雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

青い銀河とオレンジの花 断片 2 1972年5月15日名古屋 20220516

2022年05月16日 19時02分48秒 | 青い銀河とオレンジの花
青い銀河とオレンジの花 断片 2 1972年5月15日名古屋 20220516


 50年前の1972年5月15日夜、ボクは名古屋でたぶん全学連の学生のデモの隊列のなかにいた。


 当時、学生の2年生で、「うたはどこで覚えた。たたかいを知って覚えた」


 「沖縄を返せ」や「国際学連のうた」「ワルシャワ労働歌」など当時覚えたうたは、今でも懐かしい。


 栄の大通りを夜、デモ行進すると警察の装甲車的な車から投光器の光が当たって、異様な空間が浮かび上がる。ボクの記憶のなかに強烈に刻み込まれている。


 それが自分の革新的生涯の出発点のころだった。


 



青い銀河とオレンジの花の断片 1 日記好きのルーツ 20220209

2022年02月09日 15時52分37秒 | 青い銀河とオレンジの花
青い銀河とオレンジの花の断片 1 日記好きのルーツ 20220209


 則子さんはネットなど見ないらしく、「雨宮日記に私のことなんか書かないでよ」と言いますが、そもそも無理な要求なんです。ボクたちの人生を別々に分けるなんて。


 いうだったか雨宮智彦のブログを見て「全編、則子さんへのラブレターですね」と言ってくれた人がいましたが、はい、そのとおりです。


 その「雨宮智彦のブログ」の「雨宮日記」は始めたのが2009年12月9日からです。今までずっと12年2ヶ月続けていることになります。


 さかのぼれば、学生時代の日記が少し残っています。そして結婚してからの夫婦のA5判の「対話ノート」が12冊あります。


 そのあとはボクがパソコンをやりはじめて、毎日のように則子さんに宛てて書いた紙のラブレター、ではない「ナウシカへの通信」時代になります。


 いずれ、ここで「対話ノート」も「ナウシカへの通信」も可能な部分はできるだけ紹介したいものです。ふたりの生きた証しですから。


 そして「ナウシカへの通信」も出さなくなり、「教えるべきことはすべて教えた」、日常的には則子さんへの助言もあまり必要なくなり、自分だけで独り言を書いてもおもしろくないなあと思っていたころです。


 ちょうど「雨宮智彦のブログ」を始めたので「雨宮日記」を始めました。それで現在に至ります。


 父が中央長上苑に入所して父と祖父の持ち物を整理し始めてから気がついたのだが、ボクの日記好きは、たぶん祖父の福男さんや父の節三さんから来ているらしい。


 祖父の戦後の日記や、父の最近に至る日記やまめに書いている家の記録を見ていると、書くことは苦では無く、むしろ生きていることという感じがする。書くことは自分の業(ごう)であると言ってもいい。


 祖父や父の日記などは、また別のところで紹介します。





青い銀河とオレンジの花 断片 17  母が若い頃、差し入れ屋に勤めていてもらった帯留め 20210606

2021年06月06日 18時27分22秒 | 青い銀河とオレンジの花
青い銀河とオレンジの花 断片 17  母が若い頃、差し入れ屋に勤めていてもらった帯留め 20210606





 これは戦前の帯留めで、母の光子さんがもっていました。

 母は、十軒町へ引っ越した後から,アルツハイマー型認知症になって入院してしまった。ゆっくり母の自伝を聞き取る機会がなくなってしまったのは、いまでも残念に思っています。


 母が東京で空襲にあったときのはなしとか、東京のくらしとか、いっぱい聞きたいことがあった。ただ、父の節三さんが、自伝『落葉松(からまつ)』に、こんな一節を書いてくれている。


 「私たち夫婦は、今年金婚を迎えたが、妻が入院中のため、式を挙げることが出来なかった。痛恨の一言に尽きる。入院は一二〇〇日を越えた。名古屋の長男夫婦が見舞いに来たのは、入院初期のまだ古い記憶は思い出せるときであった。


「わたし、刑務所におったときね」 と、突然、妻は長男に話しかけ始めた。
「おい、おい、どうなってんだ」と長男は、びっくりして私に聞いた。
「アッハッハ、それは刑務所ではない。差入屋のことだろう」


 妻は何を言わんとしたのか、そのあと、何も言わなかったので分からなかった。妻が言った刑務所とは、現在、東京の池袋に六十階のサンシャイン・ビルが建っているが、そこに戦前からあった東京拘置所のことである。又は、巣鴨拘置所、地元の人たちは巣鴨の刑務所と呼んでいた。」


「刑務所には差入屋が付きものである。刑務所の未決因は、食物や日用品、衣類などの自弁が認められて、それらの品を家族たちの依頼によって、収監者に届けることを業としていたのが差入屋である。また、獄中で不要になったものを家族に返すことも仲介していた。刑務所と差入屋とは不離不即の関係だった。


 妻はこの巣鴨刑務所の差入屋に勤めていたのである。


戦時中、徴用令というものがあった。辞書に〔国家が強制的に国民を動員し、一定の仕事に従事させること〕とあるが不要不急な仕事についている者や、定職のない者たちが対象となった。殊に、家事見習いと言われた嫁入り前の娘たちには恐慌をきたした。


