雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 5月30日(木)夕方 父が胃がもたれると言うので

2013年05月31日 05時42分58秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月30日(木)夕方 父が胃がもたれると言うので

 「雨宮日記」を毎日書くことに決めました。

 午後起きて、「おうちコープ」(最近、「ユーコープ」に合併)の荷物を玄関に置いておいてくれるので、数箱から出して、冷蔵庫と冷凍庫に入れました。

 なんかピーピーと音がするので、何度か冷蔵庫のドアを見たけど、どれも閉まっています。よく聞くと、レンジの辺で音がするので、よく見ると、レンジのスイッチが完全にオフになっていなくて、中途半端になってオレンジの警告灯がついていました。

 気をつけないと、あぶないです。

 夕食のとき、父が「胃がもたれて重い。おかゆしか食べられない」というので、則子さんがお粥を作りました(ボクにも「作り方」を教えました)。

 父のために、則子さんは明日、仕事を休むことにして、職場に電話。そして遠鉄電車・助信駅横の七草クリニックに電話して午前中に予約しました。ごくろうさまです。

 ボクは明日が公式の仕事の最終日ですが、あと、引き継ぎで教えるため、2回ほどついていきますので6月5日が最終日です。

 

 


雨宮日記 5月30日(木)早朝 自宅でアマガエルが鳴いて

2013年05月30日 06時56分58秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月30日(木)早朝 自宅でアマガエルが鳴いて

 深夜の仕事中、ずっと雨でした。午前5時半頃、帰宅。全身濡れたので、下着まで全部着替えていたら、窓の外で、何とアマガエルが鳴きました。

 安定した水場があって、餌がいれば、生息できるのですが。十軒町や早出町の近所は、むかし多かった畑がわずかになって、ほとんどマンションと駐車場になってしまいました。

 自然環境を復元したいですね。

 アマガエルやトノサマガエルが生きていけるような環境でないと、人間も長くは生き延びられないのでは?と感じます。

 感じるだけではだめですね。科学的に、きちんと証明できて、みんなを納得させられるような学問を作らないと、と思います。

 


雨宮日記 5月29日(水) 則子さんは小雨の平和行進へ

2013年05月30日 06時37分22秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月29日(水) 則子さんは小雨の平和行進へ

 原水爆禁止平和行進が、今年も浜松入り(厳密に言えば、昨日の28日の天竜→浜北からです)して、今日は、東区天竜川駅北の六所神社前、南区のユーコープさんじの店、浜北区役所、中区のオートレース場前(浜松基地コース)の4カ所からの集中平和行進です。

 お昼12時20分頃、浜松市役所に4コースからの行進が到着し、今年は市役所前の駐車場で「昼休み集会」を開きました。例年、旧館(北館)1Fの会議室でやっているのですが、今年は明日から県知事選に突入のため、いつも投票所になる会議室が準備で使えなくて、野外になりました。

 昼休み集会では、夏の世界大会で今年は広島へ届ける「ペナント」を市長さん、議長さん、中区長さんからもらいますが、議長さんが忘れたので、あとでもらいにいくことにしました。

 午後は、市役所からJR高塚駅南西の熊野神社まで歩きます。

 今年はフィリピンから若い女性が、この東京→広島コースを歩くというので、みんな期待していたと思いますが、なんとビザの関係だかで、いったん5月27日にフィリピンへ戻り、あとでまた合流する、つまり浜松では彼女はいない、ということがわかって、ちょっとがっかりです。

  ☆

 ぼくは午後起きて、学習・雑事・掃除をしていると、午後4時30分ごろ、則子さんの携帯から電話がありました。

 (平和行進をさぼっているわけではなく、まだ深夜のきつい仕事をこなしながら、則子さんが指示する、ありとあらゆるレジュメ・ちらし・文書・地図をすべて書くのが、ぼくの「則子無給秘書」の仕事ですので、誤解しないように。あ、無給なのを不満に思ってるわけじゃなくて、夫婦関係は基本的にボランティアということですので)

 「いま行進が終わって宣伝カーに乗せてもらって市役所へ行くんだけど、迎えに来てくれる?」というので、すぐ車で家を出ました。

  ☆

 何ヶ月も準備してきた平和行進ですが、わずか数日で終わります。まあ、何ヶ月も準備してきた演劇公演が、わずか数日でアッという間に終わってしまうのと同じでしょうか?

