社会・経済・政治 2 「教育勅語」とは何か
いま話題の教育勅語の原文全文を引用する。
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博??愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民トニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日 御名御璽」
見るとわかるのは、大日本帝国の主権者である「朕(ちん)」が「爾(なんじ)臣民」に与えた文書である。
特徴は、「臣民」という言葉が5回も出てくる。しつこい。「臣民」とは「けらい」ということだ。
「爾臣民」、おめえらはおれの家来だから、おれのいうとおりにせよという文書だ、と」思う。
そのなかでも「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」が、守るべき最大の道德とされた。つまり、「いったん戦争になったら皇室のために命をささげえよ」ということだと思う。
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以下、参議院の「第002回国会 文教委員会 第1号 昭和二十三年五月二十七日(木曜日)」の議事録から、歴史学者・羽仁五郎さんの質疑を示す。
「○羽仁五郎君 この教育勅語の現在の処理の間に、教育勅語が犯して來た誤りを又犯すということがあつては絶対にならないと思うのでありますから、
〔「そうだ、そうだ」と呼ぶ者あり〕
今までお述べになつた御意見の中にそういうふうな点で、或いは國民がこれを誤解するのではないかと思われるので、その点についてはつきり考えたいと思うのですが、教育勅語を処理する場合に、國家がこれを廃止したとか、或いは自然になくなつたとか、或いは十分に鄭重になくしたとか、或いはその法律第何條によつて廃止したいということは、却て国民にとつて重要なことではないと思うのであります。
そうじやなくて、國民に先ず第一に教育勅語というのは如何に有害であつたかということをはつきり示すことが必要なんでありまして、何かの事情で今まではあつたけれども、最近はなくなつたというような受身的な氣持で國民が考えてはならない。或いは命令によつてこれが廃止になつたというように考えることは、私はならないと思うのです。
自然になくなつたとか、或いは何か最近の情勢で、いわゆる諸般の情勢という言葉は、実に怪しげな言葉ですが、諸般の情勢でこれがなくなつたというふうにこれがなつて、國民が止めるようになれば、非常に有害であると思う。そうでなくて、教育勅語というものは、今まで非常に悪い影響があつたのだということを、国民が先ずはつきり認めることである。だから國民は自分でこういう有害なものは是非止めたいというように考えるべきである。又將來においても、そういう間違いは繰返したくないというように、國民は考えるようになることと思う。
その点で第一に教育勅語が如何に間違つて有害であつたかということは、道徳の問題を君主が命令したということにあるわけであります。これは極く最近の、去る五月二十六日の朝日新聞の「天声人語」の中にもそういうことが述べられておりますが、この教育勅語が作られた時に、その制定に関係した井上毅法制局長官が、教育勅語の公布に反対していたことは注目してよい。井上が山縣首相に送つた手紙には、今日の立憲政体の主義に從えば、君主は臣民の心の自由に干渉すべきでない。哲学上の問題は君主の命令によりて定まるべきものに非ず。
從つて徳育に関することを勅語として発令することに反対し、山縣の反省を求めておる。という点を書いておりますが、この点に重大な問題があつたわけなのであつて、ですからこの内容が先つきからおつしやつておつた議論の中にもありましたが、教育勅語に述べられておる内容には、内容的には反対する必要がないものもあるというようなお考えもありましたが、そういう点に問題があるのでなくて、たとえ完全なる眞理を述べておろうとも、それが君主の命令によつて強制されたという所に大きな間違いがあるのである。
だから内容に一点の瑕瑾がなくても、完全な眞理であつても、専制君主の命令で國民に強制したというところに間違いがある。從つてやがては全く違つたことが、専制君主の命令によつて命ぜられて、國民が率いてこれに従わざるを得ないで今日の不幸を招いたというところに、重大な原因があつたということを明らかにして、國民は自発的にこれを痛切な批判を以てこれを廃止する。そうして將來再びこういう間違いを繰返さないということが要請されておるのではないかと考えます。で、この点を是非國会としても明らかにして頂きたいというのが私の希望であります。