妻は東京の本郷菊坂(樋口一葉が明治時代住んでいた)で生まれたが、戦時中は、父【安藤】は巣鴨刑務所の近くで印刷屋をしていた。三省堂の辞典などの印刷を手がけていた。その徴用を避けるために、差入屋に勤めたのである。近くであるし、伝手があったのであろう。差入屋に出入りしていた人の中に、作家の宮本百合子がいた。


妻は百合子を色の白いきれいな人だったと言うが、百合子から帯止めをもらい、今もそれを記念に持っている。百合子の夫が刑務所に入っていたのである。」


 つまり、これは母の光子さんが宮本百合子さんから直接もらった帯留めです。


 いまは則子さんがもっています。



青い銀河とオレンジの花 断片 16 沖縄への興味の始まり 20210503

2021年05月03日 15時34分57秒 | 青い銀河とオレンジの花

青い銀河とオレンジの花 断片 16 沖縄への興味の始まり 20210503


 いま自分の資料を片付けて整理している。そのなかで出てきたものの1つ。


 ボクが大学へ入って教養学部のクラスは「L1-13」だった。「L1-13」は「文教進」といって、ボクのような文学部と教育学部の混成クラスだった。そのため、文学部歴史学科のボクも教育に興味を持つようになった。


 その年の秋に「クラス合宿」というもので使った文献らしい。すみません、ボクの記憶はすでにない。物だけが手元に残っている。


 B6版で青焼き。237ページ以上の本から36ページだけコピーしてホッチキスでとめてある。


 タイトルは『沖縄の子 本土の子』。「本土の子と沖縄の子の作文交流実行委員会」編。


 表紙をあけると最初に「ふまれてもふまれても」という具志川市あげな中学校の生徒の短い2ページの詩が載っている。


 「金網のむこうに
  小さな春を作っている
  タンポポ・・・・・・」


 この詩は雑誌『詩人会議 1970年4月号』に掲載されている。


 いつごろかボクも、この詩にメロディーをつけたうたを歌ったことを思い出す。詩はたしか少し変えてあったと思うが、「強く生きぬくタンポポ」のイメージが鮮烈なうただった。


 ボクが沖縄に興味をもち始めるきっかけの1つかもしれない。








青い銀河とオレンジの花 断片 15 横井久美子さんのうたと歩んだぼくの道 20210313

2021年03月13日 11時43分36秒 | 青い銀河とオレンジの花
青い銀河とオレンジの花 断片 15 横井久美子さんのうたと歩んだぼくの道 20210313


 今年の1月17日の朝、新聞『赤旗』を見ていたぼくはビックリして則子さんを呼んでしまった。


 「なあに」
 「横井久美子さん14日に亡くなったって」
 「あら病気?」
 「うん・・・・・腎盂って書いてある・・・76才だって」
 「私たちと同世代ね」


 そうだ。その後見たネット記事では「60年代から50年間歌ってきた」と書いてあるけど、ボクは70年代からずっと横井久美子さんの歌を聞いてきた。


 最初に聞いた(見た)のは1975年ごろか?名古屋の大高緑地で開かれた名古屋赤旗まつりで横井久美子さんの歌を聞いた時だ。


 そのとき自分のカメラで撮った古い写真をずっと大事にとってあった。



 その後、浜松に戻ってから横井久美子さんのCDはいろいろ買ってある。好きな曲のタイトルをあげておく。


 「戦車は通さない」
 「自転車に乗って」
 「ガソリンまみれのオートバイ」
 「名も告げずに」
 「4月のカーネーション」
 「ノーモアスモンのうた」
 「人生のはじまり」
 「明日はワルシャワ」
 「うた」
 「歌って愛して」
 「おいでいっしょに」
 「風の中のレクイエム」
 ・・・・・・・・・・・・


 まだまだあるけど、全部は思い出せない。もちろん、なんだか気に入らないうたもたくさんある。抽象的なうたは横井久美子さんには合わないと思う。


 いわば横井久美子さんはみんなの吟遊詩人だったと思う。自分のうたを歌っていたんじゃなくて、みんなのうた・だれか他のひとのうたを歌っていたんだと思う。


 横井久美子さんのCDを引っ張り出して「横井久美子さん三昧」をしようと思う。


 浜松へ戻ってから横井久美子さんのミニコンサートを浜松で聞いた。その時のことは別にどうしても書かなければならない。


 ぼくも今年夏に70才になる。死んだときに「いい人生だったね」と、少なくとも則子さんには言ってもらえる人生でありたい。













青い銀河とオレンジの花 断片 14 2021-1 倒れてから5年 1 感動すると困る

2021年01月13日 16時22分05秒 | 青い銀河とオレンジの花


青い銀河とオレンジの花 断片 14 2021-1 倒れてから5年 1 感動すると困る
 
 脳出血で倒れたのは2016年の5月。もちろん生活も一変してしまったが、いろいろ変わってしまった。


 右半身麻痺の影響もありそうなのだが、前にはなかっったと思うが、テレビを見ていたり本を読んだりしていて、やたらと感激してノドがヒクヒク痙攣しるのだ。


 そばに則子さんがいると「何を笑ってるの?」と聞くのだが、笑っているわけではない。本人は感情過多で困っているのだ。


 若いときは、自分は冷血で泣けない、感情を外に出せない人間だとおもっていた。中年になってからそうじゃないことがわかった。


 今はすぐ涙がでてしまうので困っている。



 青い銀河とオレンジの花 断片資料 10 「勤通大 第2部 経済学へのコメント 20060129」 20210110

2021年01月10日 17時10分19秒 | 青い銀河とオレンジの花
 青い銀河とオレンジの花 断片資料 10  「勤通大 第2部 経済学へのコメント 20060129」 20210110




