雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑪ 「戦後文学は古典となるか 4 武田泰淳と堀田善衛」

2017年08月31日 17時58分16秒 | 雨宮家の歴史
『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑪ 「戦後文学は古典となるか 4」

  4 武田泰淳と堀田善衛

 一番早く入隊したのは武田であった。なお彼等は召集兵であり、島尾だけが現役入隊、その作品はいずれも一兵士の視点で書かれたことにも注目したい。

 昭和十二年七月、盧溝橋に端を発した日中戦争(当時は支那事変といった)は、八月には上海に飛び火した。

 五箇師団が動員され、呉(うー)スンクリークを舞台に悪戦苦闘が続き、八十日間に四万名の戦死傷者が出た。第三師団の静岡歩兵第三十四連隊も出征兵士三千八百名のうち九割の三千五百名の死傷者を出した。留守宅を守っていた連隊長夫人は、犠牲者の怨念の的となり、服毒自殺した(文献⑧)。

 第百一師団の歩兵第百一連隊長加納大佐も戦死した。武田はこの第百一師団の補充輜重兵として召集された。徐州作戦、武漢作戦に参加、九江警備などを経て二年間の兵役を済ませて昭和十四年十月に召集解除になり、東京へ帰還した。

 武田は旧制浦和高校時代に、中国語を学び、東京大学文学部支那文学科に入学した。事情あって一年で退学したが、同級生の竹内好(よしみ)、一年上級の岡崎俊夫たちと「中学文学研究会」を作り、会報を発行した(第一号は昭和十年)。

 武田は、父が浄土真宗の寺の住職だった関係により、後年泰淳和尚といわれるように僧侶の資格を取っていた。戦地で戦死者の慰霊式に僧侶の代理としてお経をあげた。机上でしか知ることのなかった中国の現実を見て,武田は何を感じたか。

 戦地であるから、上官の命令による中国人の射殺と、村に置き去りにされた老人への発砲を戦後の第一作『審判』で告白している。

 また安徽省廬州にいた当時に書いた『土民の顔』(昭和十三年「中国文学月報44」)に「戦地で見た支那人の顔には、土の如き堅固な知恵があらわれ、伝統的な感情の陰影がきざまれ、語られたことのない哲学の皺が深々とよっていた。家の壁には砲弾の痕すさまじく、学校の倒れた机の上には泥にまみれた教科書があり、道には物言わぬ屍が横たわっていた。」と書いている。

 武田は、戦争は文化を破壊する、文化は無力だ、戦地での殺人でも自分に罪があると、中国幻想をくだかれた体験から、昭和十四年に除隊して足かけ四年を費やして十七年末に、生きているのが恥かしいという苦しみの「司馬遷は生き恥をさらした男である」という有名な巻頭言を以て『司馬遷』を書きあげた。

 その生き恥をさらした男は二十年八月の敗戦を上海で迎えた。フランス租界にあった中日文化協会に十九年六月に就職したからである。徴兵逃れだったという。

 二十年三月に堀田善衛が「国際文化振興会」の上海資料室に海軍の伝(つて)で来た。振興会は外務省の外郭団体であり、堀田はこの振興会で中国語を勉強し、武田の『司馬遷』や竹内好の『魯迅』を読んで、中国には現代があると感じた。

 堀田は十九年二月に富山の部隊に召集されたが、訓練中に肋骨を折る傷を負い、陸軍病院に三ヶ月入院して召集解除になったので、兵役の心配はなかった。もう戦争の行く末はわかっていた。武田と堀田の結びついた二人を、南京にいた名取洋之助が呼んでくれたが、もう、する仕事などは無かった。

 大日本帝国の敗戦を二人が知ったのは、建物の壁に貼られた「山河光復」と書かれたビラによる。八月十一日の朝であった。戦勝を喜ぶ中国人の歌声や爆竹の音の中で、武田は「今やわれわれは世界によって裁かれる罪人である」と胸の中でくり返しながら、「滅亡」という言葉を反芻した。その夜半、二人は会って手を取り合い泣いた。武田はいち早く翌二十一年二月に高砂丸で帰国した。

 堀田は武田と相談して二十年十一月、国民政府中央宣伝対日工作委員会(実態は思想や動向を調査する査察機関で秘密警察的文化機関だった)へ入った。彼はアジアに生まれる新しい台風に向って自分の身を預けた。しかし、ある事件に巻き込まれて経済特務の家宅捜索を受け、身の危険を感じて二十一年の年末大晦日に入港した船で引き揚げ、翌二十二年一月三日佐世保に上陸、帰国した。