尚先つきからの御発言の中に、柏木委員の御発言の中に、若干私の了解し得ない点があつたのですが、政府のやることだから何でも反対するというような、そういう党派があるとは私は考えませんが、只今申上げましたような意味で、専制君主の命令として道徳上のことをやるということに反対しなければならないという理由は、やはりあると思うのであります。これは國民なり党なりを責める前に、政府自身が眞に民主主義的な基礎の上に立つて、自己の行動をしておるかどうかということを判断しなければならん問題であつて、先ず国民なり或る政党なりを責めるべき問題ではないと思うのであります。
それからもう一つ、おつしやつたお言葉の中に、今日学生諸君が、政府なり國会なりでまだ決つてない問題について騒いでおるというお説がありましたが、これは併し過去の國民には割りにそういうことがなくて、何でも政府で決つたものにそのまま從うという悪習があつたのです。
最近國民が非常に目覚めて、自由民権当時に立ち還つてそうして憲法の問題その他重要な問題については、政府、國会がこれを論議する前に、國民自らこれを論議するという習慣を取られつつあることは、國会としてはむしろ敬意を表すべきものであつて、軽々しく批判すべきものではない。國民は黙つている。政府が、國会が、決めてやるからというようなことの御趣旨ではないというふうに了解をいたしますのですが、こういう点についてもやはりこの教育勅語が廃止されなければならない。
それが断乎として廃止されなければならないということは、その道徳上の問題が専制君主の命令によつて左右される。或いは道徳上のみならず、國民があらゆる生活に関して、専制君主の命令によつて左右されていた過去の間違いというものを、この際はつきり痛烈に批判してそれを止めるということにあるわけですから、先つきからの御提案の中の御趣旨を御採用になる場合でも、これの廃止されることの文句の中に何らか似たようなことを将來にする、つまり國民に向つてそういう意味の民主的でない指図をするということは、私は余り望ましくないと思われる。
むしろ過去の間違いをはつきりさせるという点に重点を置くべきであつて、それで今度は過去にこういうふうな間違があつたから、將來こうせよということを特にいう必要はない。そういう面においてはできるだけこの道徳の問題、教育の問題というものは、國民の自発的な意志によつて尊重されるということを我々としては期待すべきであつて、その点行過ぎた指図をされない方が正しいのではないか。どうか道徳の問題、教育の問題を法律や命令の下に置いたという過去の過ちを繰返されたくないと思うのであります。それには過去においては教育を政治の下に置いてそれで教育を尊重するといつておつたのでありますが、正に反対であつてこれを教育の問題を低くしたことはないのであります。教育や思想の問題というものは、政治の下に置くべきではない。政治の下に置かない方がそれを眞実に尊重するゆえんであるという点を明かにされたいと希望いたします。」
「○羽仁五郎君 ちよつと簡單に……。今言われましたことの中で、おしめの問題と教育勅語の問題とは大分違うと思うのであります。さつき梅津委員からも歴史家に対する期待を述べられたのですが、これに対しても敬意を表しますが、御承知のように教育勅語はどういう歴史的事情の下に制定されたかといえば、明治二十年代に自由民権運動が盛んになり、日本が國際的精神が高まつたその時に、憲法及び議会を制定するについて國民が民主主義的に進み過ぎはしないか、國際主義的に進み過ぎはしないかということに対する危惧の念から教育勅語が発布されたということは歴史上明らかなことであります。
であるから教育勅語発布の根本精神には國際精神に対する否定、民主主義精神に対する否定、この二つが教育勅語制定の根本的な動機となつておつたのであります。且つ終戰の際にあの詔勅が出なかつたら何十年か戰爭が続くであろうというそのことが実に恐ろしいのであります。
詔勅があれば何十年でも戰爭がある。詔勅が出なければ何十年でも戰爭が止まない、そのことが実に恐ろしいのであつて、この全体が有害であり、実に恐ろしいものであつた。從つて過去のものだから、過去の文献として今は今だというような氣持、諸般の情勢によつて変つたのだというような氣持が國民の中に続くことが、私は非常に恐ろしいことだと思う。やはり我々國民全体が過去のそういう詔勅であればどんな残虐なことでもやる、どういう不合理なことでもやるというような氣持が教育勅語においてさつき岩間君も言われたように、代表的にされておりましたので、旧憲法と並んで教育勅語に対するそういう批判を明らかにすることが國民の幸福のためであるというふうに確信いたします。」
補足は不要と思う。