「勤通大 第2部 経済学へのコメント 雨宮智彦 2006年1月29日(土)




◎感想の都合上、第1部や第3部にも触れることになります。
 ながいあいだ、教科書をきちんと読んだことがなくて、久しぶりでした。




◎全般的に リアルな事実と感覚から始めてその謎を解明する理論が求められる


 残念ながら、資本論のような、良質の推理小説を読むようなときめきがない
 ぎりぎりまでのつきつめた「ここで飛べ!」「飛んだ!」という飛躍感覚がない


 解明ではなく、科学的社会主義の理論では「こうなっています」というだけでは
 こちらとしては「ああ、そうですか」と答えるしかない。


 
◎社会移行、「社会発展の原動力」(第1部第3章第2節)は何か


 p137「生産力は、総じてたえず成長し発展していく傾向をもちます。なぜなら、人間はふつう生活の向上のためにつねに生産の技術(技能)や組織に工夫と改良や発明を加え、それを社会的に蓄積していくからです」


 たとえば縄文時代末期のような、とくに縄文文化の栄えた東日本で遺跡数が衰退していくことは、考古学では自明のことです。どうして「総じてたえず成長し発展していく傾向」「つねに」とか言えるでしょうか。


 p137~138「その発展がある段階までくると、これまでの生産関係とくに所有関係は生産力発展の条件から桎梏(さまたげ)に変わります。こうして生産力と生産関係の矛盾は激しくなり、やがて生産力発展の桎梏となった生産関係、とくに所有関係の変更が歴史の課題として人びとの意識にのぼってくるようになります」


 ぼくのいまの段階での結論はこうです。


 石器時代の狩猟・採集時代から、農業が出現する時期の人類史の分析は、こうです。氷河時代の終了と小温暖期の急速な温暖化で、これまでの狩猟・採集の獲物が捕れなくなって、これまでの生産力と生産関係そのものが危機に面して、人類は新たな生産システムとして農業を採用した。
 揚子江の場合には、周辺に生えていた実が落ちる野生の稲の中から、実が落ちないような品種を栽培で作り出した。栽培種かどうかは、これで判断できる。
 人類のDNAは、チンパンジーのDNAに比べて、きわめて変異が小さい。
 したがって、これまでのシステムに固執して滅亡した部族もあったし、この危機を生き延びた農業を営む人類が、また違う時期に、都市文明を築いた。




◎原始共同体から階級社会への移行


 p143、生産力の発展と共同体同士の紛争が、私的所有と階級の発生をもたらしたのではなくて、逆に、たとえば3世紀の小寒冷期の危機が、近い共同体同士の連携と遠い共同体を従属させていく動きをつくりだしたのではないのか。
 メソポタミアの都市国家発生も同じ。寒冷化の危機に対して、大きな灌漑施設の建設と共同管理に移らざるを得なかった。




◎p264「資本主義の基本的矛盾」、わかりにくい


 「巨大な社会的生産力の発展と資本主義的生産関係の狭い枠内での矛盾」 
 「生産力を無制限に発展させる資本主義の傾向のなかに資本主義の没落の必然性が見いだされるということをしめしています」
 このどこに危機があるのか?
 のんきに聞こえる。


 危機なしに、なぜ、社会移行が起こるのか?


 第3部、p344~346で「資本主義社会の深刻な問題」として、次の3点をあげている。
 「第1に、資本主義国は、恐慌・不況を乗り越えられない」
 「第2に、南北問題が深刻になっている」
 「第3に、地球の生命維持装置が危なくなっている」


 ここでオゾン層などの破壊だけをあげているのは、もっと深刻な温暖化問題をのぞいている点で、のんきすぎるのではないか。


 炭酸ガス濃度が上昇していけば、温暖化だけではなく、ほ乳類の呼吸困難になるということが明らかになっています。


 いま、実際に目の前に起こっていることは、巨大な生産力の発展が問題なのではなく
 環境問題をみても、温暖化による人類の生存の危機、絶滅の危機ではないのか。


◎第6章「現代の資本主義」は段階論がきわめてわかりにくい


 どういう叙述構造になっているのか、とくに、第1節の最後、p297から「今日の独占資本主義の到達点とその特徴」が出てきて、そのあと、第2節の「国家独占資本主義」が叙述されているが、どういう関係になっているのか理解できない。
 同じものなのか、違うものなのか。