 


雨宮日記 5月27日(月) 郵便局で父の本を発送、ほか 

2013年05月29日 06時10分17秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月27日(月) 郵便局で父の本を発送、ほか

 起きてから、いろいろ動き回りました、

 日曜日の夜に則子さんと必死でやった、父の本の発送で、則子さんから指示された通り、郵便局へ。早出郵便局へ行き発送しました。まだ、残りがありますが、できるだけ近々、発送したいと準備しています。

 浜松市職へ行き、平和行進で車の運転をしてくれる書記のKさんに、地図を渡し、コースの説明をしました。

 その後、中央図書館へ行き、本8冊を借りました。久留間鮫造さんの著書『資本論辞典』『経済学史』を検索したらあるので、「借りたい」と申し出たら、城北図書館にありました。予約をして帰りました。3日くらいで中央図書館へ届くそうです。

 


雨宮日記 5月26日(日) 地図作りが続く日々

2013年05月28日 05時47分43秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月26日(日) 地図作りが続く日々

 この数日間、仕事の引き継ぎ用の地図作りと、則子さんの秘書として平和行進の地図作りに追われる日が続いています。

 わかりやすく、正確に、というのはかなり神経を使います。

  ☆

 福岡伸一さんの「動的平衡」論、生命の「全体は部品の合計ではない」論は正しいと思いますが、今日は哲学者ヘーゲルの解説書を読んでいて、ヘーゲルが、機械的な「全体ー部分」ではない、部分の寄せ集めではない「総体性」という概念を論じていることを知りました。

 やはり『小論理学』『大論理学』『精神現象学』などを読まないと、わからないんでしょうね。

  ☆

 寝る前のお酒、ビールがおいしい季節になりました。では、おやすみなさい。

 


雨宮日記 5月24日(金) やっと平和行進の「許可」が出てホッと

2013年05月25日 21時01分19秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月24日(金) やっと平和行進の「許可」が出てホッと

  まあ、本来なら、市民運動・大衆運動に「許可」もへったくれ(「へったくれ」って何?)も、ないんですが、現代日本の状況では、警察署に「示威運動」許可願いを出してやる法的状況です。

 やっと警察の許可が出ました。

 月曜日に許可証を取りに行ってきます。

  ☆

 午後4時半過ぎ、帰って来た則子さんと2人で、西部T労連に、平和行進の運転手さん用の地図を届けに行きました。

 3日間、無理なお願いをして、しかも、前日、磐田市の国府台(こうのだい)まで車を取りにいってもらうということまでしてもらいます。平和のためとはいえ、頭が下がります。ありがとうございます。

 家へ帰ってきて、2人で慌てて、家族(2人と父と次女)4人分の夕食をかなりインスタントに作って、父と3人で食べました。

 こういうときは、ボクが汁と炒め物を作って、則子さんが煮物を1品作って、という感じになります。ぼくも、煮物を研究しないといけませんね。

  ☆

 夜は2人で、会議に参加。ただ参加するなら楽だけど、ぼくたちが主催なので、ぼくが2階の自室で、急いでレジュメを打って(書くとは言いません、キーボードを「打つ」んです)、自分の中古プリンターで印刷しました。

  ☆

 夜中は、仕事で、引き継いでくれる方に、助手席に乗ってもらって、いっしょに回りました。ぼくは本屋で市内を車で走り回っていましたが、この方は、文具屋さんで市内外を車で走り回っていたそうです。ぼくより5つ年上の男性なので、この仕事は、たいへんだろうなと、思います。よろしくお願いします。

