雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

日本古代史 本の紹介 森浩一さん『地域学のすすめ』岩波新書

2011年08月16日 00時26分40秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物

日本古代史 本の紹介 森浩一さん『地域学のすすめ』岩波新書新赤版793、2002年7月19日第1刷、178ページ、定価700円+消費税

 考古学者の森浩一さんの本のうち、まずこれから紹介します。森さんは「地域学」「考古学は地域に勇気を与える」といい、この本では「関東学」や「東海学」、またヤマトでも「宇陀」など「小地域」の重視を提言しています。

 「東海学」でおもしろいのは、森さんは「伊勢湾」「三河湾」という個別の言い方ではなく「三河・尾張・伊勢」の内海として「三尾勢(さんびせ)内海」を提唱していることです。ぼくはもっと簡単に「東海湾」でいいのではないかと思いますが。

 さらに、「東海系土器」の拡散の意味、徳川家康など松平氏と東国の関係など、提言されていておもしろいです。

 「東海系土器」が奈良県の纏向(まきむく)遺跡で出るのは有名ですが、同じように「東海土器」が関東に拡散している現象をきちんと指摘されています。つまり東海系土器が、纏向遺跡から出ることで東海地方のヤマト国家への従属を説明できるなら、同じように東海地方の関東への従属も童謡としなければなりません。

 さらに江戸・浅草にいた「檜前(ひのくま)」氏についての解読も、浜松市「曳馬(ひくま)」地域の住民として興味深いです。この項は、別述します。

 津軽海峡の両側の「海峡文化」の話、沖縄の「タカラガイ」の話なども、興味津々(しんしん)です。

 なお、どうして「興味津々」の「しんしん」という日本語を、漢字で「津々浦々」の「津々」で書くのでしょうか?「津」というのは、もちろん「港」のことです。

 「浜松」は古代「浜津」でした。

 その他、いっぱいこの本からまなぶことがあります。随時、書いていきます。

 


日本古代史 「「君が代」は天皇家を歌った歌でしょうか?」その2

2011年08月12日 06時05分16秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物

日本古代史 「「君が代」は天皇家を歌った歌でしょうか?」その2  

 8月9日付けの「日本古代史 「君が代」は天皇家を歌った歌でしょうか?」の続きです。

 公正な議論のために、議論の元ネタの本をあげておきます。

 古田武彦さん著『「君が代」は九州王朝の讃歌』<市民の古代 別巻2>、新泉社、1990年7月10日第1刷、126ページ、定価840円+消費税25円

  「君が代は 千代に八千代にさざ(細)れ、石のいわお(巌)となりて 苔のむすまで」
 

 前回は、元歌の『古今集』の関連する歌4首を分析して、この4首が、内陸部での歌ではなく、海に面した海岸での歌であることを示しました。この点は、雨宮の独自説です。以下、紹介するのは古田さんのこの本での「発見」です。

 古田さんは古代史学者ですが、ほかの問題で、福岡付近の現地見学を、福岡付近の地元の人たちと企画します。そのドキュメントが、この本です。

 古田さんは、福岡市の海岸が「千代の松原」と呼ばれていることは承知していましたが、この現地見学で、糸島郡の西のはし、唐津湾に望む神社「桜谷神社」の祭神が、なんと「苔牟須売神(こけむすひめかみ)」ということを発見して,驚嘆します。

 さらに、弥生の「王墓の谷」である三雲遺跡や平原遺跡のある付近に「細石(さざれいし)神社」があります。 

 つまり、福岡市近郊に、「君が代」の歌詞に関連する地名や神社が完璧に存在しているのです。

 こういう事実から、古田さんは「君が代」は明治維新後の近代天皇制が主張しているようなヤマト天皇家の賛美の歌ではなくて、筑紫「倭国」で「わが君」と言われた君主の讃歌であると主張しています。

 この「九州王朝」説、ぼくの言い方では「筑紫「倭国」説」については、古田さんの基本的な著書、「「邪馬台国」はなかった」「失われた九州王朝」「盗まれた神話」の3冊を自分で読んで、自分で正否を判断してください。

