時ごろには「寝る」ようにした。最初は、なかなか「眠る」ことができなくて、午前3時頃まで眠れなかったりした。

 寝る時は、小さい音で音楽をかけて寝る。いまはだいたい、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」をかけて自動終了にしておき、だいたい寝てしまう。

 眠れなくても、睡眠薬のお世話にはならなかった。クスリは好きではないし。高血圧のクスリを毎朝1錠飲んでいるだけだ。

 いまは朝5時前後には目が覚めて、自分で起きてパソコンをつけて学習をしている。

 


古代ブログ 55 遠州古代史 銅鐸シリーズ ② 銅鐸のデザイン <再録20051006>

2018年05月30日 20時22分44秒 | 遠州古代史


古代ブログ 55 遠州古代史 銅鐸シリーズ ② 銅鐸のデザイン <再録20051006>

 遠江と日本 古代史の森

 遠州古代史日記 1  

 2005年10月6日(木) 銅鐸のデザイン

 9月に、浜松に合併した細江町の資料館へ、銅鐸の展示を見に行ってきました。
 十数点の銅鐸をいっぺんに見るのは、見応えがありました。

 ずっと見ていって、感じた「銅鐸のデザイン」は、こうです。勝手な感想ですが。

 横の両側と上部の半円形に、いわゆる「鋸歯紋」というギザギザがありますが、これは弥生時代のデザインなんだからまだ弥生時代に存在の確認されていないノコギリというのは変ですね。

 ノコギリの確認されているのは、銅鐸が「亡んだ」古墳時代からです。

 それに正確かどうかわかりませんが、ノコギリの歯なら、二等辺三角形ではなく、どちらかかに偏った「歯」になるのではないでしょうか。
 ぼくには、この鋸歯紋はノコギリの歯ではなく、「木」の連なりに見えました。つまり、弥生の村の周囲を包む森と空です。

 中心部に行く途中に「川」あるいは「水路」が流れています。それが「流水紋」です。

 中心部には、四角い区画があって、その間は細い幅の道になっています。これも、田んぼとあぜ道としか思えません。現に、その田んぼの区画の中に、水鳥がいたりする。

 つまり、弥生の村から見た稲作と周囲の森の風景をデザインしたのが、銅鐸、というのが、ぼくの感想です。
 
 銅鐸の発生から終末まで見ると、銅鐸が小型のものから、次第に巨大化していくのですが、つい最近の新聞記事で、現代の話しで、遠州の地元の「大念仏」の楽器がだんだん大きくなってきたという記事を見て、非常に興味深く感じました。
 どうしてなんでしょうか。
 2000年前の農村と、2000年後の現代の農村と、人間の意識に共通のものが何かあるようです。それは、いったい、何でしょうか。
 (「静岡新聞 2005年10月4日(18)」吉川祐子・中京女子大客員教授「天竜川百話21 民俗芸能編① 遠州大念仏」による」

 


雨宮日記 5月30日(水) 平和行進の浜松基地ガイド

2018年05月30日 20時13分18秒 | 雨宮日誌


 雨宮日記 5月30日(水) 平和行進の浜松基地ガイド

 曇り時々雨。浜松市の平和行進は今日まで。平和行進改革のひとつとして、午後の行進をカットする。今年からの大英断だ。

 ボクとN夫妻は集結地点の舞阪協働センターへ11時30分に借りた10人乗りのレンタカーでいく。

 行進到着はすこし遅れる。お昼を食べてから浜松基地ガイドに出発。基地周囲約10kmを車で回る。30分、広報館を見る。無事、終了。

 基地の変化も感じる。もっと具体的に調べないと。

 午後は時々、ひどい雨。則子さん、2日間、事務局ごくろうさま。ボクもホッとする。もう梅雨だろうか。

 明日は平和行進、靜岡県内最終日。

 