 この一年九ヶ月の上海時代が無ければ、芥川賞の『広場の孤独』以下の『祖国喪失』より『方丈記私記』を経て『ゴヤ』に至る堀田善衛は存在しなかったであろう。

 六人の作家のうち、最も長生きしたのは堀田の八十歳(平成十年)であり、短命だったのは梅崎春生の五十歳(昭和四十年)であった。法名「春秋院幻花転成愛恵居士」を送ったのは武田であり、その泰淳が亡くなったとき(昭和五十一年ー六十四歳)島尾の夫人ミホが送った大島紬の着物で柩は覆われた。

< 次回、「5 大岡昇平」へ続く >


『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑩ 「戦後文学は古典となるか 3 野間宏」

2017年08月30日 15時15分29秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑩ 「戦後文学は古典となるか 3」

  3 野間宏

 私が最初にひもといたのは野間宏の『真空地帯』であった。一晩徹夜して読みあげたのを覚えている。野間は軍隊を召集解除になって内地におったから、いち早く復帰して『暗い絵』により登場したが、『真空地帯』は昭和二十七年書き下ろしによって刊行された。軍隊の内務班を主題にしたものであるが、その中に私が遭遇した事件と同じことが書かれていた。

 「彼の身体によみがえってくるものは、看守の命令に従わなかったという理由で、皮のさく衣を胸にはめられ、訓練所にひきだされて水をぶっかけられたときのことだった。さく衣は皮でできていて、水をかけるごとに引きしまり、彼の骨と胸は内へ強く締めつけられ、彼は一分ごとにうめき、わめかなければ呼吸が出来なかった。彼の口はよだれと砂とでべたべたによごれ、彼のだらんとした身体は、冷たいどろの土の上にほうっておかれた。そして彼は気を失った。(文献⑦)」

 朝鮮平壌郊外の軍需工場に勤めていた私は、昭和二十年初頭召集を受けて平壌の朝鮮第四十四部隊に入隊した。レイテ島で散滅した歩兵第七十七連隊の留守隊であった。米軍の上陸に備えて、南鮮に展開する野戦部隊の編成のためであった。

 出動も間近になったある日、日夕点呼(につせきてんこ)のあと待機を命ぜられた。仮住居の武道場の中央に逃亡して捕まり、中隊に戻された一人の朝鮮籍の兵士が立たされていた。

 朝鮮に徴兵制が施行されたのは、前年の昭和十九年であった。日本語のわからない壮丁がいるからと朝鮮総督府は反対したが、閣議で強行決定された。

 彼の中隊の人事係准尉がむちを持って待っていた。むちは彼の身体にまきつき、床に転がった。「起て」准尉の怒号にふらふらと起きあがった彼に容赦なくむちの嵐が飛んだ。皮のさく衣がまかれた彼の身体に水がバケツからぶっかけられた。『真空地帯』と同じ状況であった。彼のその後の状況はわからなかったが、軍隊の陰湿な部分を見せつけられ、民族の対決が軍隊にまで及んだ思いであった。

 南鮮に展開していた私の所属する野戦部隊では、『真空地帯』のような内務班は既に崩壊していた。大岡と武田は、軍隊も地方とつながりがあり、決して「真空地帯」ではないと否定的意見であったが、自由がないのは確かであった。