 

 

 

 


雨宮家の歴史 12 父の『落葉松』 Ⅰー9 「母のこと」 

2013年05月25日 07時07分16秒 | 雨宮家の歴史

第二部  生い立ちの記  Ⅰ 9 母のこと

  片桐茂君は私の幼友達である。父親が谷島屋の支配人であり、私の父の上司でもあた。家も近かったので、茂ちやんと呼んで一緒に遊んだ。

 最近、彼から父の古い日記が見つかったが、その中に次のような記事があったと知らせてきた。書かれた字は、のたくっていて読みにくがったが、彼が判読してくれた。

 「明治四十二年十二月十三日  中谷福男君 朝来る妻君の件にて 御主人様 おさわ様    福男君の妻君の世話致し事にて八時頃伝馬町へ出かける
  十二月十四日  福男君及妻君来る  十一時にて上京する  おさわ様送りにゆく」

  御主人様、おさわ様は谷島屋の二代目店主源三郎夫妻で、福男君は私の父であり、伝馬町は私の母、正岡里子の実家のあった所である。文面から察するに、この日に父母は、店主夫妻の世話で、簡単な祝言をして結婚し、翌日上京したようである。(「第一部  わが家のルーツ 7 谷島屋書店」参照)
 父二十一歳、母十九歳であった。

  母の実家は伝馬町九十番地。今の「米久ホテル」の近くで、料理屋「八百吉」の真向かいに当たる。私の青春を満足させてくれた映画館「吾妻座」の近くでもあった。

  伝馬町は東海道筋に当たり、江戸時代に人馬の継ぎ立てなど、一切の公事を司る伝馬役が置かれたことなどからその名がついた。本陣、脇本陣なども置かれ、宿場町としての浜松の中心であった。それに伴い、旅籠屋・貸座敷・置屋・料理屋などが軒をつらねて、それは隣の旅篭町にまでも及んだ。

  母の実家はそのなかの貸座敷の一軒で、「和泉楼」といった。当時、伝馬町には紙屋・島屋・米久・おもだか屋・駿河屋・川崎楼・池田屋など著名な貸座敷があった。

  明治六年二月の浜松県令林厚徳による「娼妓並貸座敷渡世之者心得」によると、娼妓は鑑札に三十銭、月に税金一円五十銭。貸座敷は鑑札に二十銭、月に一円の税金を納めねばならなかった。母が嫁いだ時には、父は既に亡く、店も廃業して長兄が正岡家を継いでいた。      

  「和泉楼」で亡くなった娼妓たちは、母の実家ー正岡家の菩提寺の西見寺(平田(なめだ)の踏切の近くにあったが、今は入野の西鴨江町に移った)に葬られている。

  旧幕時代から浜松の発展に寄与して来た伝馬町・旅篭町の花街も、時代が移ると薄情なもので、市の中央にあっては町の発展に支障を来すとか、風紀上好ましくないと、大正十二年、鴨江町に集団移転して双葉遊郭となった。

 


浜岡原発ニュース お知らせ 5月27日(月)浜岡裁判第8回口頭弁論です

2013年05月25日 06時53分50秒 | 浜岡原発ニュース

浜岡原発ニュース お知らせ 5月27日(月)浜岡裁判第8回口頭弁論です

 静岡地裁浜松支部でたたかわれている浜岡原発永久停止裁判は、第8回口頭弁論が、5月27日(月)午前11時開廷で開かれます。

 今回は、前回に追加提訴した第5次原告団から4人が各4分づつ意見陳述、弁護士3人が新訴状の内容(阿部弁護士)・国を被告とした意味(塩沢弁護士)・訴訟費用を倍額とした不当性(大橋弁護士)を意見陳述します。