古代ブログ 54 遠州古代史 銅鐸シリーズ① 細江町「銅鐸の谷」の南側と北側の銅鐸群<20130910再録>

2018年05月29日 16時58分11秒 | 遠州古代史


古代ブログ 54 遠州古代史 銅鐸シリーズ① 細江町「銅鐸の谷」の南側と北側の銅鐸群<20130910再録>

 過去の再録で銅鐸関係の記事をまとめて未来への出発点にしようと思います。

 まず ① 細江町「銅鐸の谷」の南側と北側の銅鐸群 です。


「遠州古代史を考える 細江町「銅鐸の谷」の南側と北側の銅鐸群
2013年09月01日 21時20分31秒 | 雨宮日誌

 これまで紹介して来た「銅鐸の谷」の銅鐸は、南側では5個出ています。

 それを一覧にすると以下のようになります。順序は西から東へ

 1回目の発見 悪ヶ谷銅鐸 発見1912年 三遠式 高さ62.9cm

 3回目の発見 滝峯七曲り2号 発見1966年 三遠式 高さ65.0cm

 2回目の発見 滝峯七曲り1号 発見1966年 近畿式 高さ69.6cm

 4回目の発見 不動平銅鐸 発見1967年 近畿式 高さ72.3cm

 5回目の発見 滝峯才四郎谷銅鐸 発見1989年 近畿式 高さ72.7cm

 西から東へ発見年が新しいのは、もち論偶然でしょうけど、西から東へ「三遠式」と「近畿式」の形式を越えて、高さが高くなっていくのは,果たして偶然でしょうか。

 偶然ではなく、「銅鐸は時代が下がるにつれて巨大化していく」という「法則的」な現象ではないでしょうか。

 問題は、北側で発見された2つの銅鐸の内、西の、江戸時代に発見されたコツサガヤ銅鐸は「再埋納」されたともいわれ、行方不明で、東側の「穴ノ谷銅鐸」だけが1987年発見で近畿式の、高さ59.0cmの銅鐸です。

 つまり、南側より小さいです。

 さらに、浜松市では「三方原出土」という江戸時代に出土して図面だけが残っている、高さ58.8cmの三遠式の銅鐸があります。

 大野勝美さんは著書『銅鐸の谷』で、この「三方原台地」で出土したという「三方原銅鐸」も、実は、この銅鐸の谷のどこかから出土した可能性が強いと推定していますが、かなり確度が高い推定だと思います。

 しかも、この「三方原銅鐸」は三遠式であっても、近畿式の「穴ノ谷銅鐸」と、2mm違いでほぼ同じ大きさの銅鐸です。

 供給地・生産地はちがっても、同時代の銅鐸である可能性は,十分あるのではないでしょうか。(この{同じ大きさ」だと「同時代」という推定は、東海や近畿や出雲などの他の銅鐸を検討していません。いずれ検討したいと思います。)

 いまのところ、まず小さい銅鐸の時代に、銅鐸の谷の北側の支谷を1つづつ、ある一定の期間を経て埋めていって、それから、こんどは南側の支谷を1つづつ、北側より大きい銅鐸を埋めていったという「仮説」を提唱しておきます。

 発掘の事実に基づいて考察しました。」

 


雨宮日記 5月28日(月) 日課その2「血圧測定」

2018年05月28日 14時20分56秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 5月28日(月) 日課その2「血圧測定」

 とにかく、一番気をつけているのは、もう一度、脳出血の発作を起こさないようにすること。そうならないために、血圧を低く保つことに注意している。

 食事はふつうに3食3回食べる。味は薄味にする。醤油やソースはダボダボかけない。マヨネーズはいらない。

 前はパンにマヨネーズをタップリつけて食べたりしていた。それもやめた。

 味噌汁は食べるけど、汁は飲まないで残す。

 お酒は毎日、飲んでいたけど、いさぎよく完全断酒した。ときどき、則子さんに「適量のアルコールは体にいいんだって」と言っているけど。

 「血圧計」を家で買って測っているけど、いまのところ低く出ています。

 数年は生き延びられるかも知れません。



 暑くなると窓を開けてしまうんで、ジェット練習機の騒音がまともに部屋に入ってきます。ときどき、うんざりします。

 半分、あきらめているのですが。何か、方策がないもんかな。

 


