曇っていたのに、夕暮れ間際に急にでた夕日。
あまりの美しさに感動。
アマテラスさんって紫陽花が好きなのではないかとふと思う。
日本で見える太陽はアマテラスだけど、
よその国から見える太陽は別の神様ですよね?
それってどういうことなんだろう。
同じエネルギーを国別に違う名前で呼んでるだけなのか違うエネルギーなのか
沢山のエネルギーの集合体が太陽で、その一部分がアマテラスなのか...
人間にはわからないことだらけですね—————————
知人Soraさんの、とある日のツブヤキ。
以下は「アマテラスさん」という言葉に
ツイツイ反応してしまった僕のコメント。
の、誤字脱字修正版......
—————————Soraさんの言う通りだと思います。
同じエネルギーでも、
受け取る環境が違えば違うエネルギーとなります。
例えば雨にしても、同じ水でも寒い冬には雪になって、
暑い夏には少し温かい雨となります。
厳密には「ドチラも全く同じ水」というわけではないでしょうが、
でも水であるということは同じです。
水が変わったのか?
アインシュタイン的相対論で言えば、
「いいえ。雨が降る際の環境が変わったのです」
となるのかもしれません。
「いやいや、気温や気候が変わったのです」
と言えるのかもしれません。
例え場所が同じでも、
環境や季節が変われば水というエネルギーの姿が変わってしまう。
当たると痛い雹(ヒョウ)になったりするようなこともあるでしょう。
でも、全て同じ水。
太陽の光やエネルギーもそれと同じに思えます。
北極点で受ける太陽エネルギーと、
赤道直下で受ける太陽エネルギーとは全く違います。
光も、地球の大気層を抜けてくる角度や距離で
その中身は全く変わってきます。
わかりやすいところで言えば、紫外線の量だったり、
赤外線の量だったり。
大気中のチリの量や湿度によっても減衰されるもの、
増幅されるもの。
色、匂い、朝日と夕日。
そのエナジーが変わってしまうということは容易に想像できます。
すると、やぱーり、Soraさんの言う通り。
同じ太陽の光でもその光が「在る状況」によって
全く違うエナジーとなってしまう。
だから、
世界の人々がそんな太陽エナジーの違いを表現しようと思うと、
同じ太陽の神様でも、その光が存在する場所や土地によって
全く違った名前の神様になってしまうのでしょうか。
当然言語も違いますが、
言語が違うということにも同じ理由があると思うわけです。
神様や言葉はどちらもエナジーの現れであり、
環境の表出でもあるわけで。
言葉はエナジーを縛る「呪=しゅ」でもあるわけで。
太陽という恒星も水や光の話と同じように元は同じもの。
静岡の海から見た富士山と山梨の盆地から見た富士山の違いと同じ話。
どちらも同じ富士山。
でも違う。
違って見えるのは、見る人の立っている場所によってしまう。
「心の目」で見てみると、どちらも同じ富士山。
そして、実は誰もが、どれも同じ富士山だとは知っている。
ここが大切!?
世界の真相!?
世界の様相を心で見るか、立ち位置で見るか。
立っている場所、状況、環境、時間や空間。
それによってエナジーの感じ方や見えかたが変わる。
だからこそ僕は、僕自身のことは、
人様にはなるべく、
環境に左右されることのない心の眼で見てもらえたらなぁ......と、
いつも願うように思ってしまうわけです。
人を見る時は、なんとか心の目で見て理解していきたいなぁ......と、
頑張ったりもするわけです。
父親から見た僕は、奥さんから見た僕とは違うでしょう。
仕事を共にする人が見て、感じている僕と、
昔からの友人が見て、感じている僕の姿はかなり違うでしょう。
でも、それら全ての僕を合わせたものが真の僕であって。
そのような僕を捉えてもらうには、
心眼で見てもらうしかないようにも思えます———————
「天照雨降相対論=あまてる あめふる そうたいろん」
太陽の光に多大な影響を与える「大気」に覆われた惑星を出て、
そんな大気のない外世界に出た!としたならば、
宇宙空間に漂い出たとするならば、
太陽のエネルギーはやはり、おおむね1つ。
惑星やその他の天体の影響下に無い場所であれば、
全て、だいたい同じ光で、同じ神。
名前も1つとなるのかもしれません。
その時、
光が熱を持っているなんて......
もしかしたら宇宙空間では非常識なことかもしれません。
光が暖かいのは......
地球大気との摩擦や光学的反応によってなのかもしれません。
だって、
もし光そのものが熱を持っていたとしたならば、
太陽のような恒星はとてつもなく熱い天体となり、
そんな天体が未知数にあるこの宇宙空間は、
間違いなく熱に満ちているはずです。
そんな光が無数に飛び交う空間は熱くてたまらないはずです。
でも、宇宙空間は冷たい。
凍てつく寒さの世界。
太陽は熱いのでしょうか?
「真空という宇宙空間において」太陽は熱いのでしょうか?
言葉を変えます。
心眼で見たとき、太陽は熱いのでしょうか?
地球上で名づけられている太陽神の名前がいくつあるのかはわかりませんが、
地球環境が育む意識下では、間違いなく、
神の名前はその名の数だけ存在し、皆、少しづつ違うハズです。
でも、宇宙意識で見れば、
心眼で見れば、
おそらく、太陽は1つで。
しかも、真の太陽が熱いとは......限らないようにも思えます。
それが「星の時代」の意識。
僕はそう思うわけです(^_^)