< 次回 「4 武田泰淳と堀田善衛」へ続く >

雨宮日記 8月29日(火) ブログは過去の成果ものせていきます

2017年08月29日 17時02分38秒 | 雨宮日誌
 雨宮日記 8月29日(火) ブログは過去の成果ものせていきます

 昨日の「雨宮智彦のブログ」は、「訪問者数 264人、閲覧数 1127回、順位 2445位(全ブログ 275万9158中)」でした。

 読んでいただきありがとうございます。

 メールは、ほとんど見ませんですので、反応が非常に遅れると思います。ごめんなさい。

 今後ともご愛読をよろしく。

 ちなみにわが最愛の妻(独りしかいないんだから「最愛」は変かも)、則子さんは「私はネット見ないんだから私のこと、勝手に書かないで」と言っております。

 あくまで「雨宮日記」は雨宮智彦の日記で、則子さんが登場するのは、実際に登場するので、しょうがない「出演」していただいております。

 当分は、出ずっぱりですね。

 < 追加 >

 新しいコーナー(カテゴリー)に「過去現在のメモノート」を創ります。



雨宮日記 8月28日(月) 退院から今日で1年目

2017年08月29日 16時45分19秒 | 雨宮日誌

 雨宮日記 8月28日(月) 退院から今日で1年目

 昨年8月28日に、リハビリ病院を退院した。5月始めに脳出血で住吉へ救急車で入院、2週間ほどでリハビリ病院へ移り、3ヶ月。

 退院したくて退院したくて、先生にも則子さんにも、頼み込んで退院させてもらった。

 おかげさまで、なんとか病気とつきあって最初の1年をなんとか生き抜いた。

 もちろん、一番感謝すべきはベスト・パートナーの雨宮則子姫さま、ありがとうございます。心から感謝もうしあげます。

 これからもよろしく。やることは、家にいてもたくさんあるし。

 近所のみよちゃんのように「お外へ出たい」のは、もちろんだが。それは則子さんに手伝ってもらわないとできない。

 来年は「外でビデオ撮影チームの一員に復帰すること」を目標にする。達成できるかどうかは、わからないが、チャレンジする価値はあると思う。


『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑨ 「戦後文学は古典となるか 2」

2017年08月29日 16時26分22秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑨ 「戦後文学は古典となるか 2」


  2 戦後文学

 日本の戦後文学は「帰る」ことから始まった、と座談会の主の一人、川村湊は述べている。(文献⑤)
 そう、海外に居た日本人は民間、軍隊を含め北海道、本州、四国、九州の四島に限定された敗戦国日本に帰らねばならなかった。これはポツダム宣言による占領軍の方針だった。軍隊が優先され、フィリピン・レイテ島の捕虜収容所にいた大岡昇平は、日本に一番近い朝鮮にいた私より早く昭和二十年十二月末には浦賀へ帰還上陸した。

 戦時中、筆を折っていた作家たちが帰って来て、殊に軍隊にあって死と対決した作家たちが、既成作家たちとは違う視点より書いたものが「戦後文学」といわれ、その作家たちを「戦後派」というようになった。彼等はいきなり戦後、文学活動を始めたわけではなく、戦前より文筆に親しみ軍隊生活をそれを基にした。「戦後派」というけれど、「戦中派」といっても間違いではない。体験した大戦での生と死の問題を、「自分」とは何であるかを突きつめて書いた。これらは戦前の既成作家たちとは、甚だ異なる所であった。

 本多秋五は『物語 戦後文学史』を「週刊読書人」に昭和三十三年十月より三十八年十一月まで、百四十六回、五年間に亘って連載した。私にとっては格好の「戦後文学」入門書となり、これにより多くのことを学んだ。

 いまその切り抜きを見ると、紙質も上等といえぬ紙面は日焼けで黄ばんでしまっているが、作家ごとに、その作家の著書にはさんでしまったので抜け落ちているものが多い。その最終回(昭和三十八年十一月三十日付)で、本多は結びの言葉として次のように述べている。

 「戦後文学が追究した究極のものは、人間の「自由」ではなかったかと思う。「自由」という言葉をしばしば口にしたのは椎名麟三ひとりであり、他の戦後文学者はかならずしもそうではなかったが、埴谷雄高も武田泰淳も、野間宏も梅崎春生も堀田善衛もそれぞれの角度から、それぞれの色合いの「自由」を追求したのだ、といえるのではないか。自我の実現、個人主義の実現といっても意味は遠くないが、彼等の多くが、やはり「自由」こそ究極のものと考えた方が妥当性は多いと思う。戦後文学者の己を知るという求心的にして遠心的な努力は、人間の「自由」の探求にむけられたいたと私は考える。」

 この戦後文学者たちに、中村真一郎を司会として「あさって会」という集まりがあり(文献⑥)、埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、堀田善衛、椎名麟三、梅崎春生の七人のメンバーがあった。その後、大岡昇平が加わり、彼等を中心として「戦後文学」はあった。その作品の内容は作家によって、それぞれ大きく違っていたが、ひとつ共通するものがあった。それは本多のいう「自由」と「戦争」であった。

 私は本稿で、彼等のなかから軍隊体験のあった大岡昇平、武田泰淳、梅崎春生、野間宏、堀田善衛、それに島尾敏雄を加えて(以上、年齢順)、六名の作家の出生、学歴、軍歴、戦後文学歴の年譜を次頁から図示し、それを参考にかれらの軌跡を辿って見ようと思う。

< 「3 野間宏」へ続く >


新・本と映像の森 82(映画3・アニメ2) 片渕須直・アニメ映画『この世界の片隅に』

2017年08月28日 11時39分59秒 | 本と映像の森

新・本と映像の森 82(映画3・アニメ2) 片渕須直・アニメ映画『この世界の片隅に』

 片渕須直監督・脚本、こうの史代原作、2時間9分、2016年11月12日封切り

 主人公は呉の高台に住む北條すず、旧姓浦野、結婚前は広島市に住む。かなり有名なアニメ映画なので、人物紹介やストーリイ紹介はしなくてもいいだろう。

 ここ数年いやここ数十年でも傑作のひとつだと思う。平和映画としてではない。そういうレベルを完全に越えている。



 物語のなかば、「戦争があっても蝶は飛ぶ、セミは鳴く」というセリフが語られる。すずの独白?