古代ブログ 53 遠州古代史 浜松「曳馬」と古代の「檜前」 <その1・2 再録>

2018年05月27日 16時44分31秒 | 遠州古代史


古代ブログ 53 遠州古代史 浜松「曳馬」と古代の「檜前」 <その1・2 再録>

 古代の「ひのくまの」が無条件に現在の浜松の「ひくま 曳馬」というわけでもないのですが。

 とくに古代から中世の「ひくまの」は現在の「曳馬学区」では、ありません。もっと南です。それと「三河」の「ひくまの」との関係が問題です。

 これについては、さしあたり以下を参照。
 
 「『落葉松』「第2部 文芸評論」 「「引馬野」の歴史的、地理的考察」
①から⑤ 2017年08月20日から08月24日に掲載

 以下、再論

 

「2011年08月20日 05時23分10秒 | 遠州古代史
遠州古代史 浜松「曳馬(ひくま)」と古代の「檜前(ひのくま)」 その1

 奈良県高市郡明日香村の大字檜前(ひのくま)は、朝鮮からの渡来人の里です。

 朝鮮半島南端の阿邪加耶(あやかや)とか安羅加耶(あらかや)から、ここに移り住んだ人たち(当時は「朝鮮人」さえなく、高句麗人・百済人・新羅人・あや人・から人でした)は、「東漢(やまとのあや)氏」と呼ばれました。

 よく古代朝鮮3国と言いますが、ぼくは「古代朝鮮4国」というほうが実態にあっていると思います。つまり、高句麗・百済・新羅の他に、朝鮮半島南端に存在した「から国」「あや国」と「倭国」をきちんと認識しないといけないと思います。

 その「から国」「あら国」「南朝鮮の倭国」は、百済や新羅に圧迫されて滅んでしまう、とても悲しい運命の国々です。

 だれか、この悲しい運命の人々を書いてもらいたいです。

 つまり檜前(ひのくま)に住んでいた渡来人たちは、朝鮮南部の「あや」「あら」あるいは「かや」「から」と呼ばれていた土地から移住してきました。「移住」というより「追い出された」という方が事実に近いでしょうか。

 朝鮮系の「あや氏」なのに、なぜ中国の王朝である「漢(かん)」の字を使っているかというと、同じ「から」の発音に「加羅」ではなく、中国の王朝である「唐(とう)」の字を使うのと同じで、8世紀の「日本国」の成立以後は、朝鮮よりも中国が先進文明であるとされ、朝鮮は「記紀」でも日本の従属国家として低い位置に描かれたこによるようです。

 この「檜前(ひのくま)」と、浜松の「曳馬」をなぜ同一視できるかというと、この檜前(ひのくま)」から出た渡来人の坂上氏(さかのうえし)、とくに坂上田村麻呂さんが、この浜松でも伝説として残っているからです。

 つまり、天竜川に住んでいた赤龍の女性と結婚して海を鎮めた坂上田村麻呂の伝説が、この地方にはいろいろ残されています。

 もちろん、そういうメスの龍が実在したと言うことではなくて、そういう伝説を信じていた民族が浜松に移住してきたと言うことです。

 それは南朝鮮の「あや」「あら」「から」「かや」からの渡来人で、ぼくは、その人たちは、三河から遠江に濃く移住して、その土地が「曳馬野」となったと思います。

 以下、続きます。」

以下、「その2」再録 

「2011年08月20日 17時48分39秒 | 遠州古代史
遠州古代史 浜松「曳馬」と古代の「檜前」 その2 江戸の檜前氏
 
 森浩一さんの著書『地域学のすすめ』(岩波新書、2002年)の「関東学を提唱する」のなかに、浅草にいた檜前氏のことが書かれています。

 「応永年間(1394~1428)の『武蔵国浅草寺縁起』」に「推古天皇の時代に、檜前(ひのくま)浜成(はまなり)、竹成(たけなり)という兄弟がいて、隅田川の河口近くの海で魚を捕っていたときに、網で一体の仏像を引き上げた。それを土師(はじの)真中知(まつち)が調べてみると、観世音菩薩像だと分かったので、簡単な草堂をつくって祀った。その草堂が浅草寺の紀元であるという」。