 この3冊は、最近、ミネルヴァ書房から復刊されましたので、手に入れやすいです。

 なお、そのさいには、ぜひ、100%肯定とか、100%否定、あるいは感情的好き嫌い判断ではなくて、それぞれの具体的な事例について事実の判断をして欲しいです。

 雨宮は、古田武彦さんの最近の「「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」は偽書ではない」という説には、事実にもとるので、断固、反対しています。

 

 
 


日本古代史 外国史料3 王充(おうじゅう)さん著「論衡(ろんこう」

2011年08月12日 05時30分15秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物
日本古代史 外国史料3 王充(おうじゅう)さん著「論衡(ろんこう」

 「論衡」の著者・王充(おうじゅう)さんは、実は『漢書』の著者の班固(はんこ)さんと親友なのだそうです。

 ネットで調べると、王充さんは、西暦27年生まれ、西暦98年没で、貧乏だったので本が買えず、本屋で立ち読みをして、すべて暗記したのだそうです。

 その『論衡』に、以下の文章があるそうです。

 『論衡』そのものの現代日本語訳を読んだのではありませんので、孫引きであることを付け加えておきます。つまり、どういう文章の中で、どういう文脈で書かれているのかは、まだわかりません。 


 ① 「周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草(ちょうそう)を献ず」
  (異虚篇第十八)

 ② 「成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢ず」
  (恢国篇第五十八)

 ③ 「周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草(ちょうそう)を貢ず」
  (儒増篇第二十六)

 
 つまり「周の時代の「成王」さんの時に、東の倭人が暢草(ちょうそう)という草をォ献上して、南の越人が白い雉(きじ)を献上しました」ということですね。

 周王朝の成王さんは、周の第2代の天子さまで、西暦紀元前1000年頃の人です。

 紀元前1000年に、日本列島から「倭人」が献上した?というのは、かなり刺激的な説です。

 なお、この『論衡』の「倭人」は、日本列島に移動して落ち着く以前の、中国本土のどこかにいた「倭人」であるという学説もあることを注意する必要があると思います。

 ただし、親友の班固さんが『漢書』で「楽浪海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見す、という」と書いたことと、対比して考えると、同じ「倭人」という用語を、班固さんと、王充さんが、まったく別の土地の民族として使ったと考えるのはすこし無理がありそうです。

 「暢草(ちょうそう)」「鬯草(ちょうそう)」とは何か、は、いろいろ説があります。

 どうも薬草のようですが、もっと研究します。

 
 

日本古代史 「君が代」は天皇家を歌った歌でしょうか?

2011年08月09日 05時56分29秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物
日本古代史 「君が代」は天皇家を歌った歌でしょうか?

 「国歌」論争が凄くて「歌うべきか」どうかと言われているのが「君が代」です。

 君が代のふつう歌われる、みなさんが覚えている歌詞は以下の通りです。

 「君が代は 千代に八千代にさざれ、石のいわおとなりて 苔のむすまで」

 出典で有名なのは「古今和歌集」です。

 「巻第七」の「賀歌」の冒頭に載っています。岩波文庫では、95ページに「題知らず 読人知らず」として、次の4首が掲載されています。

 明らかに、この4首は関聯する4首なので、以下、紹介します。

 「わが君は 千代にやちよ(八千代)に さざれ(細)石の巌(いわお)となりて苔のむすまで」

 「わたつうみの浜の真砂(まさご)を数へつつ 君が千歳(ちとせ)のありかずにせん」

 「しほの山さしでの礒にすむ千鳥 君がみ代をばちよとぞ鳴く」

 「わが齢(よはい)君がちよにとりそへてとどめおきてば 思ひいでにせよ」

 第1首の「君が代」だけでは明確でないのですが、この関連する4首を読むと、どうみても、この4首は「海岸を歌った歌」ですよね。

 この4首とも「題知らず 読人知らず」なのに、なぜ「賀歌」の冒頭を飾っているのでしょうか。どう考えても「賀歌」のなかで重要な歌だから冒頭に持ってきたとしか考えられません。
 