 そして物語の要所要所でトンボが飛ぶ。

 最初にヤンマ、次にシオカラトンボ(?)、そして赤トンボの群舞。

 いちばん印象的なのは日々の食事の描写だ。


 
 後半ですずとめいの晴美が空襲を受け、晴美は爆死、すずは右手を失う。右手を失ったすずがそれでも婚家の家事を片手でしている。

 原因は脳出血で違うが、同じように右手・右足が動かないボクとしては、すずに対する態度として同情やかわいそう目線では、あり得ない。

 やはりすずさんに同じ立原からエールを送りたい。

 そしてすずさんやボクのような個体にやさしい社会をつくっていきたい。それは、まだまだずっと続く。



 タイトルの「この世界の片隅に」は原作マンガのタイトルだ。なぜ「この世界の片隅に」でとし「この世界の片隅で」はないのか、という話を友人とした。またいつか語る時もあるような気もする。

 以下、マンガ版の感想を以前の「雨宮智彦のブログ」から引用しておく。

戦争と平和の本 2 こうの史代さん著『この世界の片隅に 上』<アクション・コミックス>、双葉社、2008年2月12日第1刷~2009年8月10日第8刷、定価648円+消費税


 戦争中の広島、海苔をつくる家で育った、絵の好きな主人公・浦野すずさんの少女時代からの物語マンガです。

 昭和9年1月の設定の「冬の記憶」に始まり「大潮の頃」「波のうさぎ」と少女時代を描きます。
 
 昭和18年12月から「この世界の片隅に」が始まり、すずさんは、広島から30キロの呉市の北条周作さんに嫁ぎます。
 戦時下ではあるけれど、上巻では、夫と両親、義姉と娘の幸せなくらしが続きます。
 
 戦時下の非常食用の草花をすずさんはスケッチして書き付けます。

 「たねつけばな 辛い」「たんぽぽ にがい」「かたばみ 酸い」「はこべ 甘い」
 「楠公飯」というのも、しんどいというか、切ないですね。
 
 こうの史代さんの、優しい描線、ほのぼのとした感じが好きです。
 けなげな主人公のすずさんは、こうのさんの性格の投影でしょうか。

 少女編の「波のうさぎ」も切なくて好きですね。
 すずさんの同級生の水原さん(男性)の兄が海で水死します。

 美術の時間、校外で絵を描けというテーマに、海岸で座り込んでいる水原さん。

 水原「うさぎが跳ねよる。正月の転覆事故の日もこんな海じゃったわ」
 すず「いまのんはどういう意味?」
 水原「えっあ 言わんか?ほれ白い波が立っとろう。白うさぎが跳ねよるみたいなが」

 すずさんは、水原さんの代わりに海の絵を描いて、その絵に、たくさんの波ウサギを描き込みます。その結末が最高にいいですね。
 
 こうのさんの『夕凪の街 桜の国』は、映画化もされましたが、ぼくは原作マンガの方が好きです。

 (ミール)
 

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑧ 「戦後文学は古典となるか 1」

2017年08月27日 20時08分17秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑧ 「戦後文学は古典となるか 1」


 Ⅲ 3 戦後文学は古典となるか

  1 はじめに

 戦後六十年経った。私も八十歳の坂を越えた。戦後六十年を「戦後の定年」だとか「戦後も還暦だ」と言った人がいた。
 六十年の時間差を埋める作業は決して楽ではない、と島田雅彦(以下、敬称略)は言っているが(文献①)柘植光彦の司会による川村湊・富岡幸一郎三氏の座談会「戦後派の再検討」(文献②)の中で、戦後も六十年経てば、戦後派作家といわれた椎名麟三や野間宏の名前すら知らなくなり、むろん戦後文学など読まれなくなっている。

 中国人のジャーナリスト・莫邦富(もうばんふ)も「私に取材に来る日本のメディア関係者に必ず「大岡昇平の『野火』を読みましたか」と尋ねることにしている。しかし、読んだという人は残念ながら、一人もいない。」(文献③)

 なぜ読まれなくなってしまったのか、読まれないまま消滅してしまっていいのだろうか。消滅させないとしたら、現代文学はそこから何を学び、何を受けつぐべきであろうか。さらに、富岡幸一郎は「戦後文学は古典となる可能性もある」と言及している。