 森浩一さんは檜前氏の2人は必ずしも浅草の住民でなくてもいいとし、『万葉集』の二十巻の「4413」首から「武蔵国那珂郡」「檜前舎人(とねり)石前」という人を紹介している。

 この那珂郡は、森浩一さんは、今の埼玉県美里町のあたり、つまり浅草から隅田川水系で80km上流としている。

 朝鮮やヤマト・西日本から東日本へ移住するにしても,一カ所への「転居」というより船を使った「地域」内外、あるいは「小地域」内外の交流を考えないといけないということでしょうね。

 つまり、海上交通が盛んな時代に,古代三河遠州地域では、今の愛知県東部と静岡県西部とは目と鼻の先で、直前の「三遠式銅鐸」の盛行からからいっても「一つの地域」として考えるべきではないかと思います。

 つまり、同じような住民が住んでいて自由に交流していたのではないかと。

 なお、ヤマト明日香の「檜前」は、『古事記』の「第28代宣化天皇」が「檜○(「土」偏に「向」)庵入野宮に座し」とあります。『古事記』に「ひのくま」が出てくるのはここだけのようです。」

 


雨宮日記 5月26日(土) 「ヒバクシャ国際署名をすすめる静岡県連絡会 結成総会」ビデオ編集

2018年05月27日 07時42分24秒 | 雨宮日誌


 雨宮日記 5月26日(土) 「ヒバクシャ国際署名をすすめる静岡県連絡会 結成総会」ビデオ編集

 今日から4月28日の「ヒバクシャ国際署名をすすめる静岡県連絡会 結成総会」での
日本被団協事務局次長・藤森俊希さんの記念講演の編集に入る。

 今日は「その1」を完成。約10分。たぶん全部で6~7回ぐらいになりそう。広島での被爆体験をこれまで、浜松の被爆者のビデオを何人も作ったことがあるので、少し土地勘がある。ちょっとわかるという感じ。

 30日の浜松基地ガイド(通し行進者向け解説)の準備の仕上げをする。写真3枚を出力して終わり。A4で8ページ。今日は、これを必要枚数コピーしてもらう。

 浜松基地ガイドをするのは3年ぶり。準備で昔の、20数年前のAWACS浜松配備時のボクの映像を2分くらいの超短編ビデオに編集する。

 ビデオ編集は集団作業であり、すべて仲閒たちの協力の成果である。とくに、いつもNくんには深くお世話になっている。というより、Nくんが主体であって、ボクは協力しているだけ、と言ってもよい。

 パソコンを実際に操って編集するのはNくんであり、ボクは言うだけ・指示するだけだから。

 ビデオ編集のことは別途、述べるというか考える予定。

 哲学で問題になる感性・悟性・理性とも関連する問題。または超感性的ということにも深く関連している。

 


新・本と映像の森 140 大島真寿美さん『ピエタ』ポプラ社、2011年、<再録20110223>

2018年05月26日 21時39分42秒 | 雨宮日誌

 新・本と映像の森 140 大島真寿美さん『ピエタ』ポプラ社、2011年、<再録20110223>

「2011年02月23日 10時45分34秒 |

本と映像の森 139 大島真寿美さん『ピエタ』ポプラ社、2011年2月18日、337ページ、定価1500円+消費税

 「さよなら、ドビュッシー」「シューマンの指」と書いてきた「音楽小説」の感想の第3番目です。

 「ピエタ」はイタリア語で「慈悲・哀れみ」を意味するPietaという言葉です。これが転用されて、キリストがはりつけにされ死んだ時に、息子の遺体をかき抱く母マリアの像も意味するようになりました。
 