 では、なぜ「題」も作者もわからないのでしょうか?これは、やはり、わからないのではなくて「わからない」ことにしたのでは、ないでしょうか。

 もちろん「君」とは、現代で言う「あなた」のことではなくて、「君主」という意味での王朝の王・天皇のことです。
 
 「君が代」とは、「わが君主の王朝が支配する時代」という意味で、その時代が千代=1000代、八千代=8000代続いてほしいという意味です。

 それだけ時が経てば「細石(さざれいし)=小さな石」も大きな「巌(いわお)」になって「苔」がつくくらい長い時代、わが君主の王朝は栄えるという意味です。

 今の時代でいえば、「自民党政権が1000年、8000年栄えて欲しい」あるいは「民主党政権が1000年、8000年続いて欲しい」みたいな露骨な王朝繁栄讃歌です。

 では、なぜ紀貫之さんたち編集者は、なぜ「題知らず 読人知らず」と書いたのか、というのが問題です。

 「古今和歌集」は、平安時代の京都にいた天皇家に捧げられた「勅撰歌集」ですから、もしこの4首が天皇家に捧げられた、天皇家の家来の誰かの歌なら、作者名を「知らず」とする理由がありません。

 ですから、考えられるのは,次の2つのうち、どちらかです。

 ① 紀貫之さんたちは、本当に作者を知らなかった
 ② 紀貫之さんたちは、本当は作者名を知っていたがカットした。

 ヤマト=奈良盆地ではありえない、海岸を歌った歌というのが、大事なポイントだと思いますが、では、大阪湾の、難波の歌なのでしょうか?大阪府には、海岸の近くに、応神天皇さんや、仁徳天皇さんのと言われている古墳がありますね。

 別項で、考えを続けます。



 


 

日本古代史 外国史料3 『山海経』「倭は燕に属す」

2011年07月29日 05時36分37秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物

日本古代史 外国史料3 『山海経』「倭は燕に属す」

 『山海経(せんがいきょう)』は、古代中国の地理文献ですが,怪物やら妖怪じみたものが登場する「地理志」です。

 怪物や妖怪が登場するから、荒唐無稽な、古代史とは関係のない空想小説文献と考えるなら、それは違います。つまり、古代の神話的時代の文献なのです。

 『山海経』の第十二、「海内北経」の中の原文です。

 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」

 以下、書き下ろし文で、「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」

 「蓋国(がいこく)」というのは、どうも今の北朝鮮の付近のようです。だとすると、南朝鮮に「倭」があった?これは歴史学者の常識からはかけ離れていて、ある意味、奇怪なのですが、「倭人はどこから来たか?」という淵源を探る意味では、なかなか興味深い文章ではないでしょうか。

 「倭は燕に属す」というのも「日本古代史 外国史料2 『漢書』「地理志」の1で紹介した 「楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。」が「燕地条」に含まれているのと軌を一にしています。

  


日本古代史 外国史料2 『漢書』「地理志」の2 「呉地条」より

2011年07月28日 06時04分13秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物

日本古代史 外国史料2 『漢書』「地理志」の2 「呉地条」より

 「外国史料1」で『漢書』「地理志」の「燕地条」から「楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」という文章を紹介しました。

 通常の教科書には、ほとんど無視されているようですが、同じ『漢書』「地理志」の「呉地条」には似たような文章がのっています。

 「会稽海外に、東[魚是]人あり、分かれて二十余国となり、歳時をもつて来たりて献見す」

 [ ]内は、それぞれを半角文字にして、2文字で1画です

 (訳文は、森浩一さん『倭人伝を読みなおす』ちくま新書、2010年、p12)

 「会稽」というのは、長江(揚子江)の下流で川の南の会稽山という有名な山の付近で、現在の紹興付近、秦から唐にかけて会稽郡が設置されていて、緯度でいうと南九州当たりになります。

 森浩一さんは、この「東[魚是]」は、西九州のクジラ取りの漁民であるとしていますし、古田武彦さんは、近畿地方中心の弥生の「銅鐸国家」のことであるとしています。

 どちらなのかは、ぼくはまだ決めかねます。

 ただ確かなのは、この前漢の時代に、日本列島の中で北側に出て「燕地」と交流する、たぶん北九州の人たちと、南側に出て「呉地」と交渉する西九州か近畿の人たちの、2種類の海外交渉があったということが大事だと思います。

