雨宮家の歴史 11 父の『落葉松』 第1部の8 アララギ
(七) 物言えぬ父の最後のかなしけれ 筆もつ御手はふるえて書けず
( 昭和三年 )
脳卒中ー昔でいう中気(中風)で半身不随となった卓二は、大正九年十一月八日永眠した。六十二歳であった。
中谷家の始祖、卓二は最初天林寺に葬られたが、大正十一年、広沢の西来院に移った。以来わが家の亡き人々は、ここに眠っている。(西来院については「第二部 生い立ちの記」で記す)
卓二の葬儀には、大正七年、福男の帰郷と前後して、東京・本郷菊坂町の安藤金重に嫁した妹の花が、長男を抱いて参列した。尚、中沢に火葬場が出来るまでは、天林寺と西来院で仮葬をしてたそうである(片桐茂「私の自分史」)。
福男が短歌の道に入ったのは大正十一年であった。そのころ谷島屋では、店のP・Rや文化関係の行事の紹介を兼ねて、タブロイド判四頁、月刊の「 谷島屋タイムス 」を発行した。編集を担当した福男は、文芸欄の穴埋め役として、作歌せざるを得なくなり、遠州地方在住の歌人たちとの交流、世話役として活躍した。
篠原村の医師・柳本城西氏の主宰する「犬蓼(いぬたで)」は「アララギ」と同じ明治四十一年に、創刊された短歌会の歌誌であるが、城西氏は遠州地方の歌人たちの、最長老格であった。福男は両方の会員となった殆ど当地の歌人たちもそうであった。
「アララギ」に入会したとき、福男は選者に岡麓(ふもと)を選んだ。当時は投稿者が選者を選べるようであった。
「岡麓 通称三郎 明治十年三月三日生 三谷ともいへり 始め傘谷という 歌を詠み書を教えて一生を をはる」(原文のまま)麓が晩年の写真の裏に自分で書き付けた自伝である。歌ばかりでなく、書も一流で聖心女学院で教え、自宅で書道塾を開いて生計の道を立てていた。 福男が代々木山谷の麓の家を訪ねて、歌の添則を願ったとき、
すみすりてよごれたる手を洗わんと
月夜明かりに氷をたたく
という短冊を頂戴してきた。今これはわが家の宝になっている。
書によって芸術院会員となった麓は、本郷金助町一番地(通称傘谷といった)に生まれた。先祖は幕府の奥医師で、祖父は十三代将軍家定の主治医であった。べらんめえ口調の江戸っ子で、伊藤左千夫・長塚節とともに子規の直弟子で、アララギの長老であった。その歌風は静穏にして雅馴であり、人柄も温厚で、且つ都会人の繊細さを失わず、茂吉のいう「都雅」の人であった。
福男の歌風は、麓そのものであり、福男の亡くなったとき、アララギの同人は「中谷さんの温厚な性格、歌風は岡麓先生に適していたなあ」と追憶したが、本人も承知していたのであろう。茂吉に会ったのも、開成の先輩だったことを知ってからである。
(八) をやみなき秋雨のなかたずねつつ
脳病院に今ぞ参りぬ ( 昭和九年 )
脳病院は茂吉の経営していた世田谷区松原の青山脳病院で、ここは戦災で焼失し、茂吉は故郷の山形へ疎開したが、戦後二十二年復京した。
戦後の昭和二十八年」のある全国紙の静岡県版の「顔」欄に、次のような福男の人物評が載った。
「庭すみに束ねられたる紫陽花の 新芽に今朝も氷雨降りつぐ ーアララギ浜松歌会の主導的人物といえば、この人に先ず指を屈するだろう。浜松市の谷島屋の番頭を二十年間勤め、歌道に入ってから三十年という歌歴の持ち主。
気分の転換や頭の大掃除には歌が何よりの良薬という。自然美や人間美を深く広く表現したいと、理屈ぬきで親近感の歌が得意のこの人は、みえすいたお世辞が言えず、俗気がなさすぎ、経済的には貧困だという。練達の写実精神が商道に生かされたらと評している人が多い。(中略)
東京開成中学の出身で、同校の先輩斎藤茂吉博士に師事。雅号は無く、浜松市新町に書店を持ち、晴耕雨読が日常の仕事。お酒は好まず甘党。軽妙なしゃれも得意だが、半面「失笑症」ではないかと言われるなど、謹厳なところがある。極端な考え方の出来ない典雅な人というのが一般の評。六十五歳。」
この記事は、私が最初に「父は富などには縁なく、一生を清貧に生きた人であった」と書いた通り、父福男を簡潔に描いて妙を得ている。
「落葉松」第一巻第一号は、大正十二年七月十五日、浜松市東伊場八十八番地 中谷福男方。「落葉松短歌会」より発行された。
その巻末に「かねてから心に計画はあった。が、こう突発的に創刊号を出し得るとは思わなかった。之は全く加藤・瀬川両先生を始め、皆様の深いご援助と同人近藤君の賜であります(福男)」加藤は雪膓氏であり、のち俳句に転向して、当地方の指導的立場の人であった。瀬川氏は医師であった。
「落葉松」は八号ぐらいまで続いた。発行所となった東伊場八十八番地で、私は大正十二年三月三日に生まれた。自分史の標題を「落葉松」とした由縁である。