 ぼくもミケランジェロさんのあの哀しみに満ちたピエタ増は大好きです。

 この本は18世紀のイタリアの交易都市ヴェネチアとその孤児院「ピエタ」を舞台にしています。

 この孤児院で、主に孤児の少女たちによる「合唱・合奏」隊を指揮し、彼女たちのために作曲していたアントニオ・ヴィヴァルディさんがウィーンで死んだ知らせから物語は始まります。

 孤児のエミーリアは、成人してからも「ピエタ」で事務長のような立場で働いています。

 同じ孤児で合唱指揮をしているアンナ・マリーアや、裕福な貴族の娘で同じ世代で「ピエタ」に音楽を習いにきていたヴェロニカ、その3人を中心に、エミーリアがヴェロニカの失われた楽譜を探索しながら、自らやみんなの青春をさまよう<探索>の物語です。

 全編で、ヴィヴァルディさんのヴァイオリン協奏曲「調和の霊感」L'estro Armonicoが、鳴っているのが聞こえます。

 
 「ヴァイオリンの舟が光ってる
  ここにいるよと光ってる
  たましいの光
  うつくしい光」

 「空は遙か
  光りは遙か
  むすめたち、よりよく生きよ」

 「よりよく生きよ」

 おすすめです。

 ヴィヴァルディさんは、生涯で協奏曲を500曲以上、オペラを現在残っているだけで52、ソナタを73曲、とたくさん作曲しています。

 バッハさんとは違う明るさ、空の青さ、太陽のまぶしさ、鳥たちの素敵なさえずり…が魅力です。

 できたら全部聞いてから死にたいな。
 無理ですか…。」
 

 


雨宮日記 5月26日(土) 日課その1「新聞切り抜き」

2018年05月26日 11時53分53秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 5月26日(土) 日課その1「新聞切り抜き」

 毎日の日課を少し書いていく。第1には「新聞をよく見て、切り抜き」だ。「新聞をよく読んで」ではない。

 脳出血後のリハビリ生活の日課としては優先順位が変かもしれないが、雨宮智彦の優先順位としては、これでいいのだ。ボクがボクであるかぎり。

 詳細にじっくり読むのは、切り抜いた後、だいたい同じ分野の記事をまとめて、である。1日分の記事だけ読むのでは、意味がないとまでは言わないが、意味がよく見えない。

 新聞は、よく見て、必要な記事を切り抜きして、昔は関連する本にはさんだり、昔は市販のスクラップ・ブックに貼ったりしていた。

 今は古い・いらない大学ノート(B5版)の開いているページに貼っていく。新聞記事だけでなく、チラシや資料も全部貼っていく。

 たとえば「浜岡原発」「原発」「ビキニ核被害」「憲法」「浜松基地」……これは一例です。

 ノートは、あとでパソコンでページ毎の内容をファイルにして後世に残す予定。といっても後世に利用してくれる人がいるかどうか、わからんけど。

 とにかく20才ごろ、こういう習慣を歴史学者の羽仁五郎さんに学んだ。羽仁さんはあ「新聞記事のなかを斥候戦をしながら進む」と言っている。名言だと思う。

 いまは日刊新聞は『しんぶん赤旗』と『中日新聞』を読んでいる。さらに3つめとして、最近は、ネットで新しいニュース記事を読むことも多くなった。

 2年前からは右手が不自由になって、左手だけではハサミがうまく使えないので、則子さんが数日に1度、新聞切り抜きと古ノートへの貼り付けをしてくれる。ありがとうございます。心から感謝いたします。

  < 補足 お昼12時02分 >

 95才の父も、自分で『朝日新聞 東京版』『靜岡新聞』をとっていて、切り抜きをしている。

 前は、父の読んだ後でその2紙も回してもらって見ていたが、脳出血後は、さすがにそれはやめて、自分たちのとっている『しんぶん赤旗』と『中日新聞』だけにした。

 なお日刊『しんぶん赤旗』は大学に入った頃からの40数年の読者で、『中日新聞』は3・11後に反原発・反安部のいい記事が載るので、取り始めた。夕刊はとっていない。

 