 しかも森浩一さんによれば「『漢書』「地理志」によると歳時をもって来たり献見していた国や集団は二つしかない」(同上、p)とされ、それが倭人と東[魚是]人なのです。

 日本神話のイザナギ・イザナミは、おそらくクジラ(いさな=勇魚)のことであると考えると、この東[魚是]人は、非常に重要な集団だと思います。

 


日本古代史 外国史料1 『漢書』「地理志」「燕地条」より

2011年07月26日 06時26分40秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物

日本古代史 外国史料1 『漢書』「地理志」「燕地条」より

 自分の勉強のためもあって、日本古代史に関する外国史料を少しづつ書いていきたいと思います。

 たぶん大きく分けて、「外国史料・文献」「外国史料・考古学」「日本資料・文献」「日本資料・考古学」の4つくらいに分けて紹介していくのかなと。

 漢文の原文は以下の通りです。 

 「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」

 読み下しは、以下のようになります。

 「「然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。」

 『漢書(かんじょ)』は、班固(はんこ)さん(西暦32年生まれ、92年没)が書いた中国の公式史書で、日本のことが掲載された最初の史書です。

 「楽浪」とは、前漢の武帝さんが紀元前108年に設置した「朝鮮4郡」の一つ「楽浪郡」のことで、今の北朝鮮・平壌の付近にありました。

 「楽浪海中」とは、「楽浪郡から海を船で行く」という意味でしょうか。

 「分爲百餘國」とは「当時の倭人は百余国に分かれていた」と言う意味でしょうか。つまり楽浪郡から見て、確認できる日本列島は、百余国に分かれていたということでしょう。

 どこまで見えていたのかは不明です。

 「歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」は、「定期的に1年のうち、ある季節に献見(けんけん)しに来たと云う」ということでしょうか。

 「歳時」は「歳時記」と同じ意味でしょうか。

 前半の「東夷」「孔子」「九夷」などの部分は、別途書きます。

 「漢書」の書籍では、筑摩書房からちくま学芸文庫として、全8冊で出版されています。現在でも手に入ります。全8冊のセットで今、1万3230円です。

 <誤記訂正> 「史書」が「支署」となってましたので訂正しました(7月26日(火)午後4時7分)。今、雨が止みました。

 


日本古代史 11 桃は「邪馬台国」の「卑弥呼」の「道教」の専用物?

2011年02月12日 05時36分09秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物
日本古代史 11 桃は「邪馬台国」の「卑弥呼」の「道教」の専用物?

 1月27日の「本と映像の森 127 1月23日、NHKテレビ「〝邪馬台国〟を掘る」」を書きました。

 あの番組の中で、桃が巻向遺跡から出土したから、これは道教の呪物で(それはそうなのですが)、卑弥呼の宮殿の所在地に間違いない、みたいな報道でした。

 それは、違うと思います。

 古代世界で「桃」の呪力が普遍的であるから、それを道教も取り入れたのであって、桃だから道教というのは、普遍ー特殊ー個別という、カテゴリーを誤解しているか、理解できない浅い精神ではないでしょうか。

 道教でも何でもない、日本の『古事記』では、イザナギ神さんが、妻のイザナミ神さんが死んで行った黄泉(よみ)の国を訪ねる話で、出てきます。

 死んで腐敗していく妻の姿(かな?)を見てしまったイザナギ神さんは、怖くなって黄泉から必死で逃げようとします。

 イザナミ神さんは(当然ですが)怒って、黄泉の国の軍隊をくりだして、イザナギ神さんを追わせます。

 黄泉の国(つまり死者の国)と現世との境の「よもつひらさか」で、イザナギさんは、そこに生えていた桃の実をとって、黄泉の国の軍隊に投げつけて、危地を脱して、逃げ切ることができました。

 桃=道教=卑弥呼、という、それ以外の等式は認めないのは、無理矢理な話です。

 

日本古代史9 「竹取物語」のかぐや姫と「古事記」のかぐよ姫

2010年10月09日 04時54分37秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物
日本古代史9 「竹取物語」のかぐや姫と「古事記」のかぐよ姫