 純粋に経済的な話ではないのだから、「今日の独占資本主義の到達点とその特徴」は、第3部に移動したほうがすっきりするのではないか。


 「現代の資本主義」より、不破さんのように、より広い「現代の世界」をきちんと叙述したほうが、わかりやすいのではないか。




◎第2部経済論から第3部政治論へ飛んでしまうので、マクロな社会論・運動論だけ
 ミクロな人間論・集団論を媒介しないと、直接、階級闘争へは行けません。


 人間論・組織論のない革命論はへんです。


 若者論も当然、必要ですが、資本主義と現代資本主義が生み出す「消費人間」について、きちんと語り、その対局として、人間がほんらい持っている豊かな体とゆたかな人間関係、豊かな自然環境について語るべきです。


 それがあって、はじめて、その豊かな人間集団が自発的に展開する革新的未来と資本主義の支配者達が対抗する日本政治の、第3部へ接続するのだと思います。




◎上記の対極として、資本主義社会が生む、資本主義的人間を対置するとわかりやすい


 というより、順番が逆で、資本主義に操作され翻弄される「消費型」人間に対して、革新的な、というより本来人間が持っているよきものを発揮した個人と集団を対置しないと、人間論・組織論として、不完全ではないでしょうか。


 それは、p167で,資本主義がきりひらいた進歩性で3点あげていますが、2点目の「人格的に独立した人間」が、いかに資本主義の教育やマスコミなどによって、ゆがめられ、操作されるかという叙述がありません。
 
 よりよき人間的なものは、民主主義革命や社会主義・共産主義の社会でしか実現されないものではないのです。というより、現代資本主義社会と人間がもっているよい面をより大規模に実現するものということ。




◎社会と環境問題


 生産・消費の観点だけではなく、廃棄物や社会循環の観点が、現代経済学には必要だと思います。
 正確に言うと「真の循環型社会」への道ということになりますが。




( 以下は中断しました 20210110 )



 青い銀河とオレンジの花 断片資料 9 「浜松基地で初めて小松基地F15戦闘機が訓練飛行 20021003」 20210109

2021年01月09日 18時26分52秒 | 青い銀河とオレンジの花
 青い銀河とオレンジの花 断片資料 9 「浜松基地で初めて小松基地F15戦闘機が訓練飛行 20021003」 20210109


 「平和・民主・革新の日本をねざす静岡県の会」が発行した文集『これでいい?いまの日本 パートⅢ』p19~20に投稿した文章です。


 文集は2002年12月15日に発行されました。


 則子さんの名前で発表していますが、例によって2人の合作の文章です。ボクが原案を書き、何度も2人で書き直して、この成案にしたものです。




「浜松基地で初めて小松基地F15戦闘機が訓練飛行      雨宮則子


 私は、航空自衛隊浜松基地の軍用機の飛ぶ直下の、私立の保育園【上島のたんぽぽ保育園】で保母をしてもう25年になります。我が家も保育園の近くに引っ越して11年。家も職場もその上空をT4ジェット練習機が毎日のように、騒音をまきちらして飛び回っています。


 数年前からAWACS(エイワックス 空中警戒管制機=空飛ぶ戦闘司令部)が4機配備され、浜松基地はそれまでの教育訓練基地から実戦基地へ様変わりしています。配備から試験飛行のあいだは公表していたAWACSの飛行回数も、今はいっさい発表しなくなりました。


 それまで鉄条網だけのフェンスで外周道路からよく中が見えた基地も、AWACSの近くだけ見えないように覆ってしまいました。なんという秘密主義でしょうっか。


 いま自衛隊は、米軍の指揮下での戦争準備と訓練を重ねています。浜松基地のAWACSも、米軍と空の共同演習を国内で2回おこなった上に、昨年6月に初めてAWACSが海外の米領グアム島での日米共同訓練に参加しました。これは『国内ではできない電子戦と戦闘訓練をおこなう』というもので、私たちは基地への中止申し入れと、緊急抗議行動をおこないました。


この間の有事立法やイラク問題等あっても北朝鮮と日本政府の交渉もあり、アジアでは緊張緩和なのかなと思っていた矢先でした。【2002年】10月3日(木)午前11時ごろ異様な飛行機の轟音が響きました。


 私は、ちょうど保育園の事務室にいて、頭の上をガアアッと通り過ぎる音で、落ちろのか!と思ってドキッとしました。25年間の保育園生活で体験したことのない爆音でした。


 外にいた保母さんたちは「2機のうち1機が急に低く下がってきて、こわいと思って思わず身をかがめた」「腹の底にひびくような音だった」「こんなに低く飛ぶ訓練をして、落ちたらどうするんだと思った」と口々に証言しています。


 私が浜松基地に電話したところ「小松基地のジェット機が飛んできている。小松基地が天候不良で着陸できない場合を想定して離着陸訓練をしている」と答えました。


 翌日の10月4日(金)に、「基地のない平和な浜松をつくる会」として浜松市へ申し入れをしました。豊田市民生活部長は「訓練はやめろと言っても、日本の防衛のためには、やむを得ない」と言ったので、私は「民家が密集しているところでの低空飛行はやめてほしい」と言いました。