 古典というと『古事記』や『万葉集』など古代のものを考えるが、西郷信綱は「古典と呼ばれるものはどこにあるかといえば、それは過去と現代のあいだ、つまり過去に属するとともに現代にも属するという他ない。その作られた時代とともに滅びず、現代人に対話を呼びかける潜在力を持ったものが古典である。」と言っている。(文献④)

 日本がアメリカと戦争をしたということすら知らない人がいる現在、戦後派作家の名前など知らないのは当然かも知れない。むろんその作品など読まれなくなったのでは古典とはいえず、読み継がれていかなければならないが、果たして戦後文学がどういう運命をたどったか検討してみたい。

< ⑨ 「戦後文学は古典となるか 2」へ続く >

雨宮日記 8月27日(日) 66才の誕生日

2017年08月27日 20時03分16秒 | 雨宮日誌
 雨宮日記 8月27日(日) 66才の誕生日

 66才の誕生日なので、則子さんが「こなこな」へお昼に連れて行ってくれる。「こなごな」ではない。「こなこな」は家の近くのお好み焼き屋さん。従業員は障害者という店。

 5分くらいの距離を車椅子で行く。ボクはイカ焼きそばとアイスコーヒーと後でアイスクリーム。おいしかった。帰りは馬込川の堤防を帰る。

 則子さんにいけやで誕生祝いにDVD「君の名は」3800円+消費税を買ってもらいパソコンで見る。

 これもよかった。感想は「新・本と映像の森」に回す。 


『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑦ 和田稔著『わだつみのこえ消えることなく 下』

2017年08月26日 22時01分46秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑦ 和田稔著『わだつみのこえ消えることなく 下』


 「二十年四月十五日 出撃決定す」
 「戦友はこの二、三日私がつかれた顔をしていると心配する。私は私の死というものに対してある解釈をえようとしていたのである。」
 「出撃は二十日頃、あと二十日の命である。私自身が少しづつゆらぐのではないかなどという不安がないでもない。」

 出撃を前に五月頃、帰郷が許されて、入隊以来一年半ぶりに和田は沼津の実家に帰省した。

 「父母の顔を見たら、何もかもぶち明けてしまいそうな気がしてならない。」

 彼を迎えて、両親は何かを感じ取った。妹たちを電報で呼びよせて、短い休暇を水いらずで過ごした。若菜も兄と二人で千本浜を散歩して、写真館で永遠の別れとなった記念の写真を撮った。若菜はまだ小学五年生であったと妹たちは語っている。
 若菜は、後年、この時のことを次ぎのように短歌に詠んでいる。

  回天出撃目前の兄と知らざれば
 海に石投げともにたわむれぬ

 一度出撃した和田は戦果をあげ得ず帰光した。

 「残念也 無念也 何の顔あってか出戻りの姿を光にあらわさむ。三十一日、再びイ三六三潜にて出撃予定なり。」

 手記はここで途絶えている。意気消沈してしまったのであろうか。最後の日となった七月二十五日の訓練に、和田は手記や私物一切を士官のトランクを借りて、それに入れて回天に乗り込んでいる。訓練なのに、何故私物一切を持って回天へ乗り込んだのであろうか。
 今となっては何もわからない。そして海底につっ込んで二度と浮き上がらなかった。その場所は私の工場の前の海だった。
 瀬戸内の鏡のような夕凪ぎの周防灘を見ていると、且ってここが戦場であり、多くの若者たちが、死出の旅路にい出立ったところとは考えられない。
 沈んだ回天内で酸素が無くなって息絶えるまで、和田は何を考えていたのであろうか、無言の抵抗をして何も書き残していない。
 戦いは終った。しかし和田は戻らなかった。が、台風が守護神となって彼を助けた。九月、猛烈な台風が周防灘より日本海へ抜けた。枕崎台風である。沈んでいた回天が、荒れた波に揉まれて浮上し、山口県の東端、上の関の長島の入り江に流れついた。和田はあぐらをかき、座ったまま眠るように死んでいた。死んでも横になれない何と非情なものであった。

いつの日にか兄の回天流れ着きて
     瀬戸の小島に立ち見むと
 若菜

 私は今の若者に、この手記をすすめる。
 且ての若者たちが、いかに真剣に戦争に対して、又死に対して悩み、生長していったかを知って貰いたい。私たちは、彼らの死は決して無駄死にではなかったと思っている。

