本と映像の森44 ル=グウィンさん『ゲド戦記1 影との戦い』岩波少年文庫、岩波書店、新版2009年1月16日第1刷、318p、定価720円+消費税
「ことばは沈黙に
光りは闇に
生は死の中にこそあるものなれ
飛翔するタカの
虚空にこそ輝ける如くに」
「ゲド戦記」の第1巻です。裏表紙に書かれたストーリーは以下の通りです。
「アースシー(地海)のゴント島に生まれた少年ゲド(通称ハイタカ)は、自分に並みはずれた力がそなわっているのを知り、真の魔法をまなぶためにロークの学院に入る。進歩は早かった。得意になったゲドは,禁じられた魔法で、自らの<影>を呼び出してしまう。」
ここまで書いたところで、N子さんと娘のIさんが「1巻、貸して」と来たので、しばらく手元を離れていて、やっと帰ってきました。
原題は「A WIZARD OF EARTHSEA」ですから、「地海(アースシー)の魔法使い」という直訳になります。
ゴント島の「北谷」の奥の「10本ハンノキ」村で生まれたダニーさんはまじない師である叔母さんから鳥やけものをあやつる魔法を習い、「ハイタカ」と呼ばれるようになります。
ハイタカさんが12才になった時、ゴント島の東方の「カルガド帝国」の軍隊が島を襲います。ハイタカさんは村を守るため霧をあやつる魔法を使い、村民を救います。
その噂がゴント島にいた大魔法使いの「沈黙のオジオン」さんの耳に入り、オジオンさんが弟子にならないかと、ハイタカの元にやってきて、13才で「ゲド」という真の名前をオジオンさんからもらい、弟子入りします。
二人の会話はこうです。
オジオン「魔法が使いたいのだな」「だが、そなたは井戸の水を汲みすぎた。待つのだ。生きるということは、じっと辛抱することだ。辛抱に辛抱を重ねて人ははじめてものに通じることができる。ところで、ほれ、道端のあの草は何という?」
ゲド「ムギワラギク。」
オジオン「では、あれは?」
ゲド「さあ。」
オジオン「俗にエボシグサと呼んでおるな。」
ゲド「この草は何に使える?」
オジオン「さあ。」
ゲドはしばらくさやを手に歩いていたが、やがてぽいと投げ捨てた。
オジオン「そなた、エボシグサの根や葉や花が四季の移り変わりにつれて、どう変わるか、知っておるかな?それをちゃんと心得て、一目見ただけで、においをかいだだけで、種を見ただけで、すぐにそれがエボシグサかどうか、わかるようにならなくてはいかんぞ。そうなってはじめて、その真の名を、そのまるごとの存在を知ることができるのだから。用途などより大事なのはそっちの方よ。そなたのように考えれば、つまるところ、そなたは何の役に立つ?このわしは?はてさて、ゴント山は何かの役に立っておるかな?海はどうだ?」
オジオン「聞こうというなら、黙っていることだ。」
修行中のゲドは、アルビの領主の娘の誘惑と挑発に乗ってしまい、オジオンが秘蔵していた『知恵の書』で「影」を呼び出してしまい、ゲドが影から逃げて逃げまくり、そして後半から、影を逆に追い詰める、長い長い、旅が始まります。
ゲドが、自らの影に食い散らされ支配されることを救ったのはなんだったのでしょうか。
それは旅の道連れになった、小動物のオタク(ナウシカのテトのように)であり、
道端のムギワラソウであり、エボシギクであり、
最後の「狩り」の旅につきあうことになった親友の魔法使いカラスノエンドウであり、
カラスノエンドウ一家の弟のウミガラスや妹のノコギリソウと過ごした時間
ではなかったでしょうか。
けっきょくのところ、一人ひとりの力は、そういうところからしか、発しません。
心の中に何も守るべきもの、大事なものがない人間は、最初から虚無を生きているのではないでしょうか。
ゲドは、地位や名誉や権力や支配力を追い求める衝動(影)を押さえ込んで、自分自身を取り戻したからこそ、ゲドでいることができたのではないでしょうか。
最後の「世界の果てへ」の旅の前の会話。
ノコギリソウ「これだけは教えて。もしも、秘密でないことだったら。光り以外に大きな力というと、ほかに、どんなものがあるの?」
ゲド「それだったら、秘密でもなんでもないよ。どんな力も、すべてその発するところ、行き着くところはひとつなんだと思う。めぐってくる年も、距離も、星も、ろうそくのあかりも、水も、風も、魔法も、人の手の技も、木の根の知恵も、みんな、もとは同じなんだ。わたしの名も、あんたの名も、太陽や、泉や、まだ生まれていない子どもの真の名も、みんな星の輝きがわずかずつゆっくりと語る偉大なことばの音節なんだ。ほかに力はない。名前もない。」
ウミガラス「死は?」
ゲド「ことばが発せられるためにはね」「静寂が必要だ。前にも、そして後にも」
ゲドの行為(する人生)ではなく、ゲドの存在(いる人生、ある人生)に共感します。
、ピアニストで指揮者のダニエル・バレンボイムさんが「音楽は、沈黙に始まり、沈黙で終わる」という意味のことを語っていたことを思い出しました。
バレンボイムさんは、著書もあり、その中で「日本人は沈黙の意味をよく知っている」と過大評価してくださっているようです。
たぶん、曲が終わった瞬間に、間髪を入れず大きな拍手をするような欧米の観客にうんざりしていたんでしょうね。