 日本最古(?)の小説として「竹取物語」と主人公の「かぐや姫」は、誰でも知っているでしょうか。
 知らない人もいるでしょうか。

 この名前「かぐや姫」がどこから命名された名前なのか、ですが、私は、やはり、記紀=日本古代伝承・神話のなかにでてくる「天のかぐやま」からだと思います。

 なぜなら、古代神話では、「かぐつちの神」は金属の神で、「あまのかぐやま」は金属を産出する山だからです。
 これは古代神話を解釈した「通説」の「天の香具山」は奈良県飛鳥の「香具山」という通説とイメージがおおきく違います。
 ぼくは、これはやはり通説より、古代神話自体の方が真実であり「あまのかぐやま」は金属も産出する火山のイメージであると思います。

 かぐや姫という名前は、やはり、あの金属を産出する神聖な「かぐやま」を信仰する古代王朝の姫さまでしょう。
 (この「かぐやま」がどこかは、別項で考えます)

 竹取物語のかぐや姫は、生まれたときには輝く金に関係があり、そして月の夜に火山の富士山から天に帰って行くという、まさに金属と火山の姫さまです。

 同時に、日本神話では影がうすい「月」と「夜」の女神であることは明瞭ではないでしょうか。
 だって、かぐ「や」(夜)姫ですもの。

 今日、書きたかったのは、「古事記」の出雲神話のなかに「かぐや」と似た名前の女神さまが出てくることです。
 
 たぶん朝鮮からやってきたスサノオさんと結婚した神大市姫(かむおおちひめ)さんは、日本列島の縄文の神のたぶん主神であるオオヤマツミの神さんの娘です。
 スサノオさんと神大市姫さんの長男が、大年神さんで、古事記の系図では、そういう日本と朝鮮の両方の血統を背負った由緒正しい神、大年神さんと結婚した女性が「香用比売(かぐよひめ)」です。

 つまり「かぐやひめ」と「かぐよひめ」、1字しか違わないし、解釈すれば同じ「や(夜)」と「よ(夜)」ではないでしょうか。

 今日は、疑問の提起にとどめて、日本古代の謎を、みなさんといろいろ考えていきたいと思います。


日本古代史7 10月は「神無月(かんなづき)」ですね

2010年10月01日 05時07分36秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物
日本古代史7 10月は「神無月(かんなづき)」ですね

 10月1日から、10月です(あたりまえですね)。
 この10月は別名、「神無月」といいます。

 「神の無い月」ですね。どういうことなのかというと、日本列島のほとんどで、神様たちが出雲へ出かけてしまうので、出雲以外は「神無月」ということです。

 通説の一つでは、これは中世や近世になって、出雲信仰を広めた人たちが「出雲は偉い」ということを説くために広げた「新興宗教」の説で、古代には関係ないということにもなっているようです。

 でも、ほんとうにそうでしょうか?
 
 古事記・日本書紀でも、スサノオからオオクニヌシに至る出雲王朝が二歩列島を支配していて、その出雲王朝から主権を奪ったのが「国譲り」であるというのは一貫しています。

 つまり弥生時代の日本の支配者は「銅鐸」に代表される出雲王朝の支配下にあり、弥生後期から古墳時代にかけては鉄の武器に代表される「倭国」に支配権が移動したということではないでしょうか。

 さて、神無月ですので、浜松のたくさんの神社の神さまたちも、みんな出雲へ旅行なさるんでしょうか?
 
 我が家のそばの三浦神社のかみさま、行ってらっしゃい。
 でも、その留守のあいだの行事とか、どうなんでしょうか?