 なお、中電を被告とした提訴としては「第8回口頭弁論」ですが、国を被告とした提訴としては「第1回口頭弁論」となります。

 ただし、区別して言うのも煩雑になるので、裁判の始まりから数えて「第8回口頭弁論」と統一的に数えようと思います。

 今回は、国と中電のそれぞれから、非常に簡単な「答弁書」が提出されました。

 裁判終了後に、裁判所南隣りの浜松地域情報センターホールで、報告集会を開きます。

 ぜひ傍聴においでください。報告集会にもご参加ください。

 ( 雨宮智彦 )

 


原発・放射能ニュース 5月24日(金) 東海村の実験施設で汚染

2013年05月25日 06時37分55秒 | 原発・放射能ニュース

原発・放射能ニュース 5月24日(金) 東海村の実験施設で汚染

 日本原子力開発機構は、同機構の加速器施設で23日正午ごろ、放射性物質が漏洩し、4人が内部被曝した可能性があり、実験室にいた他の51人も被曝の可能性があると、24日夜に原子力規制委員会に通報しました。

 報道に寄れば、金原子に加速した陽子をぶつける実験中に装置の誤作動で金原子が異常な高温になり一部が蒸発、発生した放射性物質が管理区域外に漏洩した、そうです。

 内部被ばくした4人のうち、最大値は2ミリシーベルトです。

 報道では、この施設の正式名称も、所在地も、定かではありません。

 原子力規制委員会は、通報が事件発生から1日以上経った24日夜まで遅れたことは「遺憾」とし、「原因究明や再発防止策」を求めています。

 報道では,原子力開発機構が、どんな通報ルールに違反しているのかも、わかりません。

 もっと研究します。

 


雨宮日記 5月21日(火) 叔父さんの葬儀と平和行進の相談

2013年05月22日 06時06分26秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月21日(火) 叔父さんの葬儀と平和行進の相談

 昨夜の通夜に続いて、今日はT男叔父さんの葬儀でした。ぼくは仕事が休めない関係で、妻の則子さんに十軒雨宮家を代表して参加してもらいました。

 午後2時頃、浜北の従兄弟の車に乗せてもらって帰ってきました。

  ☆

 すぐ平和行進と県知事選の関係の相談をして、知り合いの弁護士に相談することにしました。

 ボクがS弁護士に電話して、今日7時半なら予定が開くということなので、午後7時半に則子さんと訪問することにしました。

 要点は「静岡県知事選の告示日の30日以後と、静岡県内平和行進の30日、31日が重なる」、これは事実。

 「選挙期間中は公職選挙法では、確認団体以外の「選挙活動」「政治活動」を禁止している(それ自体は不当なのですが)」、これも法律的には事実。

 県選管の電話で聞いた見解では「平和行進は、公選法の政治活動にあたるのではないか」、これは不当。

 よって平和行進の警察への公安条例による届け出が、許可されない場合、許可された場合、それぞれについて、対策を考えました。

 あと数日で、結果は出るはずです。

  ☆

 それにしても、いろんな入り乱れる因果関係を想定して、いろんな「分岐」を想定して対策を考えないといけないと思います。

 可能性・偶然性・必然性、意志・決意・あきらめなどなど、が入り交じって、未来を決めて生きます。

 「許可されるはず」という思い込みで、時をムダに過ごすと、時は「味方」にならず「敵」になると思います。

 可能な、あるいは想定不可能な、場合を想定して、あらゆる手を打っておかないと、未来は我々の手から、あるいは我々の視界からすり抜けてしまうと思います。

 

 


雨宮日記 5月20日(月) 叔父さんの通夜、仕事終了まであと10日

2013年05月21日 05時37分05秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月20日(月) 叔父さんの通夜、仕事終了まであと10日

 出雲殿(セレモニーホール)でT叔父さんのお通夜でした。妹の車と私の車で、妹・父・則子・ぼくで行きました。妹は大きい道を、ボクは細い道を行ったら、妹の方が先に着いていました。