 小松基地が攻撃された想定なのか、浜松基地を北朝鮮の空軍基地と見立てて攻撃訓練をしていたのか真相はわかりません。


 ぜったいに戦争をしてはいけない。騒音を我慢してはいけない。悲酸な戦争を起こさせないよう、日本が戦争に参加しないよう、同じ思いの人達と手をつないでいきたいです。」



青い銀河とオレンジの花 断片資料 8 「地域原水協活動の発展と強化のために 県原水協理事会への発言原稿 2009/6」 20210103

2021年01月03日 20時21分38秒 | 青い銀河とオレンジの花
青い銀河とオレンジの花 断片資料 8 「地域原水協活動の発展と強化のために 県原水協理事会への発言原稿 2009/6」 20210103


 これは、たぶん静岡県原水協理事会で発言を予定して書いたと思うが、発言の記憶はない、たぶん発言せずに終わった原稿です。


 ぼくの発想や考え方がよく出ていると思います。






「地域原水協活動の発展と強化のために 県原水協理事会への発言原稿


浜松市原水協事務局
                 雨宮智彦
     2009年6月  日


   1


 地域原水協の発展と強化とはなにか、これまでの浜松市原水協の経験を発言したいと思います。


 まず、地域原水協の活動の基本はなにか、ということです。それは、情勢も地域も毎年、毎月変化して新しくなっていくのだから、毎年、毎月、運動もそれ以上に新しくならなくては古びてしまうということではないでしょうか。


 毎月会議を開くのは、何を変化させるかを論議するために開くのであって、去年と同じ内容を決めるのであれば会議を開く必要もないです。時間と費用のムダです。議案を配布して個々の了承を得るだけでいいはずです。実際のリアルな運動はそれでは発展しません。


 浜松市原水協の「いちご募金」も「全区原爆と人間展」も、平和行進での「区長さんからペナントを」なども、みんなで集まった会議での、率直な討議と、そういう努力方向の中で生まれてきたオリジナルな、新しい創造だったと思います。


 もちろん、去年と同じことをする方が楽です。去年と違うこと、去年より新しくなったことをするのは、時々、すごく苦しいです。でも、そういう「産みの苦しみ」を回避して、毎年、去年通りの運営をしていたら、原水爆禁止平和運動の明日はないと、私たちは思います。


   2


 では、運動を新しくしていくための必要最低限なことは、何かということです。それは、会議に参加する団体同士・個人同士の対等平等性です。対等平等でなければ、民主的討議も民主的運営も保証されません。


 民主的討議といえるためには、誰がどんな意見を出そうと、特定の個人ではなく、全員の意見によって採択・継続討議・否決が決められることが必要だと思います。


 民主的討議とは、事実と道理に基づいて、議案についてどんな修正意見・反対意見を出そうと自由ですし、私たちの場合はその意見をまず討議するかどうかを決めます。


 浜松市原水協が毎月開く理事会では、異論や意見があれば、その部分は継続討議にする場合もあります。全員が賛同した部分だけが「一致点」として理事会の確認事項となります。


 会議の民主的運営を保証してこそ、各団体が参加する気になるのではないでしょうか。


   3


 地域原水協の会議、たとえば理事会を民主的運営を保証した上で、これからの方針と行動を予定をみんなで論議できる程度に、定期的に開くことが必要です。 理事会が行動した後の追認機関ではなく、それをやること自体の正否から論議する機関にならないと、事務局・執行部が考えて行動するだけになってしまうと思います。
 
 浜松市原水協の加盟団体は7団体で、6月理事会の参加団体は5団体でした。毎回、ほぼそれくらいの団体は参加しています。
 団体選出の理事が2人なら流会にしようと思っていますが、流会になったことはほとんどないと記憶しています。
 会議の開催は、全関係者に口頭であれ文書であれ必ず届くこと、会議の欠席者には会議の確認したまとめを必ず送ります。
 総会は年1回開き、事務局会議を適宜開いています。


   4


 以上のような地域原水協の会議運営をおこないつつ、原水協が外へ訴える基本的立場として、核兵器廃絶や被爆者援護など一つ一つの一致点で、どんな団体・個人とも対等平等の立場で、平和の合意を拡げる努力をしています。
 大事なことは、原水協のすべての行動を相手と私たちの対等平等の立場ですすめることです。
 対等平等であるということは、相手が断ることも認めることです。
 核兵器廃絶は人類史的な課題だからといって、私たちの側の一方的な意志の押しつけにならないようにすることが、大事だと思います。
 政令指定都市になってから平和行進で、7人の区長さんのペナントを全員いただき、区役所などの全区で原爆と人間展を浜松市と教育委員会の後援でおこなってきたのも、そのような努力の実っている一例だと思います。


   5


 団体・個人共闘としての浜松市原水協の運営をしていく上で大事なのは、加盟団体の運営内のことにタッチしたりする、内部干渉的な方針・発言はしないことです。
 「○○○○はどうしてこんな署名数なんだ」「○○○○は先頭に立たねば」みたいな発言はさせないように注意しています。


 また浜松市原水協として、勝手に加盟団体の署名目標を決めたりはしていません。それは各加盟団体が自主的に決めることです。もちろん、各加盟団体が自主的に決めた署名目標は原水協内でアナウンスしています。