上は「8を巡る旅」の時に載せた遷宮直後に現れた出雲の奇跡。。
下の写真は伊勢神宮に行く直前、東京、品川駅のそばで。。

下はどちらも海外のアマテラスさんで。
両サイドに虹を抱えていて。


みーんな違うアマテラスさん(^^)かな。
あまりの美しさに感動。
アマテラスさんって紫陽花が好きなのではないかとふと思う。
日本で見える太陽はアマテラスだけど、
よその国から見える太陽は別の神様ですよね?
それってどういうことなんだろう。
同じエネルギーを国別に違う名前で呼んでるだけなのか違うエネルギーなのか
沢山のエネルギーの集合体が太陽で、その一部分がアマテラスなのか...
人間にはわからないことだらけですね—————————
知人Soraさんの、とある日のツブヤキ。
以下は「アマテラスさん」という言葉に
ツイツイ反応してしまった僕のコメント。
の、誤字脱字修正版......
—————————Soraさんの言う通りだと思います。
同じエネルギーでも、
受け取る環境が違えば違うエネルギーとなります。
例えば雨にしても、同じ水でも寒い冬には雪になって、
暑い夏には少し温かい雨となります。
厳密には「ドチラも全く同じ水」というわけではないでしょうが、
でも水であるということは同じです。
水が変わったのか?
アインシュタイン的相対論で言えば、
「いいえ。雨が降る際の環境が変わったのです」
となるのかもしれません。
「いやいや、気温や気候が変わったのです」
と言えるのかもしれません。
例え場所が同じでも、
環境や季節が変われば水というエネルギーの姿が変わってしまう。
当たると痛い雹(ヒョウ)になったりするようなこともあるでしょう。
でも、全て同じ水。
太陽の光やエネルギーもそれと同じに思えます。
北極点で受ける太陽エネルギーと、
赤道直下で受ける太陽エネルギーとは全く違います。
光も、地球の大気層を抜けてくる角度や距離で
その中身は全く変わってきます。
わかりやすいところで言えば、紫外線の量だったり、
赤外線の量だったり。
大気中のチリの量や湿度によっても減衰されるもの、
増幅されるもの。
色、匂い、朝日と夕日。
そのエナジーが変わってしまうということは容易に想像できます。
すると、やぱーり、Soraさんの言う通り。
同じ太陽の光でもその光が「在る状況」によって
全く違うエナジーとなってしまう。
だから、
世界の人々がそんな太陽エナジーの違いを表現しようと思うと、
同じ太陽の神様でも、その光が存在する場所や土地によって
全く違った名前の神様になってしまうのでしょうか。
当然言語も違いますが、
言語が違うということにも同じ理由があると思うわけです。
神様や言葉はどちらもエナジーの現れであり、
環境の表出でもあるわけで。
言葉はエナジーを縛る「呪=しゅ」でもあるわけで。
太陽という恒星も水や光の話と同じように元は同じもの。
静岡の海から見た富士山と山梨の盆地から見た富士山の違いと同じ話。
どちらも同じ富士山。
でも違う。
違って見えるのは、見る人の立っている場所によってしまう。
「心の目」で見てみると、どちらも同じ富士山。
そして、実は誰もが、どれも同じ富士山だとは知っている。
ここが大切!?
世界の真相!?
世界の様相を心で見るか、立ち位置で見るか。
立っている場所、状況、環境、時間や空間。
それによってエナジーの感じ方や見えかたが変わる。
だからこそ僕は、僕自身のことは、
人様にはなるべく、
環境に左右されることのない心の眼で見てもらえたらなぁ......と、
いつも願うように思ってしまうわけです。
人を見る時は、なんとか心の目で見て理解していきたいなぁ......と、
頑張ったりもするわけです。
父親から見た僕は、奥さんから見た僕とは違うでしょう。
仕事を共にする人が見て、感じている僕と、
昔からの友人が見て、感じている僕の姿はかなり違うでしょう。
でも、それら全ての僕を合わせたものが真の僕であって。
そのような僕を捉えてもらうには、
心眼で見てもらうしかないようにも思えます———————
「天照雨降相対論=あまてる あめふる そうたいろん」
太陽の光に多大な影響を与える「大気」に覆われた惑星を出て、
そんな大気のない外世界に出た!としたならば、
宇宙空間に漂い出たとするならば、
太陽のエネルギーはやはり、おおむね1つ。
惑星やその他の天体の影響下に無い場所であれば、
全て、だいたい同じ光で、同じ神。
名前も1つとなるのかもしれません。
その時、
光が熱を持っているなんて......
もしかしたら宇宙空間では非常識なことかもしれません。
光が暖かいのは......
地球大気との摩擦や光学的反応によってなのかもしれません。
だって、
もし光そのものが熱を持っていたとしたならば、
太陽のような恒星はとてつもなく熱い天体となり、
そんな天体が未知数にあるこの宇宙空間は、
間違いなく熱に満ちているはずです。
そんな光が無数に飛び交う空間は熱くてたまらないはずです。
でも、宇宙空間は冷たい。
凍てつく寒さの世界。
太陽は熱いのでしょうか?
「真空という宇宙空間において」太陽は熱いのでしょうか?
言葉を変えます。
心眼で見たとき、太陽は熱いのでしょうか?
地球上で名づけられている太陽神の名前がいくつあるのかはわかりませんが、
地球環境が育む意識下では、間違いなく、
神の名前はその名の数だけ存在し、皆、少しづつ違うハズです。
でも、宇宙意識で見れば、
心眼で見れば、
おそらく、太陽は1つで。
しかも、真の太陽が熱いとは......限らないようにも思えます。
それが「星の時代」の意識。
僕はそう思うわけです(^_^)

上は「8を巡る旅」の時に載せた遷宮直後に現れた出雲の奇跡。。
下の写真は伊勢神宮に行く直前、東京、品川駅のそばで。。

下はどちらも海外のアマテラスさんで。
両サイドに虹を抱えていて。


みーんな違うアマテラスさん(^^)かな。
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