バレンボイムさんは、ユダヤ教徒ですが、イスラエルとパレスチナの和解のために、ガザで青少年によるコンサートを企画した、とてもすてきな人です。
「ことばは沈黙に
光りは闇に
生は死の中にこそあるものなれ
飛翔するタカの
虚空にこそ輝ける如くに」
「ゲド戦記」の第1巻です。裏表紙に書かれたストーリーは以下の通りです。
「アースシー(地海)のゴント島に生まれた少年ゲド(通称ハイタカ)は、自分に並みはずれた力がそなわっているのを知り、真の魔法をまなぶためにロークの学院に入る。進歩は早かった。得意になったゲドは,禁じられた魔法で、自らの<影>を呼び出してしまう。」
ここまで書いたところで、N子さんと娘のIさんが「1巻、貸して」と来たので、しばらく手元を離れていて、やっと帰ってきました。
原題は「A WIZARD OF EARTHSEA」ですから、「地海(アースシー)の魔法使い」という直訳になります。
ゴント島の「北谷」の奥の「10本ハンノキ」村で生まれたダニーさんはまじない師である叔母さんから鳥やけものをあやつる魔法を習い、「ハイタカ」と呼ばれるようになります。
ハイタカさんが12才になった時、ゴント島の東方の「カルガド帝国」の軍隊が島を襲います。ハイタカさんは村を守るため霧をあやつる魔法を使い、村民を救います。
その噂がゴント島にいた大魔法使いの「沈黙のオジオン」さんの耳に入り、オジオンさんが弟子にならないかと、ハイタカの元にやってきて、13才で「ゲド」という真の名前をオジオンさんからもらい、弟子入りします。
二人の会話はこうです。
オジオン「魔法が使いたいのだな」「だが、そなたは井戸の水を汲みすぎた。待つのだ。生きるということは、じっと辛抱することだ。辛抱に辛抱を重ねて人ははじめてものに通じることができる。ところで、ほれ、道端のあの草は何という?」
ゲド「ムギワラギク。」
オジオン「では、あれは?」
ゲド「さあ。」
オジオン「俗にエボシグサと呼んでおるな。」
ゲド「この草は何に使える?」
オジオン「さあ。」
ゲドはしばらくさやを手に歩いていたが、やがてぽいと投げ捨てた。
オジオン「そなた、エボシグサの根や葉や花が四季の移り変わりにつれて、どう変わるか、知っておるかな?それをちゃんと心得て、一目見ただけで、においをかいだだけで、種を見ただけで、すぐにそれがエボシグサかどうか、わかるようにならなくてはいかんぞ。そうなってはじめて、その真の名を、そのまるごとの存在を知ることができるのだから。用途などより大事なのはそっちの方よ。そなたのように考えれば、つまるところ、そなたは何の役に立つ?このわしは?はてさて、ゴント山は何かの役に立っておるかな?海はどうだ?」
オジオン「聞こうというなら、黙っていることだ。」
修行中のゲドは、アルビの領主の娘の誘惑と挑発に乗ってしまい、オジオンが秘蔵していた『知恵の書』で「影」を呼び出してしまい、ゲドが影から逃げて逃げまくり、そして後半から、影を逆に追い詰める、長い長い、旅が始まります。
ゲドが、自らの影に食い散らされ支配されることを救ったのはなんだったのでしょうか。
それは旅の道連れになった、小動物のオタク(ナウシカのテトのように)であり、
道端のムギワラソウであり、エボシギクであり、
最後の「狩り」の旅につきあうことになった親友の魔法使いカラスノエンドウであり、
カラスノエンドウ一家の弟のウミガラスや妹のノコギリソウと過ごした時間
ではなかったでしょうか。
けっきょくのところ、一人ひとりの力は、そういうところからしか、発しません。
心の中に何も守るべきもの、大事なものがない人間は、最初から虚無を生きているのではないでしょうか。
ゲドは、地位や名誉や権力や支配力を追い求める衝動(影)を押さえ込んで、自分自身を取り戻したからこそ、ゲドでいることができたのではないでしょうか。
最後の「世界の果てへ」の旅の前の会話。
ノコギリソウ「これだけは教えて。もしも、秘密でないことだったら。光り以外に大きな力というと、ほかに、どんなものがあるの?」
ゲド「それだったら、秘密でもなんでもないよ。どんな力も、すべてその発するところ、行き着くところはひとつなんだと思う。めぐってくる年も、距離も、星も、ろうそくのあかりも、水も、風も、魔法も、人の手の技も、木の根の知恵も、みんな、もとは同じなんだ。わたしの名も、あんたの名も、太陽や、泉や、まだ生まれていない子どもの真の名も、みんな星の輝きがわずかずつゆっくりと語る偉大なことばの音節なんだ。ほかに力はない。名前もない。」
ウミガラス「死は?」
ゲド「ことばが発せられるためにはね」「静寂が必要だ。前にも、そして後にも」
ゲドの行為(する人生)ではなく、ゲドの存在(いる人生、ある人生)に共感します。
、ピアニストで指揮者のダニエル・バレンボイムさんが「音楽は、沈黙に始まり、沈黙で終わる」という意味のことを語っていたことを思い出しました。
バレンボイムさんは、著書もあり、その中で「日本人は沈黙の意味をよく知っている」と過大評価してくださっているようです。
たぶん、曲が終わった瞬間に、間髪を入れず大きな拍手をするような欧米の観客にうんざりしていたんでしょうね。
バレンボイムさんは、ユダヤ教徒ですが、イスラエルとパレスチナの和解のために、ガザで青少年によるコンサートを企画した、とてもすてきな人です。