 久しぶりにU子さんや、父の妹のHさんに会えました。午後6時から親族だけのお通夜、この和尚さんはわが家のS院の和尚さんと違って、余計な説教がなくて、すっきりしています。

 一般弔問に会釈しながら、親族は交代で食事。いろいろ話をしました。いとこのKさんが、ボクと同じような鳥写真マニアだったのにはびっくりしました。Kさんが自分で作った、アオバズクの写真名刺をもらいました。コハクチョウの話でもりあがりました。

 午後8時の通夜終了までいて、帰りました。

  ☆

 帰ってから、則子さんと平和行進の相談。まずファックスを県平和行進実行委員会に送ることにしました。

  ☆

 ボクの仕事の終了まで、あと10日です。なんとか、終わりそうです。

 写真はお隣の家のユリです。


雨宮日記 5月19日(日) ボクは静岡へ、則子さんは浜岡へ

2013年05月20日 05時48分08秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月19日(日) ボクは静岡へ、則子さんは浜岡へ

 静岡県にいて「静岡へ行く」というのは他県の方には、奇妙に聞こえるかも知れませんが、浜松人=遠州原人が「静岡へ行く」と言ったら、それは「静岡市へ行く」という意味です。

 浜松人は、自分を「静岡人」とは思っていないので、ほんとうは独立「浜松県」を創りたいのです。明治維新のときには、「浜松県」が数年間かな、ありました。

 ボクは静岡市へ、県学習協の理事会へ参加。新幹線で行くため浜松駅へ行ったら、どうも東海道線の事故のようでした。詳細不明。

 則子さんは新婦人の会の仲間と、浜岡原発と周辺の見学に行きました。帰ってきて話を聞いたら、去年行った時より、「立ち入り禁止」が増えていて、テトラポッドも「移動?(ほんとかなあ)」していたという話です。

 桜ヶ池で地元出身の実業家「水野成夫」さんの像を見付けたそうです。つまり、浜岡原発誘致の功労者ということだそうです。戦前には革新政党の幹部だった方です。

  ☆

 夕方5時に会議を終わって外へ出ると、小雨でした。そのあともずっと小雨。いま午前6時ですが仕事中、ずっと雨でした。

  ☆

 ボクの叔父さん、Tさんが亡くなったというお知らせが来ました。Tさんはボクの父・節三さんの下の弟で、淺田に住んでいて、ボクが小学生の頃に、佐鳴湖にフナ釣りに誘ってくれた記憶があります。4月末の父の「90才お祝い会」には、入院中なのに車椅子で短時間でしたが参加してくれました。

 今日の夜はTさんの通夜なので、ぼくと則子さんと父、そして妹の4人で参加する予定です。

 ☆

 写真は,静岡市で撮影した奇妙なモニュメントです。

 

  


雨宮日記 5月17日(金) 橋下大阪市長「男はガマンできない」論

2013年05月18日 06時41分18秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月17日(金) 橋下大阪市長「男はガマンできない」論

 橋下さんが、率直に言ってくれました。要するに、明言はしないけど、こういうことですね。

 男性には、とくに軍隊のようなストレスの多い「職場」では、溜まった性欲を排泄できる「女性」と「女性器」が必要だ。そのために、日本軍が女性を「慰安婦」として軍人に提供したのは正しいことだ、こういう考えでしょうか。

 さらに橋下さんは、現代のアメリカ軍・海兵隊にも「女性」が必要だと申し入れました。そういう点では、犬が西向きゃ尾は東、で、悪い意味で一貫しています。

 なお「男は性欲をガマンできない」というのはウソです。橋下さんは「ガマンできない」かも知れませんが、「すべての男が」「すべての男性軍人」が、たまった性欲(正確に言えば「溜まった精子」)をガマンできない、とは、すべての男性を橋下さんレベルに引き下げることです。

 排泄されなかった精子は、延々と溜まっていくわけではなく、男性の精巣内で溶けて流れてしまうので、橋下さん、心配いりません。

 男性の性欲も、女性の性欲も平等です。橋下さん、男性の性欲だけ一方的に満足して、どうするんですか?