 あとがき

 戦後五十年、私が抱きつづけてきた「回天」がこの作品で、陽の目を見ることが出来たことは大変喜ばしいことです。
 靖国神社境内の「遊就館」に全長五十メートル実物の人間魚雷「回天」が飾られているそうです。「回天」作戦とは一体何だったのでしょう。潜水艦での出撃延三十二隻、特攻隊員延百四十九名、戦死・殉職者合計百余名、戦果は油槽船他二隻。これだけのために優秀な若き学徒を始め、多くの兵員を消耗した戦争のおろかさを痛感します。
 徳山の大津島の回天基地跡に回天記念館があります。山口放送(徳山市)のディレクター礒野恭子氏が、和田稔の人格に魅せられて、テレビ・ドキュメンタリー「使者たちの遺言 回天に散った学徒兵の軌跡」を作成し(一九八五年)、芸術祭優秀賞、キャラクター賞、放送文化基金大賞など数々の賞を獲得いたしました。私のこの拙い感想文とともに、和田稔が望んだ彼の柩に捧げる頌歌となれば幸いです。
 「昭和が終わっても、なお終わらぬものに目をそらすことなく、生きつづけるものでありたい。」と三浦綾子氏は『銃口』のあとがきで、しめくくっています。
 戦後五十年経っても、依然として戦後は終わっていません。終わらぬものがいくらでもあります。私たちの世代は、反省の意味からも、目をそらすことなく果敢に立ち向かっていかねばなりません。

 回天については次のような参考書が出ております。

・鳥巣建之助『人間魚雷』新潮社、八三年
・神津直次『人間魚雷回天』図書出版社、八 九年
・横田寛『ああ回天特攻隊』光人社、七一年
・伊藤桂一『落日の戦場』光人社、
・礒野恭子『愛と死の768時間』青春出版 社
・読売新聞社会部『特攻』角川文庫、八四年

◎この文章は、静岡新聞社・SBS静岡放送主 催「第十六回文庫による読書感想文コンクール受賞作品」(平成六年十一月二十日)です

< 「戦後文学は古典となるか」へ続く >


雨宮日記 8月25日(金) まだ暑い

2017年08月25日 21時37分15秒 | 雨宮日誌
 
 雨宮日記 8月25日(金) まだ暑い

 午後、小さなまほうびんに入れた麦茶がなくなって、しかたなく1階の台所へ小さなまほうびんを持ってヨタヨタ降りていった。

 台所へ行き、冷蔵庫を開けて氷や麦茶を運んで入れること5,6回。2階へ麦茶を入れた小さなまほうびんを運び終わるまでに、えらく苦労した。

 明日は新海誠さんのアニメ映画「君の名は」公開から1周年、宮崎駿さんとの比較でいえば新海誠さんの方がより現代の若者たちのリアルに接近していることかな。

 もっともあらすじだけ知っていて、まだ「君の名は」、見ていないんだけど。


『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑥ 和田稔著『わだつみのこえ消えることなく 上』

2017年08月25日 18時56分31秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑥ 和田稔著『わだつみのこえ消えることなく 上』


 Ⅲ 2 和田稔著『わだつみのこえ消えることなく』

 ー和田稔『わだつみのこえ消えることなく   ー回天特攻隊員の手記ー』
   筑摩書房 昭和四二年 単行本
   角川書店 昭和四七年 文庫 絶版ー

 この本は、学徒出陣で海軍に入隊し、回天特攻隊で事故死した東大出身の和田稔の学生時代から亡くなるまでの手記である。
 和田の父親がこの手記を大学ノートに写しながら、それを読み返すのを日課としていたとおう。悲しみを踏み越えて、晩年死期の近づいた時、やっと息子の死と自分の死とを分ち合える境地になった。父親の死後、この手記はやっと出版されたが、和田の死後、二十年の歳月が必要だった。

 戦後の昭和二十一年十月、私は山口県光市にあった光海軍工廠の跡地に建設されることになった食塩製造工場に赴任した。この事が私と和田稔の出会いとなったのである。工廠は終戦前の八月十四日に大空襲を受けて壊滅し、多数の犠牲者を出した。まだ曲がりくねった鉄骨がむき出しのままで、雑草がはびこっていた。工廠内の一部では、既に武田薬品が操業していた。塩もやっていたので、ある日、私は見学に行った。
 武田の製塩場は工廠の東の端の方で、その一角に赤さびた鉄骨とコンクリート壁がむき出しのままの建物がそのまま残っていた。そこだけが何かぽつんと荒れた感じだったので変に思ったが、そこが人間魚雷の光回天基地の跡だった。
 当時は人間魚雷と聞いても、何かわからず、この本が二十年後に出版されて、やっとその詳細がわかって来たのである。
 もっとも昭和二十三年に発表された宮本百合子の戦後第一作「播州平野」にそのおもかげが書かれている。百合子が夫顕治の光の実家に滞在していた時のことである。
 「工廠の海岸の浜つづきに、板三枚ほどの幅の埠頭が入り江に向って突き出されていた。夜になると、そっと軍人が集まった。そして人間魚雷が発射された。搭乗した特攻隊員で還るものは決してなかったし、大洋まで行ったものさえもなかった。(中略)住民たちは、それらのことをすっかり知っていた。が雨戸を締めて、誰も知らなかった。なぜならその附近は厳重な出入り禁止であったし、すべては知ってはならないことであった。」