 各加盟団体ができることは、全国の例や各団体同士でお互いに学び合って、自分の団体内を改善することです。そういう努力を、もっと浜松市原水協内で交流していきたいと思います。


 同じことですが、今発言したことは、あくまでも浜松市原水協の経験として発言しているだけであって、県原水協や他の地域原水協に押しつけるつもりはまったくありません。ただ、他のみなさんの参考例にもしなればということで発言をしてました。


 この前の常任理事会で浜松市原水協の規約改正の個人会員・個人理事制度について、発言が集中しましたが、浜松市原水協はみんなで何ヶ月間、何回も、民主的に論議した結果、私たちは団体・個人加盟の地域原水協を選択したという報告だけです。県原水協の加盟団体である以上、県原水協に規約改正を報告するのは当然のことだろうと思います。


 みんなが同じようにしなければならないという意見には同意しません。私たちは、団体加盟だけの地域原水協の発展も心から願っています。それぞれの選択の自由だと思います。


 以上です。」







 青い銀河とオレンジの花 断片資料 7 「智彦君より則子さまへ 2013年5月21日(火)」 20201227

2020年12月27日 17時42分11秒 | 青い銀河とオレンジの花


 青い銀河とオレンジの花 断片資料 7 「智彦君より則子さまへ 2013年5月21日(火)」 20201227

「智彦君より則子さまへ 2013年5月21日(火)

○葬儀、よろしくお願いします


○平和行進の「政治活動」「選挙違反」について
 ・気にせずに市民運動として堂々とすすめる、という側面と
 ・どんな弾圧もきちんと想定して最大限対応する、という側面
  両方あるように思います。
  どんなに用心したって、相手が弾圧の意図があれば、自然災害と同じように、避けられないです。そこは割り切らないと。


 いまのところ、戦術的に打つ手は…
 ① ぼくらから県実行委員会と相談する
 ② 県実行委員会から中央実行委員会または日本原水協と相談してもらう
 ③ ぼくらから、はままつ共同法律事務所に相談しておく
 ④ 必要と判断すれば、県実行委・西遠実行委で県選管と話をする


 これくらいかな?
 昼間の葬儀が終わって、則子さんが家に帰ってきたら相談します。


○ぼくらのしているのは地獄巡り。それが、たぶん、ぼくらの任務なのでしょうね。いやだけど、しょうがないですね。


 「聞いて極楽、見て地獄」
 ぼくらは、どうしたって、この世界、地獄の世界に生きているのですね。
 これが自分たちの「天国」だと思い込んでいるのが、橋下さんや石原さんや安倍さんです。悲惨ですね。


 ボクや則子さんは、リアルに見えるものが見えるのですね。
 地獄が地獄として見えるのが幸せとは変な言い方ですが。
 「どなるど」の社長さんには、たぶん見えていないのではないかと。


 ダンテは恋人ヴィルジニーに導かれてさまよった地獄を『神曲』で歌いました。
 ぼくも、則子さんとさまよった、この世界を、いつか歌いたいと思います。


○「給料一部払い」で違法にならないって、変ですね。西部地区労連に「労働 相談」に行きましょうか?


○一つひとつの地獄に、こだわってもしょうがないので。変えようがなければ、 すぐ離脱して,次の、もう少しましな地獄を探しましょう。





青い銀河とオレンジの花 断片 13 切手を集める趣味 20201224

2020年12月24日 17時13分34秒 | 青い銀河とオレンジの花
 
青い銀河とオレンジの花 断片 13 切手を集める趣味 20201224


小学校のころから切手を集め始めた。きっかけは覚えていない。そういう切手収集が趣味としてあるのを知って、屋内遊びが好きなボクに合っていると思ったのかも知れない。


 そのころの「学年雑誌」、ボクが読んでいた『小学○年生』に切手収集のことが書いてあったのではないかと想像する。


 たぶん家へ来た郵便物の切手をもらいはじめたと思う。


 もうひとつの大きなきっかけは家の近くに大阪屋という小さい文具屋があって、そこで切手コーナーがあり記念切手を売っていたことだ。


 だから小中学生のころは郵便局で直接、記念切手を買うのではなく、大阪屋で1枚ずつ買っていたと思う。


 いまでも小学生当時の「ストックブック」が、当時、切手をはさんだままに残っている。


 大人になってから、結婚してからも、切手趣味はそのまま続いて、雑誌『郵趣』がボクのところに数十冊残っている。


 アルバムにヒンジで貼ってちゃんと整理した切手はごくわずかです。集めた切手さんたちに申し訳ないなと思います。切手さんたち、ごめんなさい。


 切手の分類・整理に使うボクの残り時間は、あるのだろうか。


 せめて「切手は世界」で集めた切手たちのことを紹介していきたい。



 青い銀河とオレンジの花 断片資料 7 「あなたもいっしょに この青い地球のものがたりを書いてください」

2020年12月22日 15時52分28秒 | 青い銀河とオレンジの花
 青い銀河とオレンジの花 断片資料 7 「あなたもいっしょに この青い地球のものがたりを書いてください」

