ジョン・レノン(John Lennon)が「LOVE」を歌う時。
「Love is real......」と歌う時。
それはマサに「愛」を歌っているのだと思います。
彼が「WOMAN」を歌う時。
「I love you now and forever......」と歌う時。
それは多分「愛情」を歌っているのだと僕には思えます。
言語学の中に
「semantics=セマンティクス=意味論」
という領域があります。
その研究範囲というのは何やらとても広いらしく、
言葉ソノモノの意味や語彙を研究する分野から、
数学における証明理論にまで及ぶ部分。
さらには、
言葉の用法における倫理観や方法論などを扱うような
「哲学的」な部分に至るまで、
とても幅広い研究領域を持った学問のようです。
1900年代の半ばから末期にかけて
「アルフレッド・コージブスキー(Alfred Korzybski)」さんや、
日系の偉大なる言語学者
「サミュエル・イチエ・ハヤカワ(Samuel Ichiye Hayakawa)」
さんが研究、確立させた
「一般意味論=general semantics」
などにしても、とても興味深く、面白い領域に思えます。
ただ、研究領域がかなり広い故に
少々複雑で小難しい部分もあったりして......
彼らの本を読んでみたりすると、
「わけわかんなーーいっ!?(T . T)」
......となったりするような事もしばしばで。
そんな中でも、僕なりに、素人的に、
そんな「意味論」の内の「語彙論」的部分をシンプルに記すとすれば、
それは......
「言葉は、その表す対象がある故に存在する」
ということでしょうか。
全くのシンプル。
もしかしたら、学問的には間違っている理解なのかも?
しれませんが、
複雑怪奇で多岐に渡る意味論を、
僕はシンプルにそんなふうに捉えています。
意味論的に言えば「愛」と「愛情」とは言葉が違うので、
この2つは、きっと
「違う意味を持った言葉」
であるハズです。
表す対象がソレゾレ違う為、
表したい事が違う為、
その違いをちゃんと表したいが為、
ソレゾレ別の言葉が生み出されて存在している......と、
そんな理解になります。
この2つの言葉が表そうとしている対象物は
「何らかの違いがある」
ということです。
言葉が「違って存在している」ということ自体、
ソレゾレの言葉が表したい「モノ」や「感情」が
ちゃんと別々に存在している......
ということの「証」にもなるのだと思います。
ジョン・レノンが「WOMAN」を歌う時。
「WOMAN」で「I love you now and forever......」と歌う時。
それは多分、世界に存在する全ての女性に捧ぐ
「愛情」を歌っているのではないのか......
と僕には思えるのです。
「愛情」というのは、多分、
注いだものと同じ量の見返りなどが無いと、
「愛」に付随している言葉の部分......「情」の部分......
が色々なものに変化してしまい。
時折、厄介なことになるリスクをはらんでいるような、
そんな感情に思えます。
それは、時に怒りだったり不安、悲しみ、
恨み、辛み、妬みや嫉妬など......
だから、この曲のアレンジや歌にもどこかそんな
「変化する部分=情=なさけ」的な優しさや暖かさ、
思いやりなども詰め込まれているように
僕には感じられるのです。
かたや、
冒頭に記したジョンレノンの名曲「LOVE」というのは、
きっとそのまま「愛そのもの」の歌なのかな......と、
僕にはそんなふうに響いて来るのです。
そこかしこに有りそうで、しかし、
もしかしたらこの世界で一番見つけづらく、
分かりづらいモノかもしれない。
だからアレンジや歌に込められている情感などにも
どこかそんな不確かさや曖昧さ、
切なさや寂しさなどが入り込んでいる曲のように
僕には感じられるのです。
「愛」というのは、多分、
その感情を注ぐ対象が何であれ、人間は勿論、
可愛いペット、野生動物、木々や草花、
さらには車やカメラ、時には珈琲カップやハンドバッグ、
アクセサリーや食べ物、川や山や空、
もしかしたら宇宙に至るまで、
存在する全てのモノに「無条件」に注ぐことが出来る、
一方通行でも成立させることが出来る、
そんな感情に思えます。
注いだ分量に見合う見返りが無くても、
その差異分が決して他のモノや感情に
変化してしまうことが無い感情に思えます。
変化をしてしまう余計な付属部分が無い感情ということです。
故に、くつけられる言葉も色々とあるワケで。
様々なモノモノと結びついて存在することも出来る......
という、そんな感情にも思えます。
「愛」は「愛情」とは似て非なるもの。
シンプルに言えば、愛とは
「親が子供に注ぐ無条件の感情」
といったような感じなのでしょうか。
それは、決して見返りなどは求めずに、
タダ一心に余計な「付属言葉」も「付属感情」も無く、
一方的に注ぐ事が出来るようなもの。
それ故に反応が見えないようなものにも......
上記もした物質的な「モノモノ」から自然物や地球そのもの......