 手記は学生時代のⅠ部と、戦いの草稿のⅡ部に分れているが、その間に遺留のノートが弟妹のために残されたが、主に妹の若菜に呼びかけている。
 「若菜、私は今、私の青春の眞昼前を私の国に捧げる。私の望んだ花は、ついに地上に開くことはなかった。私の柩の前に唱えられるものは、私の青春の挽歌ではなく、私の青春の頌歌であってほしい。」
 彼の望んだ花とは何だったのか。今となってはわからないが、自分の死を悲しまないで、讃めたたえてくれと遺言している。
 回天とは、魚雷を改装して人間一人が中に座れる場所をつくり、魚雷の先端に爆薬を着け、海中を潜行して敵艦に体当たりして玉砕する一人一殺の殺人兵器である。ハッチを閉めてしまうと、中からは開けることは出来ない鉄の棺桶であった。
 回天要員は学徒兵と予科練生によって編成されていた。和田は回天を希望し、長男だったので失格したが、再度熱望して採用された、光回天基地へ着任したのは昭和十九年十一月末であった。連日、きびしい訓練がつづいた。

< 下へ続く >


新・本と映像の森 81(経済3) 友寄英隆『『資本論』を読むための年表』学習の友社、2017年

2017年08月25日 18時48分15秒 | 本と映像の森
新・本と映像の森 81(経済3) 友寄英隆『『資本論』を読むための年表 ー世界と日本の資本主義発達史ー』学習の友社、2017年

 A4版、115ページ、定価本体1800円

 非常にユニークな『資本論』のガイドブック。

 この本の中心をなすのは、いくつかの年表です。

 年表 ① 世界の資本主義の生成と発展(経済的土台と上部構造) p18~19
  14世紀から21世紀まで800年間の年表

 年表 ② 日本資本主義発達史の165年(1850~2015) p52~55
       明治維新→戦後改革→日本改革

 年表 ③ 20世紀末~21世紀初頭の資本主義(世界と日本) p76~79
1989年~2017年まで毎年

 年表 ④ マルクスとエンゲルスは『資本論』をどのように執筆し、編集したのか。
それらは、いつどのように刊行されたのか。 p102~103

 この4つの年表と、その解説は、いずれもオリジナルなもので誰かの請け売りではない。価値の高いものであると思う。

 ボクは、著者が雑誌『月刊学習』で1997年10月号で掲載したもの【年表①】をずっと使っていました。その新版が出て嬉しい。

 たくさんの人が買ってくださるのを切に望む。

 著者の友寄英隆さんは経済学者で、元雑誌『経済』編集長。まったくの蛇足ですが、歌手の横井久美子さんの夫です。


落葉松「文芸評論」 ⑤ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 5」 四、持統太上天皇

2017年08月24日 15時49分31秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑤ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 5」

四、持統太上天皇

 『万葉集』は、上は天皇より、下は名も知らぬ防人(さきもり)たちまでの歌で編み出された浪漫性あふれる大叙事詩であったが、その裏には大化の改新や壬申の乱など、骨肉相食む抗争が繰り広げられていたのである。万葉人のあまり細かいことにこだわらぬおおらかな心どころではなかった。大宝律令の発効によりやっと政権が安定して来た七〇二年、持統太上の三河御幸が実現したのである。
 「一、大宝二年(七〇二年)」で日程を簡単に記したが、『続日本紀』にその明細を見てみよう。

 「文武天皇 大宝二年
 冬十月甲辰(十日)、太上天皇、参河国に幸したもふ。諸国をして今年の田租を出だすこと無からしむ。
 十一月丙子(甲子朔十三日)、行、尾張国に至りたまふ。
 庚辰(十七日)、行、美濃国に至りたまふ。
 乙酉(二十三日)、行、伊勢国に至りたまふ。
 丁亥(二十四日)、伊勢国に至りたまふ。行の経過ぐる尾張・美濃・伊勢・伊賀等の国の郡司と百姓に、位を叙し禄賜ふこと各差有り。
 戌子(二十五日)車駕、参河より至りたまふ。駕に従へる騎士の調を免す。
 戌戊(十二月六日)、星、昼に見る(注:星は金星が昼に現れるのは兵革の兆とされるが、これは持統太上死去の兆か)。
 乙己(十三日)、太上天皇不豫(みやまい)したまふ。天下に大赦す。(病気平癒祈願のための大赦)
 甲寅(二十二日、注ー十二月二十二日であって、新暦に直すと年が替わり一月十九日となる)太上天皇崩りましぬ。遺詔したまはく、「素服、挙哀する啼勿れ、内外の文武の官のり務は常の如くせよ。喪葬の事は、勤めて倹約に従へ」とのたまふ。」 