 ゴミ環境問題ネットワークが、2002年(平成14年)3月10日、雄踏町で「生命と水をまもる環境展INはまな」を開いた時につくった「詩的メッセージ」です。ただし会場で掲示した原文はすこし違います。


 今回さらに以下の修正を加えました。第5連を行替えして、第7連の後半を一部修正、第9連に3行目をつけくわえ、最終行を修正しました。


 これは詩ではなくてボクが書いてきた「詩的メッセージ」です。なぜこれを書いたかということは、「ごみかん(ゴミ環境問題ネットワーク)」の歴史をきちんとふりかえらないと実感できないでしょう。


 それは、いずれ自伝の「ごみかん(ゴミ環境問題ネットワーク)の章」で果たすことにします。






「あなたもいっしょに この青い地球のものがたりを書いてください




ふるさと それは
綠深い里山に かこまれた村
青い空を映す 海や川


そんなふるさとが 失われて
人間どうしが いがみあって
地球が 汚されて
自然が 遠くなって


きょう 2002年3月10日
あなたは ここに 生きています


あなたが いま 30才なら
生命は40億年前に生まれて 受け継がれてきたのですから
あなたの命は 40億年と30才です
あなたの命をかたちづくる元素は
この宇宙が生まれて150億年と30才です


いま ここに生きて あなたは
浜名湖のなぎさに打ち寄せる波の音が 
 聞こえますか
頬を触っていく潮風を
 感じられますか
白い花の優しいそよぎが
 目に見えますか
水平線に消えていく カモたちの飛翔が
 網膜に刻まれていますか
子どもたちの歓声が
 心に響きますか


もし あなたが この地球を愛するなら
あなた自身と生命が たいせつなら
あなたの生命と あなたの惑星を守ってください


あなたとわたしたちは
 地球の管理人です
世代から世代へ
 受け渡すべき地球と生命を負って


あなたの命は どこまで届くの?
あなたの遺伝子は はるか未来へ 達するの?


わたしたちが これまで主張してきたことは
わかったことの ほんの一部です
わかったことは ほんの一部です


わからないこと 知らないこと 知るべきこと
みんなで いっしょに 歩いて
知り 考え 決めながら


今日 いまを 出発点にして
たくさんの人たちと手をつないで


この青い惑星のものがたりを 書いていくのは
この命を 未来へ受け渡すのは
わたしたちと あなた」

20201222






 青い銀河とオレンジの花 断片資料 6 生きるためのよびかけ 20201220

2020年12月20日 19時38分32秒 | 青い銀河とオレンジの花
 青い銀河とオレンジの花 断片資料 6 生きるためのよびかけ 20201220

 ぼくたちが浜北で里山活動をしていたころに書いた「詩的メッセージ」。芸術的価値はないけれど、自分の心情をよく表わしている。そういう意味で歴史的価値はあると思う。


 以前、このブログに掲載したが、「青い銀河とオレンジの花 断片資料」として再掲載する。
 


 生きるためのよびかけ  わたしたちから あなたたちへ


                 雨宮智彦


あなたは 初夏の木々の息吹きを 感じますか?
鳥たちの 甘いさえずりが 耳に 聞こえますか?
ほら トンボたちの 飛翔
聞こえる? カエルたちの ラブコール
暑い夏 そして秋の セミたちの 鳴き声
生き物たちの 必死の恋が あなたの心に 届きますか?


いつのまにか 春の小川は コンクリートの水路になり
まわりの 水田はつぶされ マンションと駐車場になり
遊び場だった 緑の森は ゴルフ場や産廃処分場になり
ぼくたちは 生命と地球から遮断され 分断され 
お互いの 共感もなくなって ばらばらの個人になって
自然からも はるかに 遠くなってしまい


もし あなたが 今 里山のホタルの小さな光を 愛するなら
里山に 咲いているササユリと 共感できるなら
湿地の草むらで ひっそりと飛んでいる モノサシトンボと ゆったりと会話できるなら


あなたの子どもたちや孫たちの命は 
この地球の今と 遠く未来に届くでしょう


もう ぼくもいない きみもいない 遠い 温かな未来
ぼくときみの 子孫や 
あなたたちの 子孫が
ぼくときみが歩いた川べりを ゆったりと 歩いている
ぼくときみが汗をにじませて手をとりあって見たホタルを 見ている


自然と生命と幸せが よみがえり 輝く緑の里山
笑い声
真剣な 論議
幸せな 会話
だいじょうぶだよ ぼくたちは 今を 生きているんだよ


今日も 谷間は 草の匂いの そよ風が吹いて
ミツバチが 花から花へ 花粉を集め
里の家の前を オニヤンマが 大気を切って飛翔していく
青い空を サシバが 横切っていく


夜 天球を ゆっくりと回っていく 白い星の光
闇の中を ガサゴソと動いていく イノシシの親子
森の中で 鳴いている フクロウ


そんな光景を いま 心の中に 見ながら
ぼくも きみも あなたも 
だいじょうぶだよ
いっしょに 生きようね
今のあなたで だいじょうだよ と呼びかけながら 
生きている
もっと もっと 生きていたい