雨宮日記 5月25日(金)の2 「水虫出たぞ」

2018年05月25日 20時51分45秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 5月25日(金)の2 「水虫出たぞ」

お風呂のあと、右足指に則子さんが「水虫」を見つけた。どうりで、右足指がかいと思った。数日前、冷えた日に、ボクは「しもやけ」かと思ったら違った。

 則子さんはクスリを塗ってくれた。

 夜9時前、「コーヒーがないよ」と呼ぶ。

 「いっぱいでいいね」と言うので「いっぱいちょうだい」と答える。


新・本と映像の森 139 高畑勲『「ホルス」の映像表現』アニメージュ文庫、徳間書店、<20100309再録>

2018年05月25日 20時40分27秒 | 本と映像の森


新・本と映像の森 139 高畑勲『「ホルス」の映像表現』アニメージュ文庫、徳間書店、<20100309再録>

 このあいだ亡くなった高畑勲監督を偲んで、以前の「本と映像の森17 高畑勲『「ホルス」の映像表現』 2010年03月19日」を掲載します。

 一直線のホルスよりは、偽って悪魔の娘とされた少女ヒルダの方が暗くて、ボクは好きですね。

 物語は、ヒルダは小さい少年を救うため、自分を守ってくれる「命の珠」を与えてしまい、自らは、雪オオカミの総攻撃を受け、雪のなかに死を覚悟して沈んでゆく…・。

 物語のほんとうのクライマックスは、このあとの、悪魔グリュンワルドと村人の対決シーンではなく、この悲しい雪のシーンでしょうね。

 明らかに宮沢賢治さんの童話「水仙月の四日」の、あの雪のシーンを彷彿とさせます。

 ヒルダは果たして救われるのか?

 以下、再録。

「本と映像の森17 高畑勲『「ホルス」の映像表現』
2010年03月19日 04時01分04秒 | 本と映像の森

 アニメージュ文庫、徳間書店、1983年10月31日初刷、定価379円+税=390円、212ページ

 宮崎駿さんと高畑勲さんのコンビの始まりの一つが、1968年(昭和43年)公開の東映アニメ「太陽の王子・ホルスの大冒険」で、高畑勲さんの長編演出の第1作です。
 このアニメに、宮崎さんもスタッフの1人として参加します。

 高畑さんの解説は、アニメの映像を追いながら、冒頭の少年ホルスと銀色狼の格闘しーんから始まります。

 ホルスは父親と住んでいた「村」を悪魔グルンワルドによって崩壊させられ、そこから逃げだした孤児です。

 「太陽の王子」という表現は、エジプト神話の太陽神の息子で鷹の神・ホルスの名前からきています。

 エジプト神話は、このアニメのストーリーとは関係なのですが、まあ少年ホルスの能力から言っても、悪魔と真っ向から対決する資格と決意のある人間ホルスを「太陽の王子」として表現したのか、と思います。

 ホルスと対照的な主人公が、ホルスとともに別の村に入り込む少女ヒルダと、その村の少年ポトムでしょう。

 ヒルダは実は人間の娘ですが、悪魔の妹と思い込まされています。

 テーマは「村を守るのか」です。あるいは「村は守るに値するか」です。
 
 ホルスもヒルダも、脳天気な「正義の味方」ではなく、悩める主人公なので、ぼくも感情移入ができます。

 ホルスは、ヒルダの策動もあって村から追放されて、さまよいます。
 ヒルダは「兄」の命令で、ホルスと村を2つに裂きますが、自分自身が2つに裂けていく少女です。


 そういうストーリーの内容とともに、アニメ撮影の技術が微細に語られて、すごくおもしろい本です。
 
 20年以上前の本なので、いま新刊で出ているかは不明です。

 アニメ映画は、DVDで買うなり、借りるなりできると思います。」
 

 