 セックスとは、自分の性欲と、相手の性欲を両方とも満足させることでしょ?

 それとも、橋下さんは、そういう男女平等で、とても豊かで幸せなセックスを体験したことがないのでしょうか?だとしたら、橋下さんって、すごく不幸ですね。

 だから、あんなに橋下さんって、世の中に攻撃的なんですか?

 

 


雨宮家の歴史 11 父の『落葉松』 第1部の8 アララギ 

2013年05月18日 06時33分36秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 11 父の『落葉松』 第1部の8 アララギ

     (七) 物言えぬ父の最後のかなしけれ 筆もつ御手はふるえて書けず 

                                       (  昭和三年  )

 脳卒中ー昔でいう中気(中風)で半身不随となった卓二は、大正九年十一月八日永眠した。六十二歳であった。

 中谷家の始祖、卓二は最初天林寺に葬られたが、大正十一年、広沢の西来院に移った。以来わが家の亡き人々は、ここに眠っている。(西来院については「第二部  生い立ちの記」で記す)

 卓二の葬儀には、大正七年、福男の帰郷と前後して、東京・本郷菊坂町の安藤金重に嫁した妹の花が、長男を抱いて参列した。尚、中沢に火葬場が出来るまでは、天林寺と西来院で仮葬をしてたそうである(片桐茂「私の自分史」)。

  福男が短歌の道に入ったのは大正十一年であった。そのころ谷島屋では、店のP・Rや文化関係の行事の紹介を兼ねて、タブロイド判四頁、月刊の「 谷島屋タイムス 」を発行した。編集を担当した福男は、文芸欄の穴埋め役として、作歌せざるを得なくなり、遠州地方在住の歌人たちとの交流、世話役として活躍した。

 篠原村の医師・柳本城西氏の主宰する「犬蓼(いぬたで)」は「アララギ」と同じ明治四十一年に、創刊された短歌会の歌誌であるが、城西氏は遠州地方の歌人たちの、最長老格であった。福男は両方の会員となった殆ど当地の歌人たちもそうであった。

 「アララギ」に入会したとき、福男は選者に岡麓(ふもと)を選んだ。当時は投稿者が選者を選べるようであった。

 「岡麓  通称三郎  明治十年三月三日生  三谷ともいへり  始め傘谷という  歌を詠み書を教えて一生を  をはる」(原文のまま)麓が晩年の写真の裏に自分で書き付けた自伝である。歌ばかりでなく、書も一流で聖心女学院で教え、自宅で書道塾を開いて生計の道を立てていた。 福男が代々木山谷の麓の家を訪ねて、歌の添則を願ったとき、

   すみすりてよごれたる手を洗わんと 
                 月夜明かりに氷をたたく

 という短冊を頂戴してきた。今これはわが家の宝になっている。 

 書によって芸術院会員となった麓は、本郷金助町一番地(通称傘谷といった)に生まれた。先祖は幕府の奥医師で、祖父は十三代将軍家定の主治医であった。べらんめえ口調の江戸っ子で、伊藤左千夫・長塚節とともに子規の直弟子で、アララギの長老であった。その歌風は静穏にして雅馴であり、人柄も温厚で、且つ都会人の繊細さを失わず、茂吉のいう「都雅」の人であった。

  福男の歌風は、麓そのものであり、福男の亡くなったとき、アララギの同人は「中谷さんの温厚な性格、歌風は岡麓先生に適していたなあ」と追憶したが、本人も承知していたのであろう。茂吉に会ったのも、開成の先輩だったことを知ってからである。

