『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑪ 「戦後文学は古典となるか 4」
4 武田泰淳と堀田善衛
一番早く入隊したのは武田であった。なお彼等は召集兵であり、島尾だけが現役入隊、その作品はいずれも一兵士の視点で書かれたことにも注目したい。
昭和十二年七月、盧溝橋に端を発した日中戦争(当時は支那事変といった)は、八月には上海に飛び火した。
五箇師団が動員され、呉(うー)スンクリークを舞台に悪戦苦闘が続き、八十日間に四万名の戦死傷者が出た。第三師団の静岡歩兵第三十四連隊も出征兵士三千八百名のうち九割の三千五百名の死傷者を出した。留守宅を守っていた連隊長夫人は、犠牲者の怨念の的となり、服毒自殺した(文献⑧)。
第百一師団の歩兵第百一連隊長加納大佐も戦死した。武田はこの第百一師団の補充輜重兵として召集された。徐州作戦、武漢作戦に参加、九江警備などを経て二年間の兵役を済ませて昭和十四年十月に召集解除になり、東京へ帰還した。
武田は旧制浦和高校時代に、中国語を学び、東京大学文学部支那文学科に入学した。事情あって一年で退学したが、同級生の竹内好(よしみ)、一年上級の岡崎俊夫たちと「中学文学研究会」を作り、会報を発行した(第一号は昭和十年)。
武田は、父が浄土真宗の寺の住職だった関係により、後年泰淳和尚といわれるように僧侶の資格を取っていた。戦地で戦死者の慰霊式に僧侶の代理としてお経をあげた。机上でしか知ることのなかった中国の現実を見て,武田は何を感じたか。
戦地であるから、上官の命令による中国人の射殺と、村に置き去りにされた老人への発砲を戦後の第一作『審判』で告白している。
また安徽省廬州にいた当時に書いた『土民の顔』(昭和十三年「中国文学月報44」)に「戦地で見た支那人の顔には、土の如き堅固な知恵があらわれ、伝統的な感情の陰影がきざまれ、語られたことのない哲学の皺が深々とよっていた。家の壁には砲弾の痕すさまじく、学校の倒れた机の上には泥にまみれた教科書があり、道には物言わぬ屍が横たわっていた。」と書いている。
武田は、戦争は文化を破壊する、文化は無力だ、戦地での殺人でも自分に罪があると、中国幻想をくだかれた体験から、昭和十四年に除隊して足かけ四年を費やして十七年末に、生きているのが恥かしいという苦しみの「司馬遷は生き恥をさらした男である」という有名な巻頭言を以て『司馬遷』を書きあげた。
その生き恥をさらした男は二十年八月の敗戦を上海で迎えた。フランス租界にあった中日文化協会に十九年六月に就職したからである。徴兵逃れだったという。
二十年三月に堀田善衛が「国際文化振興会」の上海資料室に海軍の伝(つて)で来た。振興会は外務省の外郭団体であり、堀田はこの振興会で中国語を勉強し、武田の『司馬遷』や竹内好の『魯迅』を読んで、中国には現代があると感じた。
堀田は十九年二月に富山の部隊に召集されたが、訓練中に肋骨を折る傷を負い、陸軍病院に三ヶ月入院して召集解除になったので、兵役の心配はなかった。もう戦争の行く末はわかっていた。武田と堀田の結びついた二人を、南京にいた名取洋之助が呼んでくれたが、もう、する仕事などは無かった。
大日本帝国の敗戦を二人が知ったのは、建物の壁に貼られた「山河光復」と書かれたビラによる。八月十一日の朝であった。戦勝を喜ぶ中国人の歌声や爆竹の音の中で、武田は「今やわれわれは世界によって裁かれる罪人である」と胸の中でくり返しながら、「滅亡」という言葉を反芻した。その夜半、二人は会って手を取り合い泣いた。武田はいち早く翌二十一年二月に高砂丸で帰国した。
堀田は武田と相談して二十年十一月、国民政府中央宣伝対日工作委員会(実態は思想や動向を調査する査察機関で秘密警察的文化機関だった)へ入った。彼はアジアに生まれる新しい台風に向って自分の身を預けた。しかし、ある事件に巻き込まれて経済特務の家宅捜索を受け、身の危険を感じて二十一年の年末大晦日に入港した船で引き揚げ、翌二十二年一月三日佐世保に上陸、帰国した。
この一年九ヶ月の上海時代が無ければ、芥川賞の『広場の孤独』以下の『祖国喪失』より『方丈記私記』を経て『ゴヤ』に至る堀田善衛は存在しなかったであろう。
六人の作家のうち、最も長生きしたのは堀田の八十歳(平成十年)であり、短命だったのは梅崎春生の五十歳(昭和四十年)であった。法名「春秋院幻花転成愛恵居士」を送ったのは武田であり、その泰淳が亡くなったとき(昭和五十一年ー六十四歳)島尾の夫人ミホが送った大島紬の着物で柩は覆われた。