と言ったようなものにまで等しく注げるのではないかと思います。
「LOVE」と「WOMAN」両曲で歌われている
「love=ラブ」という言葉は、
同じジョン レノンの言葉、曲であっても、
僕の中ではソレゾレ決定的に違う言葉であって、
曲でもあるのです。
日本語では表す意味の違いを持って
ソレゾレ個別に存在している「愛」と「愛情」という言葉も、
英語では「love」という単語しかなかったのでしょう。
だからジョン・レノンはどちらの曲にも、
その「love」を使うしかなかったのだと思います。
英語を始めとした西欧圏の言語というのは、
とても「記号的」な言語であって、
基本的には26文字のアルファベットの組み合わせで出来ています。
一方で日本語はひらがなだけでも46文字。
カタカナ46文字。
中国から輸入された漢字は常用だけでも1900以上。
さらにはアルファベットなども普通に取り込んでしまうような隙間や懐、
感覚までも持ち合わせている言語。
他にも「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」......
「私」という表現一つとっても、英語では「I=アイ」。
日本語では私(わたし)、わたくし、
僕、俺、ワシ、オイラ、ウチ、あたい、小生......
それぞれに違った意味合いとニュアンスを持っているような
トンデモナイ言語だと思います。
もしかしたら日本語で表せないものはないのではないか......
「意味論」に照らし合わせて考えれば、
日本人というのはコレだけ多くの言葉を持っているくらい、
表現したい対象物をソレゾレの違いを持って認知や
認識出来ているのではないのかと。
それこそが豊かな感受性の証明になっているのではないのかと。
そんな気がします。
もしかしたら、
日本人は世界で一番多くのモノや存在等を
感じ取っている民族なのではないか.......
そんな考えや思いにも繋がっていくことなのではないのか、と、
時折思ったりなんかもします。
たまに歌詞などを書いたり、
こんなブログや楽曲や商品の宣伝文句やコピー等を考えたりする様な時には、
僕はツクヅク、心底、
「日本語というのは凄いんだなぁ......」
と感じてしまったりすることもあるのです。
なんだかダラダラ......と記して来てしまいましたが、
こんな会話をタマニ友人達とするような事があったりします。
つい最近も居酒屋で、よぱらーーい(# ̄ ▽. ̄#)......
ながら話していた事でもあるのですが、
その時はさらに深く突っ込んだ意味論的「愛」や
「愛情」「責任」の話しだったでしょうか。
男女間でよくありがちな「じゃんけんぽん!」的な
「モツレ」の話し。
この話しはまたいつか......
「つづく」な感じにしておこうかな。と。
今日は。
ええ。ええ。
明日はちと早いのだす......(´ρ`)ハゥゥゥ......
おやすみさまぁ。。
ジョン・レノン......( ̄○ ̄)さ( ̄◇ ̄)い( ̄o ̄)こ( ̄ー ̄)う♪
「Love is real......」と歌う時。
それはマサに「愛」を歌っているのだと思います。
彼が「WOMAN」を歌う時。
「I love you now and forever......」と歌う時。
それは多分「愛情」を歌っているのだと僕には思えます。
言語学の中に
「semantics=セマンティクス=意味論」
という領域があります。
その研究範囲というのは何やらとても広いらしく、
言葉ソノモノの意味や語彙を研究する分野から、
数学における証明理論にまで及ぶ部分。
さらには、
言葉の用法における倫理観や方法論などを扱うような
「哲学的」な部分に至るまで、
とても幅広い研究領域を持った学問のようです。
1900年代の半ばから末期にかけて
「アルフレッド・コージブスキー(Alfred Korzybski)」さんや、
日系の偉大なる言語学者
「サミュエル・イチエ・ハヤカワ(Samuel Ichiye Hayakawa)」
さんが研究、確立させた
「一般意味論=general semantics」
などにしても、とても興味深く、面白い領域に思えます。
ただ、研究領域がかなり広い故に
少々複雑で小難しい部分もあったりして......
彼らの本を読んでみたりすると、
「わけわかんなーーいっ!?(T . T)」
......となったりするような事もしばしばで。
そんな中でも、僕なりに、素人的に、
そんな「意味論」の内の「語彙論」的部分をシンプルに記すとすれば、
それは......
「言葉は、その表す対象がある故に存在する」
ということでしょうか。
全くのシンプル。
もしかしたら、学問的には間違っている理解なのかも?
しれませんが、
複雑怪奇で多岐に渡る意味論を、
僕はシンプルにそんなふうに捉えています。
意味論的に言えば「愛」と「愛情」とは言葉が違うので、
この2つは、きっと
「違う意味を持った言葉」
であるハズです。
表す対象がソレゾレ違う為、
表したい事が違う為、
その違いをちゃんと表したいが為、
ソレゾレ別の言葉が生み出されて存在している......と、
そんな理解になります。
この2つの言葉が表そうとしている対象物は
「何らかの違いがある」
ということです。
言葉が「違って存在している」ということ自体、
ソレゾレの言葉が表したい「モノ」や「感情」が
ちゃんと別々に存在している......
ということの「証」にもなるのだと思います。
ジョン・レノンが「WOMAN」を歌う時。
「WOMAN」で「I love you now and forever......」と歌う時。
それは多分、世界に存在する全ての女性に捧ぐ
「愛情」を歌っているのではないのか......