 (八) をやみなき秋雨のなかたずねつつ
                   脳病院に今ぞ参りぬ    (  昭和九年  )
 
 脳病院は茂吉の経営していた世田谷区松原の青山脳病院で、ここは戦災で焼失し、茂吉は故郷の山形へ疎開したが、戦後二十二年復京した。

  戦後の昭和二十八年」のある全国紙の静岡県版の「顔」欄に、次のような福男の人物評が載った。

 「庭すみに束ねられたる紫陽花の  新芽に今朝も氷雨降りつぐ  ーアララギ浜松歌会の主導的人物といえば、この人に先ず指を屈するだろう。浜松市の谷島屋の番頭を二十年間勤め、歌道に入ってから三十年という歌歴の持ち主。

 気分の転換や頭の大掃除には歌が何よりの良薬という。自然美や人間美を深く広く表現したいと、理屈ぬきで親近感の歌が得意のこの人は、みえすいたお世辞が言えず、俗気がなさすぎ、経済的には貧困だという。練達の写実精神が商道に生かされたらと評している人が多い。(中略)

 東京開成中学の出身で、同校の先輩斎藤茂吉博士に師事。雅号は無く、浜松市新町に書店を持ち、晴耕雨読が日常の仕事。お酒は好まず甘党。軽妙なしゃれも得意だが、半面「失笑症」ではないかと言われるなど、謹厳なところがある。極端な考え方の出来ない典雅な人というのが一般の評。六十五歳。」

 この記事は、私が最初に「父は富などには縁なく、一生を清貧に生きた人であった」と書いた通り、父福男を簡潔に描いて妙を得ている。

  「落葉松」第一巻第一号は、大正十二年七月十五日、浜松市東伊場八十八番地  中谷福男方。「落葉松短歌会」より発行された。

 その巻末に「かねてから心に計画はあった。が、こう突発的に創刊号を出し得るとは思わなかった。之は全く加藤・瀬川両先生を始め、皆様の深いご援助と同人近藤君の賜であります(福男)」加藤は雪膓氏であり、のち俳句に転向して、当地方の指導的立場の人であった。瀬川氏は医師であった。

  「落葉松」は八号ぐらいまで続いた。発行所となった東伊場八十八番地で、私は大正十二年三月三日に生まれた。自分史の標題を「落葉松」とした由縁である。

 


 


雨宮日記 5月16日(木) 「空想から科学へ」学習会 

2013年05月17日 06時04分17秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月16日(木) 「空想から科学へ」学習会

 14日から3日間、ぼくがレジュメや資料を作らないといけない日が連続して、今日が最終日。さすがに、ちょっときつかったです。

 ぼくは午後早めに起きて、浜岡原発裁判と原水爆禁止平和行進のチラシの印刷に行きました。

 夕方、オツユと野菜炒めをつくりました。則子さんは、夕方帰って来て、魚を煮ました。

 則子さんは、午後6時からの海上自衛隊「たちかぜ」自衛官自死事件の支援集会の実行委員会でK法律事務所へ。

 ぼくは、自宅で少し休んでから、午後7時半からの、エンゲルスさん著『空想から科学へ』第2章の前半の学習会へ。

 則子さんは、この学習会に8時前くらいに合流。お疲れさまでした。

 『空想から科学へ』は、「むずかしい」「何がわからないか、わからない」と、かなり厳しい批評でした。

 ぼくの基準である「正しいか,正しくないか」と、「わかりやすいか、わかりにくいか」という基準は違うんだと思います。

 若い頃は、たぶん、「すごい、むずかしいことが書いてある」と感心するだけだったけど、数十年経った今では、「わからない」のは「わからない」と率直に言えるようになったのだと思います。それは進歩ですね。

 「形式論理学」と「弁証法論理学」の対比ですが、意識的にならないと、形式論理学は「形而上学」に転化するし、弁証法論理学は「詭弁」に転化するのだと思います。