 (2006/6/23up、2006/10/20 2009/9/21補正)」











 青い銀河とオレンジの花 断片資料 5 過去資料 2 「観念論哲学と保育ー柳田謙十郎さん批判  20011102」

2020年12月19日 08時07分32秒 | 青い銀河とオレンジの花

 青い銀河とオレンジの花 断片資料 5 過去資料 2 「観念論哲学と保育ー柳田謙十郎さん批判  20011102」


 〔 過去の残っているボクの文書資料で「自伝 青い銀河とオレンジの花」に参考になりそうなものを掲載していきます。
 自筆でノートなどに残っているものと、パソコンファイルとして残っているものがあります。 


 2001年11月2日という日付は執筆の日ではなく、残っていたテキストファイル「やなぎだtxt.」に変換した日付です。他にも同じ2001年11月2日付けのテキストファイルがいくつも残っていますので。       
 内容的にはまったく不十分でここにさらすのは恥ずかしいのですが、当時はここまで考えていたという意味で、掲載する価値はすこしはあると思います。


 これのもとになった本が出てきたら紹介します。


 雨宮智彦 〕






「観念論哲学と保育ー柳田謙十郎さん批判


はじめに


 柳田謙十郎さんとは誰か?




1、自然・宇宙・地球の歴史


 じっさい、ぼくは驚いたね。科学的社会主義の普及を任務とする労働者学習協会の会長が「自然の奇跡ともいうべきものでさえ…自然の世界の底には何らかの仕方で…創造的生命のエネルギーとでもよばるべき主体的なものが流れている…」(P18)と、くるんだから。


 これは、正真正銘の観念論ではないですか。そのすぐあとに「われわれに(誰に?)とって自然とは、硬化し固定化し動きのとれないような不毛の存在ではなくて、無始から無終にわたって、つねに新たなるもの、より高度なるものを生みださずにはいな客体的即主体的な生命をもった創造的自然である」(P19)


 自然=生命!?自然のなかに内的矛盾を持った発展過程を発見し、この「発展」「矛盾」の法則性を自然ー生命ー社会のすべてに、それこそすべての現象の「底に」、神を発見する宗教や観念論のたぐいではないですか。


2、生命とはなにか 


〔 注:この章は書かれなかった 〕


3、現在をどう見るかー自然史と人間史


 柳田さんのこの論文は「自然と人間」という表題なのに、まず「人間」の分析が「ない」のですね。えっ!とあなたはびっくりしますか。あなたは、この論文を読んだんでしょう。読んでくださいね。読んだという前提でこの文章を書いているのだから。


 だって、柳田さんは科学的社会主義だっていうんだから。科学的社会主義で「人間」論を語るのに、弁証法的唯物論だけを使っていればいいなんて言う人は一人もいないと思う。これは科学的社会主義の常識があるなら、史的唯物論の領分ですよね。そうじゃないという人がいれば反論してください。反論はできないよね、科学的社会主義であれば。


 柳田さんは「自然と人間」という表題で、延々と「自然」と「人間」の「非連続と連続」の話をしている。


 だから、ほんとうの「非連続と連続」の「境い目」は、どこかへすっとんでしまう。ほんとうの「境い目」は、どこにあるか。


 柳田さんにとっては、「人間の自覚的行動とは何か。それは自然史の延長としての人間の歴史を意識をもって展開してゆくことである。」


4、階級と党派性と人格


〔 注:この章は書かれなかった 〕


5、民主主義とは


 「かくして」、柳田さんにとっては「かくして成立したブルジョア民主主義は、ブルジョア階級の利益のための民主主義であって、」(P28)


 これもおお間違い。


6、個人と集団、社会


 「わたし」、「われわれ」、「人間」、「自己」。これらは同じようでも、それぞれ異なった概念です。重なりあうが、同じではない。柳田さんは、これらの概念をすべて「自己」のうちに取り込んでしまい、さらに


 〔 注 この後は書かれなかった 〕


7、観念論哲学と保育


 柳田さんの最後の言葉はこうです「このような科学的実践にとって、いたずらに主観主義的な大言壮語ほど憎むべき敵はいないのである。」(P99)
 そのとおり!」







青い銀河とオレンジの花 断片資料 3 1988年のパソコン生活 20201215

2020年12月16日 08時47分35秒 | 青い銀河とオレンジの花
 青い銀河とオレンジの花 断片資料 3 1988年のパソコン生活 20201215




 1988年のパソコン生活




 1988年7月28日付け紙カード(B6)メモに手書きしたものが残っている。


 「パソコン 当面の学習と作業 88年度 88/7.28 
   9801VX2=メイン機 
   エプソンワードバンクNote2=補助機 
 当面の学習 
  (1)MSーDOS
  (2)ハードディスク
     来年 (パソコン通信、パソコン会計)
  (3) 桐、新松の習熟」


 「9801VX2」がNEC98の最初に買った機種かどうかは、いまわからないが、当時はデスクトップが主流で、いまみたいなノートパソコンは考えられなかったと思う。


 「エプソンワードバンクNote2」は三二補助器だった。


 ボクは当時はパソコンワープロに「松」を、データベースに「桐」を使っていた。今でも松ファイル、桐ファイルは残してある。これをなんとかテキストファイルに落とす方策がないものだろうか。