< 次回、「5 大岡昇平」へ続く >
4 武田泰淳と堀田善衛
一番早く入隊したのは武田であった。なお彼等は召集兵であり、島尾だけが現役入隊、その作品はいずれも一兵士の視点で書かれたことにも注目したい。
昭和十二年七月、盧溝橋に端を発した日中戦争(当時は支那事変といった)は、八月には上海に飛び火した。
五箇師団が動員され、呉(うー)スンクリークを舞台に悪戦苦闘が続き、八十日間に四万名の戦死傷者が出た。第三師団の静岡歩兵第三十四連隊も出征兵士三千八百名のうち九割の三千五百名の死傷者を出した。留守宅を守っていた連隊長夫人は、犠牲者の怨念の的となり、服毒自殺した(文献⑧)。
第百一師団の歩兵第百一連隊長加納大佐も戦死した。武田はこの第百一師団の補充輜重兵として召集された。徐州作戦、武漢作戦に参加、九江警備などを経て二年間の兵役を済ませて昭和十四年十月に召集解除になり、東京へ帰還した。
武田は旧制浦和高校時代に、中国語を学び、東京大学文学部支那文学科に入学した。事情あって一年で退学したが、同級生の竹内好(よしみ)、一年上級の岡崎俊夫たちと「中学文学研究会」を作り、会報を発行した(第一号は昭和十年)。
武田は、父が浄土真宗の寺の住職だった関係により、後年泰淳和尚といわれるように僧侶の資格を取っていた。戦地で戦死者の慰霊式に僧侶の代理としてお経をあげた。机上でしか知ることのなかった中国の現実を見て,武田は何を感じたか。
戦地であるから、上官の命令による中国人の射殺と、村に置き去りにされた老人への発砲を戦後の第一作『審判』で告白している。
また安徽省廬州にいた当時に書いた『土民の顔』(昭和十三年「中国文学月報44」)に「戦地で見た支那人の顔には、土の如き堅固な知恵があらわれ、伝統的な感情の陰影がきざまれ、語られたことのない哲学の皺が深々とよっていた。家の壁には砲弾の痕すさまじく、学校の倒れた机の上には泥にまみれた教科書があり、道には物言わぬ屍が横たわっていた。」と書いている。
武田は、戦争は文化を破壊する、文化は無力だ、戦地での殺人でも自分に罪があると、中国幻想をくだかれた体験から、昭和十四年に除隊して足かけ四年を費やして十七年末に、生きているのが恥かしいという苦しみの「司馬遷は生き恥をさらした男である」という有名な巻頭言を以て『司馬遷』を書きあげた。
その生き恥をさらした男は二十年八月の敗戦を上海で迎えた。フランス租界にあった中日文化協会に十九年六月に就職したからである。徴兵逃れだったという。
二十年三月に堀田善衛が「国際文化振興会」の上海資料室に海軍の伝(つて)で来た。振興会は外務省の外郭団体であり、堀田はこの振興会で中国語を勉強し、武田の『司馬遷』や竹内好の『魯迅』を読んで、中国には現代があると感じた。
堀田は十九年二月に富山の部隊に召集されたが、訓練中に肋骨を折る傷を負い、陸軍病院に三ヶ月入院して召集解除になったので、兵役の心配はなかった。もう戦争の行く末はわかっていた。武田と堀田の結びついた二人を、南京にいた名取洋之助が呼んでくれたが、もう、する仕事などは無かった。
大日本帝国の敗戦を二人が知ったのは、建物の壁に貼られた「山河光復」と書かれたビラによる。八月十一日の朝であった。戦勝を喜ぶ中国人の歌声や爆竹の音の中で、武田は「今やわれわれは世界によって裁かれる罪人である」と胸の中でくり返しながら、「滅亡」という言葉を反芻した。その夜半、二人は会って手を取り合い泣いた。武田はいち早く翌二十一年二月に高砂丸で帰国した。
堀田は武田と相談して二十年十一月、国民政府中央宣伝対日工作委員会(実態は思想や動向を調査する査察機関で秘密警察的文化機関だった)へ入った。彼はアジアに生まれる新しい台風に向って自分の身を預けた。しかし、ある事件に巻き込まれて経済特務の家宅捜索を受け、身の危険を感じて二十一年の年末大晦日に入港した船で引き揚げ、翌二十二年一月三日佐世保に上陸、帰国した。
この一年九ヶ月の上海時代が無ければ、芥川賞の『広場の孤独』以下の『祖国喪失』より『方丈記私記』を経て『ゴヤ』に至る堀田善衛は存在しなかったであろう。
六人の作家のうち、最も長生きしたのは堀田の八十歳(平成十年)であり、短命だったのは梅崎春生の五十歳(昭和四十年)であった。法名「春秋院幻花転成愛恵居士」を送ったのは武田であり、その泰淳が亡くなったとき(昭和五十一年ー六十四歳)島尾の夫人ミホが送った大島紬の着物で柩は覆われた。
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