と僕には思えるのです。
「愛情」というのは、多分、
注いだものと同じ量の見返りなどが無いと、
「愛」に付随している言葉の部分......「情」の部分......
が色々なものに変化してしまい。
時折、厄介なことになるリスクをはらんでいるような、
そんな感情に思えます。
それは、時に怒りだったり不安、悲しみ、
恨み、辛み、妬みや嫉妬など......
だから、この曲のアレンジや歌にもどこかそんな
「変化する部分=情=なさけ」的な優しさや暖かさ、
思いやりなども詰め込まれているように
僕には感じられるのです。
かたや、
冒頭に記したジョンレノンの名曲「LOVE」というのは、
きっとそのまま「愛そのもの」の歌なのかな......と、
僕にはそんなふうに響いて来るのです。
そこかしこに有りそうで、しかし、
もしかしたらこの世界で一番見つけづらく、
分かりづらいモノかもしれない。
だからアレンジや歌に込められている情感などにも
どこかそんな不確かさや曖昧さ、
切なさや寂しさなどが入り込んでいる曲のように
僕には感じられるのです。
「愛」というのは、多分、
その感情を注ぐ対象が何であれ、人間は勿論、
可愛いペット、野生動物、木々や草花、
さらには車やカメラ、時には珈琲カップやハンドバッグ、
アクセサリーや食べ物、川や山や空、
もしかしたら宇宙に至るまで、
存在する全てのモノに「無条件」に注ぐことが出来る、
一方通行でも成立させることが出来る、
そんな感情に思えます。
注いだ分量に見合う見返りが無くても、
その差異分が決して他のモノや感情に
変化してしまうことが無い感情に思えます。
変化をしてしまう余計な付属部分が無い感情ということです。
故に、くつけられる言葉も色々とあるワケで。
様々なモノモノと結びついて存在することも出来る......
という、そんな感情にも思えます。
「愛」は「愛情」とは似て非なるもの。
シンプルに言えば、愛とは
「親が子供に注ぐ無条件の感情」
といったような感じなのでしょうか。
それは、決して見返りなどは求めずに、
タダ一心に余計な「付属言葉」も「付属感情」も無く、
一方的に注ぐ事が出来るようなもの。
それ故に反応が見えないようなものにも......
上記もした物質的な「モノモノ」から自然物や地球そのもの......
と言ったようなものにまで等しく注げるのではないかと思います。
「LOVE」と「WOMAN」両曲で歌われている
「love=ラブ」という言葉は、
同じジョン レノンの言葉、曲であっても、
僕の中ではソレゾレ決定的に違う言葉であって、
曲でもあるのです。
日本語では表す意味の違いを持って
ソレゾレ個別に存在している「愛」と「愛情」という言葉も、
英語では「love」という単語しかなかったのでしょう。
だからジョン・レノンはどちらの曲にも、
その「love」を使うしかなかったのだと思います。
英語を始めとした西欧圏の言語というのは、
とても「記号的」な言語であって、
基本的には26文字のアルファベットの組み合わせで出来ています。
一方で日本語はひらがなだけでも46文字。
カタカナ46文字。
中国から輸入された漢字は常用だけでも1900以上。
さらにはアルファベットなども普通に取り込んでしまうような隙間や懐、
感覚までも持ち合わせている言語。
他にも「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」......
「私」という表現一つとっても、英語では「I=アイ」。
日本語では私(わたし)、わたくし、
僕、俺、ワシ、オイラ、ウチ、あたい、小生......
それぞれに違った意味合いとニュアンスを持っているような
トンデモナイ言語だと思います。
もしかしたら日本語で表せないものはないのではないか......
「意味論」に照らし合わせて考えれば、
日本人というのはコレだけ多くの言葉を持っているくらい、
表現したい対象物をソレゾレの違いを持って認知や
認識出来ているのではないのかと。
それこそが豊かな感受性の証明になっているのではないのかと。
そんな気がします。
もしかしたら、
日本人は世界で一番多くのモノや存在等を
感じ取っている民族なのではないか.......
そんな考えや思いにも繋がっていくことなのではないのか、と、
時折思ったりなんかもします。
たまに歌詞などを書いたり、
こんなブログや楽曲や商品の宣伝文句やコピー等を考えたりする様な時には、
僕はツクヅク、心底、
「日本語というのは凄いんだなぁ......」
と感じてしまったりすることもあるのです。
なんだかダラダラ......と記して来てしまいましたが、
こんな会話をタマニ友人達とするような事があったりします。
つい最近も居酒屋で、よぱらーーい(# ̄ ▽. ̄#)......
ながら話していた事でもあるのですが、
その時はさらに深く突っ込んだ意味論的「愛」や
「愛情」「責任」の話しだったでしょうか。
男女間でよくありがちな「じゃんけんぽん!」的な
「モツレ」の話し。
この話しはまたいつか......
「つづく」な感じにしておこうかな。と。
今日は。
ええ。ええ。
明日はちと早いのだす......(´ρ`)ハゥゥゥ......
おやすみさまぁ。。
ジョン・レノン......( ̄○ ̄)さ( ̄◇ ̄)い( ̄o ̄)こ( ̄ー ̄)う♪