日本古代史7 沖縄(琉球)の「宝貝」「子安貝」と中国史・貨幣

2010年06月14日 05時17分07秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物
日本古代史7 沖縄(琉球)の「宝貝」「子安貝」と中国史か・貨幣

 中国の漢字では「貨幣」の「か」は「貝」が「化ける」と書きます。つまり「貝」が貨幣の役割を果たしていたわけです。
 これはカール・マルクスさんが『資本』の中で言っているとおり、金属に貨幣が固定する前に、貨幣としていろんな物が通用したことがありました。
 ただし、マルクスさんは、「貝」には言及していませんので、中国の「貨幣」のことまでは知らなかったのだろうと思います。

 「財」も「貝」が左側に「貝」が入っています。
 「貝」が入っている漢字を、以下に並べてみました。
 買う、貸す、貴族、貧しい(貝を分ける)、販売、貯める、貿易、費やす。

 この漢字の「貝」は、中国や日本で一般的な二枚貝のハマグリやアサリのことではなく、沖縄(むかしの言い方で「琉球」)に生息する宝貝=子安貝のこと、というのが一般的な解説です。

 事実として、古代中国の「殷王朝」の時代に、殷王朝が東方の海上と交易がある国家で、日本列島の沖縄と交易があり、沖縄の「宝貝」を、財産・冨のシンボルとして尊重していたということが事実です。

 嘘っぽいと思う人は、古代史の森宏一さんの著書を参照してください。

 ここで問題は、なぜ「宝貝」が、神聖な貨幣として機能するかということです。

 宝貝=子安貝は、日本古代の「竹取物語」にも出てくるような、有名な存在でした。

 なぜかというと、これ以上、書くと著者の評判を落としかねないので、知っていても、指摘しないのでしょうね。
 知らないのなら、なお悪いです。つまり、古代史の中心的問題である、女性と男性の問題です。

 古代は、女性崇拝の時代、「女神の時代」です。
 
 日本で言うと、たとえば卑弥呼さん。
 あるいは、巫女(みこ)の女性である神功皇后さんの神がかりの神託に従わなかった、仲哀天皇さんは、神の祟りで死んでしまいます。
 女性崇拝とは、生殖と出産を担う女性への信仰です。
 女性への信仰は、女性のシンボルとしての乳房や女性器への信仰になっています。

 宝貝=子安貝は、たくさんの種類があります。とくに沖縄でもとれるハチジョウコヤスガイは、膨れた感じが、妊娠した女性のお腹を連想させます。
 
 そして、開口部を下から見上げた感じが、まるで、女性器を見あげた感じに似ています。

 ですから、財産が増えていくシンボル、セックスと妊娠で子どもたちが生まれて一族が繁栄していくシンボルなんですね。

 こういう話は、通常の古代史では(なにに、はばかっているのか)しないんですが、雨宮は平気で、してしまいます。

 沖縄では、女性器のことを「ホウミー」というそうです。「宝の味」です。
 
 いま、目の前に、共産党の日刊新聞「赤旗」の5月24日号があります。ぼくは、30年以上の読者ですが、その1面の「潮流」という欄(『朝日新聞』の「天声人語」と同等のコラムです)に、こうありました。

 「楕円の形も美しい。古くから世界各地で、生命の誕生と再生のしるしとして尊ばれてきたタカラガイ。沖縄の辺野古の海で拾ってきました。タカラガイが打ち寄せられる波打ち際から、ゆたかな生命の営みの繰り広げられる海が広がっています」

 ここまではいいんですけど、その後「▼サクラガイの開口部は堅そうです。〝誰にもこれ以上こじ開けられないよ〟と合図しているようで、「貝になりたい」の言葉が浮かびます。貝は、人がしゃべりたくない時の沈黙のしるしでもあります。」

 「潮流」の筆者の方は「開口部は堅そうです。〝誰にもこれ以上こじ開けられないよ〟と合図しているようで」というのですが、それは戦後日本人の「私は貝になりたい」という名作につられた論点で、本来の貝の意味とは違うと思います。

 貝は、タカラガイは、中国の殷王朝の時代に、沖縄が東方から殷を支えた役割と同等に、中国や東アジアの社会を交易で支えた解放のシンボルだと思います。

 男性と女性の共同のシンボル。
 中国と日本という異民族が交流し、協力したシンボル。
 
 もちろん、5月24日の「潮流」の結論、「辺野古に座り込む人が、タカラガイをてのひらに乗せ語っていました。「ゆたかな沖縄の海を、もう戦争に利用されたくないんです」には心から、同感です。