 「十月十日」「参河に御幸したもふ」ということは御幸に出発したということであろうから、次の尾張に至った十一月十三日まで、約三十三日の空白があるのである。参河に至った日付も不明であるので、実際に参河に滞在した日数も明らかでない。そして、帰りの日付より数えると、尾張に四日、美濃に五日、伊勢に二日、伊賀に一日で藤原宮へ着き、七日たって発病、十日程して崩御ということになっている。

 全行程四十五日である。六七二年の伊賀、伊勢、志摩行幸の時は三カ国を回っても十五日間で済ませている。それを思うと、四十五日間というのは長すぎる気がする。そして帰りは四日、五日、二日、一日とだんだん急行軍となり、帰って発病、崩御ということは参河での滞在期間に何か問題があったのではないか。気丈な女帝であったが、永年の戦乱の疲れが出たのではないか。
 ましてや五十八才という年令である。宮地山の山頂は寒い山の上である。暖房設備も完備していなかった行在所ではないか。風邪でも引いて寝込んでしまったのではないかと私は推測するのである。「引馬野」の歌はその時、生じたのである。病いの女帝を看病していた女官たちを慰めるため、一日、行在所をくだって、御津海岸へ出て、遊んだ時の歌となった。

 そして、病癒えて或は病の途中であるが動けるようになって、あわただしく、尾張、美濃、伊勢、伊賀と回って帰京したのである。そして、病の公表、崩御と続くのである。
 新日本古典文学大系の『続日本紀(一)』の補注にて、「参河国逗留の間の記事を欠くのは、不審である。」と編集者が述べている。『続日本紀』の編集について、同書の上表文で「故実を司存に捜り、前聞を旧老に詢ひ、残簡と綴叙し。欠文を補てんす」とある。

 前半(六九七年~七五八年)の六十一年に対し、二三二頁。後半(七五九年~七九一年)の三十二年に対し三〇一頁を費している。前半の記事は後半に較べて約半分である。材料が少なかったこともあろうが、かなりの削除、圧縮が行われたとも考えられるとのことなので、参河滞留三十三日間の空白も、記事にするのを考慮したのかも知れない。

 それを還幸の日程のあわただしさと、発病の公表、崩御とつづく事実は、持統女帝は病いに倒れたのではないかと推測する次第である。その空白期間に「引馬野」の歌が生まれたのである。


   五、結び

 山下杜夫氏が『浜松市民文芸三十年誌』の「引馬野についての論争」の中で、今までの学者が触れなかった別の方面から、別の角度から引馬野の所在を追求するのも一つの方法であると述べられていた。私はそれに基づいて、持統太上天皇の参河巡幸路とその期間より論究してみたのであるが、結果は残念ながら、参河であるとしか結論が出なかった。もとより浅学非才の身、更に学究諸氏の研究発表を待つものである。


(備考)巡幸日程の旧暦と新暦の対照は概算なので、確定した日ではない。

(参考引用図書)

中西進『万葉集及万葉集事典』講談社文庫
土屋文明『万葉名歌』現代教養文庫
土屋文明『万葉集私注』筑摩書房
新日本古典文学大系『続日本紀(一)』岩波書 店
御津磯夫『引馬野考』三河アララギ会
『(伊場遺跡発掘調査報告書第一冊)伊場木簡』 浜松市教育委員会
坂本太郎『上代駅制の研究』至文堂
橋本進吉『古代国語の音韻について』岩波書  店
伊藤通玄他『浜名湖』浜松三省堂
内山真龍『遠江国風土記伝』谷島屋
杉浦国頭『曳馬拾遺』谷島屋
『土のいろ』十五巻一号、昭和十三年三月
松浦静雄『日本古語辞典』刀江書院、昭和十  二年




雨宮日記 8月23日(水) コオロギが鳴いている

2017年08月23日 22時02分23秒 | 雨宮日誌
 雨宮日記 8月23日(水) コオロギが鳴いている

 夜になると涼しくなって、秋の虫が鳴いている。お風呂場の外で、秋の虫の4重奏。カネタタキかな?小さな金属音が聞こえる。

 2階の寝る部屋に来ても、外でコオロギなど鳴いてる。

 昼閒はまだ暑くて、カーテンを閉めている。