雨宮日記 5月25日(金) トランプ・金正恩「対決」

2018年05月25日 20時13分39秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月25日(金) トランプ・金正恩「対決」

 善意の第3者というか、無関係者を装う気持ちもサラサラない。

 ボクはアメリカ=北朝鮮の和解、和平を心から願う。だからこそ、商戦やチキンランはやめて欲しい。真摯な対話を望む。

 まだ希望はありそうだが。

 30日の平和行進浜松基地ガイドのレジュメ準備をする。A4で8ページくらいになる。則子さんに仕上げをお願いせざるを得ないので、貼るときに上が右側か左側かで、かなり討論。負けた。

 明日には完成する。

 


雨宮日記 5月24日(木) 権力は腐敗する

2018年05月24日 19時33分50秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月24日(木) 権力は腐敗する

 「権力は腐敗する」「絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉はイギリスの歴史家ジョン・アクトンさんの言葉だが、真実をついている。

 権力だけではなく、権威も腐敗する。

 安部首相も、日大の内田元監督も。それから浜松の自動車メーカーのS会長も。なぜ、そうなるか、そうならないための方作はあるのか。

 一度そうなったら、そこから脱却する方が、そうならないための努力より、はるかにはるかに難しいだろう。

 そうなったら、そこに可能な限り、近づかないことですね。それが最高の良策だと思います。

 


新・本と映像の森 138 永井豪『デビルマン 1』講談社漫画文庫<再録92&新105>

2018年05月24日 14時32分04秒 | 本と映像の森


新・本と映像の森 138 永井豪『デビルマン 1』講談社漫画文庫<再録92&新105>

 なお「新・本と映像の森 105(マンガ18) 永井豪『デビルマンレデイ 8』<モーニングKC>、講談社、1999年」も参照。

 系列的にいうと「デビルマン」⇒「デビルマンレデイ」となります。

 以下、再録。

「本と映像の森92 永井豪さん『デビルマン 1』講談社漫画文庫
2010年10月11日 22時48分47秒 | 本と映像の森

1997年4月11日第1刷~1998年8月10日第8刷、258ページ、定価500円+消費税

 巻頭のシーンが、切なく、苦しく、美しいです。
 両性具有の美しい天使が、地獄のような異質の生命体に陵辱されるシーンと、その地獄の悪魔のような生命体が仁王のような怪物(たぶん主人公の…)に駆逐され、最後に、悪魔の集合体の内部に表出する美しい天使のような…。

 そして、現代の1980X年。
 主人公は3人です。
 
 ひ弱な男子高校生の不動明。
 明の幼なじみの女子高校生、牧村美樹。
 明の親友の、飛鳥了。

 3人が、人間世界を侵略する地獄の悪魔たちと、いかにたたかうか。
 明は了に飛鳥邸に招待されて、そこから物語が始まります。

 今日はネタバレはしません。
 文庫版で全5巻の、怖くて、切なくて、美しい恋物語をぜひ読んでください。

 怖いというのは、人間社会が悪魔の侵略におびえ、相互に不信感を抱いて、崩壊していく「悪魔狩り」の物語だからです。

 デビルマンとは、人間に憑依しようという悪魔達の意図に反して、人間の意志の下に、悪魔の身体と超能力が使われてしまう2つの種族の合体人間です。

 切ないというのは、けっして届くことのない恋物語だからです。
 人間の女の子のデビルマンへの恋。
 デビル・悪魔たちの側の男の子のデビルマンへの恋。
 
 この悪魔側の総帥の男の子が美しい「両性体」で、人間側の主人公のデビルマンに恋をしてしまうという設定は、まさに手塚治虫さんの「メトロポリス」(9月10日「本と映像の森78」で紹介)と同じですね。

 性の描写を押さえた手塚治虫さんとは違う、切なさの恋物語です。

 なお永井豪さんの「魔王ダンテ」、そして「デビルマン・レディー」を参照してください。
 ぼくは「デビルマン・レディー」は大傑作で、すてきな物語だと思います。」